第5話 小悪魔
「で? 彼女とは何処まで行ったんだ?」
椅子に座ったジンが憮然として訊ねる。脚を組み替えて、署内のサーバーからセルフで注いで来たコーヒーを、一息に呷った。
桐嶋署の喫煙室で、シャツの両袖を捲りネクタイを緩めてだらしなく座っている岬とは対照的に、ジンは濃いグレーのスーツを乱す事無く着こなして優雅に煙草を吹かしている。肩まで伸びた黒髪を後ろでスッキリと一つに束ねていた。面長で整った顔立ちをしているが、柳眉の間に深く刻まれた皺が、彼を几帳面ではなくて神経質な性格なのだと言い表している。何れにせよ見た目に拘るタイプのようだ。
「まるで尋問だな」
岬は、鬱陶しそうに自分の眼の前に座るジンの動きを眼で追いながら、不機嫌に答えた。
「尋問結構。仕事だからよ。誰かさんの激甘話なんざ聞きたかねーが、コレも業務だ。さっさと吐け」
『面倒は御免だし、これから話すお前の艶聞も聞きたくないから省略しろよ』と言わんばかりの態度だ。
岬はそんなジンの態度が気に入らないとでも言うように、フンと鼻を鳴らして煙草を銜えると、無造作に火を点けた。
「ル・オー・ホテルのスイート」
一息吐くと、煙草を持った指で頭を掻いて面倒臭そうに答える。この場合、岬に黙秘は認められてはいない。
「ばっ、馬ー鹿。ソッチかよ? 別に行き先場所を訊いたんじゃないぞ?」ジンは露骨に軽蔑した視線を岬へ投げ付ける。「それにしてもスイートだぁ? お前がか? いきなり何でスイートなんだよ?」
「ンだよその言い方はァ。彼女が予約していたのに決まってンだろ」
岬はジンの視線が気に入らなくて、思わせ振りに勿体を付ける。
「お前の為にか?」
「違ぁーう。偶ー然。俺は予定外」
もう一度面倒臭そうに答える。
「ふ……だろうな」
今度はジンが鼻で笑って肩を揺らす番だった。
「あー、今の言い方気に障るー」
「俺の質問にはまだ答えていないぞ?」
ジンの一言に反応した岬は、口元に持って行き掛けた紙コップを止め、それを静かにテーブルに戻して真顔になった。
「あのな、そう言うプライバシーを俺がどうしてお前に話さないといけないんだ? 俺が彼女と関係を持とうが持つまいが、お前には関係ねーだろ? それに此処は所轄の喫煙室だ。誰が入って来るか解らないのに……場所くらい弁えろよ」
ムッとして言い返す。勿論、レイナが自分を薬殺しようとして逆に危険な目に遭っていた事は伏せていた。
「いや、大いにあるね。お前が彼女をどう捉えているかで、サポートする俺の立場は確実に変わって来る」
「どうして?」
「『情』だよ『情』。彼女は玲奈にそっくりだ。似過ぎているんだよ。『情』に絆されて返り討ちにされた奴は、昔から巨万と居るからな」
岬は顔を背けて聞かないフリを決め付ける。
「……」
「ってぇ、シカトすんなよ」
ジンは質問に答えない岬の様子を苛立ちながら暫らく窺っていたが、諦めて話題を切り替える事にした。
「お前が依頼していた件……」
予想通り、岬はジンの言葉に反応して視線を戻す。
「アレな、当たりだった。玲奈の遺体は無くなっている」
一瞬で岬の顔色が変わった。テーブルの上へ置いていた左手が、強く握り締められて血色を失っている。
他人から玲奈が亡くなった経緯を聞いていたジンは、岬の胸中を察して思わず視線を逸らせてしまい、一瞬だけ次の言葉を躊躇った。
「つ……通常手続きが為されていなかった。管理会社にも当たったが、誰も気付いて居なかったそうだ。セキュリティにも引っ掛っていない。ってか、玲奈の身体は盗まれたと見て間違い無い。ま、ドナーは何千体と保存されている訳だ。四六時中引っ切り無しに保存場所は入れ替わる。こんな事を今のお前に言いたくはないが……必要部分だけ切り取られて戻されるのならまだしも、バラバラで部位や器官ごとに管理される事だってあるんだ。その中から玲奈の身体だけを監視しろと言ってもムリな話だろう? お前にとって大切な一人であっても、会社からの認識は『個別の一人』ぐらいでしか無い。連邦の管理下にあった保管庫でさえ破られたんだ。民間会社の杜撰な管理なら、盗むのなんかもっと簡単だろう。一体や二体無くなっていたって気付かれやしないさ」
『そんな事は判っている! 俺が欲しい情報はそんな事じゃ無い……』岬は言い出しそうになった自分の言葉を、無理矢理飲み下すように強く口元を引き結び、顔を強張らせた。
予測していた反応だけに、ジンの胸は痛んだが、それでも尚気付かない振りをして先を続ける。
「この一年間の管理会社のセキュリティデータを、もう一度検索項目を増やして篩いに掛けている。俺が立ち会っていた時にも、既に履歴にエラーが掛って行方不明になっている遺体が数体。あまり精度に期待は出来ないが……結果が出ているそうだ。お前も見るか?」
「いや、いい」
岬は俯いて身動きしない。
「何か知っているのか?」
ジンは岬の顔色を探るように覗き込む。
「おい?」
「……」
「また『戻って』やがるのか?」
無反応の無関心。岬の瞳は何だか曇って見える。ジンは、岬が自分の中にまた閉じ篭ってしまったのではないかと思い、眉を顰めた。
「今回の件をお前が担当する事自体、俺は反対だよ。まだ復帰は早過ぎたんだ。部長も一体何を考えているのか解らないね」
「あ?」
ジンの言いように岬は頭を上げた。
「何だよ。さっきと面構えが違っているじゃないか」
ジンは自分の思い違いだったのかと、安心して気を緩めた。そんなジンを見た岬は、途端にキュッと口角を上げる。
「まあぁ、それって私の事を心配なさって下さっているの?」
岬は大袈裟にふざけて見せた。数日前から美人ホステス嬢に囲まれた潜伏捜査で覚えた冗談だが、たちまちジンの表情が強張った。この手のおふざけは大の苦手らしい。
「く……馬ッ鹿野郎! お前、冗談で済ませられるとでも思っているのか?」
額にクッキリと青筋を浮き上がらせたジンが、派手に椅子を蹴倒して立ち上がった。右手にはたった今飲み終えた紙コップが、無造作に握り潰されている。
ジンは至って真面目だった。相棒の心の内を察して気の毒だと同情していたのに、当事者である岬がこの上なく不真面目に見えて無性に腹が立って来る。
岬もそんなジンの生真面目さ故の反応を心得ていて、両腕で頭部をガードするよう咄嗟に身構えた。
「俺が心配しているのは!」
興奮して自然に声が大きくなる。
「聞いてるよ」
ジンとは反対で、岬は静かに言い返す。
思っていた以上にまともな受け答えを返して来た岬に、不意を突かれて調子を崩し、急にその場に居辛くなって、ジンはそそくさと席を立つ。
「おっ、俺が心配しているのは、これ以上同僚を死なせたくないからだっつーの! 人がマジに心配してりゃ……このっ!」
「痛っ! ……ってェな!」
喫煙室から出て行く序でに、ジンは岬の頭を拳で掠めるように叩いて行った。
岬は叩かれた頭を頻りに撫でながら、ジンが怒って出て行ったドアを見詰めた。
本当に『玲奈』自身なのかも知れない……岬は直感的にそう思った。そして、もしそれが事実だとすれば、ジンは何と言うのだろうか?
岬自身、確証は何処にも無い。けれど、岬の勘がそうかも知れないと強く感じているのだ。ただ、容姿は『玲奈』であっても、彼女の一寸した仕草や雰囲気は微妙に違っている。『玲奈』の中に、別の『レイナ』の人格が重なり合って存在しているのかも知れない。彼女の人格が誰なのか、或いは誰かを模して形成されているのかさえ、今の岬には皆目見当が付かなかった。
「お、高城。そこに居たのか。美人さんのお出迎えだぞ」
喫煙室を覗いた係長の檜山が、ニヤリと笑い背後に顎を杓って見せる。
「今、行きます」
岬は『待ち人』の到着連絡に浮かれつつ、捲り上げていた両袖をそそくさと元に戻し、だらしなく緩めたネクタイをキュッと素早く締め直す。そして軽く両手で頬を叩いて『気合』を入れると、スックと身軽に立ち上がった。
「ん?」
一歩を踏み出して、ハタと思い当たる節があった。そして檜山の普通の反応から、迎えに来たのは自分が希望していた『待ち人』ではなかった事に勘付いて、がっくりと肩を落とす。
「あ、みっさきぃ!」
テンションの高い黄色い声が、岬を見付けて呼び留める。見ると、チカが岬に向って両手を大きく拡げて振っていた。美人の存在は署内でそれだけでもかなり目立っていると言うのに、チカは希少種のリアルロングコートを身に纏っていた。毛足の長いコートは光に当たると金色に輝いて見える高価なもので、これ一着で数千万の高級車を買う事が出来るらしい代物だ。
チカの背後から少し離れた物陰で、署内の数人の頭が見え隠れしていた。まるでアイドルを陰から見守る粘着ファンかストーカー並み。こうなると警察官も単なる人間だ。暫しの間とは言え、業務を放ってチカを盗み見ている署員達の態度に岬は呆れた。
「や、やぁ……」
岬の予測は大当たりだった。心待ちにしていたレイナから振られ、来ては貰えなかったのだから。けれど、亡くなった玲奈とそっくりの彼女が本当に遣って来ていたのなら、一騒動は免れそうに無かっただろう。
――来てくれなくて正解だったのか?
岬の胸中は複雑だった。
本署への報告序でに顔を出していたら、クラブの出勤時刻をとっくに過ぎてしまっていた。岬は已む無く、酔っ払いの喧嘩で巻き添えを喰らい、警察に保護されたとクラブに嘘の連絡をしていたのだ。
「とんだ災難だったわねぇ。怪我してない?」
「お陰様で」
岬はにこりと愛想笑いを披露する。
「ねね、チカが身元引受人だよぉ? なんかさぁ『身元引受人』って言葉の響きって、カッコよくない?」
「そう?」
岬は素っ気なく相槌を打っただけなのだが、何故かチカは仕事を中断されて警察に呼び出されたにも関らず、嬉しそうに笑顔を浮かべている。
「でさぁ、岬と初めて会った時も、チカが最初だったよねぇ?」
チカは自分がどれだけ岬に尽くしているのかを認めて貰いたくてそう言った。 事実、岬が簡単にクラブに潜入する事が出来たのも、チカの口添えがあったからこそだ。
愛想笑いを繰り返す岬に気付いていないチカは、その笑顔にすっかり機嫌を良くして、彼の右腕に縋り付くと、猫のようにゴロゴロと懐いた。
「……」
桐嶋署を後にするも、署員達の殺気に満ちた視線が岬の背中に突き刺さり、岬は心中穏やかでは居られない。
* *
車のハンドルを握る岬の横顔へ、チカは熱い眼差しをずっと送っている。岬は気付かない振りをしていたのだが、それでも『間』が持たなくなって限界が来ていた。
「何? チカ」
惚けるのを諦めて岬の方から振って遣ると、構ってくれたと思ったのか、チカは更に嬉しそうな顔をした。
「うふふ、あのねえぇ……」
「えっ?」
チカが言い掛けた時、タイミング悪く車はクラブ内の地下駐車場へと進入した。地下の駐車場で車のエンジン音とタイヤの軋む音が大きく反響して、チカの言った言葉が掻き消されて聞き取れない。
これ幸いと車から降りた岬に、慌ててチカも続いた。
「あん! 待ってよう!」
車にリモートロックを掛けて、足早にエレベーターへと向かうと、チカは小走りで岬の後を追って来た。が、開いたエレベーターの前で急に立ち止まった岬の背中へ、勢い余って顔から突っ込んでしまった。
「きゃ? 痛った〜い。急に停まらないでよね」
涙眼になりながら鼻を押さえて咎めるが、岬からの反応は無い。
「岬? どうしたの?」
自分が無視されてしまったのかと訝り、機嫌を損ねたチカは、彼の陰からエレベーターの中をこっそりと覗き込む。
はっとしたチカの心臓が、どきりと厭な音をたてた。
彼女が眼にしたのは、岬をこの上なく不機嫌な形相で睨んでいるレイナの姿だったからだ。普段のおっとりとした物静かな彼女しか知らないチカにとって、こんな厳しい表情をする彼女を見るのは初めてだ。
「やば……」
チカはさり気無くそっと視線を逸らせると、再び岬の背後に身を隠した。
レイナは岬に気を取られているのか、彼の背後に隠れているチカの存在にはまだ気付いていないようだ。
警察からの連絡を受け取ったのはチカだったが、岬が身元引受人に指名していたのは、チカではなくレイナだった。チカは勿論この事をレイナには伝えてはいなかったし、岬本人には適当に嘘を吐いてごまかしている。自分の遣った事がバレてしまい、それでこんなに彼女が怒っているのだとチカは勘違いして焦っていたのだ。
『レイナはねぇ、『行きたく無い』って。だからアタシが代わりに来てあげたの』そう嘘を吐いたチカの言葉を、岬は何の疑問を持たずに鵜呑みにしてくれた。
「案外、冷たいんだな。君は」
チカに伝言を頼んでいた筈なのに、レイナは少しも悪びれた様子が無く素知らぬ振りをしているようだった。
確かに厄介事を頼んだのは自分だが、それでも来られなかった理由が欲しいと岬は思った。『行く気になれなかった』とでも言ってくれても良い。理由は何でも構わなかったのだ。
「何の事かしら? 変な言い掛りを付けないでくださらない?」
「い、言い掛かり……って……」
レイナは肩に掛かった長い亜麻色の髪をサラリと後ろへ流すように軽く首を振った。トゲを持った余所々しいその言葉には、決して他人を自分の心の中へ立ち入らせようとはしない、毅然とした強い意志が感じられる。警察署に足を運んでの身元引受は、確かに迷惑な頼み事ではあったが、それを断った理由を尋ねられて『言い掛かりだ』と平然と撥ね付けた彼女の態度に、岬は遣る瀬無さを感じてしまった。
まさか数日前の『あの時』の事を恨んでいるのだろうか? 彼女の親切心を逆手に取り、騙して近付いた岬の事を。そうだとも思えて、岬はレイナが来てくれなかった本当の訳を問い質せなくなり口篭ってしまった。
「退いてくださる?」
「あ? ああ……」
レイナの進行方向を真正面から塞いでいた岬は、一歩退いて彼女に先を譲った。彼女の手元で車のキーが光り、付けていた小さな鈴が澄んだ音をたてる。
「外出? 今から?」
「貴方には……関係ないわ」
取り付く島も無い素っ気ない返事が戻って来た。
同じクラブ内でのホストとホステス。相手をしている客の目の前で、必要以上に妙な馴れ合いは許されないのではあるのだが……レイナはあれ以来、ずっと岬を遠去けているようだった。素っ気ないのは勤務中だからなのかと、岬は勝手に思い込んでいたのだが、どうやらそれは岬の思い込みであって、実際は違っていたようだ。
二人の遣り取りを窺っていたチカは、内心ホッと胸を撫で下ろした。チカは自分のお気に入りになりつつある岬から、厭な女だと思われたく無かったからだ。けれども、チカの心配は徒労に終わりそうだった。チカの言葉を信じた岬は、どうやらレイナの事を疑い、酷い女だと思い込んでいるらしい。
「ふぅん……」
岬の陰に隠れて黙って聴いていたチカは口端を吊り上げ、声を立てずに肩で笑った。チカは初めから、岬がレイナに興味を持っていたのを知っていたのだ。
レイナの持て囃されようを面白く思っていなかったチカは、勤務中であっても近付きそうになった二人を見る度に、間にワザと割り込んで妨害した。極力二人が出会う機会を遮り、阻止し続けて来たのだが、チカにとっては眼に見えての成果が上がらず焦っていた処だったのだ。
二人の間に何があったのかは知る由も無かったが、少なくともチカにとって二人が……レイナからの一方的ではあるのだが、いつの間にか険悪な仲になっており、チカの好ましい状況になりつつある事だけは理解出来る。
『これって、チャンスかもぉ!』
チカの黒目勝ちな瞳が小悪魔のように怪しく光った。
「ねえぇ、どうしたのぉ? 早く行こうよぉ」
二人の会話が途切れて『間』が悪くなったタイミングを見計らうと、チカはわざと岬の後ろからひょっこりと顔を出した。
チカを眼にして驚いたレイナの表情が強張るが、チカはそんなレイナの反応をとっくに心得ている。
「あらぁイヴ、誰かと思ったわよ。何処へ行くの?」
「し、仕事よ」
レイナは気不味そうに、少し頬を赤らめて戸惑った。
「ふ〜ん、じゃあ頑張ってねぇ。ねえ岬ぃ、あたし達も早く行こうよぉ」
チカは鼻に掛かった甘えた声で岬の気を惹こうとする。
「えっ? あ? ああ……」
チカはレイナの目の前で、大胆に岬と腕を絡めた。二人仲良くご出勤というシチュエーションを彼女に強くアピールした心算だったのだ。
たちまちレイナの表情が翳り、軽く俯いて視線を逸らせてしまった。
「失礼するわ」
胸に湧き上がった蟠りを拭い去るようにして、先に歩き出したのはレイナだった。
岬達二人を無視して擦れ違う。
二人を意識せずには居られない状況で、他人のふりをして通り過ぎることがレイナにとっての精一杯だった。
「ねーえ、さっきの事だけどぉー」
チカは更に鼻に掛かった甘ったるい声で岬に話し掛ける。勿論擦れ違って去って行くレイナには丸聞こえになるように……だ。
「あ? ああ……何?」
岬は未だにレイナの後姿に気を取られていた。こうまでして甘えている自分には一向に振り向いてさえくれない気も漫ろの岬に、チカは腹立たしさを覚えた。 自分達を無視して行ってしまったレイナなのに、岬は尚も彼女の後姿を眼で追い掛けて居るのだ。女性としてこれ以上の屈辱があるだろうか?
人一倍自尊心が強いチカの瞳が燃えた。美しい亜麻色の髪と魅力的な容姿を持っているレイナには多少引け目を感じてはいるが、それでも自分の容姿には自信を持っている。
自分を差置いて、去って行くレイナを眼で追う岬に憤りを覚えたが、岬の心を捉えて放さないレイナの美しさに嫉妬してしまった。そして、彼女の存在そのものが邪魔に思えて疎ましくなる。
「ウン! もう。チカはご褒美欲しいなぁー」
甘えた声でそう言ってウインクすると、本物の宝石が飾られた凝ったネイルアートの人差し指を自分の口元に持って行き、軽く指先にキスをして見せる。
「えっ? う、嘘だろう? 何も今此処で……」
「なぁに? 簡単でしょう? それともも~っとイケナイコトをオネダリしちゃってもいいかしらぁ?」
「……」
チカの要求を知り、岬はゲンナリとした表情を見せた。ご褒美を期待して待っている子犬のような目で、チカはじっと岬を見詰めている。
レイナにも二人の遣り取りが聞えていたらしく、足早に神経質そうなヒールの音が離れて行った。チカはそんな彼女の様子を探って、心の中でほくそ笑む。
「ね?」
ダメ押しに小首を傾げて祈るように両手を胸前で組むと、潤んだ瞳でおねだりした。
「う、うん……わ?」
レイナを気にしてか、曖昧な返事をして中々行動を起こさない岬にチカは焦れた。尤も、彼女がこの場を完全に離れてしまえば、チカの計画は無駄になる。焦ったチカは思い切って岬の首へ両腕を廻して爪先立つと、そのままの勢いで強引にキスをした。
勝ち誇ったようにチカはレイナの方へ視線をちらりと遣す。
丁度、彼女は勢いよく車のドアを閉めた処だった。素早くエンジンを掛けて暖気する間も置かず、タイヤを鳴らして急発進させる。
荒々しい運転から彼女の動揺が手に取れるようだった。チカは岬の唇を奪いながら、自分の計画が一先ず成功を収めたと思って満足する。
駐車場の出口付近にエレベーターが設置されている。レイナが乗った赤い車は、嫌でも岬達の居る目の前を通り過ぎなければ出られない。
「……」
ハンドルを握るレイナの視線と、チカに唇を奪われたまま、目の前を走り去って行くレイナを見返している岬の視線が強く絡み合う。
『デートしよう』……つい先日、岬はレイナに対して嬉しそうに言った。
レイナは岬の言葉を真に受ける事が出来なかったが、それでもその言葉に少しだけ心を動かされていたのは事実である。そして言葉の真意が知りたくなってしまったのだ。そのせいか、レイナはあれからずっと岬の事が心の奥底で引っ掛って気になり、自然と意識せずには居られなくなっていた。
けれどその反面、直後に謝ったとは言え、ホステスであるレイナに面と向かって『身体が仕事だ』と貶める言い方をした岬の暴言がどうしても許せなかった。
仕事を抜きにして個人的に岬に近付いてしまえば、媚を売ったと誤解されるかも知れない。付け入られて心まで踏み躙られてしまいそうな気がして怖くなり、レイナは岬へ近付く事を恐れて躊躇っていた。今のレイナには、岬に対して素っ気ない態度と言い方しか出来なくなっていたのだ。
レイナ自身、自分のつれない態度は、岬にとって好意的には捉えられて貰えないだろう事は十分承知していた。しかし、だからと言って岬はレイナを諦めて、掌を返してチカに取り入ってしまったと言うのだろうか?
岬の変わり身の早さに呆れ、そんな男に僅かでも心を動かされて淡い期待を持ってしまった自分がとても惨めで情け無くなった。
アクセルを踏み込むレイナの右足に力が篭る。心なしか、視界がぼやけて霞んで見える。
チカからの強引だったキスを拒みもしなかった岬を見てしまったレイナは、胸を締め付けられるような辛い痛みを覚えていた。二人のキスを目の当たりにして、全く悔しくは無い……と言えば嘘になる。
それでもレイナは、岬を信用しなくて良かったのだと自分に言い聞かせ、無理にでも岬の事を忘れてしまおうと強がってみた。自分には夫が居る身だ。時折、端整な顔立ちからは想像も付かないような、冷たい表情を浮べることがあるジェフではあったが、今となっては彼の存在を盾にして、自分の心の片隅に居座ってしまった『岬』という男の影を、拭い去る事が出来るかも知れない。穢わらしい『雄』の事など、一刻も早く忘れてしまった方がいい……そう考えようとするのに、レイナは岬を忘れる事が出来そうになかった。
レイナには最近の記憶以外、『思い出』と言えるような記憶など何一つ残ってはいなかった。生活する上で必要な最低限の基礎知識的なものは、誰に教わらずとも覚えているのに、旧い記憶や過去に出会った人や場所といった記憶の一切を完全に失っていた。
彼女の記憶は、ほんの数ヶ月前に見た真っ白な天井と医療機器に囲まれて眼が覚めた辺りから始まっている。そして彼女の担当医であるジェフと名乗る男から、彼女が事故で記憶喪失になってしまった事や、自分がレイナの夫である事を伝えられていた。
記憶喪失になったレイナには、ジェフしか頼る者が居ないのだと諭され、身体を動かせるようになってからは、ホステスとして『イヴ』と言う名を騙り、意にそぐわぬ『客』を取らされていた。
夫であるジェフの指示は絶対で、逆らえば容赦なく殴られ身体を痛め付けられ、時には薬で眠らされ、身動きが取れないように縛られて何度も意識を飛ばしていた。
声を限りに叫んで救いを求めても、どんなに厭だと拒絶しても誰も助けてはくれない。眼には見えない頑丈な鉄格子の檻に囲まれて、縋る事が出来るのは夫であるジェフただ独り。それ以外は諦める事しか選択の余地は与えられない。先の見えない汚れた現実から、自分は逃げ出したくても逃げ出せない籠の中の小鳥なのだと――ようやくその事を理解した頃には、レイナの身体はおろか心まで引き裂かれて傷だらけになっていた。
チカと唇を重ねている岬が、最中であるにも関らず自分に視線を送っている――思い出したくも無い場面が頭の中で何度もフラッシュバックした。
自分とは関係の無い岬が何処で何をしても構わないし、それが当然の事だと思っていた。なのにレイナは、チカと岬のキスを思い返す度に、ザワザワと感情を逆撫でされているような不快感に見舞われて、我慢が出来なかった。理屈に感情が付いて来ないのだ。
無表情でハンドルを握っていた心算のレイナだったが、不意にくすんだ瞳から熱いものが頬に流れた。
『俺の事が許せない? でも、自分だって同じ事をしているじゃないか』
頭の中で、聞える筈の無い岬の声が聞こえた。
これからレイナが赴く場所は、都内で有名な高級ホテル。そこにはレイナの『客』が待っている。相手は食事と会話を希望して誘ってはいるが、午前零時までの『契約』が何を意味しているものなのか、大人であれば判りそうなものだ。
「違う……私は望んでなんかいないわ!」
『望まなくても同じだって』
「違う! 違うわ!」
レイナは纏い付く幻聴を振り解くように何度も激しく首を横に振った。けれど、チカに強引にキスをされながら、別れ際に遣した岬の強い眼差しが、脳裏に焼き付いてしまい離れない。
もしかすると、あの視線の意味は、わざとレイナからの反応を窺う為のものだったのかも知れない。そしてその後自分は岬からどう思われたのだろうかと思いを廻らせて、心を掻き乱していた自分に気が付いた。
「ずるい……」
後から後からこみ上げて、涙が頬を伝った。
客を取らされ、待ち合わせ場所に赴いている今の自分が、軽蔑した岬と一体どれだけ違っていると言うのだろうか? レイナは自分が酷く穢らわしい女のように思えて堪らなかった。そしてあの時の岬の眼が、無言でレイナを追詰めるのだ。
時間が経てば経つほど岬の視線を思い出し、意識して胸が苦しくなった。
「厭! やっぱり私……貴方にだけは汚れた私を見られたくない!」
何故? どうしてそう思うのだろうか?
偶然クラブで会ったホストだと言うのに……何故こうまで岬の事が気になってしまうのだろうか? 何かが胸の奥に閊えているような、もどかしい焦燥感に追い立てられる。
アクセルを踏む足に力が篭る。レイナは無理な追い越しを何度も仕掛けて、後続車からクラクションを浴びた。
信号が赤に切り替わったのに気付くのが遅れ、そのままレイナの車は交差点に進入してしまった。慌ててブレーキを踏んだが、ペダルは床面に簡単に密着してしまい、制動が掛かる手応えが全く無い。
全身の血が凍った。
目の前を青信号で進入して来た大型トレーラーで遮られた。彼女の車は回避出来る場所を完全に塞がれてしまう。
咄嗟に手ブレーキを引き、ハンドルを切った。
急な制動に、彼女の乗った車は悲鳴を上げながら、タイヤから白煙をもうもうと巻き上げて後部を流し、助手席側の側面をトレーラーに向けて接触した。加速していた車体はそれでも逃げ場を失ってトレーラーの下部へと潜り込み、迫って来た後輪に巻き込まれて大破する――
* *
照明を絞ったフロアでは、生演奏による緩やかな曲が流れ、ホールの中央で十数組の盛装した男女が優雅にステップを踏んで踊っている。
岬はゲストの一人である婦人からの指名を受けて、已む無くホールに引き摺り出され、パートナー役を引き受けていた。
「?」
岬の流れるようなステップが止まり、婦人が訝って岬を見上げる。
岬はすまなそうな顔を婦人に遣すと、黙ったまま婦人に着信点滅で反応している携帯を取り出して見せた。
婦人がこくりと頷いて承諾するのを確認すると、岬は婦人から視線を逸らせ、目配せで交代の合図を送った。すると、すぐに壁際で待機していたホストの一人が岬と入れ替わりで婦人の手を取る。
「失礼」
「早く帰って来てね」
名残惜しそうに婦人が岬に小さく手を振った。
岬はフロアを後にしながら、勘弁してと心の中で呟いた。彼女には先の尖った爪先やヒールで、何度も足を踏まれている。
ホールのドアを閉め、岬は着信履歴を辿った。
―「高城か?」
「はい」
相手は上司の芹澤だった。
―「R‐65で事故があった。すぐに救急医大病院へ急行しろ。そこからだとそんなに時間は掛からないだろう? 俺も今向かっている」
「芹澤さん? 俺、今『勤務中』ですよ?」
こちらの立場を全く考慮してくれない、相変わらずな上司からの指示に対して流石に頭に来た岬は、素っ気無く言い返した。
―「お前が今どういう職務に就いているかは承知している」
「だったら……」
―「其処のクラブのホステスで『イヴ』とかいう女は居るか?」
「ええ。でも今は外出中……」
芹澤の様子を携帯越しに訝っていた岬は、はっとして我に返った。徒ならぬ不吉な予感が岬を襲う。
「事故って、まさか……」
岬が捜査しているクラブの売れっ子ホステスであるイヴ(レイナ)は、収容された病院から、忽然と姿を消してしまった。芹澤は、クラブのオーナーからの依頼を受けて、彼女を捜索する任に就いたのだ。
「おう、高城」
「芹澤さん?」
二人の捜査員から状況説明を受けていた芹澤は、岬を見るなり呼び止めた。気分でも優れないのか顔色が少し悪い。
「顔色が良くないですね。少し横になった方が……」
「顔が悪いのは生まれつきだ。おう、こっち来てコレを見てみろ」
芹澤は岬の言った言葉を聴き間違えて機嫌を損ねる。
「そんな事、言ってませんよ?」
相変わらずな芹澤の短絡的思考に岬は呆れながら、データを受け取る。
芹澤から手渡されたヘッドセット型のレコーダには、防犯目的で作動していたコンビニのカメラが偶然捉えた事故の映像を、詳しく画像処理分析したデータが読み込まれていた。