結婚相手は突然に 5
呼び出された校長室の壁際に立つ明日斗は困った顔をしつつ、こちらを睨んでいる校長の滝澤誠を真正面から見つめていた。明日斗にしてみれば自分は何も悪くはない、そう思っての態度だが、当事者であるだけに反論もできない状態にあった。今回の騒ぎの張本人である瀬音は涼しい顔をしたまま、校長の睨みすらどこ吹く風状態。また、同様にりんごも憮然とした態度のまま校長を睨んでいる始末だ。祐奈に関しては困った顔をしつつそわそわと指をせわしなく動かしている。
「で、婚約というのは本当かね?」
校長から少し離れた位置に立つ教頭の佐々木は睨みを利かせて瀬音を見やるが、瀬音は冷たい笑みを浮かべてうなずくだけだ。ため息をつくしかないその態度に、さすがの佐々木も困り顔だ。
「婚約ねぇ・・・石垣家の婚約といえば・・・・」
「とにかく、婚約者というのは本当です。それを認めないとして、水梨さんと高垣先生が大きな声を」
「ちょっ!私が悪いわけぇ?」
校長の言葉を遮るかのような瀬音の言葉にりんごが怒りをぶつける。すぐさま大声で2人を黙らせ、佐々木は深い深いため息をついてから今度は祐奈へと鋭い視線を向けた。
「で、高垣先生は?」
「わっ!私は・・・2人をいさめようとして・・・・」
どこか歯切れの悪いその言葉に瀬音はくすりと笑みを漏らす。
「高垣先生も私から婚約者を奪うつもりです」
「え、と・・・それは・・・」
誤解です、その言葉が出なかった。実際に明日斗の婚約にショックを受けているからだ。佐々木はもう何度目かわからないため息をつき、それからこれまでで一番強い睨みを祐奈に浴びせる。
「教師が生徒に好意を抱くのはまぁ、ありとしましょう。でもね、それを表に出すのはどうかと思いますがね?大人でしょう?教師でしょう?」
ぐうの音も出ない正論にがっくりと首を垂れるしかない祐奈だが、ここで意外な助け船が出された。
「あら、恋愛は自由。たしか佐々木教頭も、かつての教え子との略奪愛・・・」
「うおっほん!」
瀬音の言葉を遮るわざとらしい咳ばらいをした校長にどこか安堵した顔を見せた佐々木は頭を掻くと数歩下がる。何故それを、と思うが、そこは石垣家の情報網だ、当然だろうとも思う。してやったりの顔をする瀬音、驚く明日斗とりんご、そしてニヤリと微笑む祐奈の顔を見れず、佐々木はあからさまな態度でそっぽを向くしかない。
「とにかく、学校での騒ぎは困ります。また、高垣先生も教師とのしての自覚を持ってください、以上です」
佐々木のせいでどこかうやむやにするしかなく、校長はここで全員を解放することに決めた。どのみち、この話題は学校内で騒ぎになることは間違いない。このスキャンダルな話題は校内のみならず、この町すべてに広がるだろうからだ。
「石垣さん以外は教室へ」
校長はそう言い、佐々木に顎で指示を出す。さすがに黙って従うしかない佐々木は3人を促して校長室を出た。遠ざかる足音を確認し、校長は瀬音を来客用の茶色い大きなソファに座るよう勧める。瀬音は軽く頭を下げてからそこに腰かけた。
「あなたが婚約となれば、婚約の儀で、あの全王治家が動きましょう?」
「そうですね」
「と、なれば・・・・彼で太刀打ちできますか?」
「ええ、私が選んだ人ですから」
「木戸明日斗、彼にそこまでの力量があるとは、とても・・・・」
「彼は強いです。だからこそ高垣先生は彼を好いています。それに・・・多分、上手くいきます」
にこやかにそう言う瀬音に対し、もう何も言うまいと微笑む校長は黙って彼女をエスコートし、部屋から出した。
「何事もないよう、祈っていますよ」
「ありがとうざいます」
婚約の儀の何たるかを知る校長の言葉に対してにこやかに微笑みを返し、瀬音は優雅な歩みで去っていく。そんな背中を見つめつつ、校長は少々薄くなった頭を小さく掻いた。
「たしかに彼は強いのかもしれませんがね、でも、相手はあの全王治ですよ・・・・・」
つぶやく声も聞こえない瀬音の背中から視線を外し、2人の前途が多難なことを心の中で心配するしかないのだった。
*
その日から明日斗の学校生活は一変してしまった。どこにいようが何をしていようが質問攻めだ。男女問わず、先輩後輩問わず。何せ相手はあの日本を裏から牛耳ると言われる石垣家の長女なのだから。また、りんごも質問責めにあっていた。明日斗との関係はただの幼馴染だけというものではない、それが周囲の認識だったからだ。心配され、激励され、それはそれで大変だ。そんな様子を見つめるサクラもまた複雑だ。明日斗を密かに好いていただけに、そのショックは計り知れない。だが、内気なサクラにとってもこれは転機になった。妹の親友という立場を利用して以前よりも積極的に明日斗に絡むようになったからだ。さらに、祐奈もまた教師と生徒の間で話題の人物になっていた。何せあからさまに生徒に好意を抱いていることがバレたからだ。だからといって立場上、否定するしかない。それでも変わらず接してくれる明日斗にときめきを隠せず、それはそれで嬉しい状況に間違いなかった。そんなこんなで一週間が過ぎれば、さすがに騒ぎも落ち着きを見せていた。明日斗は今日もため息をつきつつ夕陽を眺められる屋上に来ていた。喧騒を忘れることができるここが唯一の憩いの場だ。この一週間、隙を見つけてはここに来ていたほどだ。自然と出るため息に苦笑し、それから夕陽に背を向ける。手すりにもたれかかるようにして、紺色になりつつある空を見上げた。結局、婚約者としての立場を受け入れていると思う。自分の中に違和感はあれど、かといってそれを捨て去るほどの度量もない。好きと言われてそんなものだと思い、今に至っているのだ。自分に好意はないのに、だ。
「ここにいたの?」
聞きなれた声に顔を向ければ、そこにいるのはりんごだ。だから明日斗は微笑み、横に並ぶりんごを見つめた。
「先輩とは、どう?」
「どうって?」
「毎晩電話してるとか?」
「紗々音情報か?」
わかっていて聞いている、それを見抜いた明日斗の言葉にりんごは小さく笑った。これが明日斗だ、そういう笑いだった。自分がよく知っている明日斗が横にいる。けれど、以前と違ってその距離感は大きい。
「結婚、しちゃうの?」
「さぁ、な」
「婚約してるのに?」
煮え切らない言葉に苛立ちが前に出た。
「正直、よくわからない・・・・先輩を好きなのかも、先輩が本当に俺を好きなのかも、な」
「好きだから婚約者にしたんじゃ?」
「・・・どうだろ」
訝しがるりんごに対し、明日斗は苦笑するしかない。たしかに毎晩電話もし、最後に愛してると言われている。だが、そんな言葉は上っ面だけだと思えてならない。感情は感じるが、それが違和感でしかなかった。
「先輩は、何か・・・・・」
企んでいる気がする、その言葉を飲み込んだ。
「なに?」
「いや、何か隠している気がする」
「うん、思うよ」
当然だ、りんごもその気持ちをぶつけた。何か裏がなければ突然明日斗を婚約者になど指名しないだろう。だが、その真意が全くわからない。
「あっくん・・・・・・駆け落ち、しよっか?」
「・・・・逃げられない。相手は化け物みたいな家だぞ?」
「じゃぁ、不本意だけど愛人にして」
「ヤだよ」
「だってぇ!私はあっくんと結婚したい!」
「悪いけど・・・俺はお前に幼馴染以上の感情はない、今は」
この一週間、さんざん聞かされたりんごからの逆プロポーズに返す言葉は同じ。
「その言葉、ズルいよ・・・・」
そうつぶやき、りんごは明日斗の胸に飛び込んで泣いた。これはいつもと違う。だからか、明日斗はりんごを抱きしめていた。よく知るいい香りが鼻をくすぐるが、何も感じない。瀬音にこうされても同じだ。自分には恋愛という、愛情という感情がないのかもしれない、そう強く思うだけだ。
『あんたの中には、決定的に欠けているものがある』
不意に以前、母親に言われた言葉を思い出した。だから自分はこうなのだろう、そう思える言葉を。
*
自室のソファに腰かける瀬音は婚約の儀に向けて動き始めた両親の動向を遠藤に探らせつつ、全王治家の動きも探らせていた。紅茶の入ったカップに手を伸ばしかけ、不意に鳴ったスマホを手に取った。その表情が誰にも見せたことがないほどに明るく、優しいものに変わる。
「もしもし、お兄様?」
久しぶりの兄からの電話に心が躍っている、そう自覚していた。
「ええ、問題なく・・・・ええ、探らせてる」
ベッドに腰かけ、自然と足が揺れる。嬉しさが体からあふれ出ている、そんな風に。
「そうね、きっとそうなる。でも、彼なら大丈夫よ」
兄の心配もわかるが、そこは瀬音的にも綿密に練っている策もある。
「ようするに首尾は万全。任せて」
自信たっぷりにそう言い、左手に持っていたスマホを右手に持ち替えた。
「うん、当日連絡します。大丈夫だから・・・・ね?」
明日斗にすら出さない甘えた声が部屋に響いた。
「じゃ、また・・・・愛してるわ」
兄に言う言葉ではない。だが、その言葉を口にしてから電話を切った。ため息をつき、ちょっと寂し気な表情をしつつ画面の消えたスマホを見つめる。
「大丈夫よ、お兄様。彼は上手く立ち回ってくれる・・・私の自由のため、私たちの愛のために、ね」
強いまなざしをし、それから立ち上がって窓にかかる薄いピンクのカーテンを開いた。月のない暗い空を見つめ、瀬音は自身と兄とで描いたシナリオを頭の中で何度も反芻するのだった。