第8話 夜の訪問者
「じゃあ、また明日ね」
「うん。バイバイ。お疲れー」
時刻は夜の八時を過ぎていた。友達と別れた環は、間もなく自分よりも四、五十メートル先を歩いている背の高いジャージ姿の男が、兄の岬ではないかと思い眼を止めた。
紺色を基調とした男のジャージは、肩から腕、脇から下のパンツまでの両サイドに赤と白の鮮やかな切り替えラインが施されている有名スポーツメーカーのデザイン。足元は同じメーカーの白いジョギングシューズだが、踵をだらしなく踏み潰して履いている。右手には、食材が一杯入った白っぽいエコ袋を持って居た。
暫くの間、環は男と同じ方向に歩きながら、男を観察していた。
兄だと思うのならば早く声を掛ければ良い様なものだが、以前、同じ状況で他人に声を掛けてしまい、大恥を掻いた経験があったせいで環は用心深くなっている。
男は普通に歩いているようだが、環とは歩く速度も違えば歩幅も全く違っている。付いて行く環は、自然と小走り状態になる。
男が信号待ちで止まった。何気なく左を向いた男の横顔を見て、環はやっと確信が持てた。
「やっぱり、お兄ー!」
張り上げた声に反応して、男が振り返る。
環は嬉しそうに息を弾ませて小走りで岬の許へと駆け寄ると、照れ隠しにえへへと笑った。
「気付くのが遅いって。で、環はデートの帰りか?」
「なワケないって。この格好で判んない?」
環はテニス部で揃えた白い上下のジャージ姿で真っ平らな胸を張る。
「部活?」
「うん。来月に試合があるの」
「ふうん」
二人は並んで歩き出した。今度は岬が環の歩幅と速度に合わせる。
岬は自分の後をつけていたのが環だと随分前から気付いていた。以前、迂闊に声を掛けて失敗をした体験談を環から聴かされていたので、気付かない振りをして逆に環の様子を窺っていたのだ。なかなか声を掛けて来なかった環の用心深さを眼にしてしまい、岬はふと表情を崩した。
「お兄こそジムの帰り?」
「ああ。此処のとこ、行って無かったからな」そう言って笑うと、環に視線を落とした。「悪いな。ずっと一人だったろ?」
「ううん。お父さんの所に行ってたよ」
二人の父親は桐嶋署署長の高城雅哉である。自宅は岬のマンションの丁度一階真下だ。
「あ……そ」
意に反した環の明るい返事を耳にして、岬は放置していた環への後ろめたさが一気に晴れた。却って環を心配していた自分が損をしていたような気になる。どうりで自分が帰宅しても、台所が綺麗だった筈だなと納得する。
「でも、今日お兄が帰って来るんだったら、環戻るぅー」
「え?」
「だってお父さんのご飯って、買って来たお惣菜ばっかで美味しくないもの。お父さんの方が決まった時刻に帰って来てくれるけど、やっぱご飯はお兄じゃないとねー」
「って、メシでついて来るのかよ?」
「当然でしょ?」
「あのなぁ……」
つんと澄まして言い切った環に、岬は言い返す気力さえ失くして呆れてしまった。
先に異変に気付いたのは環だった。二人でマンションへ戻ると、点いている筈の無い灯りが点っている。環は思わずその一室へと指を差した。
「お兄、あれ見て……出掛る時に、電気消し忘れたの?」
「いや。昨日は泊まりで帰ってない」
「じゃあ、あの灯りは何? 昨日もこの時間に帰って来たけど、お兄の所真っ暗だったよ? ま、まさか泥棒?」
環は両の握った手を口元に当てて、大袈裟に怯えた。
「泥棒が堂々と灯りを点けて侵入ねぇ……どうかな?」
岬は面倒臭そうにソッポを向いて首筋を掻く。
「な、何他人事みたいに言ってるの? 自分の家でしょ? け、警察に連絡しなきゃ」
慌てて近くの駐在所へ行こうとした環の襟足を、岬は無造作にひょいと掴んだ。
「きゃっ?」
環はまるで子猫か子犬のように手足を縮めて動けなくなる。
「お前は親父の所に帰れ」
「だあって! 泥棒……痛たっ!」
岬は環の額を指で軽く弾く。
「刑事が警察呼んでどうするよ。ほら、これ持って」
「で、でも、でもっ……わ?」
岬は有無を言わさず買い物袋を環へひょいと手渡した。一週間分の食材が入った袋は見た目よりも意外と重い。既に持って居た自分の鞄の重さへ食材が追加されてしまい、環はずり落ちそうになった荷物を必死になって押さえ付ける。
「後で取りに行くから」
そう言い残すと、岬は環を残して足早に去って行った。
「お……お兄〜、ち、ちょっとぉ〜! 待あってぇ〜。重ぉーい!」
* *
泥棒にしては随分と間抜けだなと思った。岬の自宅マンションには金目の物等何も無い。苦労して侵入しただろう奴をとっ捕まえて『ご苦労さん』とでも言いたい気分だ。
ドアの防犯錠に掌を翳したが、セキュリティは岬だと認識するものの、既に鍵は解除されたまま放置されている。セキュリティを突破して侵入した割には、潜入時の時間稼ぎになる鍵の必要性を理解していない素人のような手口が腑に落ちない。
奥のリビングで気配がするが、気配はどうやら一人だけのようだ。
コソ泥なら何とかなると高を括っていた。しかし、リビングに近付いた岬は、部屋にはそぐわない異臭に気付いて眉を顰めた。室内には岬の煙草消臭用の芳香剤が置いてあるが、それさえ消し尽くせない程の異臭がドアの外へと漏れている。
それが血の匂いであることに岬は直ぐに勘付いた。
通常では在り得ない血の匂いと、ドア越しに感じられる無防備な相手の気配があまりにも懸け離れて矛盾している。ドアを開けようとした岬に一瞬迷いが生じたが、ここは退くよりも攻めるべきだと判断した。
岬は全神経を尖らせ、用心しながら……しかし態度には出さずにいつもの様子で部屋に入った。
「あれ? 電気、消し忘れたのか……な?」
わざとらしく呟きながら部屋に入った岬の視線が、中央で釘付けになった。部屋の中央に置いていたガラステーブルの横でエプロン姿の女性が佇み、こちらを見ているのだ。
「お、お帰り……なさい」
遠慮がちに呟いたその声の主に、岬は自分の目を疑った。
腰まで流れるストレートの亜麻色の髪。少し上気してピンク色に染まった頬。そして彼女は恥じらいながら伏せていた顔を上げると、はにかみながらも真っ直ぐに岬を捉えて見上げて来た。
岬は信じられないという眼で彼女を見詰める。
「れ、玲……奈……いや、レイナか?」
息が詰まった。一瞬、幻覚を見てしまったのかと思って混乱する。
彼女は、食い入るように自分を見詰める岬の視線を避けるようにして俯いた。恥じらいが一層彼女の頬を赤く染める。
「そ、そんなに……見ないで」
「どうやって此処に?」
岬はレイナが意図も簡単に侵入出来た事を不思議に思ったのだが、それは未だに自宅のセキュリティ更新を掛けて、『玲奈』を認識させていたデータを削除していなかったからだと遅ればせながら気が付いた。
彼女がセキュリティ解除方法に精通しているか、若しくはレイナが『玲奈』の身体であると仮定すれば、『玲奈』のデータが存在している岬のマンションへ侵入する事ぐらい造作も無い事ではないか。
「幽霊かと思った」
大きく息を吐き、岬は首を傾げて片手で頭を抱えると自嘲気味に笑った。気の利いた一言でも交わせれば良いのだが、残念ながら今はショックが大き過ぎて望み薄だ。
「幽……霊?」
レイナは岬の言い様に軽く拒絶反応を示して細い眉を寄せる。
「助かったんだな」
「知っていたの? 事故の事」
「ああ……」
レイナが無事と確認出来て一旦は安堵した岬だったが、代わって今度は必要以上に気を揉んでいた事で、逆に腹立たしく思えて来た。しかも今、彼女は勝手に部屋へ上がり込んでいるのだ。
「此処に何をしに来たんだ?」
「あ、あの……怒って……いる?」
「当然だろう? なに勝手に人の家に……」
レイナは口籠り、縋るような視線で岬を見詰めた。何かを伝えようとして言い出せずに躊躇っているような素振りだった。そんな煮え切らないレイナの態度に苛立ちを覚え、彼女を見詰める岬の表情が険しくなる。
「帰ってくれ」
つかつかとレイナに歩み寄り、右の二の腕を掴んで軽く引いた。思っていたよりも細くて冷たいレイナの腕の感触に、岬は一瞬怯んでしまう。
「ま、待って、話を……話を聞いて欲しいの」
「話? 君と話す事なんか何も無い」
自分の家に無断で侵入して来て、この上どんな無理難題を吹っ掛けようと言うのだろうか? これまでの態度から、彼女は迷った挙句に岬を頼って遣って来たのだろう……とは思う。いや、そう思って遣りたかったのだが、岬にも『許容範囲』がある。
入籍こそしてはいなかったが、この部屋は自分の彼女であり上司であった『玲奈』と一年前まで一緒に暮らして居た場所だ。
外見は誰が見ても『玲奈』だが、中身は『玲奈』そのものでは無い。だからと言って此処に遣って来たレイナを別の女性として扱い、区別が出来るほど器用でも無ければ自信も持てなかった。
正直、この場から一秒でも早く立ち去って欲しいと願ってしまう。彼女の頼み事等冷静に聞いてなど居られるような穏やかな心理状態ではなかったし、仮に聞けたとしても、今後の任務に何らかの支障を来して、まともに続けられなくなるだろうと言う予感さえしていた。冷たいかも知れないが、何も言わずに此処は速やかに引き取って欲しいと願ってしまう。
「不法侵入で捕まりたくなければ……」そこまで言うと、今度は岬が言葉を詰まらせた。思わず掴んでいた彼女の右腕をぱっと離す。「なっ、なんて格好だよっ!」
岬は真っ赤になって彼女から顔を背けた。
彼女は膝上まである白いニーソックスに、白いフリルの付いた膝丈メイド用エプロンしか他に何も身に纏っていなかったからだ。
「あ、あの、こ、これは……その本に……」
レイナは赤面してはにかみながら小声で答える。
「本? その本? って、ええっ?」
レイナの視線の先を辿ると、ガラステーブルの上に一冊の雑誌が置いてあった。表紙には彼女と同じ姿でポーズをとっているグラビアアイドルが写っている。それは先日同僚の香川が置き忘れて行った男性雑誌だった。
どうやらレイナは岬の気を惹こうとして真似をしたらしい。岬はチラリと横目で彼女の姿を盗み見て肩を落とした。心臓が激しく鼓動する。必死になって自制心を呼び起こそうとするのだが、思うようにはいかない。
これが『レイナ』の遣り方か? 自分の相談を聞いて貰う為のサービスだとでも言うのだろうか? 男の情欲の部分を知っているレイナだからの行動だろうが、それにまんまと嵌められそうになり、厭な気分になってしまった。意識するまいとして冷静を装おうとすればするほど逆効果になる。却って彼女のセクシーな肢体を意識してしまい、余計に自分がどうかなってしまいそうだ。
已む無く岬は黙ってレイナに背を向けると、足早に別室へと消えて行った。
ドアを閉めると、そのまま背中からドアに凭れ掛かる。上気した頬を左手で拭うと、酸欠を起こしたように口を開け、全身で大きく呼吸して乱れた息を整えようと眼を閉じた。
このままレイナの罠に嵌るのも悪くはないと思い始めている自分が情けない。 何より状況を手放しで喜べるほど、岬の立場が単純では無かったからだ。
クラブ内でのレイナを遠くから『監視』と言う名目で見詰めていた。しかし、任務とは言えそれだけで心の奥深くに閉まっておいた、亡くなった筈の『玲奈』が厭が応にも蘇って来る……ある意味、それは岬にとって残酷でしかない。
なのに『彼女』は目の前で『他人の妻』として現れた。やっとの思いで癒え掛けた傷痕を、鋭利な刃物で再び抉られているのと同じだ。冷静で居られる方がどうかしている。
逢って間が無かった頃、レイナは岬に興味が無い素振りを見せていた。興味が無いのであれば、何故こうして目の前に姿を現してくれるのか? 何故、こうも彼女と関らなければならないのか?
岬は無力感を覚えて天を仰いだ。
一人取り残されてしまったレイナは、岬が消えた部屋のドアを見詰めて呆然と立ち尽くしていた。
ドアから視線を逸らせると、先程の雑誌へ移す。
やはり自分には似合わない格好だったのだろうか? それとも岬の趣味を読み違えて、彼の機嫌を損ねてしまったのだろうか? 心細さを感じながら、再びレイナは岬が消えて行ったドアを切なそうにじっと見詰めた。
唐突にドアが開き、中から岬が女性の衣服を腕に掛けて戻って来た。
「これに着替えて、さっさと出て行ってくれ」
岬はレイナと視線を合わせないようにして素っ気無く言い放つと、親指を立てて自分がたった今出て来た部屋を指した。
「厭」
岬の剣幕に飲まれそうになるが、レイナは辛うじて踏み止まる。
「聞えなかったのか? 俺は出て行けと言っているんだ。グズグズしていると……」
「していると、どうするのよ?」
レイナは岬を挑発するように睨み付けた。
売り言葉に買い言葉ではあるが、岬はレイナの思いも依らなかった反抗的な態度にカッとなる。
『玲奈』が亡くなった後も岬は二人で過ごしたこのマンションから離れようとはしなかった。
最初のうちは彼女の死を受け入れられる事が出来ず、悪夢だと思い込む事で現実からの逃避を繰り返していた。酒に溺れ、薬物にも手を出してしまった岬だが、玲奈への想いが逆にギリギリの処で荒んだ岬を踏み留めてくれた。
マンションを手放して他へ越す事も考えてみてはどうかと同僚達から勧められたのだが、まだ岬には『玲奈』との想いに区切りを付けるまでには至っておらず、決心して離れる勇気さえ持ち合わせてはいなかった。
『お前が彼女を忘れられないでいるのは判る。忘れなくていい。いや、絶対に忘れるな……だがな? お前にはまだこれからがある。気の毒だが、自宅を離れてみてはどうだ? いつまでも自分から彼女に束縛されようとするなよ』
つい先日、岬の自宅を訪ねて来た同僚の香川から言われた言葉だった。彼は『玲奈』の最期を岬と一緒に看取っており、その後の岬の荒んだ生活も総て知っていた。岬を見兼ねた友人としての助言ではあったが、岬は寂しそうに笑って頷くより他に術は無かった。
そんな『玲奈』との場であった自宅に、『玲奈』と全く同じ姿を持つレイナが侵入して来た。レイナの行為は、本人が事情を知らなかったとは言え、土足で岬の心へ踏み込んで来たのに等しい。
「俺は帰れと言っているんだ!」
「何するの! きゃっ?」
岬の手が再びレイナの腕を強く掴み、抵抗しようとした拍子にレイナの膝ががくりと折れた。
咄嗟に抱きかかえようとしたが、精神的ショックからか支えようとした岬まで足元をふらつかせてしまった。傍目からは丁度岬が押し倒した格好に見える。
片腕を岬に押え付けられたまま、レイナは怯えて身体を強張らせ、息を飲んで岬を見上げた。振り乱された長い亜麻色の髪が床一面に広がり、まるで絨緞に織り込まれてしまった神々しい女神のように見えて、岬の胸がドキリと大きく脈打つ。
「け、怪我は無いか? あ、あのっ……」
「いやああ! お兄! 何してんのよおお!」
言い掛けた岬の言葉を、鋭い悲鳴が遮った。
はっと顔を上げ、声の方を振り向く。
* *
「ふうー」
環は空になったマグカップをカウンターテーブルへ置くと、大きく息を吐いた。仄かにココアの甘い残り香が、辺りに漂う。
「落ち着いたか?」
すぐ隣に座っていた岬が、大きな手を環の頭にふわりと載せた。
「うん。でも、驚いたぁ。お兄が女の人襲っているんだもん」
「ひでー誤解だ」
岬は顔を顰めて視線を逸らすと、心外だと言わんばかりにぼそりと呟いた。
「だあってぇー、お兄だもん」
環から、しれっと言い返された岬はムッとなった。
「言うか普通? 兄貴に向かって」
「うん」
環の即答に、岬の片方の眉がピクリと反応する。
「にーちゃん、仮にも刑事さんなんですが?」
「それがなにか?」
「く……」
「どうしたのぉ?」
素っ気なく言い放たれて、言い返す言葉さえ見付からない。
「も、いい。勝手にしろ」
納得出来ない言葉ではあったが、別に悪気があっての返事では……ないらしい。いや、無邪気だからこそ始末におえないのだ。普段自分は妹からそう思われていたのだと知り、岬は余計に落ち込んだ。
「それよかさぁ、ねーねーお兄、今の人、玲奈さんでしょ? 玲奈さんだよね? ね、いつ帰って来たの?」
先程答えた岬への素直な感想など別問題だと言わんばかり。環は急にニコニコして猫撫で声で岬に言い寄って来た。掌を返したような環の態度に岬は気後れしてしまう。
相手が妹だからと言っても、ひと回り離れたイマドキの女子中学生だ。話の切り替えや気分転換の速さは、岬よりも遙かに上である。
「『いつ帰って』って……何言ってんだ? 彼女が玲奈じゃないって事ぐらい、環だって判っているよな?」
環は一年前に玲奈の葬儀に出席している。けれど、未だに彼女の死を受け入れられないのか、それともわざと演じているのかは判らないが、時々環は玲奈が旅行か出張にでも行っているような言い方をするのだ。
彼女の『死』を理解して納得するのに岬は何ヶ月も費やした。玲奈の事を姉以上の身近な存在として見ていた思春期のデリケートな環ならば、事実と向き合うのは尚の事無理なのかも知れない……そう思うと岬は堪らなかった。
「だって、あの人、玲奈さんでしょ?」
「環」
岬はやんわりと環を諭す。
「あ、そっかぁ。お金、もの凄く掛かるけど、バイオノイド手術って方法もあるよね?」
「止めろ環……くどいようだが、玲奈は……彼女はもう居ないんだ」
岬は環の言葉に被せるように少しきつく言った。否定された環の表情が瞬時に強張る。
「そっ……そうだよね」
止めた呼吸を解放するように、ゆっくりと環の肩が下がって脱力する。それでも泣き出さなくなったのは、環が成長しているのだと言う『証』なのかも知れない。若しくは月日の時間の流れが、環の心を癒していたか……そのどちらかなのだろう。
気不味い空気を振り払うように、岬はカウンターの椅子から立ち上がると、対面式のキッチンに回り込み、環の持って来た食材を冷蔵庫へと振り分け始める。
「で、でもね? 世の中にはそっくりな人が三人以上居るって言うじゃない」
慌てて環は自分の言葉を補足するよう付け足した。立ち直りが早いのが環の良い所だなと、岬は苦笑する。
「まーだ言ってら。親父に似て頑固だな」
「うん、それはもう誰かさんと同じだよ」
言い返して来るとは思わなかった環に怯んでしまう。尤も、岬に言えた義理では無い。母親は違うが同じ父親を持つ兄妹なのだから。
「そっくり……ねぇ。じゃ、環みたいなのも三人以上居るってことか?」
岬は買って来た一株のキャベツから数枚を剥がして水洗いをしながら、にやにやと笑った。
「『みたいなの』とは何よ。『みたいなの』とは……でもねぇ、う〜ん、どうだろう?」
環はカウンターのテーブルに顎を載せると、両腕を前に突き出して大きく伸びをする。
「おい」
「うん?」
「ちったあ、飯作るの手伝えよ」
「なんで?」
声を掛けると、きょとんとした返事が返って来た。必要以上にリラックスしている環を岬は嗜める。頼りにしてくれるのは嬉しいが、全面的に頼られてしまうのはキツい。そろそろ環も簡単な食事くらい出来るようになっても良い頃だ。
「え〜、だあってぇ、環、忙しいもん。宿題あるしぃ」
環はわざとらしくテーブルへ教科書とノートを広げ始める。
「此処で出すな。自分の部屋で遣れよ。机があるだろう?」
「嫌。此処がいいの。解らなかったらセンセ居るし」
環はそう言ってニコニコ笑いながら岬を指差す。
「俺?」
「うん」
つられて自分を指差した。悪い気はしなかったが、何となく環から良い様に丸め込まれた気がして、兄としては微妙だ。
「どうしてこう……俺の周りには自己主張の激しい女しか居ないんだ?」
岬はウンザリしながらゆっくりと首を横に振った。すかさず環がノートから顔を上げずに『聞えてるし』と突っ込みを入れる。
暫らくすると、辺りには何かを油で揚げている音と、香ばしい匂いが漂って来た。ペンを奔らせていた環のお腹が、自己主張をしてかわいらしく鳴る。
「んね、今日は何?」
待ち切れなくなって、環はカウンターから対面式キッチンへと身を乗り出して覗き込む。父親が買って来るスーパーの惣菜に飽きていたところだ。期待していた久し振りの兄の手料理に、環は瞳を輝かせて嬉しそうに笑った。
「環の味噌カツ」
「えーっ。環ぃ?」環は必要以上のリアクションを取る。「って、どうして環なのよ。失礼しちゃうわね……そっ、そりゃあ……最近急に一キロ増えちゃったけど、環はまだ標準以下なんだもんねぇー。んな事言ってるから涼子さんに振られちゃうんだよ……きゃん?」
言い終わった途端、いきなり岬からカウンター越しに頭を鷲掴みにされて、環は首を竦めた。
彼女は桐嶋署の交通課に居る婦人警官で、つい先月頃まで妹である環の様子を気に掛けては時々マンションへ差し入れを持って来てくれていた。特別美人と言うわけでも無いが、細かい所へ気配りの出来る優しい女性である。
「俺は涼子とは付き合ってい・な・い! つって、何回も言わせるな」
事実、彼女が一方的に押し掛けていただけで、残念ながら岬からは彼女に対して恋愛感情を持った覚えは無い。正直、涼子には申し訳なかったが、大抵の家事をこなすことが出来る岬にとって、特別に女性の手は必要無い。
「ムキになる所が怪しいなぁ。お兄がそう思っているだけで、涼子さんはマジだったのかもよ?」
「信用無いな」
「ねえ、キスした?」
「馬ぁーっ鹿」
溜め息混じりに呟いた。涼子に対して特別な感情を持っている訳では無かったが、かと言って煩わしいとか鬱陶しいとまでは思った事は無い。
「ねぇってば」
「しつけーなぁ。良いのか? 俺が他の誰かと本当に付き合っても」
慣れた手付きでキャベツの千切りをしながら意地悪そうに環を見下ろすと、環のテキストを書き写していたペンがピタリと止まった。
「べっ……べえっつに」
「へえー? 良いんだ」
動揺を隠し切れずに生返事をした環を、面白がってからかった。
妹とは言え、実に判り易くて単純だ。岬は環に気取られないよう声を押し殺し、肩を揺らして笑った。
「う、煩いなぁ。ンもぉ、環は宿題中なのっ。邪魔しないでよぉ」
岬が笑ったのに気が付いたのか、環はノートから顔を上げると、ムッとなって口を尖らせる。
「言い出しっぺは環だろ?」
「ん、もぉ、しつっこいなぁ。お兄は早く晩御飯作るの!」
「はいはい」
「返事は一回なのっ!」
岬から適当にあしらわれたと覚り、機嫌を損ねて膨れっ面になる。
苦笑する岬だが、環くらいの単純さが今の自分には不足しているのかも知れないなと思った。
ドアの開く音が聞えて、反射的に岬と環は音のする方へと振り向いた。二人の視線が同時に自分へと向けられたレイナは、軽く息を飲んで立ち竦む。
岬はレイナを『玲奈』が生前使っていたクローゼットへ案内していた。亡くなった今でも彼女の物が処分出来ずにそのままになっていた場所だ。レイナはそこで岬から手渡されていた、淡いブルーのダンガリーシャツとブラックジーンズに着替えていた。
ゆったりと襟を寛げてラフに着こなしてみせた姿に、二人は眼を見張り一瞬言葉を失ってしまう。
「わあ、やっぱり玲奈さん! お兄、玲奈さんだよう」
先に口を割ったのは環の方だった。
「あ……ああ」
彼女に見惚れて声が掠れる。クラブのドレスかスーツ姿を見慣れてしまった岬にとっては、今まで想像出来なかった姿だ。普通なら、盛装したドレスかスーツ姿に感動するものだが、こちらのラフな格好の方が、かえって新鮮に見えて眩しかった。
岬はこの状況に面喰ってしまう。
「すごーい。やっぱ、良く出来てるー」
どうやら環は、レイナが完全にバイオノイドか何かだと思い込んでいるようだ。岬自身でさえ玲奈が本当に戻って来たのかと錯覚してしまったくらいなのだから、中学生の環がそう思っても仕方が無い。
彼女の姿を前にして、岬の心は激しく動揺した。他人の空似だと思いたかったのだが、そうは言っても彼女を構成している身体は間違いなく『玲奈』なのだ。
『別の人格を持った、もう一人の玲奈』……物理的蘇生技術が如何に発達したとは言え、施術された本人はもとより、本人を取囲む周囲の精神面でのフォローは未だ未開発の発展途上だ。玲奈を蘇生した人物……容疑者であるジェフ・ランディアの目的は、一体何であるのだろうか?
岬の脳裏に焼き付いている、息を引き取った直後の痛ましい玲奈の姿が呼び起こされる。
既に脳死状態であった彼女が意識的に動かした訳ではなく、単なる筋肉の痙攣だと判ってはいたが、玲奈の両手は岬の腕に縋り付こうとして動いたように見えた。
ただ抱き締めるより他に手の下しようが無かった岬には、それが『消えたくない! 助けて欲しい』と恐怖に慄き、怯えた『玲奈』の心が叫んでの挙動であったような気がしてならなかった。非理論的な事を事実として捉えるのは、医師にとってあるまじき行為であり、岬自身あってはならない事だとは十分承知している。だからと言って、喩え本人が望んでの『死』では無かったとしても、一個人の身勝手な目的や感情で蘇生処置を施され、記憶の一部を削り取られてまで再びこの世に戻りたいと、果たして『玲奈』は望んだだろうか?
仕組まれ、意にそぐわぬ使命を負わされたレイナ……
もし、『玲奈』の心と記憶が残っていたのなら『玲奈』はそれでも構わないと承諾しただろうか? それに、亡くなった玲奈を悼み、心を引き裂かれる想いを味わって、ようやくそれを事実として受け容れた岬達周囲の者の感情はどうなるのだ?
けれど……
岬は眩しそうに眼を細めてレイナの姿を見詰めた。
――レイナは今、此処に居る。
手を伸ばそうとすれば、温かい『血』の通った彼女へこの手が届くのだ。『存在』と言う尊い価値より他に勝るものなど皆無……喩え……
――喩えそれが登録上、抹消されている人間であったとしても。
「出来ている?」
環の言葉に、レイナは二人を交互に見詰めて不思議そうに小首を傾げた。長い亜麻色の髪が肩に掛かり、さらりと流れる。
「あ……い、いや、な、何でも……無い」
岬は自分がレイナに見惚れていたのを隠す為に、わざと顰め面をして見せた。
「……」
レイナは岬の気難しそうな表情を見るなり、一瞬だけもの言いたげな切ない表情を浮べたのだが、思い直してくるりと二人に背を向ける。
「何処へ行く?」
レイナの背に、岬は思わず声を掛けて引き止めてしまった。
「出て行けって……帰れって言ったでしょ?」
「あ、あれはその……」
「お兄、そんなコト言っちゃったの? ひっどーい!」
言い淀んだ岬へ、環はあからさまな非難を浴びせた。環から睨まれて岬は気不味そうに視線を逸らせてしまう。
レイナの白い手が、そっとドアのノブへ掛かった。
「ま、待てよ」岬は慌ててレイナを引き止める。「そっ、その……メシ、まだなんだろ?」
一瞬、答えに戸惑ったレイナだが、岬から怒りが消えたと感じ取ると、黙って軽く顎を引いた。
「食って行けよ。口に合うかどうかは保障しないけど」
決して環が非難したからと言う訳ではない。二人きりであれば口に出すのも憚られる言葉だったが、今は環も傍に居る。たったそれだけの事なのに、岬は随分と気持ちが軽くなった。