第4話 隙だらけの暗殺者
岬は『彼女』が歩いて来ている通路の途中で座り込み、壁伝いにぐったりと寄り掛かっていた。既にこの先に続いている化粧室へ『彼女』が入室していたのをチェック済みだ。
やがて化粧室のドアが開き、コツコツと床を歩く、硬いハイヒールの音が近付いて来る。
その音が、岬の前でピタリと止まった。
声を掛けようか、掛けまいかと少し迷ったような『間』があったが、身体を屈めて岬を覗き込んで来る気配がする。
「あ……あの、大丈夫?」
案の定、レイナは新入りのホストである岬に声を掛けて来た。岬には覚えのある、仄かな甘い香水が鼻を擽る。
潜伏して三日目。今日の岬は、何故かホステスの『イヴ』――レイナと度々視線が合っていた。それは、岬が客からかなり飲まされていたのを彼女は見掛けて、どうやら気になっていたらしい。彼女が何度か心配そうな視線を送って来ていたのを、岬はとうに承知していたのだ。二人きりになれば、きっと彼女から声を掛けて来るだろうと予測しての行動だったが、予感は見事に的中した。
「だ、大丈……夫」
岬は抑揚の無い答を返す。しかし、大丈夫だと言っているのだが、彼女の眼に映った岬は、言葉通りには見えなかったようだ。
「貴方、先日入って来た人ね? 『岬』さん……だったかしら?」
岬の名前を口にして、レイナははっと我に返った。その名前は、以前彼女が何処かで聞き覚えがある響きだったからだ。きゅんと胸が締め付けられるような何とも言えない感覚。そして何故だか懐かしいような気がして、レイナは戸惑い、落ち着かなくなる。
「ああ」岬はゆっくりと顔を上げた。「そうだよ……レイナ」
徐に項垂れていた顔を上げて彼女を見据えた岬の瞳には、自分の名前を言い当てられて息を飲み、眼を大きく見開いて驚いているレイナの表情が映っている。
クラブでは、皆本当の名前ではない源氏名を使用している。身内同然である小夜子やチカ達でさえ知らない名前を、ましてや新入りのホストである岬が知っている事自体、有り得ない事だ。
レイナは不安な面持ちで、問い掛けるような視線を岬に送った。
「暫らく此処で酔いを醒ませばいいわ」
レイナはそう言って岬をベッドの端に据わらせた。上着を脱がせてハンガーに掛け、ネクタイを緩めて襟元を寛げて遣ると、手を借りていた岬は少々乱暴な動作で自分のネクタイを引き解く。
「そうさせて貰うよ」
岬は俯き、片手で額を押えたまま呻るように言った。そして空いているもう片方の腕を彼女の肩に掛けようと、そっと背後から手を廻す。
偶然なのか、それとも邪な岬の気配に勘付いたのか、レイナは彼の腕を見事にかわして立ち去り、後に残された岬の右手が、目標を失って情けなく泳いだ。
偶然……かも知れない。それとも、馴れ々しく腕を廻して来た岬に気付いて、自然な流れで逃げたのだろうか?
岬が『酔った振り』をするのは久し振りだった。元々酔うような体質ではない。それだけに、彼女を何処まで騙すことが出来たのか自信が持てなかった。
見破られたのかも知れないなと岬が疑っていると、シャワールームから水音が聞え始めた。
岬を怪しいと疑っている女が、無防備にシャワーなど浴びる筈が無い。どうやら彼女は岬の打った芝居にまだ気付いてはいないようだ。
岬はゆっくりと上体を起こすと、肩で安堵の息を吐く。そして彼女が消えて行ったシャワールームのドアを見詰める。
総ガラス張りのシャワールームから真っ白な湯気が立ち込めて、此方に背を向けている彼女の裸身を包み隠している。
美しい彼女の曲線に思わず見惚れてしまいそうになるが、今は任務中だと自分に言い聞かせた。そして彼女の立てる水音に気を配りながら、サイドテーブルに置かれていたシャネルの黒いセカンドバッグへ手を滑り込ませた。
捜していた物は見付からなかったが、代わりによく似た散剤の白い包みを捜し当てた。包みが何であるのかと興味を持った岬は、シャワールームを気にしながら、手早く包みを広げると、小指でごく少量を舐めてみる。
「!」
舌先に軽い痺れを覚え、慌てて吐き出した。仕事柄、それが危険な読薬であるのは簡単に判断が付く。
程無くして水音が止み、湯気に包まれたバスローブ姿のレイナが現れた。
岬の事が気になって視線を遣すと、彼は片腕で顔を覆ったまま、ずっとベッドに仰向けに倒れ込んでいた。
=「眠ったの?」
レイナは、じっとして動かない岬の様子を窺いながら近付くと、耳元へそっと囁いた。彼女の吐息が、甘く優しく岬を擽り誘っているようだ。
=「いや」岬は微かに反応する。「頼みが……ある」
=「何?」
=「水を……くれないか?」
=「お水?」
レイナの明るい栗色の瞳が妖しく光った。
彼女はキャビネットの中から程好く冷えたペリエを取り出して、細長いタンブラーグラスに注ぐと、バッグに潜めておいた白い粉をそっと溶き入れる。粉はゆらゆらと揺れながらグラスの底に辿り着かないうちに溶けて消えてしまった。
グラスを手にしたレイナは、何食わぬ顔で岬の頭を抱き起こしたが、泥酔に近い状態のこの男に果たして水が飲めるのだろうかと疑問を抱き、手に持ったグラスと岬を交互に見て戸惑った。
「お水よ」
その声に反応した岬が、素早くグラスごとレイナの手を掴み、貪るようにして水を含む。余程喉の渇きを覚えていたのか、慌てて飲んだ為に噎せ返り、一旦口に含んだ水を全て吐き戻してしまった。手にしていたグラスの水を半分以上溢してしまい、彼女が着ていた純白のバスローブを濡らしてしまう。
「す、すまない」
「いいのよ。ゆっくり落ち着いて飲めばいいわ」
俯いて申し訳なさそうに俯いた岬を見たレイナの眼には、それが岬の『演技』だとは全く映らなかった。
『いいかい? この薬は、いつか君の事を知っている奴が現れた時に使うんだ。でも、間違っても君が飲んだりしてはいけないよ』
頭の中で『彼』の言葉が蘇る。しかし、この男がそうだとでも言うのだろうか? レイナは自分の目の前で、酒に酔って項垂れている岬へと視線を落とした。
実は、彼がホストとして遣って来た時から、レイナにとってずっと気になる存在になっていた。岬は新人ホストによく在りがちな、目立つパフォーマンスで自分を売り出すような素振りを全く見せない。寧ろ、自ら目立つ事を嫌っているように見えた。
目立つ事で客に自分を覚えて貰い、贔屓して貰うのが売り出す為の大切な最初の一歩だ。なのにそれを煩わしいとでも言いたげな態度を見せる岬が、レイナには不思議に思えてならなかった。
均整の取れた体格を持ち、魅力的なセックスアピールが出来るだろうと思われるのだが、その割には控え目で物静かな言動を執る珍しいタイプだった。尤も、それが落ち着いた大人の魅力なのだと捉える客も多く居て、岬は意外と客受けが良い。そしてレイナもそのうちの一人で、いつの間にか心の何処かで岬の姿を捜し、視線で追い掛けるようになっていた。
けれど視線が合って胸が高鳴るにも関わらず、一方では澄んだ岬の瞳に射抜かれてしまいそうな気がして怖くなる。その度にレイナは虚勢を張って気の無い素振りを見せ付け、ツンと澄ましてそっぽを向いていたのだ。
相手が酔っているとは言え、自分は無防備な姿で居る。岬にその気があれば、簡単に自分を捩じ伏せて襲う事も可能だ。だが、今の岬にはそんな気配すら窺えない。とてもこの男が自分を殺しに来たとは思えなかった。
しかし『彼』からの指示は、レイナにとって絶対だ。彼女は自分の過去の記憶を取り戻そうとして、何度も『彼』から逃げ出そうとしたが、その度に見付かり酷い暴行を受けていた。今度もまた逆らえばどうなるか考えたくも無い。レイナは意を決して『彼』からの指示に従う事にした。
小さく震える手でグラスを持ち直し、握り締めると底に一口分だけ残った透明な『水』へ視線を落とした。そのまま唇を寄せてグラスに残った水を含むと、戸惑いの表情を浮べながら、岬の唇に自分の唇をそっと押し当てる。
「!」
口移しで薬の入った水を送ろうとした瞬間、素早く岬の腕がレイナの背に廻り込み、力尽くで横倒しに身体を押し倒され、組み伏せられてしまった。
酔っているとは思えない岬の素早い動作を目の当たりにして、レイナは瞳を大きく見開き、驚きを隠す事が出来なかった。頭に巻いていたタオルが解け、まだ濡れている長い髪がベッドの上へ拡がる。手から離れた空のグラスが、毛足の長い絨毯の上をコロコロと転がった。
「んっ、んんっ!」
岬は素早く左手でレイナの口を正面から塞ぐ。その手で左右の両頬を強く挟み、首を後ろに反らせるようにして顎を押さえると、右手で彼女の左手首を掴んで押さえ込んだ。
強制的に薬物を口に含まされた、レイナは吐き戻す事さえ叶わずにくぐもった悲鳴を上げてもがき、片手で必死になって抵抗した。口内が切れて血の味がする。
「んっ!」
堪らなくなったレイナの喉がごくりと大きな音を立て、岬は彼女から手を解いた。
「どういう心算だ? 初めから俺を殺す目的だったのか?」
冷静に喋る岬からは、酔った様子も慌てた様子も全く窺えない。岬が無味無臭の薬を盛られていた事を既に承知していた事から、レイナは泥酔状態のそれが演技だったのだとようやく覚った。
「だ……騙したのね?」
薬物を飲まされてしまった彼女の顔がたちまち蒼ざめる。
「お互いさまだ。君にはまだ死なれると困る。解毒剤を渡すから、質問に答えてくれないか? 手荒な事はしたくない」
そうは言ってみたものの、彼女の口端から滲んだ血を見てしまった途端、充分手荒だったなと反省した。そして彼女の答えの有無に拘らず、飲んだ薬を直ぐに解毒して遣ろうと、ハンガーに吊るされていた上着の内ポケットから、携帯の医療用キットを取り出した。
「だ、誰が貴方になんか……うぅっ!」
介抱など遣ってこの男と関るのでは無かったと後悔した。こんな事になるのなら、通路で岬を見付けていてもそのまま見捨てておけば良かったのに……と。なのに、心の片隅では彼を快く受け入れようとする、相反する気持ちがあるのを否めない。どうしてそんな想いを抱いてしまうのだろうかと不思議に思うのだが、彼女の思考はそこまでだった。
自分が飲んでしまった薬が効力を発揮し始めたのだ。猛烈な勢いで呼吸器官全体が熱くなり、次第にその勢いは焼け付くほどの熱さを見舞って彼女の身体を苛んだ。そして体温の上昇に伴って、殆ど色素の無い白い肌が鮮やかな桜色に染まって行く。
不思議な事に、彼女の手足へオレンジ色の染みとなって斑模様が浮き出して来た。白粉彫りなのかと思われる肌へ次々と浮き出てきた模様を、岬は黙って凝視した。看様によっては何かの柄にも見えるが、岬の経験では看た事も無い所見だ。
レイナの潤んだ明るい栗色の瞳から大粒の涙が零れ、喉が喘息の症状を起こしたようにゼイゼイと鳴った。桜色の肌とは対照的に、蒼白になった彼女の額には珠のような汗が浮き出して来る。
「君も強情だな。意地を張っていると、本当に死ぬぞ」
そうは言ったものの……『拙いな』と、岬は心の中で舌打ちした。落着いて尋問している心算だったが、反面内心ではかなり焦っている。レイナの症状から、思っていたよりも即効性が高い薬だと十分に判断出来たからだ。岬自身が服毒させてしまったとはいえ、彼女はこんな劇物を常に携帯していると言うのだろうか?
使う相手を間違えれば、今の彼女のように自分の命を危険に晒す事になり兼ねない。そんなリスクを犯してまで、彼女には『消したい奴』が居て『そいつ』が他ならぬ自分自身であった事実に、岬は納得出来なかった。
「君は一体誰なんだ?」
「何の……事かしら。どういう意味で言っているの?」
苦しさに形の良い柳眉が寄る。呼吸を乱したレイナは、肩を大きく上下させて艶めかしくはぁはぁと喘いだ。
「もう一度言う。君は誰だ? 本当の名は?」
「ほ、本当の名前? 何を言っているの? 本当の名前だなんて……私は『レイナ』よ」
レイナの手足が痺れて来た。瞬く間に感覚が麻痺してしまい、意識が混濁する。
「嘘だ! 君が『玲奈』の筈が無い! いい加減な事を言うな!」
取り乱した岬は、乱暴に彼女の胸倉を両手で掴み上げた。豊かな胸の谷間が深く陰影を落とすが、見惚れている場合では無い。
彼女が短く悲鳴を上げ、呼吸が更に浅くなる。
「誰の事……言っているの? 人違い……よ」
全身が激しく痙攣を起こした。チアノーゼの症状を起こして皮膚が紫色に変色して来る。
「た……すけ……お願い……何でも……する……から……」
『死にたくない!』という強い強迫観念が、レイナの強情さを拭い去った。彼女の細い両手が女性とは思えない力で岬の腕を捕えたのだが、瞬く間に力が抜けて岬の腕からするりと落ち、白い首ががくりと項垂れる。
岬は解毒薬の錠剤を手にしていたが、急遽即効性の高いアンプルに切り替えた。薬を注射器へ移すと本体を軽く指で弾く。彼女の肘の内側にある静脈血管を指先で探り、素早くラインを確保した。
既に彼女の意識は完全に無くなっている。先程の薄い染みのようなものも綺麗に消えていた。
処置を施した岬は、彼女の左足首に微かに残っている傷跡を見付けた。その傷は、数日前に岬が銃弾を摘出した傷痕だ。あの時、墓地で自分が助けたのは、間違い無くこの女性だったのだと岬は強い確信を持った。
だとすれば、この女性は……一体誰なのだろうか?
岬は何の躊躇いも無く彼女のバスローブの紐を解くと、襟元を握って大きく左右に肌蹴た。均整の取れた美しい曲線を描く肢体に思わず心を奪われてしまいそうになるが、岬の目当ては他にあった。彼女の身体を這っていた視線が左脇で止まり、岬ははっと息を飲む。
レイナの左脇には、亡くなった『玲奈』と同じ位置に小さな黒子があった。偶然だとしても、この状況は余りにも出来過ぎている。
墓地で助けた時は気が動転しており、加えて彼女に逃げ出されてしまい確認する暇さえ与えられ無かった。しかし、彼女がその時に落として行った長い髪のDNA結果は、紛れも無く死亡した『玲奈』自身のものだとの報告を受けていた。 けれど、その結果を岬はどうしても受け容れる事が出来ず、何度も分析課へ問い合わせて確認を取ったのだが、何度調べても戻って来る回答は同じだった。
「そんな……有り得ない」
岬は首をゆっくりと横に振った。
『玲奈』は確かに自分の目の前で息を引き取った。医師免許を取得している岬自身が彼女の臨終を看取っていたのだ。しかも彼女の遺体は今、提供者として民間医療管理センターに冷凍管理されている筈だ。
適合者が現れれば、相手側の素性こそ明かされはしないが、彼女の身体がドナーとして提供されたとの連絡が、登録した岬へ届くシステムになっている。だが、今のところ彼女がドナーになったと言う通知は、一切手元には来ていない。
岬は亡くなった筈の『玲奈』が蘇り得る手段を必死に頭の中で模索した。
一つは脳移植による『別人』の玲奈。そして、もう一つは全身を蘇生させる方法だ。
脳移植の処置を行い、ドナーである献体の全身をそのまま別の個人へ使用する事自体違法であり、厳重な管理下ではまず在り得ない手段だ。
仮にこの手段を用いれば、肉体は単なる器になり、ドナー本人の人格ではない全くの別人が出来上がる。それはちょっとした本人の仕草や癖に顕著に顕われる為、外見上で容易に判断が可能だ。
後者は微かな望みではあるが、方法が存在している。死体を再び生き還らせる蘇生技術は、現在でもタブーであり不可能とされている。但し、それは医学倫理上での話だ。
死亡した本人自身を蘇生させる事が可能な違法手段。連邦の医師であっても極僅かな者にしか知られてはいない極秘中の極秘事項。数年前に破綻したミューズ社が、連邦と共同開発していた細胞蘇生液がそれだ。
これは死亡後の時間が長引けば長引くほど、本人の記憶や遺伝子の組織情報配列が曖昧になり、異常を来してしまう為に成功したと言う症例が殆んど無く、開発に協力していた連邦自らが撤退したと言う、曰く付きの製品だった。
だからと言って、成功例が全く無いと言う訳では無い。実際にはたった二件の成功例が、内部の極秘情報として報告されている。
喩え何百、何千回行われた実験の結果として偶然成功した症例に過ぎないとされても、事実は事実なのだ。可能性は限りなくゼロに近いが、その症例の三番目の人物としてこの『レイナ』が存在したとしても不思議では無いのかも知れない。
多少の違和感は拭えないが、岬にはレイナが『玲奈』の人格を引き継いでいるとしか思えなかった。もしかすると、自分は中々醒めない悪い夢をずっと見続けていて、彼女が本当は死んではいなかった……そう思い込みたい誘惑に駆られてしまう。
岬はそっと眼を伏せた。
何処かが違ってさえいれば、他人の空似だとして納得出来るかと思った。この女性が『玲奈』ではないと言う証拠さえあれば、諦めが付くのだ……と。
だがその一方で、彼女が『玲奈』であって欲しいと願う微かな望みが湧き上がる。
「馬鹿な……何を俺は考えている」
ささやかな甘い希望を拭い捨てるように岬は首を振り、肩を落して俯いた。
「玲奈……」
愛していた彼女の名が、深い溜め息と共に漏れた。そして今、意識を失っているレイナの横顔を、沈んだ瞳でじっと見詰め続ける。
的確な処置を施されて一命を取り留めたレイナの身体は、代謝して血色を取り戻し、頬には仄かに桜色が差して来た。薄っすらと開いた唇は瑞々しい果実のように紅く色付く。
岬は手を伸ばして、長い睫毛に絡んでいた涙をそっと指先で拭い取って遣った。
亡くなったあの時よりも更に美しくなったなと思った。見れば見るほど綺麗だと。けれどそれは一種、獣が持つ凛とした気高さにも似ているような気がしていた。
どういった経緯が彼女の身に起こったのか、起きて話を聞かせて欲しかったのだが、付き合っていた岬の事さえ、ましてや自分の記憶さえ失くしてしまった彼女へ問い掛けてみても、答えは戻っては来ないだろう。強引に思い出させようとして彼女を苦しめ、悲しませる心算など毛頭無い。
「……」
岬は、ふと彼女の身体から違和感を覚えて、伏せていた顔を上げた。そこで初めて彼女の左肩へと視線が止まる。
「疵?」
不審に思い、レイナの身体を返してうつ伏せにさせた。彼女の肌理細やかな白い素肌には、治りかけて殆ど目立たなくなっている痣や傷が、惨たらしく無数に奔っていた。特に左肩から袈裟懸けに刻まれた傷痕が痛々しい。それが何によって出来た傷なのか、岬には容易に想像する事が出来た。
「何て事……しやがる……」
彼女へ異常なまでの性癖を持って触れた者に対して強い憤りを覚えた。自分が傍に居れば、決してそんな奴等には触れさせたりはしないし、こんな酷い事を遣らせずに済んだのに……と。
「う……」
レイナの表情が苦痛に歪み、意識を取り戻しつつあった。岬は彼女から怪しまれないようベッドの端へ座ると、慌ててシャツを脱ぎ捨てて上半身裸になる。
「はっ?」
意識を取り戻したレイナは、すぐ傍に居る岬の気配に驚いて跳ね起きた。
自分の裸身が曝け出されていると気付いて頬を染め、素早く脱ぎ捨てられていたバスローブを豊かな胸へと掻き寄せる。そして細い脚を引き寄せて横座りをすると、目の前に居る岬に向かって身構えた。
身体を見られたという羞恥心と、自分が岬に欺かれたのだと言う屈辱と怒りで全身が震えた。涙眼になってキッと半裸の岬を睨み付ける。
「眼が覚めた?」
にこりと笑ってそう言うと、岬はたった今脱ぎ棄てたシャツへ腕を通して、いかにも彼女と関係を持った直後であるかのように見せ掛ける。
怯えたように辺りを所在無く見回すレイナの視線が、ベッド脇のサイドテーブルで止まった。そこには彼女の解毒に使った、使用済みの注射器が置かれている。
「わ、私に……な、何をしたの?」
声が震えた。
「何って、お医者さんごっこ」
平然として言ってのけた岬の言葉に、彼女の表情がたちまち強張った。
「い、嫌っ! 私に……私に触らないで!」
興奮したレイナは、涙眼になって岬を睨み付けた。
「何、初めてみたいな事を言っている?」
岬はレイナの変わりように驚いてしまった。反応がまるっきり『処女』だ。クラブで見掛ける『女』のイメージが微塵も感じられない。
「あ……貴方には分からないわ」
「身体が仕事みたいなものだろ?」
「止めて! そんな言い方! あ、貴方なんかに言われたくはないわ!」
レイナは下唇を強く噛み締めると、ゆっくりと二、三度頭を振って岬から視線を逸らして俯いた。光るものがポロポロと毀れて頬を伝い、素肌の細い腕を濡らす。
「……悪い」
彼女の涙を見た途端、岬は気不味くなって俯いた。軽く冗談であしらった心算だったが、彼女にとっては深刻な問題だったようだ。在りもしない関係を見せ掛けて、彼女から不自然に思われない為に打った『芝居』だったのだが、却って逆効果だったらしい。レイナは岬の事を、すっかり『要注意人物』だと決め付けて、警戒してしまったようだ。
息が詰まりそうなほど悪くなった『間』を振り切ろうと、岬は上着から煙草を取り出した。
岬の一挙手一投足を怪訝そうに警戒しながら眼で追っていたレイナは、取り出された煙草を見て、更に表情を曇らせる。
「良いか?」
煙草を持った手を軽く上げて見せた。一応同意を求めるが、岬のそれには拒否は認められそうにない雰囲気だ。彼女が渋々黙って顎を引いたのを確認した岬は、彼女にくるりと背を向け、箱の中から一本取り出して火を点ける。
一息吐くと、岬は徐に口を開いた。
「君の彼は……彼だか客だか判らないが……知っているのか?」
岬の背後でレイナがバスローブを羽織る衣擦れの音がした。彼女が両手で長い亜麻色の髪をさらりと襟から引き出して首を軽く振ると、仄かな甘い香水が岬の鼻を優しく擽る。
「何の事?」
レイナは小首を傾げて岬の広い背中を見詰めた。
運動をしているのか、無駄が無く引き締まっている岬の身体は、着痩せするタイプらしい。ほんの少しの間だけ目にした彼の鍛え上げられた身体を思い出したレイナは、ぽっと頬を赤らめる。
「旧ミューズ製薬会社の蘇生液を君に処方しているみたいだが、あの薬はもう使わない方がいい」
着終えた頃を見計らい、ゆっくりと彼女へ向き直る。
「どうしてその事を? 貴方……本当にホストなの?」
レイナの岬を見る目が、何者なのかと疑っている。
「言っただろ? 『お医者さんごっこ』だって。君からもそのお相手に言っておくんだな。もう、妙な性癖は止めてくれって。面白がって傷付けている。君だって嫌だろう?」
「……」
自分の身体の傷がどんな手段で出来たのか、岬は総て理解しているような口振りだった。
厳しい表情を浮かべたまま、レイナは頬を赤らめて岬から視線を逸らせてしまう。
「あれ? ……別に厭じゃないんだ。そういうの」
岬は思い掛けない彼女の反応に戸惑った。
「そ、そんなことっ! ごっ、誤解しないで!」
首を乱暴に振り、レイナは慌てて否定した。恥じらいで耳朶まで真っ赤だ。
「ないけどお相手の為なら……か? だったら猶の事だ。ミューズの蘇生液はある意味欠陥品だよ。高価な分、初期治療には相当な効力を発揮するが、長期使用は出来ない。使用頻度が高ければ高い程、逆に治癒機能が低下してしまう。身体が持っている本来の自然治癒機能を蝕んでしまう。現に君の身体の傷痕が中々消えなくなっているだろう? もう自分で気付いているのじゃないのか?」
「知ったような口を利かないでよ。医者でも無いのに!」
チカや小夜子ですら知り得ない隠し事をズバリと言い当てられたレイナは、俄かに不快感を覚えた。岬にはまるで何もかも見透かされているようで堪らない。
「あれ? 言ってなかったっけ? 俺、昼間は医者だよ。ヤブ医者だけどね。ヤバイ患者をミスってさ、その賠償ってヤツで働いてる。大金が必要なんだよ」
「あ、貴方の勝手な事情なんか……知らないわ」
レイナは口先だけでそう言ってしまったのだが、岬は彼女からあからさまに興味が無いと言われたのだと思い込み、心ならずもムッとなる。
「……?」
目の前に居るレイナから、岬は自分が今までに覚えていた彼女の雰囲気とは全く違うもう一人の人格を垣間見たような気がして退いてしまった。
少なくとも『玲奈』は言葉を慎重に選ぶタイプだった。軽はずみな言動で相手を翻弄するような女では無かった筈だ。その『別の人格』を持った人物が誰なのかと記憶を探ってみるのだが、今の岬にはもう一人が誰なのか特定出来ない。
「あっそ。別に知っていようがいまいが君には関係無かったよな?」
「だって……だってジェフがこの薬は大丈夫だって……」
「何ッ?」
灰皿で煙草を揉み消していた岬の手がピタリと止まった。聞き覚えのある名前に岬は眉を顰める。
「ジェフ? ……ジェフだって?」
レイナは岬の反応にやや退きながら、指先で自分の首に着けているチョーカーに触れる。
「そうよ。ジェフ・ランディア。わ、私の……私の『夫』よ」
レイナはチョーカーに触れた手をぐっと強く握り締めると、その言葉を口にするのを一瞬だけ躊躇った。
「……」
彼女の言葉に息を飲み、岬は暫らくの間金縛りに遭ったように動けなくなる。
『ジェフ・ランディア』は岬達が捜査している重要参考人であり、岬の学生時代の同期。そして亡くなった『玲奈』のストーカーだった男だ。
禍々しい因縁めいた現実に息が詰まりそうだった。堪らなくなった岬は、ソファの背凭れに身体を投げ出して大きく息を吐く。そして溜め息交じりにゆっくりと宙を見上げて『参ったな……』と呟いた。彼女の『夫』と言う最後の言葉に、強烈な留めのカウンターを喰らわされた気分になる。
「何が『参った』の?」
小首を傾げて不思議そうな顔をしているレイナと視線が合った。岬はソファから立ち上がると彼女へ近寄り、その細腰へ手を廻す。
「や!」
レイナが驚いて身体を引こうとしたが、気付くのが僅かに遅かった。あっという間に岬の腕の中に納まり、捕らえられてしまう。
「さっき『何でもする』って言ったよな?」
「……」
「惚けたってムダだ。あの時点でまだ意識は飛んでいなかった」
「あ、アレは……あ!」
返事に困って言いよどむレイナの前髪を素早く掻き揚げると、額に軽く音をたててキスをした。
「なっ、な、な、何をするのよっ! し、失礼だわっ!」
反抗心を剥き出しにして、レイナは岬に咬み付いた。赤面して怒り出したレイナを見て、岬は悪戯っ子のように嬉しそうに表情を崩すと、ぐっと彼女を引き寄せて強く抱き締める。
「今度、俺とデートしよう」
その言葉に、レイナは瞳を大きく見開いて岬を見上げた。
「な、何を言い出すのかと思ったら……気は確か?」
「いけないか?」
岬は至って『真面目』な顔だ。
「お客でもない貴方にどうして……それに言ったでしょう? 私には『夫』が居……」
「俺は君の命の恩人」
「!」
言い掛けた言葉を遮って、岬はやや強い口調でレイナを黙らせる。あからさまな命令形の言い方に、レイナは不快感を覚えて眉を寄せ、口元を強張らせた。
岬はそんな彼女の反応を窺うと、急に口角を上げて表情を崩す。
「……だ。なぁーんて言ったら……付き合ってくれる?」
「駄目」
「やっぱり? いや、今のは冗談だよ」
彼女からの即答『お約束の返事』に、岬は落胆したような言い方をしたのだが、表情はさして変わらなかった。精神的には全くダメージを受けてはいないように見える。
「冗……談?」
レイナは小首を傾げ、無責任な言い方をして言葉を濁す岬を、澄んだ明るい栗色の瞳で見上げた。この男の言葉の何処までが本気で、何処までが嘘なのだろうかと。
仕事柄『付き合ってくれ』と言い寄る男はたくさん居る。中には自分の地位や名声を盾にしたり、大金を握って自分との情事を強引に迫る輩もいた。『仕事だ』と雇い主に強要されて仕方なく……意にそぐわない相手でも『お客様だ』と言われて応えてしまった事も一度や二度では無い。
言い寄ってくる『男』は『雄』であり、レイナにとってはそれ以上のものにはなり得ないものなのだと諦めていた。夫であるジェフだとて大差は無い。性的欲望を満たすための関係を繋ぎ、行為に及んで満たされればそれだけでレイナの総てを征服したものだと勘違いしている男達ばかりを眼にして来た。
けれど、今自分の目の前で臆することなく堂々と『冗談』だと言った不粋極まりない筈の岬の言葉から、何故だか他の者とは違う仄かな温もりを感じている。
――『デートしよう』
記憶を失ってしまう以前に、誰かにそう言われた事があったような懐かしい響きを感じた。けれどもそれを口にした人が誰なのか全く思い出せない。思い出したい大切な事なのに、思い出せないもどかしさに切なくなる。
もしかすると、それは単なる思い込みであって、本当はそんな風に誘われたりした事など無かったのかも知れない。だが、夫であるジェフはそんな冗談を口にするような人物では無いのは確かだ。
レイナの心が少しだけ震えた。
「酔って……いるの? どうすればそんないい加減な言葉が言えるのよ? 私には……」
包み込むような穏やかな眼で自分を見詰めている岬が不思議でならなかった。その視線の先に在るものは一体何であるのだろうか? 少なくとも、浮ついた単なる一目惚れという訳でも無さそうに思える。
中性的で繊細な造りの自分の夫とは、外見どころか内面さえ全く違う両極端なタイプの男だ。
岬は身長の割に細身で引き締まった身体つきだ。日焼けしたような浅黒い肌と明るい茶髪と言う外見のせいで、よく他人から『遊び人』と間違えられて損をしている。けれど、時折口にする冗談と、その折に見せる優しい眼差しに誠実さが見え隠れしているせいか、全く信頼出来ない人物にも思えず、妙に惹き付けられてしまう所があった。
ホストの時の岬はどこか隙が無くて、レイナでも気後れしてしまいそうな凄味を持って居るのだが、今の岬は全く違っている。少しばかり人が良さそうな『ありきたりの一般人』くらいにしか思えない。恐らく、オンとオフの切り替えの差が激しいのだろうとレイナは思った。そして、そんな人物にずっと昔に出逢った気がしてならなかったのだ。
「貴方、どこかで……逢った?」
真顔で尋ねたレイナを見て、岬は軽く笑いながら『いいや』と首を横に振った。
人違いか錯覚だろうと言われた気がして、レイナの心が萎んでしまう。
「誘っているのか? 光栄だけど、そういうのは男の俺の方から言わせて欲しかったな」
今にもキスされそうな距離まで顔を近付けられて、レイナの心臓がドキリと跳ね上がった。呼吸どころか脈拍までが浅くなり、その音を岬に聞かれてしまわないだろうかと気が気では無い。
「べ、別に誘うだなんて、そんな心算じゃ……だ、大体、私には……」
「デートする暇が作れない? それとも外に出掛けるのが億劫? 俺とじゃ厭だとか?」
再び岬はレイナの言葉に被らせた。余程彼女の口から『その言葉』を聞きたくないらしい。
戸惑いを隠せなくなり、追詰められた気分になったレイナは、気圧されまいとしてキッと岬を見返した。
「ぜ……全部よ!」
咄嗟に心にも無い言葉を口にしてしまった。岬を意識する心算は無かったのだが、のぼせているように頬が、身体が熱くなる。レイナはそんな自分を岬に見られているのだと自覚せずには居られなくなり、更に肌が火照って熱くなる。
「なぁんだ……ガッカリ」
ニヤニヤしながら岬はそう言った。自分に余程自信があるのか、それとも単なる空気が読めない馬鹿なのか?
「ガッカリしているみたいには……みっ、見えないわよ」
「あれ? そう見える?」
「みっ、見えるわよっ!」
余裕のある言い方は、何が根拠なのだろうか? それとも単にレイナをからかって面白がっているだけなのだろうか?
少なくとも、レイナは此処で岬に劇薬を飲ませようとした。薬の詳細は教えられてはいなかったが、命の保障は出来ない危険な薬だと言う事くらい承知していた。それなのに、まさかその薬を自分が逆に飲まされて、効果の程を身を以って知る事になろうとは思いもしなかった。
薬で危うく死にそうになったのに、自分が殺そうとしていた男から助けられ、しかも今こうして彼の腕に抱かれて口説かれていると言う矛盾。
『何故?』
レイナの岬に対する疑いは、深みに嵌まって行くばかりだ。直接的な情事を要求するでもなく、金に困っているような事を話してはいたが、金銭を要求するのでもない。
「あのさ……」
岬が言い掛けた時、タイミング悪く携帯が鳴った。呼び出し音で判断出来るよう設定しているのか、岬は応対せずに素早く携帯を切る。
「ゴメン。急に帰らないといけなくなった」
「急患? それとも取立て屋さん?」
急に余所余所しくなった岬を見て、レイナは少しだけ不満を感じて厭味を言った。岬との時間を共有していた事が馬鹿らしくなり、過剰に意識していた自分が色褪せて見えた気がする。
「ん、そんなトコ」
情け無く言うと、岬はレイナの背に廻していた腕を緩めて拘束を解いた。
レイナは、さも穢らわしいものに触れてしまったわとでも言うように、素早く岬の腕を振り払って離れようとしたのだが、いきなり岬から両の二の腕を捕まえられて、再び強引に引き戻されてしまった。
「何をす……はッ? んッ……」
言い掛けた唇を強引に奪われた。
ほんの僅かなひと時……重ね合わせる程度のキスだったが、程好い弾力に包まれたレイナは、頭の芯が痺れて麻痺しているような感覚に陥った。
「また今度」
別れ間際、岬はやや強気に出る。呆然としているレイナの瞳を覗き込むと、自分の眼差しを強く焼き付けるように真正面から見据える。
岬からの強い視線を受けたレイナは、逃げ出す事も適わずにその場に立ち尽くしてしまった。彼女の動揺を読み取った岬は、ふわりと笑って背広を右肩に掛けると、彼女を残して部屋を後にした。
「辛い……」
立ち去った岬の後ろ姿を見送ったレイナは、そっと自分の唇に触れてみた。舌先に残った苦手な煙草の辛味と香りに、レイナは軽く眉を顰める。
悲しくも無いし、嬉しくも無い――何の感情すら持っていないと思っていたのに、何故か涙が零れて頬を濡らした。今まで、一瞬でも夫を含める男達とのキスが心地好いと思った事は無かったし、そんな事は在り得ないのだと思っていた。
この涙は、岬に心を一瞬でも奪われてしまった自分への悔しさからなのだろうか?
『また今度』――そう言い残した岬の言葉が、レイナの心を擽り、戸惑わせた。