第2話 特命
「以上の条件でチームを編成。各自、単独での行動は控えて必ず拳銃を所持しておけ。拳銃使用の際は、細心の注意を払う事。いいな?」
大型肉食獣に因るものだと疑われる殺人事件が再び起こった。被害者はホームレスに変装していた麻薬密売人。彼は取引場所だと思われる公園内で、樹木に引き摺り上げられ、血塗れになって絶命していた。
しかも今回は岬達が居る桐嶋署所轄内での事件だった。広域に亘る凶悪事件に対して、各警察署は捜査範囲を拡大するため、隣接している警察署との連携を余儀無くされたのだ。
「遅れてすみません」
歪んだネクタイを直しながら、岬は足早にブリーフィングルームへと入室した。
思ったよりも道が混んでいて、芹澤との一方的な約束時間に若干遅れてしまったが、当然の事ながら打ち合わせは予定時刻通り既に始まっている。招集が掛けられた者全員が着席して居り、その中には見知らぬ署員の顔も交っていた。
岬はその面々と重苦しい空気に気圧されて居心地が悪くなり、所在なく頭を掻いた。
「遅ーい。何処で寄り道をしていたんだ?」
芹澤がちらりと岬を一瞥して顔を背けると、厭味混じりにそう言い放って露骨に顔を歪める。
「はあ……」
正式な手続きをして許可を貰っている休日に、いきなり呼び出されて『遅い』と文句を言われる道理に納得出来ないが、芹澤が岬の上司である以上無視する訳には行かない。
「『はあ……』じゃない! ……ったく。何だァ? 相変わらずの覇気の無さは!」
署内だけでなく、他の警察署から来た初対面の署員達が居る面前で、頭ごなしに怒鳴られた。打ち合わせの途中だった為、芹澤の声が殊更大きく室内に響き、居合わせた誰もが息を詰めて芹澤と岬に注目する。
大勢の視線を浴びた芹澤はハッと我に返り、目立った自分の言動を後悔した様子だった。
「は、早くそこに座れ」
「あ、はい」
ふと眼を逸らせたその先に、テーブルの隅で日本茶を啜っていた老人と視線が合う。
「お前さんも豪いのに見込まれちまったのぉ」
老人は悪戯っ子のような眼で、棒立ちに突っ立っている岬へ向かって器用にウインクを遣すと、カカカと笑った。
「こ、小島さん。聞えていますよ」
岬は小声で小島を嗜めながら着席するが、岬の声も完全に芹澤の耳へ届いていたらしい。こちらをキッと睨んで顔を引き攣らせた芹澤の肩が戦慄き、手にしていた書類に力が篭って皺が寄る。
不快感を露わにする芹澤の様子を面白そうに窺いながら、小島は尚も続けた。
「ナァ〜に。本当の事を言うて何が悪いんじゃ。わしゃあ何も嘘は言っとらんぞ」
「けど……」
岬は『もう止めてくれ』とばかり訴えるような視線を小島に送る。
只ならぬ緊迫感が周囲の空気を満たし、誰もが固唾を呑んで芹澤と小島、そして岬の三人を見守った時だった。
タイミング良く署内でサイレンが鳴り渡り、同時にマナーモードに設定していた筈の岬の携帯が強制的に鳴った。非常時のサインが携帯画面へ赤字で大きく点滅表示されている。
「ほぉお、お前にも『お呼び』が遣っと来よったか。これで暫くは上司の愚痴も聞かんでええじゃろうて」
「何だとォ?」
芹澤が真っ赤になっていきり立つ。
小島は芹澤とは同じ桐嶋署の署員だと言う事以外、上司・部下の関係は無い。 当然ながら小島の方がキャリアは上である。そのせいか、他の誰もが関わり合いになりたがらない芹澤に対しても、平気で厭味たっぷりに毒を吐ける唯一の人物だ。岬を庇っての事なのだろうが、芹澤には逆効果だった。彼を焚付けている事を気付いているのかいないのか? 岬にとっては、正直良い迷惑だった。
「小島さん、もう良いですから」
場の険悪な空気に堪らなくなった岬が口を挟んだが、余程重大な呼び出しなのか、携帯を握った岬が対応の為に立ち上がる。
「おい、高城! 何処へ行く? まだ会議は終わっとらんぞ!」
ピリピリした状況下での芹澤の鋭い声に場の空気が凍ったが、岬は芹澤に向かって軽く頭を下げると、勝手に退席してしまった。
上司に対しての余りな態度に、芹澤は言葉を失くして顔を引き攣らせ、全身を戦慄かせる。
「まあまあ、芹澤課長」
見兼ねた副署長の日浅が芹澤を宥めた。恰幅の良い体格に、いつも笑っているように見える眼鏡の奥の細い目が温厚そうな印象を与える人物だ。彼はにこやかな笑みを湛えながら席を立つと、表情とは裏腹に、半ば強引に芹澤の腕を取って立ち上がらせると、今度は押し遣るようにして室内を後にした。
「な、何が『まあまあ』ですか! 奴は私の部下ですよ!」
「そうでもあるが、この場合は違うよ」
「副署長!」
芹澤は通路を振り返り、今出て来たばかりの室内を見廻した。
重要な打ち合わせであるにも関わらず勝手に席を空けた岬に対して、署長や日浅を含む他の上司連中は、咎める処か一様に見て見ぬ振りを決め付けて平然としているのだ。幾ら岬が高城署長の息子であっても、こんな勝手が許されて良いものなのか?
芹澤にとっては、この光景が一種異様に見えた。怒りを通り越して呆れ返ってしまう。被害者が何れも犯罪者だとはいえ、人が残虐な手口で殺されているのだ。それなのにこの署内の結束力の無さはどうした事なのだろうか。
「君は此処に来てから、このサイレンを聞いた事は無いかね?」
苛立つ芹澤とは対照的に、日浅は穏やかに問い掛ける。
「あります。ですが何のサイレンかは存じません」
「そうかね。では、この署の七階より上と、地下三階より下には何があるのかは?」
「確か連邦の機関があると窺っていますが……え?」
芹澤はそこで初めてはっとする。
日浅は芹澤の様子を見取って大きく頷いた。
「彼は本来そこの人間なのだよ。表向きには桐嶋署の刑事になっておるがね。高城本人から何も聞いてはおらんかったのかね?」
「いえ、その……」
自分が一方通行で、部下の岬とは繋がっていなかった事に芹澤は気付いた。此処へ配属されて半年近く経つが、何をさせても中途半端な岬に業を煮やしていた芹澤は、初対面の印象が悪かった為に、岬とじっくり腹を割って話した事はただの一度も無い。それどころか、彼の話を聞こうとさえしていなかったのだ。
芹澤は神妙な面持ちで俯いて頷き、肩を落とした。
「その……とても……そうは見えませんが……」
* *
立っている岬の前には、白衣を着た一人の男性の立体映像(3-D)が映し出されていた。年齢は岬とほぼ同じくらいで、背は百八十五の岬よりも少し低い。武道を嗜み日頃から鍛錬を怠らないでいる健康的な岬とは違って、男は華奢な身体に、女性かと見紛うばかりの端正な顔立ちをしていた。けれどその眼鏡の奥の瞳は、何処か怪しげで陰惨な光を湛えている。
「彼がどうかしたのですか?」
男の顔には見覚えがあった。同時に不愉快な事を思い出し、岬は眉を顰めて3‐Dディスプレイを見据える。
「無論、彼が誰かは知っているな?」
白髪交じりの小柄な老紳士であるFCI(連邦中央統括機構)第九課所属部長の三島は、机上で両手を組み、深刻な表情を浮べて岬を見上げた。
「ええ。脳神経外科医のジェフ・ランディア。学生時、医学部開設以来の秀才だと評価されていた人物です。確か数年前にバイオ・ケミカル社の研究員になったと聞いていますが?」
脳神経外科医の彼がどうして製薬会社の研究員になったのか、岬は未だに理解出来ないで居る。彼はエリート一直線で、それこそ自分の恵まれた才能を鼻に掛けて相手を見下す態度を平気で執るような男だった。
「それだけではあるまい?」
三島は意味ありげな上目遣いをして岬を見詰めた。岬は三島が何を自分に言わせようとしているのかを察して機嫌を損ねる。
「桐嶋署の元上司、翠川玲奈のストーカー」
岬は口にしたくなかったその名前を喉の奥から振り絞るようにして言い、三島を恨めしそうに睨んだ。今日が彼女の一周忌である事くらい、知らない三島では無い筈だ。
「『元上司』……か。まあ良い。一時期、お前達は彼をかなり持て余しておったな」
岬の頬へ僅かな赤味が差す。
本庁から遣って来たキャリア組の玲奈は、業務面では非の打ちどころが無いほど完璧であったが、繊細な見た目の美しさからは想像がつかないくらい、自分の身の回りに関しては極端に無頓着で、しかも家事一切が出来ない不器用な女性であった。
彼女が異動で桐嶋署へ配属される以前、風邪から軽い肺炎を患って総合病院へ入院した事があった。その頃院内の薬局へ出入りしていたジェフと知り合い、一方的に見染められてしまったのだ。
早くから、彼の甘いマスクの奥に潜む残虐な光を敏感に読み取った玲奈は、彼に興味を持つ事が出来なかった。
異動とは言え、彼は自分から離れて行こうとする玲奈を許さなかった。そして、彼女の異動先の街まで追い掛けて来たのだ。
その頃からストーカーをするジェフの奇行に独りで悩んでいた彼女は、桐嶋署内で偶然、学生時代に彼と同期だった岬と知り合った。
岬が玲奈と知り合うきっかけを作ってくれたのも、彼の異常な執着心が在ったからなのだ。
玲奈から他の男の存在に気付いたジェフは、彼女の事を諦めて離れて行ったと思われていた筈なのだが……
「奴は一種、変質的な所がありましたからね。自分の毛髪とか妙なモノを彼女宛で署に送り付けて来た事もありましたから。けど、今回の件と何の関係が?」
「今から二十分前にジェフ・ランディアの失踪届けがバイオ・ケミカル社から提出された。だが、彼が実際に失踪したのは半年も前だ。自社で内々に事を収めようとしていたが、手に負えなくなったらしい。彼は大麻を大量に自社農園で栽培、精製して売捌いていた。それを組織に知られて脅迫されていた事が会社側に知れたのが失踪の原因……と、まぁそう言って来ておる」
岬は深く腕組みをして、胡散臭そうに三島を見上げると眼を細めた。
「よくある話じゃないですか? それに、どう見たって薬に携わったのは企業ぐるみでの関与でしょう? バイオ・ケミカル社は、先月破綻したミューズ社に次ぐ大手の企業だ。それがあろう事か一研究員の遣っていた事を知らなかった……では済まされない。言い逃れにしても一寸説得力がありませんよ。大方、失踪した序に別件か何かで発覚した麻薬関与の責任も、奴に押し付けたって所じゃないですかね? けど、これは所轄で何とか出来るのでは?」
岬の予測に、三島も同意だとばかり軽く頷いて見せる。
「彼には、個人的に多くの資金が必要だったようだ」
「と、仰いますと?」
「バイオ・ケミカル社は全面否定しておるのだが、彼が失踪する直前まで研究に没頭していたのは『人獣』の研究だったそうだ」
「は? ジン……ジュウ?」
岬は意表を衝かれて首を傾げた。
「聞き慣れない言葉だろう? これはうちの捜査で既に裏を取っている。私も初めは何を馬鹿なと一蹴してしまったのだが……事実この数日間で、大型の肉食獣に因るものと思われる殺人事件が数件起こった。お前は知らないだろうが、実は二十数年前にもこれと酷似した事件があったのだ。当時の人獣は三体。内、二体は爆死。一体は失踪したまま一時は足取りが掴めずにいたのだが、これも後に死亡が確認されておる」そこまで言うと、三島は口外するのを憚るようにぐっと身体をデスクに近付けて声を潜めた。「実はな、先に死亡した二体の細胞組織を軍が極秘で回収し、冷凍保存していたのだが、先日その細胞胚が盗まれていた事が発覚した。しかもこれがいつ盗まれたかさえ不明だ」
「巷で騒ぎになって、慌てて冷凍保管庫を調べたら無くなっていた……ですか?」
岬は大きく息を吐いて肩を聳やかすと、三島の言葉を言い換える。
「まあ察しの通りだ。管理システムの杜撰さが今回の事の発端を引き起こした要因とも言える」
三島は苦々しく顔を顰めた。その表情から、三島がシステムからの尻拭いを強要させられてしまったのだと観て取れる。
「それと今回の殺人事件が繋がる……と?」
岬の問い掛けに三島は黙って大きく頷いた。
「細胞胚を紛失……いや、盗まれたのは我々の落度だ。あまり考えたくはないが、失踪したジェフ・ランディアが今回の事件の重要参考人だと考えるに至ったのは、条件が当て嵌まり過ぎたからだ」三島は一息吐くと、組んでいた手を徐に組み直した。「勿論この件はわしの処で止めておる。お前は失踪したジェフ・ランディアの捜査と彼と関りを持っている可能性が高いと思われている人獣の捜査だ。ジェフに関しては、バイオ・ケミカル社がセキュリティを遣して未だに血眼になって捜しておる。彼が抵抗すれば最悪の手段を執ると仄めかしておるのだが、此方側としては、彼は重要参考人だ。手遅れになる前に先に手を打て」
「当時の人獣の特徴は?」
「三体は共に大型の猫科。唯一目撃者だったホームレスからの証言では、黄色っぽい体毛に、豹の様な斑点があったそうだ」
「豹? それって……」
岬の問い掛けに、三島は黙ったまま深く頷いた。
「豹……ですか。だから今回二人目の犠牲者が公園の樹木に引き摺り上げられて……」
「過去の件と今回の件が一致すればと言う前提で……の話だがな。今でこそ高性能のナノマシンだのと云われるモノが開発されておるが、当時の科学力で人を獣に変身させられる事が可能だったのかは疑わしい。科捜班(科学捜査班)は呪術等の類か、元々の遺伝的な要因……とコメントを残しておるそうだ」
岬はがっくりと肩を落とした。
「呪術……って、科捜班もお粗末な言い様ですね。理論的な尤もらしい検証さえ出来なかったのですか?」
「当時の回収された細胞組織には、人間の細胞との相違が認められなかったそうだ。これでは丁重に扱えと言われて管理に廻されても、杜撰に扱われてしまう訳だな。しかも死亡した三体の何れも犯罪歴が無い上、失踪届けですら警察の履歴データへ残っておらん。その為犠牲になった被害者は未だ何処の誰かも判らず終いだ。身元不明の民間人。結果がこれでは已むを得んだろう?」
「……」
「彼の捜査で『当たり』が来ている。いつもと同様、桐嶋署の者として捜査に付随しろ。大型獣の件だが、既に警察側が対応に取り掛かっている。お前は実質二股捜査にはなるが、双方の関連性は極めて高い。出来るか?」三島は一呼吸置くと、岬が黙って顎を引いたのを確認して後を続けた。「場合によってはその大型獣が人獣である可能性も在るわけだ。一部、上からは捕獲しろと言う意見も出ているが、それでは過去と同じ失態を繰り返すと見做して反対意見が多数を占めた。九課では射殺を許可し、処分と言う方向で任務完了とする。だが両件とも可能な限り表沙汰にはするな。報道規制は既に打っているが、そう長くは持つまい。今回はジンがお前のサポートだ」
「ジン……ですか?」
岬は不満そうな表情を浮かべる。彼はつい最近、薬品関連を扱う三課から九課へ異動して来た元研究員だ。運動能力、持久力ともに岬とは違って、満足な数値さえ出せない彼と組まされるのかと思うと、気が重くなった。
「そうだ。ジンでは不服か?」
「アイツが俺のサポート……出来るのですか?」
「本人からの希望だ。遣らせてくれと言って来た以上、遣って貰わなければ困る」
「理由はやはりバイオ・ケミカルですか?」
三島は黙って顎を引くが、それだけの理由では岬はどうしても腑に落ちなかった。
岬の居る九課は他の部門とは違い、非公開で捜査を行っているエージェントへの救命救急を目的とした部署だ。場合によっては地元警察と対立する事もあり、常識では到底考えられない過酷な状況下での救助活動が存在する為、体力や精神的スキルを強く要求される。
実験研究のデスクワーク専門である三課に在籍していた彼が、異動直後に発生した捜査へ自ら進んで名乗りを上げたのは何故なのか? 慎重な彼の性格を考慮すれば、無謀だとしか思えない。眼に見えない何者かが影で糸を操っているのではないかと疑いを抱いてしまう。
「バイオ・ケミカル絡み……ですか。俺、薬理は苦手なんスけど」
胡散臭さを感じた岬は思わずボヤいた。薬品関連には何か因縁めいた響きが感じられて、余り気が進まない。自分が面倒な事に巻き込まれそうになれば、平気で部下を切り捨てる三課の上司である田幡課長の遣り方を熟知しているから尚更だ。
「偶然だと思いたいのだが、バイオ・ケミカルの件へ示し合わせたようなジンの異動と言い……なにやら割り切れん部分があるようなのは否めんな」
「九課がこの件に関与するであろう事を予測しての異動……ですか?」
「あるいは」
三島は意味深な岬の言葉に頷いて見せる。
「まあ、昔から田幡課長は信用出来ない人物でしたからね」
「そう言えばお前も三課からの異動だったな」
三島は視線で以って、言葉が過ぎた岬を暗に注意した心算だったのだが、矛先が自分へ向けられたのだと勘違いした岬は、心外だとばかり仏頂面になった。
「俺の場合は例外です。暫く三課に行けと言って遣したのは三島さんじゃないですか。ジンと一緒にしないでくださいよ」
「はて、そうだったかな?」
「そうですよ」
「まあお前の件は別にするとして、表向きはジン本人からの異動申請だと聞いておるぞ」
「誤魔化さないでくださいよ。ったく。でも本人からの志願って……変だな。何か裏があると思ったのですがね」
岬はそう言うと急に黙り込んでしまった。田幡課長の名前を口にした途端、一層気が進まなくなるのは異動する前から毎度の事だ。
彼女は四年前まで岬の上司であった。業務へ難癖を付けては、しつこく岬へプライベートでの関係を迫っていたが、岬は全く相手にしなかった。彼女は今でも岬にとって個人的に疎遠にして貰いたい苦手な女性なのだ。
「田幡課長が一筋縄では行かないのは承知の上だ。だが、彼女は極めて大きな人脈を持っているだけに、わしも迂闊には手出し出来ん。しかもこれは内部告発になる。疑った結果『間違っていました』では済まされんのだぞ?」
「泳がせてみるのも手……ですか?」
「いや、彼女に鈴を付けても効果は期待出来そうも無い。却って此方がリスクを負う可能性が高くなる」
「そんな弱気でどうするんです?」
岬は両手を腰に当てて三島を睨んだ。遣り取りだけを聞いていれば、どちらが上官だか判らなくなりそうだ。
「わしを一刻も早く棺桶へ入れたがっておるのか?」
「まさか。何を馬鹿な冗談言ってるんです」
「ばっ、馬鹿とは何だ! 馬鹿とは」
岬に睨まれた三島は、一旦は反論したものの、心の片隅に何か引っ掛かりを感じたのか、再び考え直すように唸って腕組みをした。
単純な事件だと思われたのだが、三課の動向も無視出来ない。何より三島の長年の『勘』がざわめいているのだ。
「以後、通常時の連絡はジン経由で伝える。但し、ジンには他の者と同様、バイオ・ケミカル社の捜査にも就かせる心算だ」
「解りました」
* *
机上へ無造作にばら撒かれた何枚もの3‐Dカードを前にして、集まった捜査課の刑事達は歓声を上げて騒ぐ。
彼等が手にしているカードには、グラビア紙へ出てもおかしくないほどの美女が、際どいドレスを纏って写っていた。中にはドレスと言うよりも、幅の広い『紐』を身体に撒き付けただけのSMチックな女性もいる。野郎共は、それらのカードへ熱い視線を注いでいる。
カードは客引き目的の名刺カードだ。しかも、カジノで有名なカブラキ通りにある、高級クラブ『ラジェンドラ』ともなれば、各界の大物が頻繁に出入りしている場所で、このカードの美女達は、夜毎彼等の相手をする一流ホステスなのだ。
騒ぐ彼等とは対照的に、数名の女性刑事は壁の花になり、白い軽蔑の視線を彼等の背に浴びせ掛けていた。
「本当、鼻の下伸ばしちゃって……やぁ〜らしいったら……」
「何処がいいのよ。フェロモン丸出しでエロいだけじゃない」
女性刑事達は不快感を露わにする。
「何だ? ジェシカ嫉妬か?」
相川の眼が笑った。
「煩いわねっ! どうせアタシは貧相ですわよッ!」
「そういやお前、その胸は造り物で実は貧乳って噂があるんだっ……てっ! いっ、痛ってえぇ!」
「なにセクハラすんのよっ!」
フンと鼻息を荒くしたジェシカの細いヒールが、相川の足へと容赦無く突き刺さり、相川が堪らずに悲鳴を上げた。彼女を囃し立てる口笛や冷やかしが湧き、室内はまるで全寮制の男子校の有様だ。
「お前等……仕事中だぞぉ」
捜査係長の檜山は、彼等の態度に一抹の不安を募らせて情けない表情を浮かべた。
「良いじゃないっスか。俺等じゃあ滅多に拝めない垂涎モノの美女達だし」
相川が涙眼の顔を綻ばせながら、檜山を宥める。
「捜査は楽しい方が良いじゃないすか。ムサくてゴツイ野郎供を取り締まるよりも、こういう仕事の方が士気が上がるし、張り合いがあるってモンすよ」
傍に居た西田が、カードに夢中になりながら威勢の良い明るい声で相川の言葉を補った。
「判っているのか? この中の誰かが麻薬の取引と……っておい! 聞けよッ!」
自分の声へ全く聞く耳を持たない勝手な連中に、檜山は呆れて舌打ちする。
一枚を手にした谷口が、顔を綻ばせて短く口笛を吹いた。
「俺、なんか好みだな。この黒髪……」
「え? どれどれ」
彼の周りに、カードを漁っていた連中が手を止めて、我先に谷口へと押し掛ける。
「おいおい、何処の綺麗処だ?」
「コッチにも見せてみろよ」
谷口の手にしたカードを覗き込もうと、数人がにやけた笑いを浮べて割り込んで来た。
「そう、慌てるなって」
谷口が拡げた掌の上へカードを乗せて少し経つと、カードに組み込まれていたI・Cチップが彼の体温を感知した。するとカードに映っている、黒髪をアップにした紅い眼のホステスの3‐D立体映像が浮び上がり、同時にノリの良い音楽とクラブのCMアナウンスが流れた。男達の歓声が湧き上がる。
濡れたような漆黒の髪に、肌の白さが一際艶めかしい。淡いブルーのイブニングドレスを纏った映像の彼女は、思わせ振りに肩を竦めて媚びて魅せると、艶めかしく両手で優しく投げキッスをして魅せる。
「ちょっ!」
見ていていた一人が言葉を失い、続いて何人かが事の重大さに気付いた。
「な、馬鹿な。このホステス、亜麻色の髪にしたら……これって?」
「こ、こりゃあ……ウソだろ?」
――『翠川』主任?
* *
さらさらと微かな衣擦れの音がする。『彼女』達が居る『控室』には、何種類もの高級化粧品の香りが入り乱れ、咽返っていた。
時折囁き合っては、クスクスと優雅に笑っている者もいれば、今日の衣装を決められずに未だに悩んでいる者もいる。
彼女達は今日も自らをより美しく魅せようとして余念が無い。
「ねーえ、イヴ。その脚どうしたの?」
小夜子とチカが、レイナの傍へ擦り寄って来た。『イヴ』とはレイナがこのクラブで使用している源氏名だ。互いの本名は、三人とも知らない。
小夜子とチカは髪を高く結い上げて、身体の曲線に沿うように仕立てられた艶やかなピンクとブルーのチャイナドレスをそれぞれ身に纏っていた。
レイナは背中が大きく開いたマーメイドタイプの黒いイブニングドレスを着用している。大型のドレッサーを前に座り、裾が邪魔になるのか膝までたくし上げていた。そこから殆ど色素の無い白い素脚が覗いているのだが、彼女の細い左足首には白い包帯が痛々しく巻かれている。
「どうしたの? 今日、此処に来た時から気になっていたのよね。イヴってば、脚引き摺っているじゃない? 痛そうだよ」
「そうそう。危うく遅刻する所だったし。怪我だなんて……どうしちゃったの?」
「え? ええ……ちょっと……ね」
話を合わせて軽くあしらったのは、彼女自身が怪我をした時の事を覚えていなかったからだった。
気が付くと、レイナはいつものベッドの上だった。何故か長い髪も身体も濡れていて、寒さに震えて眼が醒めたのだ。その間、自分が何処で何をしていたのかさえ全く覚えていなかった。けれど、微かに舌先へ残っている血の味と匂いで、それが夢で無かったのだと判る。
何故? とレイナは自分に問い掛けた。意識が飛ぶ前までは、彼女は別の場所に居た筈だからだ。何処をどうして戻って来たのか曖昧な記憶で、肝心の部分を思い出せずに混乱する。
「痛……」
不意に痛覚がレイナを現実へ引き戻す。
顔を顰めて身体を折り、足首の包帯へと手を軽く押し当てるのだが、その傷に心当たりなど無かった。何処で誰が手当てをしてくれたのかさえ定かではない。
ただ、意識が殆んど無くなっていた自分が、見知らぬ男に抱き上げられた微かな浮遊感が記憶として残っている。恐らく、その男が傷の処置をしてくれただろう事は、朧気ながら判断出来た。
『れいな!』
少し掠れた男の声が、今でも耳底へ残っている。何処かで聞き覚えのある声質が、彼女の記憶の糸を弄っているように思えた。けれども、それでいて不快感は全く覚えない。寧ろ懐かしさを覚えるような、心地良い響きさえ感じる。
誰なのだろう? どうして自分の本当の名前を知っているのだろうかと思った。明るい栗色の瞳が、鏡を通して向き合っている自分の姿へ問い掛けているようにじっと見詰めるのだが、どうしても思い出せない。もどかしさに焦燥感が募り、切なくなって胸が熱くなるばかりだ。
「……!」
急に軽い耳鳴りがして、目の前が真っ暗になった。
血塗れの人の腕。随分低い視線からの、ショーケースに映った鋭い真紅の怪しい瞳。誰かの断末魔の叫び声と、飛び散る血飛沫に血塗られた腕。優しげに微笑む眼鏡を掛けた男。恐怖に怯えて歪んだ老人の顔……それら総てが、一斉にレイナの頭の中でイメージアップされ、スライド映像を見ているようにフラッシュバックする。
余りにも惨たらしい光景にレイナは思わず息を飲んだ。堪え難い不快感と恐怖に襲われて、ガタガタと身体が震えて来る。
レイナは断片的に次々と浮かんで来る情景を振り解こうと、激しく首を左右に振った。
優しく微笑んでいる眼鏡の男を除いて、他は彼女にとって全く見覚えの無い残虐なシーンだ。なのに余りにも生々しく、実際にその場に居合わせたような感覚さえある。まるで白昼夢だ。恐怖で身体の震えが止らなくなり、心臓の心拍数が上昇して呼吸が乱れる。
不意にぬるりと濡れた掌の感覚にはっとして、震える両手を目の前でそっと拡げた。
自分の両手が真っ赤な鮮血に染まっている――
堪らなくなってレイナは悲鳴を上げた。
目の前に映っている自分の姿に救いを求め、縋り付こうと腕を伸ばした。ドレッサーの前に置かれていた化粧品が薙ぎ払われて、勢い良く床へ散乱する。
『レイナ、君は僕のものだ!』
眼鏡を掛けて微笑んでいた彼の声が、耳元で聞こえたような気がした。
「イヴ、イヴったら!」
チカから乱暴に肩を揺らされたレイナは我に返った。不安と恐怖に怯えて荒い息を全身で吐く自分を、心配して気遣ってくれるチカと小夜子の曇った表情が視界に飛び込む。
「大丈夫?」
「え……ええ」
レイナは震えながら何度も頷く。そしてもう一度、震える両手を恐る々目の前で拡げて見た。
「……」
今のは幻覚だったのだろうか? 再び見詰めた掌には、血痕など何処にも付着してはいなかった。それでも、レイナは動揺を隠す事が出来なかった。薬を使用した時のような突然のフラッシュバックはこれが初めてでは無い。自分の執った奇妙な行動に、不安を抱いて怖くなる。
「な、何でも……無いの。本当よ。お、驚かせてごめんなさい」
震える自分の身体を止めようと、両手で二の腕を抱えながら必死に作り笑いを浮べた。しかし、その顔は蒼白だ。
居合わせた者が一様に驚いて、レイナ達三人を遠巻きに取り囲み見詰めている事に気が付いた。
チカと小夜子の手を借りて、震えながら必死の思いで立ち上がったレイナは、黙ってこちらを見ているホステス達へ畏まって深々と頭を下げる。
「ごめんなさい」
「煩いわね。もっと静かに出来ないの? 貴方一人の控え室じゃないのよ」
「良いわよね。何をしてもご贔屓にされていらっしゃるお方は」
レイナの様子を訝り、窺っていた者達それぞれが不満や厭味を吐き、或いは小馬鹿にして高笑いをしながら元へと戻って行く。
彼女達の敵意に満ちたきつい視線を肌で感じたレイナは、もう一度黙って頭を下げた。
それまで憤りを帯びていた空気は、何事も無かったかのように鎮まり、辺りは元の時間を取り戻す。
再びレイナはドレッサーの前へ座ると、気を取り直して細いブラシへ口紅を取ったのだが、未だ恐怖から解放されていないその手が小刻みに震えてしまい、口紅を上手く引く事が出来ない。
「もう、見ていられないわ。貸して」
小夜子がレイナの手からブラシをもぎ取った。小指と薬指にパフを挟み、慣れた手つきで口紅を差してやる。
レイナは軽く上を向いて薄っすらと唇を解き、瞳を閉じて小夜子に任せた。
「怪我の原因はお客さん? だったら、駄目よ。深入りしちゃあ……はい。OKよ」
「ありがとう……そうじゃないの。ちょっと私の不注意で怪我をしただけなの」
多分きっとそうなのだと無理矢理思い込もうとするのだが、それでも尚レイナの視線は、傷付いた自分の左足首へと吸い寄せられるように引き付けられてしまう。そしてジェフとは全く違う力強さを持った逞しい腕で抱き上げて、介抱してくれたであろう人物へ淡い想いを馳せずには居られなかった。




