第3話 潜入捜査
時間が来た。
『華』達は、それぞれが毛足の長いリアルファーのストールや薄絹のショールをふんわりと優雅に肩へ打ち掛けると、華奢なピンヒールで軽やかな音を立てながらフロアへと赴いて行った。
防音性の高い素材で造られたドアが堅く閉ざされると、辺りは異様な静寂に包まれて耳がどうにかなってしまいそうな不快感を覚えてしまう。
控え室に残っているのは、レイナ達三人だけだ。
「大丈夫ならいいけどぉ。イヴ、あんまり顔色も良くないよ? どうする? 今日はあたし達が交代しようか?」
二人はまだ心配している様子だが、レイナは細い首を力無く横に振る。
「ううん。大丈夫よ」
「だって、イヴ、もう髪染めている時間なんて無いわよ。いいの? そのままで」
「ありがとうチカ、小夜子。心配してくれて。でも、今日は取引が終わったダグラスさんが来る日でしょう? 会ってお礼を言うだけですもの。このくらいの怪我は大丈夫よ。問題無いわ」
彼女は蒼白い顔で微笑んだ。微かに解けた唇の色にも生気は無く、それが彼女の空元気だと言う事くらい、二人には判っていた。
「……」
チカと小夜子はお互いの顔を見合せて視線を交わした。レイナの事を気遣っているような素振りだが、彼女達の瞳の奥に潜んでいる得体の知れない暗い影に、レイナはまだ気が付いていない様子だ。
「はい。これぇ、少しは気分が良くなるよ?」
チカは、軽く気泡が出ている透明な飲み物が入ったグラスを差し出して、レイナに勧める。
「あ、ありがとう。丁度喉が渇いていたの」
炭酸飲料か何かだと思っていたレイナは、喜んでチカから飲み物を受け取った。
一口含むと、炭酸の弾ける感覚が喉の奥に染み入って心地良い。果汁のような甘さも酸味も感じられないが、喉越しの軽さから単なる炭酸水だろうと思った。
しかし、レイナがそれを飲んでいる間、小夜子はずっと後ろめたそうにチカの横顔を見詰めていたのだ。
「どうしたの?」
小夜子の妙な素振りに気付いたレイナは、小首を傾げて声を掛ける。
「えっ? な、何でも無いよ。そ、それよりもさぁ、此処って何だかヤバくない? ジェフに頼んで、三人とも何処か余所へ行かせて貰おうよ」
チカが何かを隠し立てするように話を逸らせた。すぐ傍に居た小夜子は顔を強張らせるが、レイナは二人の異変に全く気付いてはいない。
「そうね……」
チカの言葉に何となく賛同して頷いた。
他のホステスからの風当たりが強くなっていたのは、寧ろ当然だった。ジェフを介した雇い主からの指示で、このクラブへ遣って来てまだほんの数ヶ月。それなのに彼女達新人三人は、並み居る古参の売れっ子ホステス達を差置いて、あっという間にトップに上り詰めてしまったからだ。
最近では上客からの指名が捌けなくて、客同士での揉め事が軒並み増えていた。指名制度がエスカレートの兆しを見せ、彼女達三人の独占に、大金を振舞う客まで現れる始末。
ただでさえホステス連中から彼女達三人の存在が疎まれているのに、この状況は火に油を注ぐだけだった。彼女達を妬み、事を荒立てて面白がる者が居ても、三人の味方になってくれる者は誰一人として居ない。妬みや嫉妬は嫌がらせといった形で現れ、次第に彼女達の居場所を奪い、追詰めていた。
「で、でも、アタシは……この街を離れるのは嫌だなぁ」
小夜子が慌てた。
「そーよねえ。アンタには関谷が居るものねえ」
「い、いいじゃないのよ」
チカの突っ込みに小夜子は頬を膨らませる。
小夜子にはプライベートで知り合った彼氏が居た。有名大学や企業の肩書等一切持たない、普通のサラリーマンの男性だったが、小夜子がホステスであると知っても、変わりなく小夜子を大切にしているらしい。
レイナは、一途で純真な彼が居る小夜子を、密かに羨ましく想っていた。
「?」
グラスを手にして、二人の遣り取りを微笑みながら眺めていたレイナに、突然軽い眩暈が襲った。
彼女の手から、飲み掛けのグラスがするりと滑り落ち、彼女の身体がソファへ凭れ掛るようにして崩れる。長い亜麻色の髪が彼女の細い身体に掛かり、まるで彼女の姿を包み隠そうとしているようだ。
チカと小夜子は、毛足の長い絨毯へ零れ落ちた飲み掛けのグラスと、『薬』が効いてぐったりとソファへ身を預けた彼女の姿を交互に見詰めた。
「『会ってお礼を言うだけだ』って、それだけで終るとでも……イヴ、何も知らないんだ」
細い柳眉を寄せて、倒れたレイナを見詰めながら小夜子がチカに囁いた。
「そうね、何も知らない方がいいんじゃない?」
落ち着きが無い小夜子とは正反対に、眠らせたレイナの姿へ視線を這わせて、チカは平然としている。
「もう……もう、止めようよ」
「どうして? ジェフがそうしろって言っているのよ。こっちは前払いで貰っているし」
「でも……」
「これも『仕事』なのよ。それとも何? 自分に男が出来たからって急に良い子になるの?」
チカの黒目がちの大きな瞳が、彼女の身を案じて気の毒がっている小夜子を睨み付ける。
「そんな……あたし達、イヴを騙しているのよ?」
「なら、小夜子がイヴの代わりになってあげる?」
「そ、それは困るわ。だって、あんな男の相手だなんて……薬で眠らされていたって御免だわ」
小夜子は不快感を露わにして、レイナの肢体から眼を逸らせる。
「なら、小夜子は黙っていて。イヴが遣らないのなら、アタシ達のどちらかが遣らなくっちゃいけないんだもの。小夜子もアタシと同罪なのよ。お互い、裏切る事なんて出来はしないんだから」
「でも……」
チカは小夜子を説き伏せた心算だったが、小夜子の表情は硬いままだ。チカはそんな小夜子に業を煮やした。
「誰だって綺麗な鳥や蝶の羽を毟り取って、滅茶苦茶にして遣りたいと思った事はあるでしょう?」
「そんな……チカ、貴方って……」
小夜子から、信じられないという驚きの視線を受けたチカは、余裕の笑みを浮かべる。
「そうよ。あたしはイヴに嫉妬しているの。今頃気が付いたの? 鈍いわね」
「何を……何を言っているのよ?」
声が震えた。目の前で倒れて意識を失っているレイナが、鳥や蝶だとでも言うのだろうか? チカにとって、レイナはその程度の存在でしか無かったのだろうか? 平然と言って除けるチカに、小夜子は恐怖を覚えて身震いした。
「あたしって欲張りなの。イヴの代わりにはなれないけれど、イヴの周りにあるものなら、どんな卑怯な事をしてもあたしの手に容れたいんだもの……」
チカは倒れているレイナへ再び視線を這わせながら唇をきゅっと引き締めると、自分の胸元へ当てていた右手を、血の気が引くほどきつく握り締めた。
「チカ……貴方そんなにジェフの事が……」
「だったら? だけど、ジェフの頭の中にはイヴしか居ない……居ないのよ!」
はらはらと溢れる悔し涙を拭おうともせずに、チカは小夜子をキッと睨み付けた。
チカに睨まれて何も言えなくなった小夜子は、憐みの視線をレイナに落とす。
初めて会った時から、チカがジェフにご執心だったのは知っていた。けれどジェフには既にレイナと言う存在があった。
小夜子はチカとは違い、端整な顔立ちをした青年医師のジェフをどこか薄気味の悪い人だと感じていた。それは彼の何もかもが完璧過ぎて非の打ち所が無かった為、余りにも人間味が薄過ぎて、人が持つ温かみや感情を感じられなかったからだ。
* *
「あ、あの人女優の三上ユウと安城路ミホ。歌手のティーダも居る。で、その向こうは元レーサーのケント。格闘家のシボレー……うっわぁ〜スッゴイ! ……あっちでもこっちでも、皆TVや雑誌で見たことのある顔ばかりだわ。しかもナマよ? モノホンよぉ?」
そこは、映像で一度は眼にした事がある有名人ばかりが客として来ているフロアだった。身近で有名人に会えると知った南は、フロアの隅々までチェックの余念が無い。感激しながら眼の保養とばかりキョロキョロと周囲を見渡している。
ゲストの有名人達も凄いが、彼・彼女達をエスコートする店のホストやホステス達も、皆引けを取らない美男美女揃いである。
「南、みっとも無いぞ。遊びで来たんじゃ無い」
興奮して舞い上がる南を見兼ねた香川が、ゴツイ片手で彼女の頭を鷲掴みにして強引にくるりとテーブルへ向かわせる。
「あん!」
水を差されて南が膨れた。
「係長、此処で取引があるって情報、ガセじゃないでしょうね? 俺ァ何だか落ち着かなくって……」
不安気な表情をモロに浮かべた香川が、檜山へ問い掛けた。喜んでいる南とは真逆で、とにかく居心地が悪くて仕方が無いと言った様子だ。
「『係長』って呼ぶな」
檜山が不満そうに呟き、ウーロン茶を一気に呷る。
同席の香川とロブはともかく、口から顎にかけて髭を蓄えた檜山は、一見するとスーツを着たホームレスか何かと勘違いされそうな風体で胡散臭い。
「けど、何だか此処だけ浮いていません?」
ロブも香川の意見に同意して大きく頷いた。
幾ら勤務中とはいえ、檜山の存在だけでも十分浮いていると言うのに、クラブ内でのアルコールの無いテーブルは奇妙に見える。
「まあな。敷居が高いイメージがあって、俺も今までこういった処には全く寄り付かなかったが……プライベートで来るには感じの良い店じゃないか。店の娘も若い別嬪さんばかりだし、値段も思っていたより良心的だ。今度娘と一緒に来てみるかな?」
「娘……さん?」
ロブがあさっての方を見上げて顔を歪める。どうやらゴツイ檜山のDNAをそっくり引き継いだ女の子を想像しているらしい。
「奥さんとじゃないところが檜山さんらしいっスね」
香川がボソッと聞えるように溢した。
「ヤダ、檜山さぁん。オヤジ」
隣に座っていた南が香川に相槌を打つ。彼女は他店から客の檜山達が連れて来たホステスという設定でそれなりの格好をしてはいるが、流石にクラブ内の彼女達とは比べようが無く、気の毒なくらい霞んでしまっている。
「はあぁ? オヤジがオヤジらしくして何が悪いんだぁよ? 第一、カミサン連れて若いお嬢さん相手に酒が呑めるかってーの」
南の一言に檜山は開き直った。
「帰宅後に半殺しっスか?」
香川がニヤニヤと笑いながら想像する。
「うるせえよ。店出た途端に殺されらぁ」
檜山は仏頂面で再びウーロン茶を一気に飲み干す。
タキシード姿の店の男が、クスクス笑いながらトレーにカクテルを載せて現れた。
「どうしました? 此処だけ何だか変ですよ」
「変って言うな……うん?」
檜山が腕組みをしてムスッとしながら受け答えをするが、店の男に知り合いが居る筈がないと我に返り、慌てて声の主を仰ぎ見る。
「え? って、あ……あんだよ岬か? おまっ、ひょっとして……ホストってか?」
遣って来た店員の顔を拝むなり、香川が軽く腰を浮かせた。
「そ、似合う?」
岬は余裕を扱いて、軽く一同に流し目を遣す。
「ホストぉ?」
ロブの声が裏返った。
「これはまた……誰かと思ったぞ?」
檜山が意外だという表情で、岬の爪先から頭の天辺まで何度も舐め回すように視線を這わせた。
岬は、いつもの剃り残した無精髭を蓄えている二枚目半ではなくなっていた。毛先が痛んで元の色を失っていた髪をすっきりと短く切っている。肌が若干色黒の部分を差し引けば、爪先まで寸部の隙も無くそれらしい格好だ。これで笑顔を浮かべれば、素が結構女性受けする甘い顔立ちなので違和感無く受け入れられる。
「いや~ん、私、ファン第一号になって良い?」
「おまい、調子良過ぎだ」
「なんでよう」
見惚れた南が思わず顔を赤らめた。ついさっきまで周囲の有名人を漁っていた彼女の豹変ぶりに、思わず香川がボソリと突っ込みを入れて、南の機嫌を損ねてしまう。
「はい、これは南へ。俺からのプレゼント」
二人の遣り取りを見ていた岬が、苦笑しながら淡いピンク色のカクテルを彼女の前へ静かに置いた。グラスの縁には熟したオレンジが櫛型にカットされて綺麗に飾られている。
「きゃあ! ありがとう高城刑……んぐぐ?」
南が感激し、トーンを上げて歓声を上げた途端、左右に座っていた檜山と香川が慌て、同時に彼女の口を塞いで黙らせる。
驚いた南は大きな眼を白黒させて息を飲んだ。危うく公衆の面前で岬の正体をばらしてしまう所だったからだ。
=「南君、此処での肩書きはご法度だぞ」
=「だよ。こう言う所は『源名』ってのがあって、本名を隠すんだ」
檜山と香川が小声で南を注意する。
=「う……すみません」
南は小さく縮籠り、シュンとなって反省する。
「いや、自分は『ミサキ』で通していますよ」
岬は含み笑いをしながら奥へ一旦引っ込むと、ボトルとグラスのセットを持って再び彼等の前に現れた。
「な? 何のマネだ?」
檜山の顔が引き攣った。視線が岬の持つトレーへと引き寄せられる。トレーの上には高級ウイスキーのボトルと水割りのセットが乗っていたからだ。
ボトルのラベルを見るなり、檜山の髭面がたちまち曇った。
「しかも、何ちゅう年代物の『響』だよ」
プライベートでも滅多に眼にしない上物を持って来た岬を軽く睨む。
「このままじゃ周囲に警戒してくれと言っているようなものですよ。これでご不満なら、此方での最高級ワインをお持ち致しましょうか?」
後半はホストになりきった口調で決めた。中々様になっている岬を見た一同は、檜山を除いて『ほう』と感嘆の声を漏らす。
「ワインだなんて、ウン百万もするようなモノを、ローン持ちの俺に払えってか?」
檜山は縋り付くような情けない声を出したが、岬は意地悪な表情を浮かべて聞かない振りを決め付ける。檜山は最近住宅を購入したばかりだ。
「あ、今回は檜山さんにツケておきますね」
岬がしれっと言い放つ。
「な、なにぃ?」
「よっしゃあー!」
途端、場が一気に盛り上がり、俄かに活気付いた。一人、係長の檜山を除いては。
=「俺はロックでいいぞ……ん? どうした高城?」
岬の視線に気付いた檜山が岬に囁く。
「え? あ……はい、解りました」
岬はテーブルの傍で片膝を着き、水割りを作り始める。しかし、岬の視線は目の前の同僚ではなく、彼等の向こう側にある幾つものブースに居る誰かを捜している様子だった。
「ねえ、此処のクラブ『ラジェンドラ』って名前、神話に出てくる翼竜のドラゴンの事?」
南が岬の手元を見詰めながら、興味深そうに訊ねる。
「大元の由来はそうだけど『ラジェンドラ』は此処のオリジナルのリキュール名だよ」
南の質問に一応な受け答えしてはいるものの、気も漫ろと言った様子だ。
「例の『イヴ』とか言う女を捜しているのか? だったら今日は来ないそうだぞ」
見兼ねて檜山が気を廻す。
「えっ? あ、いえ。そ、それは……知っています」
「ザンネンだったなー? 初出勤でイキナリ空振りかよ」
香川が意地悪く笑う。
からかわれた岬はムッとして少しだけ頬を赤く染めたが、また直に真剣な表情に戻り、視線を檜山の背後で止めた。
「うん?」
檜山は岬の様子に気付き、自分の目の高さに合わせてロックグラスを持ち上げた。琥珀色のウイスキーを満たしたグラスの曲面が鏡となって彼の背後を映し出す。
そこには上流階級層とはおおよそ縁の無さそうな、一目で『それ』らしいと判るサングラスの男と、目鼻立ちのはっきりとした中近東方面の風貌を持った色黒顎鬚男が居た。その彼等と談笑して此方に背を向けている大柄な銀髪の男が誰なのかは不明だ。銀髪男の左右には、チカと小夜子が寄り添いしな垂れ掛っている。彼女達二人の様子から、銀髪男がこのクラブに幾度と無く足を運んでいる常連客だと見て取れた。しかも評判のホステス二人を従えている事から判断して、余程のVIPなのだろうと思われる。
「ほおぉお? ありゃあ手配中の臓器バイヤーのラル・ミーヤンじゃないか? 隣に居るのは麻薬密売人のセフェム? セフェム・アジャフか?」
岬は彼等に視線を逸らさずに、檜山の言葉に黙って顎を引いた。
「此方に背を向けている銀髪の色黒男が誰だかよく判らんが……」
「第二衛星の実業家……レヴィですね。間違いありませんよ」
岬が囁く。
「何? レヴィか?」
彼は、人種差別の標的にされて来た奴隷難民の人権を謳って、何度も暗殺されそうになったが、その度に奇跡的に難を逃れて生きている。『不死身の男』と称されている男だ。虐げられた歴史でしかなかった難民達にとって、レヴィは英雄的存在の男であり、コロニーの影の実力者だ。
「そんなのがあいつ等と同席しているのか」
他にも見知らぬ男達が三人。風体はどう見てもその辺に居る冴えないリーマンだ。差し詰め彼等が臓器や薬を捌いているのだろう。
「檜山さん」
先程まで調子を扱いて締まりの無かった一同の面構えが変貌した。檜山は承知したとばかり、彼等へ注意喚起の合図を視線で送り、顎を引く。
「まあ、今の所は動きが無いし……」
「そうでも無いですよ」
言い掛けた香川の言葉を遮ると、岬は檜山達の居るテーブルから唐突に離れた。
一瞬、岬の行動を訝った香川達だが、その岬の向こうで同じく動きを確認する。セフェムと同席していた背広組、そしてその後を追うようにしてラルとセフェムが其々席を離れて行ったのだ。
「檜山さん」
香川とロブがほぼ同時にソファから腰を浮かせた。二人が檜山に目配せを送り、追跡の是非を問うと、檜山は彼等に追跡許可の視線を返し、軽く顎を引いた。
=「行きます」
=「了解」
ロブはすぐに席を離れたが、香川は一旦立ち上がったものの、素早く座り直して、まだ口さえ付けていなかったグラスを掴んで一気に呷った。そして口元を手の甲で乱暴にぐいと拭って立ち上がる。
檜山と南が呆気に取られるのを後目に、香川は何事も無かったように彼等とは反対方向へ足早に消えて行った。
少し間を置いてから、檜山と南がそっと席を立つ。
* *
背中を強く突き飛ばされて、男はビルの谷間の壁に拉げた蛙のようにへばり付いた。男は既に何度も顔を殴られたらしく、口元が紫色に腫上がり血が滲んでいる。
「い、良いのか? 俺に手を上げるって事がどう言う事になるのか……判ってンだろうな?」
サングラスの男は僅かに残った虚勢を振り絞り、血の味がする唾を乱暴に吐き捨てた。彼は先程までクラブにいた臓器バイヤーの男――ラルである。
桐嶋署刑事のロブがラルの後を付けていたのだが、ラルはまんまとロブの裏を掻き、彼を撒いていた。口ほどにも無いと地元警察を舐めていたラルだったが、今度は別の男から追詰められている。見逃して欲しくても、無理だと言う予感しかして来ない。先に撒いた男とは全く違う『気』に気圧されて、ラルは今まで味わった事の無い不気味な恐怖を抱き舌打ちする。
ラルは懐からジャックナイフを取り出すと、乱暴にサングラスを投げ捨てる。左右の指には凶器になりそうな大きな宝石が付いた指輪が幾つも輝いていた。
ナイフをちらつかせて見せても、ラルを殴った男は微動だにしない。
「へへっ! 怖くなったのかよ? さっきの威勢はどしたい! ああ?」
ラルは凶器を手にした事で丸腰の男よりも自分が有利に立ったと勘違いし、男が怯んで竦んでしまったのだと錯覚したのだ。
薄暗い路地裏に微かに零れる明かりが、ラルの持つナイフの刃を残虐に光らせる。ナイフの刃先を上向きにさせて、左右へひょいひょいと器用に持ち替えて見せる。違法行為を生業としているだけあって、ナイフの扱いは手馴れたものだ。 その凶器が何人もの生血を啜っていたであろう事は容易に想像出来る。刃を上向きにして持つ事で、相手へより一層深い致命傷を負わせる事が可能だと知っているからだ。
ラルは左右どちらからでも切り込める状態にして構えると、薄ら笑いを浮べて自分よりも背の高い男を値踏みするように斜め下から睨め上げる。狂気に似た陰懺な光りを湛えた細い眼を更に細くすると、血の味を思い起こしているように、ゆっくりと自分の唇を舐め廻した。
「テメェもバラして遣らぁ!」
ラルは素早く斬り掛かった。
暗闇に青白い閃光が鋭い光の弧を描き、空を切り裂く甲高い音がするのだが、相手の男は予備動作無しにラルの動きを見切って最小限の動きでかわした。
何度遣っても同じだった。ラルは多々良を踏み、呼吸を大きく掻き乱す。自分の技量がこの男には全く通用しないのだ。
「この……畜生!」
ラルが舌打ちして吐き捨てる。自分は肩で大きく息を吐き消耗しているのに、男は呼吸一つ乱した様子さえ窺え無い。ラルにとってはそれが堪らなく腹立たしかったようだ。言葉にはならない雄叫びを上げて激昂し、歩を乱しながら大きくクロスを描くよう二、三度斬り掛かり、『突き』で男の顔面を襲った。
男は微動だにせず、目の前に迫った刃を左手人差し指と中指でピタリと挟み、完全に動きを止める。
「くっ!」
渾身の力を込めるのだが、押す事も引く事も儘ならず、ラルの身体が戦慄いた。
男は空いている右腕を巻き込むようにして肘を張り、流れるようにラルの内腕から深く懐へと一歩を踏み出して一気に接近する。
あっという間に男の右肘が深々とラルの顔面にヒットして、鼻が潰れる鈍い音がした。ラルは手からナイフを放り出し、悲鳴を上げて路上でのたうち回った。
男は喚くラルを無視して、落としたナイフの柄の端をタイミング良く踏むと、ナイフはくるくると回転しながら垂直に跳ね上がり、まるで意志のある生物のように男の手の中へと納まった。
「お前、スタミナ不足だ。無駄な動きが多過ぎる。防御も今一つ。なってないな」
男は冷静に分析しながらそう言うと、刃の部分へ指先を軽く宛がい、刃先の具合を確かめる。
「ふうん。状態は中々良いじゃないか」
自分の身に何が起こったのか未だに信じられない状態で眼を剥いたラルは、まだ血が噴出している鼻を両手で押え、戦意を消失して怖じ気付く。
「たっ、頼むっ。い、いい命ばかりは……かっ、勘弁してくれぇ……」
悲鳴混じりに懇願し、小刻みに何度も首を横に振る。ラルの顔は恐怖に引き攣り失神寸前だ。
男が無造作に一歩近寄った。
威圧感に縮み上がったラルが、声にならない悲鳴を上げて二、三歩後退りすると、ぱっと身体を翻して駆け出そうとした。けれど、腰が抜けてしまったのか上手く立ち上がれずに、その場で足を空回りさせてもんどり打ち、男に背を向けたままアスファルトの上を四つ這いで逃げ出す羽目になってしまった。
「った、助けてくれぇ!」
陰湿な薄汚い路地裏で、必死に泣き叫ぶラルの悲鳴が響く。
余りの取り乱し様に呆れたのか、ラルの様子を窺っていた男が動いた。
ラルの頬へと何かが掠る。
それが自分のナイフであることに気付くのに時間は全く掛からなかった。がたがたと震え上がりながら頬を片手で擦ると、生温かくてヌルリとした感触がする。薄暗い中でも、それが自分の血であることが判るのだが、極限状態に追い込まれている為に痛覚が麻痺しているらしい。
「よお、ひとつ訊いても良いか?」
男は懐から取り出した煙草を徐に銜えると、ラルのすぐ傍へ両膝を折って屈み込む。必死になったラルから刃物を振り回されていたにも関らず、何も無かったような素振りを見せて普通の口調で話し掛けて来る男の余裕に、ラルの恐怖心が一層強く煽られた。
「な、何を……?」
ラルの視線が無駄に宙を泳いだ。額には珠のような汗が噴出し、呼吸が一層乱れて苦しそうな表情を浮かべる。
「ジェフ・ランディアを知っているな?」
男が徐にライターに火を点ける。炎に照らし出されたその男の顔に見覚えがあったラルは、思わず眼を剥いて驚いた。
「あ、アンタぁホストの!」
クラブスの大半がホステス達だが、勿論ホストも控えて居る。ラルは最近見掛けない顔のホストが居ることを知っていた。無口で物静かなホストの岬は、新入りにしては目立とうとはせず、決して出しゃばる事は無い。分を弁えた男らしいとは思っていたが、ラルは岬の事を、どこか侮れなくて妙な雰囲気を持っている『気に入らない奴』だと言う印象を持っていた。
「無駄口はいい。答えろ」
岬は煙草の煙をラルの顔に吹き掛けた。呼吸を乱していたラルは、煙に激しく噎せ込んで涙を溢す。
「うっ、げほ! げほ! ……はっ、はいっ……し、知ってますっ!」
完全に岬に気押されて萎縮している。
「今、何処に居る?」
「バババ、バイオ・ケッ、ケミカルのラボに……いっ、居ます」
「そりゃ、この前までのハナシだろうが? 訊いているのは、奴の今の居所だ」岬は眉を顰めて凄んで見せた。「おちょくってンのか?」
すっくと立ち上がり、脅しの心算で片足を軽く後ろに引いて見せる。
蹴られると思ったラルが、またもや情けない悲鳴を上げた。両腕で頭を抱えて身体を縮めて丸くなり、防御しようとする。
「でで、ですから、いっ、今の奴の居所ですっ。いっ、一時はそこいらのホテルを転々としていましたけど施設が無いと、こっ、困るとかで……」
「はあ? 出戻りかよ? ってか、何処でそんなハナシになってるんだ?」
バイオ・ケミカルのセキュリティが先にジェフを見付けて引き戻したのか、或いはジェフの方から赴いて行ったのか……今の所、FCIにはバイオ・ケミカル社からの届出が、却下されたと言う情報は入っていない。通りで散々捜しても足取りが掴めなかった筈だ。
岬は自分達が無駄足を踏んでいた事を覚って自嘲した。
「ほ、本当ですう! ガセじゃねぇ。し、信じてくれよぉ!」
ラルはもう半泣きだ。
「だと」
岬は視線をラルに落としたまま、自分の後ろに控えている男に向かって声を掛けた。
「ああ」
相槌を打ったのは、相棒であるジンだ。彼はすぐさま踵を返してその場を離れる。
「も、もう良いですかい?」
ラルは岬がこれ以上危害を加えないと見て、逃げ出そうとする素振りを見せた。
「そうだな。じゃあもう一つ」
「え?」
「来て貰おうか。署まで」
「じょ、冗談。ここに来て、俺ァまだ何にも遣っちゃいねえ。アンタ警官じゃ無いし、逮捕状も無いってのにどうやって……」
眼を剥き、汗だくになって取り乱したラルに向かって、岬は黙ったままニヤリと笑った。