表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
6/18

第6話 囚われの身

「誰?」

 少し掠れた中性的な声が彼女を呼んでいる。

 レイナはその声に応えるように、ゆっくりと瞼を開いた。朦朧としていた意識が覚醒して、明るい栗色の瞳が光を取り戻し、徐々に生気を増して来る――

 気が付けば、何度体験しても馴染む事の無い生体蘇生水溶液の中だった。生臭い血の匂いと、鉄分を含んだ金属イオンの苦々しい味が、彼女のあらゆる感覚を刺激して気分を悪くしている。虚ろな視界に長い髪が映り、呼吸可能な蘇生液の中で揺ら々と漂っている。時折ゴボゴボという低い水音と軽い金属音が振動音となって直接身体の深部へ響いて来る。自分が浮遊しているような感覚に、既にどちらが上で、どちらが下なのかさえ認識出来なくなっていた。

「……」

 レイナは物憂げに自分の右腕を見詰めた。

 細くて白い腕の至る所へ、薄いピンク色になった新しい皮膚細胞が既に形成されている。片腕だけでもかなりの傷跡だ。恐らく事故で負った傷は全身に及んでいるのだろう。身体に刻まれた多くの傷痕が、彼女が引き起こした事故の大きさを語っている。

 もしかしたら、自分は既に死んでいて、記憶だけが残留思念として留まり、現世に取り残されているのかも知れない――そんな錯覚に陥ってしまう。



『どうしてイヴ達あの三人だけを特別扱いするの?』

 他のホステスが、レイナ達の事でオーナーに直接不満をぶつけて詰め寄っていたのを、レイナは偶然見てしまった。それはレイナがジェフの妻であり、ジェフがオーナーに対して絶対的な発言力を持っていた事が深く関係していたからではあったのだが、彼女達三人が持っていた『美しい容姿』にも理由が在った。

 チカと小夜子そしてレイナの三人は、ジェフが用意した『薬』を売却する目的でこのクラブへ遣って来た。店に遣って来る『上物の客達』の中から特定の人物を物色し、ジェフが指定した相手と取引をするのがレイナ達に課せられた本当の仕事だった。ボックス席での『売却の為の接客』であれば、何もフロアに赴いて気に入らない客に愛嬌を振り撒く必要など無い。そのため、傍目からは接客しているようには見えないレイナ達が店のホステス達よりも遙かに優遇されているようにしか思われていなかった。これでは店で働く彼女達が良い顔をする筈はない。そして同業者でありながら、レイナ達三人は常に他のホステス達からの嫉妬を買い、彼女達の嫌がらせは日を増す毎にエスカレートして行ったのだ。


 彼女の車のブレーキに細工を仕掛けたのは誰なのか?

 心当たりは幾らでもあるし、誰が遣っても不思議ではない。彼女は特別な存在になりたいなどと口にした覚えも無ければ、他のホステスから酷い厭味を言われたり、眼に余るような厭がらせをされても、報復など考えた事さえ無いのだ。

 自分の存在を拒否して抗議する彼女達の姿に、レイナは居た堪れなくなってその場から逃げ出していた。


 虚ろになったレイナの記憶が途切れがちになる――


『どうだ?』

『ああ、こりゃあもう駄目だな』

『もう駄目だな』

『駄目だ……』

 頭の中でレスキュー隊員達の声がする。彼等の事務的な遣り取りにエコーが掛かり、何度も繰り返して響いて来る。

(そう、もう……私は駄目なのね……)

 レイナは救急隊員の言葉を、素直に受け容れられる気がしていた。何故か今のレイナには『生』への執着や未練等全く無かったのだ。

 岬を殺害しようとして逆に毒を飲まされた時は、本当に心の底から死にたく無いと願った。助かりたい一心で、岬に命乞いまでしたと言うのに。

 なのに今は違っていた。

 あの時の自分は何処へ行ってしまったのだろう。どうしてこんなにも自分の気持が変わってしまったのだろうか……


 誰かの靴音が近付いて来て、自分の前で停まった。ゆっくりと面を上げた虚ろなレイナの瞳に、白衣姿の男が映る。男は穏やかに表情を和ませて、中に居るレイナを水槽ごと愛おしそうに見詰めると円筒形の水槽に片手を着いて話し掛けた。

「やっと気が付いたのかい?」

「ジェフ……」

 ジェフの手が置かれた水槽から、彼の声が体感振動音として鮮明に聞こえて来る。

「中々眼を覚まさないから心配したよ」

 ジェフが蘇生液を排出するレバーを引くと、ガクンと言う大きな音と振動が伝わり、足元のメッシュ状の排水口から、蘇生液が勢い良く吸い込まれて行く。それまで水溶液によって支えられていたレイナの身体は、長い間の無重力状態から開放され、自らの体重を感じ取って水槽の底に両手を突いて崩折れる。そして肺の中に満たされていた蘇生液を咳き込みながら吐き戻した。

 水槽は蘇生液を排出し終えると、温かいスプレー状の洗浄水を彼女に吹き付け、滑らかな白い肌から蘇生液を拭い去った。

 一通りの工程を終えた円筒形の水槽は、天井部に迫り上がって格納される。

「随分無茶な運転をしていたんだね」

 ジェフが純白のバスタオルをレイナ目掛けて放った。

タオルはレイナの濡れた頭にふわりと掛かり、彼女はタオルを手にして胸を隠すよう宛がうと、横座りのままでジェフを見上げた。

 優しい眼差しが眼鏡の奥からレイナを包み込む。

「冷静な君が……一時の感情に振り回されるだなんて」

 ジェフは眼鏡を外すと片膝を着き、彼女の頤を引いた。

「……」

 やや乱暴気味に顎を掴まれて、レイナははっとして身を強張らせる。

「駄目だよ。僕に抵抗は無意味だ」

 ジェフはレイナの表情を読み取って余裕で笑ったが、その瞳には早くも狂気の兆しが見え隠れしていた。もう片方の手でカード型の黒い制御装置のスイッチを入れる。

「う……」

 微かな高周波の不快音がレイナを包んだ。彼女が軽く顔を顰めて息を詰め、両手で頭を抱えて首を振る仕草をする。

 ジェフはそんなレイナの様子を冷淡に観察しながら、制御装置からの信号レベルを親指でゆっくりと押し上げて行った。

「あ、ああっ……」

 ジェフの手にした制御装置からの不快音は、目覚めたばかりのレイナの脳を直接刺激した。鋭いナイフで頭の中をキリキリと抉られているような強い痛みが奔り、細い眉を寄せて顔を顰める。半開きの容の良い唇からは、苦しさにくぐもった声が漏れ、呼吸が大きく乱れる。

 彼女に抵抗の意思が認められないと確認すると、ジェフはレイナの身体をその場で乱暴に引き寄せて押し倒した。

 苦しみながら、レイナは『また』なのかと思った。

 ジェフはレイナに触れる時、必ずこの制御装置を起動させて近寄って来る。それが何の為なのかは判らないが、耳障りな音で聴覚を麻痺させられ、体調が思わしく無い時には頭痛と吐き気を催した。見知らぬ男に触れられるよりも、彼の腕に抱かれる事の方が不快感と苦痛を味わわなければならず、虐待されているとしか思えなくて悲しくなる。

 口では『愛しているよ』と甘い言葉を囁きながら、言葉とは全く逆の態度を常に取るジェフ。夫だとは言え、レイナにはそれが厭で堪らなかった。


 ジェフは本能の儘にレイナを求めるのだが、彼女の身体は応えない。

「如何したんだ?」

「……」

 ジェフはまるで自分が感情の無い人形を抱いているような錯覚を起こして機嫌を損ねた。

 虚ろな瞳のレイナは上の空だ。まるで厭な時間が早く過ぎて終ってくれればいいと耐え忍んでいるようにも見える。

「レイナ?」

「何でも……ないわ」

 彼女は上体を起こして、彼からの視線を避けるように顔を背けた。彼女の視線の先には、小さい緑のランプが灯ったままの制御装置がテーブルの上に放置されている。

「そんな事はないだろう? だったら何故君が泣いているんだ?」

 ジェフは腹立たしそうに興奮して声を荒らげた。

 彼の怒りを感じ取ったレイナは、息を飲んでジェフを見上げる。

 ジェフはレイナと視線を合わせてハッと我に返った様子を浮かべた途端、何かを隠し立てするように、取り繕った表情を湛えて微笑んだ。

「……」

 レイナはそっと自分の頬に触れてみた。蘇生液ではない別の何かが自分の頬を濡らしている。

「君に何があっても、これがあれば総て僕にはお見通しだけれどね」

 ジェフは優しくレイナの首筋に貼り付いた長い亜麻色の髪を撫で付けた。レイナはそっと瞳を閉じてジェフに身を任せる。

 彼女の首にはプラチナの細いチョーカーがあった。精巧な透かし細工が施され、中央には小さな赤い宝石が輝いている。

「あ!」

 突然レイナが短く叫んだ。

「やはり僕には、到底君を許すなんて事……出来そうも無いよ」

 それまで優しかったジェフの表情が一変した。穏やかだった眼鏡の奥の瞳に、なりを潜めていた『狂気』が本性を現す。力任せに掴んだその手は、チョーカーごと彼女の首を乱暴に締め付ける。

「く……何の……事?」

「惚けたって無駄さ! 君があの『男』を仕留め損なっていた事は判っているんだ。この僕に黙って隠し遂せるとでも思っていたのか?」

「あの男? ……岬の事なの?」

「そうだ。奴の事だ! 君はその後も奴を手に掛けるチャンスは何度だって在った……なのに、なのに君は出来なかった。何故だ? ……僕の、この僕の言う事が聴けないのか?」

 ジェフの指先に力が篭る。

「止め……て!」

「答えろ!」

「か……れは、私を殺さなかった。貴方の言っていた人とは……違うわ!」

 レイナは岬を庇い、瞳に一杯涙を溜めてジェフを見返した。けれど彼女の脳裏には、地下駐車場での出来事が鮮明に蘇って来る。再び胸が締め付けられ、言い表しようの無い感情の波が押し寄せて来る。

 自分に手を差し伸べて近寄って来た岬に戸惑い、素直に接する事が出来ずにつれない態度を取ってしまったから岬に裏切られてしまったのだとも思った。岬なら……もしかしたら籠の鳥である自分を助け出してくれたかも知れなかったのに。

 そんな儚い希望でも、岬だったからこそ持てた気がしていた。それなのに臆病な自分が邪魔をして、彼を遠去けてしまうよう仕向けてしまったのだ。

「何? 何て……何て眼で僕を見るんだ!」

 今まで自分に見せた事も無いレイナの表情にジェフは驚いた。そして一層険しい表情になる。

「あの人は……違うわ」

 そう想いたかった。

「黙れ!」

 ジェフはレイナの首を絞めたまま、彼女を黙らそうと平手で左右の頬を何度も殴る。

「『あの人』だって? 君はあの男を……あの男を好きになってしまったのか? 愛してしまったのか? ……駄目だ! 君が愛して良いのはこの僕だ! 僕が君を助けたんだ。僕なら君を何度だって蘇らせて遣る事が出来る。いいかい? 君には僕しか居ないんだ! 許さない。許さないぞレイナ!」

 ジェフは頬を強張らせ、怒りを露わにして怒鳴った。

 レイナは首を絞められて息が苦しくなり、今にも意識が遠退きそうだ。それでも朦朧とした意識の中で、彼女は自分が岬の事を愛しているのかと問い掛けた。けれども、岬の事が気になっているのは確かだが、彼を本当に愛してしまったのかどうかは判らない。

「君は僕のものだ! この僕に従え! 僕にだけ従えば良いんだ!」

 ジェフの指先に一層力が篭り、レイナが堪らずに悲鳴を上げる。

「くくく……綺麗だよ」

 涙に濡れる彼女の瞳には、眼を細めて自分が苦しむ表情を眺め、恍惚とした表情を湛えている彼の異常な姿が映っていた。

「苦しいかい? そうだ……もっと苦しめ」

 彼の狂気に満ちた荒い息遣いが彼女の頬に当たる。

「厭! 止め……て!」

「何度でも殺して遣る! だが、殺されても君は僕の手の中で蘇るんだ。いつだって僕が救って生き還らせて遣る事が出来る。不老不死さえも思いの儘だ。奴にはそれが出来ない! この僕にしか出来ないんだ! 判ったかレイナ!」

 苦しむレイナの耳元で怒鳴ると、ジェフは狂気に歪んだ笑みを浮かべた。

「厭ああ!」

 レイナの裸身に赤味が差した。そして皮膚のあちこちに薄い模ようが浮き上がる。鼓動が速くなり、全身にアドレナリンが湧き上がった。耳障りで不規則な呼吸音が次第に大きくなる。瞳の虹彩は真っ赤に染まり、左右が迫出して縦に細長いスリット状なった。

 それはまるで獣の瞳だ。

「……行っておいで」

 銀縁の眼鏡が怪しく光った。

 ジェフはテーブルに置いていた制御装置を再び手にすると、スイッチを切り替えた。レイナが身に着けていた首のチョーカーが指示を受けて小さな宝石部分が赤く光り、ゆっくりと点滅を繰り返す。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ