第9話 淡い幻影
リビングでは、環がレイナと意気投合して盛り上がっていた。時折、環の弾んだ明るい声が聞えて来る。
バルコニーへ出ていた岬は、複雑な表情で煙草に火を点けた。そして一息吐くと、頭上で一面に拡がる星空を見上げながら、過去を振り返るにように静かに眼を閉じた。
食事中、岬はレイナに一瞥も投掛ける事はなかった。環がレイナを独り占めしていたせいもあったが、自分が彼女の存在を意識してしまってからというもの、まともに彼女を見詰める事が出来なくなっていたからだ。
『情で返り討ちに遭った奴は巨万と居る』そう言ったジンの言葉を思い出して、自分もその内の一人になるのだろうかと悩み、気が重くなってしまった。彼女を意識し始めた自分が、今後まともに任務を遂行出来るのかと言う疑問に突き当たってしまったからだ。
不安を振り払うように、煙草の煙を溜息と共に吐き棄てる。
「ねーえ、お兄もこっちに来なよ」
バルコニーへ通じている窓から、環がひょこっと顔を覗かせた。部屋の奥にはまだ食べ終えていないレイナが、慣れない箸に苦労している最中だ。生前の玲奈も箸が苦手だった。こうして見ていると、仕草まで全く同じだ。
言葉を交わさなければ、彼女が生前の『玲奈』だと言っても誰も信じて疑わないだろう。そして、彼女をこのまま『玲奈』として匿い、自分の許に居させる事も容易いのでは……と、邪まな考えさえ抱いてしまう。
「ン……良いよ、俺は……」
フェンスへ凭れ掛かると、煙を環の方に向けないようにして顔を背けた。こんな所で無駄に時間を費やしてしまい、素直に環達の会話に参加する事が出来ない自分が情け無いが、今はまだ自分には無理だなと思ってしまう。
環が笑顔を浮かべながらバルコニーへ出て来た。そして岬の横に並ぶと、フェンスへ凭れて眼前に拡がる市街の夜景を眺める。
「あんだぁ? やけに嬉しそうじゃないか」
携帯用の灰皿に、まだ半分しか吸っていない煙草をそっと片付ける。
「うん」
環はご機嫌だ。
「玲奈さん、記憶が殆ど無くって、環達の事を覚えていないんだって。チョッと悲しかったけど……でも、以前の玲奈さんそっくりだよ。やっぱ、良く出来てる。お兄が玲奈さん造るのを頼んだんでしょ? 環をびっくりさせようと思って」
「いや……」
岬は否定し掛けた言葉を飲み込んだ。
玲奈の死亡した状態を知らない環だからこそ言えたのだ。頭部を撃ち抜かれた彼女は、通常手段での移植手術によるバイオノイドでも、電子制御のダミーである人造人間のサイバノイドにも換装出来る状態ではなかった。今の形成技術を駆使したとしても可能性は限りなくゼロに近い。レイナが此処に居られるのは、違法措置の蘇生技術があってこその存在なのだ。
「え?」
「い、いや。何でも無い」
岬の言葉に反応しかけた環をうやむやにはぐらかしたが、環は軽く小首を傾げただけだった。
「本当、びっくりしちゃったぁ」
環はレイナがバイオノイドだと信じて疑ってはいないようだ。バイオノイドは本人の細胞を培養して使用する為、移植された部分にはやがて血管が通って来るし、体温も維持出来る。人工的に創り出されたサイバノイドと違い、外見上は生身の人間と殆ど区別が付かない。怪我をすれば血も出るし、勿論病気も患う。
多くのバイオノイドを検証して来た岬だからこそ、レイナがバイオノイドでは無いと判断出来るのだが、身近にそういった者がいない環にとっては、区別する事さえ不可能だろう。
岬は半ば呆れて環を見下ろした。
今更ではあるが、自分の妹だとは言え、つくづく環は人の話を聴かない奴だなと思った。そう言えば、環とよく似た人物が居たなと心当たりを探っていると、唐突に芹澤の顔が脳裏に浮かんだ。今頃は芹澤が大きなクシャミをしていることだろう。
「はい、お兄は左利きだから、右手出してぇー?」
「あ?」
岬は環の言われた通りに右手を出す。
「これ……環がさっき作ったの。旧世紀で流行っていたらしいけど。今ね、環の学校で、これが自然に解けたら願いが叶うって言われてて、作るの流行っているんだぁー」
環は岬の右手首に組み紐を結んだ。
「玲奈さんにはピンク色のを作ってあげたの。でね、これはその色違いでお揃いなの。お兄は綺麗なブルーだよ」
環から邪心の無いクリクリとした大きな眼で顔を覗き込まれてしまい、岬は落ち着きを失くして戸惑った。
環とは腹違いの兄妹ではあるが、二人は余り似てはいない。一周りも歳が離れているせいで、妹だとは言え保護者側に立たされている岬にとって、『兄』と呼んで慕ってくれる環の存在でどれだけ心強く支えられている事か。
素直にレイナと自分の心配をしてくれる環の心遣いが嬉しくて、擽ったかった。
「どうりでいつもより食うのが遅いと思ったら……これを作っていたのか」
今更、彼女は『玲奈』では無いのだと言っても、信じては貰えない気がする。
尤も『違法処置の蘇生術式』の存在自体、一般人である環に知られてはならない極秘情報である。それでも言えたと仮定しても、環にどう説明すれば理解して貰えるのだろうか? 事実、岬でさえ心の整理が着かず、未だ混乱しているのだから。
「玲奈さん、早く記憶が戻ると良いね」
「あ? ああ……そうだな」
岬は曖昧に言葉を濁した。真実を伝えて、今の環の笑顔を奪う気にもなれないし、そのうち環も気が付く時が来るだろうと思ったからだ。
「環」
「何ぃー?」
暢気な返事が返って来た。
「その……彼女と話があるから」
「うん。判ってるよ。けど、駄目だなぁ〜『彼女』だなんて、余所々しいぞ」
環は偉そうに腰に左手を当てて仁王立ちすると、右手の人差し指を立てて、チッチと指を振って見せた。
「真っ直ぐ親父の所へ帰れよ?」
「ほーい。っても、すぐ下の階じゃん。ん、じゃあねぇ、姉さん」
環は機嫌よく返事をして鞄を手にすると、笑顔でレイナに手を振った。
「アイツ……」
バタバタと慌しく玄関を出て行った環の行儀の悪さに岬は軽く顔を顰めたが、その眼はどこか嬉しそうだ。環の屈託の無い笑顔を見るのは、本当に久し振りだったからだ。
「姉……さん?」
部屋を出て行った環の後姿を見送たレイナは、環の言葉に呆然とした。
『姉さん』と環から呼ばれて、不思議と否定する気も厭な気分にもならなかった。それよりも、何かとても大切な事を思い出せそうな気がしてもどかしくなる。
「気にするな。環の勘違いだ」
岬はトレーへ食器を載せて片付けながら、背中でレイナの困惑している様子を察して釘を刺すように言い放った。
レイナは、意地悪く聞えた岬の言葉に振り向いたのだが、岬は既にテーブルから離れてしまった後だった。
「で? 聴こうか?『用件』とやらを」
片付けが終わり、レイナが座っているソファと反対側のソファに身体を沈めると、岬は煙草に火を点けた。
最初は彼女の言う事など、絶対に聞く耳を持つものかと身構えていた岬だったのだが、行き掛かり上、帰ろうとしていた彼女を自分が引き留めてしまった。これでは彼女の相談を聞くより他無い。
二人の間を白い煙が漂い、軽くレイナが咳き込んだ。呼吸器官が弱いのは生前の玲奈と同じだ。
「環ちゃんが居る時はああやって外で吸っているのに、私には遠慮無いのね?」
「当たり前だ。俺が招いた客じゃ無い」
ムッとして言い返す。
突き放すような言い方をした自分の言葉の冷たさに、岬自身が驚いてしまった。もう一度逢いたいと願っても叶わない望みが、今この場で叶えられていると言うのに、今の岬には少しも嬉しい事だとは思えなかった。
捜査上、容疑者として浮上しているレイナが自分の視界に入る度に、胸が苦しくなって堪らなかった。普段から上司である父親との関係もあり、常に仕事とプライベートを切り離す癖を持っていた岬だからこそ、今まで彼女と接する事が可能だったのだ。『任務』だと思えば、湧き上がって止まない個人的な感情でさえどうにか割り切る事が可能だった。
だがその線引きの維持も、彼女がここへ遣って来た事で岬の心の中にあった均衡が崩れてしまった。目の前に居る彼女に対して、八つ当たりのような感情さえ芽生えて苛立ってしまう。
レイナは岬の苛立ちを感じ取って俯いた。
「そうね。招かねざる者ですものね。でも……その前に、貴方にお礼が言いたくて」
「礼?」
「この前、助けて連れ出して貰ったの……まだお礼を言っていなかったわ」
レイナは訝る岬の表情に気圧されながら、おずおずと頭を下げた。
数日前、彼女は泥酔した男から脅迫されていた。それとなく彼女を監視していた岬は、偶然を装い『酒癖の悪い客』として男を店から叩き出したのだ。
男からの脅迫内容は判らなかったが、蒼白になり立って居られるのがやっとと言う状態のレイナを見るに忍びなくなった岬は、そのまま店を抜け出し、彼女を連れて夜のドライブに誘った。
岬は、独りで胸の内に何かを抱え込んでいるのか、見事な夜景を眼の前にしても細い柳眉を寄せて辛そうな表情を浮かべている彼女の横顔を見て心を痛めた。 外に連れ出せば幾分かは彼女の気持ちも安らぐだろうと思って遣った事なのだが、岬の意に反して、彼女はいつも以上に何かに怯えているように見えた。彼女の笑顔が見たいばかりに連れ出してしまったのが却って逆効果ではなかったのかと気に病んでしまう。
『君は……笑ったりしないんだな? それともこんな場所は好きじゃなかった?』
『え?』
『いや、いつも何かに怯えて思い詰めたような眼をしているからさ』
自分の執った行動が間違いでは無かったのだと思いたくて、そして彼女の気持ちが知りたくて、思わずそんな不躾な言葉が口を突いてしまった。
『そう? ……こんなに綺麗な場所があるなんて知らなかったわ。でも……でもどうして?』
そよぐ風に長い髪を弄ばれながら、レイナは徐に顔を上げて岬を見詰める。思いも寄らない岬からの一言に、心を射抜かれてしまったのだろうか? 彼女の瞳からは今にも毀れ落ちそうな涙が揺らめく。
『その……詰まり、笑顔を見た事が無いから』
『笑わないといけないかしら?』
『い、いや……』
不意に毀れ落ちる涙を眼にしてしまった岬は、聞くべき場所とタイミングをミスったなと後悔し、言葉に詰まってしまった。
肌寒い夜風に、先ほどの客から引き裂かれた細い肩が晒されていると気付いた岬は、黙って自分の上着を彼女の肩に羽織らせる。
レイナは一瞬身を硬くして身構えたのだが、岬からは何の危害も受けないと知って安堵したのか、黙って厚意を受け容れた。
体格差が在り過ぎる岬の上着を着たレイナを見て、思わず吹き出しそうになった岬だったが、この時でさえ、彼女はクスリとも笑ったりはしなかったのだ。
『踊るのは苦手?』
場の空気が一層気不味くなるのを避けたかった岬は、彼女が掴んでいた手摺からやや強引に、白いその手を掬い取った。
他のホステスからの紹介を受けても、レイナは客から何度もダンスの誘いを断っていた。時には断った客から心無い罵声を浴びせられていたのを岬は知っている。
『踊らないのじゃないわ。踊れないの』
『おいで』
レイナの手を軽く引き寄せると、彼女は驚いて岬を見上げた。
『止して。私は踊れないって……』
尻込みするレイナの右手を絡めて身体を引き寄せると、岬は彼女の言葉を聞き流す。
周囲には人気が無く、寂れた展望台の仄かな外灯と月明かりに照らされ、美しい街の夜景を背景にして、レイナは岬のリードにいつの間にか惹き込まれて行った。
「その件はもう気にしないでくれ。で? 此処に来たのは?」
岬はレイナを急かした。話を切り出せずにいるレイナに痺れを切らせているのが見え々の態度だ。けれどそんな状況で話を切り出せば、岬を猶の事怒らせてしまいそうな気がして、レイナは言い出せずに口籠る。
息苦しい時間が続いた後、やがてレイナが思い切ったように顔を上げた。
「また今度に……」
「次は無いぞ?」言い掛けたレイナの言葉へ被せるように、岬はきっぱりと遮った。「周りがどれだけ君に対して甘いかは、君を見ていれば判る。けど、俺まで一緒にしないでくれ。話す気が無くなったのならさっさと帰ってくれ。もう二度と此処へは来るな」
びくりとレイナの肩が跳ね上がる。切れ長の眼が一層大きく見開かれ、その怯えた瞳には、厳しい表情を浮べた岬が映っていた。
「環から聞いた。君は昔の記憶を失っているそうじゃないか。大方、初対面だと思っていた俺が君を知っていた事を不思議に思って、此処まで来たのじゃないのか?」
レイナは押し黙ると、ゆっくりと項垂れる。
「図星か。馬鹿々しい。過去の記憶なんか在った所で誰だって忘れるものさ。覚えていなくても良いし、却って思い出さない方が良い事だってある。そんな過去の記憶に束縛されるよりも、今の自分をもっと大切にしろよ」
まるで岬が自分自身に対して言い聞かせているようにも取れる言葉だった。そして、そんな岬をレイナは悲しそうな眼で見上げる。
目の前に居るこの男が、あの時助けて強引に自分を外へと連れ出してくれた人物と同じだとは思えなかった。岬に優しくされ、甘えてしまった自分がいけなかったのだろうか? そう思うと尚更相談したい事へのきっかけが掴めない。
重苦しい空気が室内を満たす。
「話はそれだけか? ……送って行こう」
手早く煙草を灰皿で揉消すと、岬はソファから立ち上がってレイナに背を向けた。
「!」
いきなり背後から細い腕が伸びて、背中へ女性特有の柔らかく温かい感触が伝わった。
「な、何……を?」
岬の胸の鼓動が速くなる。
「知っているのなら教えて? 私の事を!」
「ばっ、馬鹿言うなよ。君はあの時『レイナ』だと自分で言ったじゃないか」
「違う! そうじゃないの……いえ、それもあるのだけれど……私、時々記憶が飛ぶの。まるで薬を遣っている時みたいに。気が付けばいつも……いつも血の匂いがするの。私の身体から。どうして? ねえ、貴方なら何か知っていない? 医師なのでしょう? 私の事を知っているのでしょう?」
レイナの身体が震えている。岬は不安に押し潰されそうになって怯えている彼女の胸の内を察した。彼女が時折覚醒剤らしい薬を使用している事も既に承知している。ならば薬に拠る副作用なのではないかと思った。
「ト……トリップだろう? 薬をしている時の。常用していれば薬を使用していなくても何かのきっかけで記憶が飛んだりする。ましてや君はあのミューズ製薬の蘇生液常用者だ。麻薬を併用していれば副作用で更に症状は酷くなる。血の匂いも症状の一つじゃないのか?」
彼女がこの部屋を訪れた時にきつい血の匂いがしていていたのを思い出して、矛盾点に気が付いた。トリップだろうと言ってごまかしたものの、それが彼女の『気のせい』だと言うのであれば、あの現象をどう説明すれば良いのだろうか。
「違うわ。薬は……していないとは言い切れないけれど……でも、本当に……本当に血の匂いが残っているの。昨日は匂いだけじゃなかった。気が付けば私、全身が血で真っ赤だった。怖くて……怖くて何度もシャワーで流したわ。けど、何度流しても血の匂いが消えない。消えないのよ!」
背後から抱き締めるレイナの両腕に力が篭る。
「昨日? 全身が血で真っ赤……って……」
岬は呻るように呟いた。
「自分の血じゃないわ。私は何処も怪我をしていないもの! 別の人の……誰かの血なのよ!」
「昨日……血が……って、どういう事だ?」
背後からレイナに抱き竦められたまま、動けなくなってしまった。
その日は桐嶋署に盗難車両が突入し、多数の死亡者を出した事件があった日だ。
「助けて……助けて! 私、血の匂いが……血の味が堪らなく甘く感じるの……おかしいでしょう? おかしいわよね? 普通じゃないわ。 わ、私……私、自分が何だか別の生き物になってしまいそうで怖い。怖いの!」
背後から縋り付くように抱き付いているレイナの腕を解こうとしていた岬の動きが止まった。予想さえしなかった彼女の言葉に、驚きと緊張で呼吸が停まる。
違法行為に及んだとは言え、ジェフは『玲奈』の蘇生に成功した。温もりを持って岬を抱き締めている『玲奈』の身体を『レイナ』として生き返らせたのだ。黄泉から現世へと彼女を導き、連れ戻せたのはジェフだ。岬では無い。
そして、岬にはそれを真似する事さえ敵わない。
喩えジェフ以上に『玲奈』を愛していたのだとしても。
「き、君の……君の彼に訊けば済む事だろう? 外科の俺には専門外だ。訊ねる相手を間違えている。それに……」そこまで言うと、岬は力無く項垂れて視線を落とした。竦められていた岬の肩が、ゆっくりと脱力して落ちて行く。「それに、君にはジェフが居るじゃないか。こんな俺でなくても……アイツの方が俺よりももっと……もっと優秀だ」
悔しいが、それは紛れも無い事実だ。何より、それを立証出来る人物が自分の眼の前に居るのだから。
「そんな事訊けない。訊ける筈が無いわ。あの人では駄目……駄目なのよ!」
レイナは岬を抱き締めたまま、頻りに首を振る。
「あいつには訊けなくても、俺には訊けるのか?」
岬はレイナの腕をそっと解き、ゆっくりと彼女へ向き直った。そして片手で彼女の首を撫でるようにして顔を反らせる。岬に触れられたレイナは一瞬ビクリと肩を跳ね上げ、そしてそっと眼を閉じた。
「ええ……そ、そうよ」
レイナの声が震えた。
岬の掌へレイナは軽く眼を閉じたまま甘えるように頬を軽く預けた。岬がその手を滑らせて頤を引くと、レイナはされるままに上を向き、岬の首へと腕を絡めて来る。
岬の眼には、首のチョーカーに嵌められている赤い宝石が、レイナの心を映しているように怪しい光を帯びて輝いているのが映っている。
彼女は岬の首へ腕を絡めたまま、右手で左の袖口へ隠し持っていた細いアイスピックをそっと取り出すと、岬に気付かれないように逆手で握った。鋭い切っ先を岬の延髄へ向けて、正確に狙っている。レイナは総てを委ねたように見せ掛けて岬を安心させ、隙を突いて息の根を止めようとしているのだ。
けれど岬の視界には、先程から窓ガラスに自分とレイナの姿が映っている事に気付いていた。今、彼女が自分に対して何をしようとしているのかが丸見えなのだ。
『何故?』と言う疑問はこの際岬の頭には浮かばなかった。自分に手を下そうとしている彼女の姿で、答えは十分導き出されている。
一度彼女は岬へ薬を飲まそうとして失敗している。岬とレイナが出会った事を、あのジェフが勘付かない筈は無い。こうして強硬手段に出るのが遅いくらいに思えたが、直接自分からは手を下さず、敢えて彼女を送り込むよう仕向けるジェフの狡猾さが腹立たしかった。
願わくはこのまま彼女を攫い、『玲奈』の記憶が戻ってくれればと、儚い望みを抱きもした。
しかし……
「都合の好い話だ」
彼女は『レイナ』なのだ。岬の『玲奈』とは違う。『玲奈』であれば勝手に人の家に上がり込んだり、色気を漂わせて油断させ、こうして命を狙ったりなどしない。
我儘で、狡猾で計算高くて……
精神面で、生前の玲奈には全く見られなかった事だ。生真面目で常に直球勝負しか仕掛けられなかった素直な『玲奈』とはまるで違う。
それでも不思議だった。今、岬の命を狙っているレイナが、生前の『玲奈』よりとても現実的に思えているからだ。しかも自分の目の前に居るレイナは『玲奈』の身体でもある。
自分の知らない『彼女』が居る……岬は躊躇いながら、彼女の肩をそっと引き寄せた。
「!」
一瞬、彼女の『気』が乱れる。
「気付いて……いるのでしょう?」
「なにが?」
今にも泣き出しそうな顔をするレイナに対し、岬は至って静かに答えた。
「どうして気付かない振りをするの?」
意味深な問い掛けに、岬は穏やかに笑って腕の中の彼女を見詰めるのだが、その眼は、少しも笑ってはいない。
「……さき」
レイナの息が大きく乱れ、声が掠れた。
アイスピックを持つ手が震え、明るい栗色の瞳が大きく潤んだかと思うと、大粒の涙がはらはらと零れる。
明らかに岬はレイナの殺意を察知している。なのに取り押さえようとも、逃げ出そうともしない。それどころか、レイナの罠に自分から敢えて嵌ろうとしているようにしか思えないのだ。
「綺麗な石だ」
その言葉にレイナはドキリとして思わず手にしたアイスピックを落しそうになった。
岬はレイナの一瞬の変化を見逃さなかったが、猶も平然として続けた。
「彼からのプレゼント?」
「え……ええ」
それはレイナを繋ぎ止める鎖と同じであった。レイナ自身、チョーカーはネックレスとは違い、まるで動物の首輪のように見えて好きではない。
「聖女の血と呼ばれているレディ・ブラッドだろ? これ程鮮やかなカラーは珍しいな」
「よ、良く、知っているのね。この石がレディ・ブラッドだと言い当てたのは貴方が初めてよ? 皆ルビーか何かだと間違えるのに」
「そりゃどうも。もの凄く稀少だと聞いていたから興味があってね。それ、いつも肌身離さず着けているんだな。良ければちょっと見せてくれないか?」
岬はチョーカーに手を伸ばそうとした。
「あ……ま、待って。これは……」
まるで何もかもが岬にはお見通しなのかと思えるくらいだった。レイナは素早くアイスピックを袖口へ戻すと、たった今自分が何を遣ろうとしていたのかと我に帰り、事の重大さに怯えて身震いした。
レイナは岬に絡めていた両腕を解き、自分の胸元に引き付けて身体を引こうとするのだが、背に岬が手を廻している為に離れられない。それでも岬の胸へ手を押し当てて、少しでも身体を離そうと僅かな力で抵抗する。
「外せない。外れないの」
俯いて、ゆっくりと首を横に振った。
「何故?」
「た、大切な……物だから」
「そうか。悪かった」
岬は腕を緩めて彼女を解放した。
チョーカーに触れようとした刹那、彼女から殺気が一瞬で消えた。そして、あの怯えようから判断して、チョーカーが彼女への単なる装飾品だけではなく、監視機能を併用しているのだと確信を持った。何の為の監視であるのかは、彼女の身体に残っている疵痕を見ればある程度の想像はつく。疵は恐らく、彼女が幾度と無くジェフから逃れようと試みて受けたものなのだろう。
「岬、わ、私……」
それ以上、レイナは何も言い出せなくなってしまった。思い詰めたような硬い表情で彼女は岬を見詰めるだけだ。
「俺に……俺にどうしろと?」
何かを思い詰めて言葉を失った彼女に、大きく心を掻き乱される。縋り付くような視線が、自分を助けて欲しいと訴え掛けているように思えてならない。
唐突に岬の携帯が鳴った。呼び出し音だけで相手がジンだと判る。余りにもタイミングが良過ぎて、何処かで自分が監視されているように思えた。岬はそれが気に入らなくて、たちまち不機嫌になる。こうなると返事さえ億劫になって、呼び出しに応じようという気さえ起らなくなる。
岬は携帯を取り出すと、応対せずに着信を切る。
「クラブまで送るよ」
岬はレイナの返事を待たず、一方的にそう言った。
* *
岬が潜入捜査を始めて半月以上経過していたが、ラジェンドラでは依然として組織が動く気配は無かった。どうやらFCIが、単なる捨て駒だと思っていた売人のラルを検挙した事が仇になってしまったらしく、連中が捜査に勘付き、麻薬や臓器の売買取引が場所を変えて行われ始めたと言う不名誉な事実が発覚したからだ。
FCIは一旦ラジェンドラから手を引くよう岬に指示を下していた。
「じゃ、元気で」
岬は運転席から作り笑いをして見せる。
「本当に、もう?」
「ああ。契約だからね。君とは……これでお別れだ」
岬は未だにレイナに後ろ髪を惹かれている自分の気持ちに気付き、敢えて彼女から視線を逸らせた。
彼女に夫が居ても、それが何だと言うのだろうか。夫の指示で、持てない殺意を無理矢理抱えて仕方なく岬を訪ねて来たのだろうが、その一方で彼女には自分を救い出して欲しいと思う気持ちが在ったのは間違いない。
彼女が心を開こうとしているのに、自分は一体何を躊躇う必要があるのか? しかし、それは岬個人の問題だ。レイナが捜査上の容疑者である以上、私情を交える訳にはいかない。
「これからどうするの?」
ビル風に煽られて乱れる髪を気にしながら、レイナは膝を曲げて運転席の岬と同じ目線になり問い掛ける。
「別に。その気があれば救急センターでも何処へでも行くさ。何も君が俺なんかの心配をする必要なんて無……い」
レイナの顔を見上げた岬は、彼女の今にも泣き出しそうな表情に、ぐっと胸を掴まれた気分になって言葉に詰まってしまい、それ以上言い出せなくなってしまった。
岬は堪らなくなってレイナから再び視線を逸らせた。思わずハンドルを握った左手に力が篭った。このまま視線を合わせ続ければ離れられなくなりそうで、自分自身が怖くなる。
「チカ達に宜しく」
岬は取って付けた風にそう言うと、軽く右手を挙げた。
発進のウインカーを出してアクセルを踏むと、車は難なく他の車の流れに合流して、ドアミラーに映った自分を見送るレイナの姿が見る々小さくなって行った。
本当にこれで良かったのだろうか……?
何度も自問してみるのだが、納得出来ない別れだった。次に彼女と出会う時は、彼女を逮捕する側としての選択肢しか無いのだから。
程なく、岬はジンに携帯で邪魔をされてからずっと応答していなかった事を思い出した。慌ててカーナビから掛け直す。
―「今頃出て来やがって! 一体何をしていたんだ! 馬鹿野郎!」
ナビに映ったジンは色をなして噛付いた。
「小言は後にしろ。で? 何かあったのか?」
岬は敢えて落ち着き払って言い放ち、慣れた手付きで煙草を銜える。
ジンは岬の態度が気に食わないと言った表情を浮べて眉間に皺を寄せた。
―「詳細は不明だ。来訪している外相の暗殺目的か、組織間の小競り合いか……数分前、ラジェンドラ館内で銃撃戦と思われる発砲があったと通報が入った。事前に臓器売買の取引があると聞いて、芹澤警部達が現場で張り込みしている。近くに居るのなら応援を……」
「何っ?」
思わずブレーキを踏み込んだ。タイヤが悲鳴を上げて車体が軋み、左右へハンドルが勝手に踊り出す。
後続車が、急激に減速した岬の車へ間に合わずに追突し、同様に次々と玉突き事故が起こった。彼方此方で怒声とクラクションが入り乱れる。
「ってぇえ……」
顔を顰めて頸椎を片手で押え、岬は呻いた。その後、起動したエアバッグを掻き分けて、割れたフロントから車外へと這い出した。後ろから何台も追突された車は、歩道脇に設置されていた信号機の支柱にぶつかり停止している。車体の後部は勿論だが、フロント側も一目で判るくらいに潰れている。これではもう遣い物にはならない。
「!」
突然巨大な爆発音と地鳴りが響き、空気が震えた。
整然と立ち並ぶビルを映していたドアミラーの片隅で、突如として地上一階辺りから巨大な黒い噴煙がもうもうと立ち昇った。位置から見ても、間違いなくクラブの在る方角だ。
再び、身体の奥から全身を揺るがすほどの爆発音が二度、鳴り響く。
「レイナ!」
たった今、岬はそのクラブの前で彼女を送り届けた処だったのだ。