王者の資格 3
雨はもう止んでいた。雫が屋根に落ちる音が妙にはっきり聞こえている。ぼんやりとした意識の中、時計を見れば、ここにきて2時間が経とうとしていた。大きなベッドにいるのは自分1人。少しだけ眠っていたのかと自覚しつつ身を起こし、少しだけ照明を明るくした。テレビを点ける気にならず、ベッドの上で座り込むだけの明日斗は小さなため息をついた。結局、一線を越えることはなかった。キスをし、抱き合っただけで、それだけで祐奈はそれ以上のことをしなかったし、求めなかったのだ。その意図はわからない。してもいい、したいとも思った自分はどこか悶々として、そして眠ってしまっただけだ。ふて寝でもなく、ただそうすることしか出来なかっただけだ。もし、あのまま祐奈と関係を持っていたら、きっと、もう、瀬音はおろか、りんごたちにも会えなくなっていたと思う。
「あ、起きた?湿っぽいけど、着れなくはないね」
そう言い、着替えを済ませて祐奈が部屋に入る。もう一度シャワーを浴びたのだろう、毛先が少し濡れていた。そんな祐奈を見つつ、無言のまま着替えをしに部屋を出る明日斗に苦笑し、祐奈は閉じられたドアを確認してから大きなため息をついた。どうしてあのまましなかったのだろう、自問自答するが答えは出ない。ただ、これでよかったのだと思うだけ。これは卑怯な行為だ、そういう自覚があるからだろう。偶発的な雨とこの状況で流されるままに関係を持ち、優位に立つ、それはしてはいけない。大人として、人間として。そういうものに興味しかない年頃の男子をそそのかすようなことは、教師としては許されるものではない。いや、違う。これはプライドだ。女としてのちっぽけなプライド。ちゃんと真正面から明日斗の気持ちを掴むという気持ちと決意がそうさせたのだ。
「気持ち悪いけど・・・着れる」
「でしょ?じゃぁ、出ようか」
そう言われて部屋を出る。ここも祐奈に任せるようにして支払いまでしてもらい、車に戻った。
「お金はいいよ。まぁ、君とキスできたし、こういう所に来られた、それだけでいい」
「あのさ・・・なんで止めたの?」
動き出した車の振動を感じながらそう問いかける。幹線道路に出る車内の雰囲気は普通だ。カーステレオはオフで、2人の会話以外の音はエンジン音ぐらいか。
「あら、してほしかった?だったら、このまま家に来る?」
「はぐらかさないで」
「・・・・・こういう卑怯なシチュで優位に立ちたくなかっただけ」
「倫理的な?」
「それもある。けど、正直したかったけどね・・・でも、それはちゃんと君とそういう関係になってからじゃないとね。きっと、一度そうなったら、ずるずるとそうなる。君も激しく求めてくるだろうしね、年頃だし。そうなるときっと、堕ちる所に堕ちていくだけ」
微笑む祐奈の言葉に嘘はないのだろう。大人だから、経験があるからこその優位性のシチュエーション、だからこそ、踏みとどまったのだから。
「見直した」
「お、ってことは、そういう女だと思ってた?」
「手段は選ばない、そういう風に思ってた」
「好きになった理由は単純でも、でも、この気持ちにはまっすぐでいたいだけ」
「なるほど、こりゃ祐奈が5歩はリードかな」
「よしよし」
2人の笑う声が車内のエンジン音を薄れさせる。そのまま2人は祐奈の過去の恋愛話をしつつ帰路につくのだった。
*
明日斗の家の近くの大きな道路脇に車は止まり、明日斗はシートベルトを外した。その時、両方の頬を掴まれ、そのまま濃厚なキスを1分ほど繰り返してから解放された。
「大丈夫、もう、しないから・・・君を勝ち取ったら、その時はするけどね」
「俺が欲望に流されて祐奈の家に行くかもね」
「その時は拒まない。でもきっと君は大丈夫」
そう言い切った祐奈の気持ちを受け止め、明日斗は車を降りた。そして手を振り、祐奈を見送ってから家へと向かって歩き出した。よく我慢できたと思う。正直、今のキスだけでもう欲望が限界に達していたほどなのに。
「2人ともちゃんとデートして、自分の気持ちを整理しないと・・・先輩に対しても」
りんごとは一泊旅行になるが、今日のことがあるから踏ん張れると思う。何より、流されるままの自分をどうにかしたいと思うようになっていた。流されずに自分のプライドを優先した祐奈のように。
「これが運命なら、きっと・・・・」
運命なんて言葉は好きじゃない。でも、きっとはこれは運命なのだ。石垣瀬音に婚約者に指名されたあの瞬間から、未来を決定づける何かが動き始めた。だから前だけを見よう。祐奈の決意が乗り移ったのか、明日斗の中で小さな変化が芽生えた瞬間だった。
*
「おう、おかえり」
「こっちこそ、おかえり」
久しぶりの父子の会話はこんなものかもしれないと母親は思う。紗々音と違い、実にあっさりしたものだ。
「遅かったわね」
「急に雨降ってきたからさ・・・ちょいと雨宿りを」
「そうなんだ」
そう言い、母親はキッチンへ消える。明日斗は自室に戻って着替えを取ると風呂場に向かった。さっき入ったお風呂と比べると狭いことこの上ない。と、不意に祐奈とのキスを思い出す。
「いいように刷り込まれた、そんな風に思おう」
身体が反応するのを仕方がないと思いながらもシャワーを浴びてお湯に浸かる。楽しかったと思える1日だが、次はサクラとだ。さすがに今日のようなことはないと思いながらもどこか期待している自分を恥じた。瀬音が不在だからと羽目を外しすぎだと思ったからだ。しかし、まだ婚約者としての自覚などない。決定していないからか、瀬音もそういう態度を取っていないし、何より肝心なことを隠していると思えるからだ。
「調べるにも、方法がないしなぁ」
湯船から上がって体を洗うが、瀬音の本心、たくらみを調べる術などない。そこでふと思い出した明日斗はささっと体と髪を洗って風呂から上がる。着替えもすぐに終え、ドライヤーもせずにリビングに向かえば、バラエティ番組を見ている紗々音に向き直った。
「お前、今日・・・・」
「問題ないよ。ぶっとばしておいた・・・」
「そこは心配してないけど・・・りんごは?」
「後でラインすりゃいいじゃん。ショックはないと思うよ。あの後、アイス2本にシューアイス2個食べてたからね」
よほどあっさり撃退したのだろうことはわかったが、後で電話しようと決めた。紗々音を狙ったのだろうが、りんごも標的だったはずだ。
「全王治は今回の婚約を経て全盛時の力を取り戻したいんだろう」
母親が持ってきたアイスコーヒーのおかわりを受け取りつつ、父親がそう口にした。どうやら自分がいない間に全てのことを聞いたのだと察することが出来る言葉だ。
「明日斗・・・今回、相手が全王治ではなければ、普通の婚約の儀で済んでたのは間違いない。だが、相手が相手だけに、警戒は最大限にする必要があるぞ」
「それはわかってる・・・けど、思ったよりも早いよ」
「それはお前の油断だ」
「そうだぞ、おにぃ!まぁ、私が予想以上の戦力で、あいつら、頭痛いと思うけど」
「わかってるよ」
「だから、打つべき手は全部打つ」
「全部?」
そう告げ、テレビの電源を落とす。悲鳴を上げる紗々音の肩を叩くとその場に家族を座らせた。
「いいか、これはもう石垣家と木戸家だけの問題じゃない・・・全王治がそういう手で来るなら、こちらも木戸の、下村の力を結集する」
そう告げ、父親は母親と練った計画を口にするのだった。
*
「無事でよかったよ・・・」
『紗々音ちゃんが一緒だったしね。ってか、強いんだねぇ、紗々音ちゃん。想像以上だった』
その口ぶりからもショックはないことが分かる。りんごにしてみれば、こうして気にかけて電話をくれた事が嬉しかった。
「しばらくは、紗々音とか、母さんとか、俺でもいい、1人で行動しないようにな」
『うん。そこは気を付ける』
「ちょっと窮屈かもしれないけど、そこは我慢してほしい、頼む」
『まぁ、あっくん家に入り浸るだけだよ』
あわよくば、の願望入りだろうが、今日の祐奈との件があることから明日斗の意志はもう固い。今はもう、全力で周囲を守ることだけを考えていた。
「東京の件、どうする?」
『明日、その話しよう?』
「いいけど」
『サクラちゃんと出かけるのは明後日?』
「え、と、明々後日だな」
『じゃぁ明日、ね』
「わかった」
その後はくだらない話をして電話を切る。とにかく無事でよかったとも思う。ホッとしていると今度はサクラからの着信だった。
「もしもし」
『せ、先輩・・・今、いいですか?』
「うん、大丈夫」
『出かける日のことで、相談が』
「あぁ、え、と、明後日、話しようかなって」
『はい!そうですね、直接の方がいいですね』
「で、明後日、迎えに行くから、家で話しようか?」
『せ、先輩の家で・・・・』
「紗々音もいるし」
『そうですね』
家には何度も来たことがあるが、変に緊張したせいか、サクラの声は上擦っていた。だから、明日斗は苦笑してから今日のことを話して聞かせる。紗々音がりんごと一緒の際に襲撃を受けたことを。話を聞いて怯えた様子のサクラだが、それよりも明日斗の家で話がしたい願望が勝っているのだろう、来ることに抵抗はないようだ。何より、明日斗が迎えに来てくれることが嬉しい。そうしてしばらく会話を楽しみ、電話を切る。イベントが盛りだくさんの中、すべきことも多い現実を認識するように壁に掛けられたカレンダーに目をやった時だった。またもスマホが音を立てる。今度は誰だと画面を見れば、瀬音からの着信だった。メールかラインは1日おきぐらいのペースでやりとりしているが、電話は久々だ。今日の襲撃の件を知ったのかと思いながら電話に出る。
「もしもし」
『あら、元気そうね』
「元気ですよ。先輩は?」
『元気ないわよ・・・あなたに会えなくて』
「心にもないことを」
『決めつけないでほしいわね』
笑いながらの言葉に瀬音だと思える。これこそが石垣瀬音なのだ、そう実感させられる明日斗は忘れかけていた瀬音の性格を思い出していた。
「で、どうしたんです?」
『婚約者の声を聴きたくなるのは普通のことじゃない?』
「ですかね」
『相変わらずね、君は』
「変わりませんよ」
『高垣先生とデートした浮気者に変化したくせに』
さすがの情報網だと思う明日斗は、あの黒服の男たちは全王治ではなく、石垣の手の者かと勘繰った。そういう保護的な意味での監視があっても不思議ではない。
「よくお見通しで」
『まぁね・・・でも、妹さん、大丈夫だったの?』
「ご存じの通り、見事に撃退したみたいです」
『まったく、想像以上というか、予測不可能な子ね』
「アレは化け物ですから」
『悪い言い方』
笑う声も上品なのはさすが瀬音だ。懐かしいようなその声にどこかホッとしている自分がいる。そうしてイギリスでのこと、明日斗のことなどを話し、電話が終わりかけた時だった。
『来月、お兄様が帰国するの。一時帰国だけど、その時に会いたいって』
「お兄さん?」
『次期当主として、兄として、妹の婚約者に会いたいって』
「まだ正式に決まってませんけどね」
『それはね・・・でも、全王治の婚約者にも会うって。で、まずは君から』
「試されているようで怖いですね」
『お兄様はあのブサイクと違って、イケメンで威厳があって、まさに王者の風格を漂わせているわ。何より強いしね。そんな兄があなたに会って、色々話をしたいみたい』
「余計に怖い」
『でも味方よ。少なくとも全王治を嫌ってる』
だろうね、そう思うが、やはり思惑は読めない。だが、これはこれで情報は掴めそうだ。そして一番知りたい、今回の婚約の意味、自分が選ばれた意味も。明日斗も変わろうとする中、瀬音もまた変わろうとしている。いや、石垣家を変えようとしているのだ。悪しき風習を根絶し、自由と、そして真実の愛を勝ちとるために。
『じゃぁ、また電話するわね、愛してるわ』
「・・・・はいはい」
明日斗の反応を楽しんだ瀬音がスマホを置いて振り返ると、笑みを浮かべた仙人がいた。そのまま2人は唇を重ねる。
「愛してる」
明日斗にはなかった気持ちが込められた言葉にキスで返す仙人は、これで計画の第二段階に入ったことを認識し、次の行動に移ることを意識するのだった。




