表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
16/18

第16話 優しい反逆

 自動ドアが静かに左右へ開き、数人の気配が室内へ入って来る。レイナは丁度意識を取り戻した所であった。

「先生?」

「ああ、気が付いたようだ」

『先生』と呼ばれた白衣の男が応える。レイナはその低い男の声に聞き覚えがあった。

 そっと瞼を開くと、ぼんやりと目の前に白い天井が映る。そして霧が晴れて行くように、彼女の眼は徐々に視力を取り戻した。

 此処は何処なのだろう? 見覚えの無い天井を見詰めて、彼女は記憶の糸を弄った。そしてすぐ傍から、覚えのある煙草の残り香が漂って来たのに気付いたのだ。

 意識を失って眼を覚ます度に、不安と恐怖に怯えていたレイナは『眼を覚ます』事が嫌いだった。眼を覚ませば『あの男』がずっと自分を見詰めていた。薬品と血の臭いに包まれて、不安に怯える自分の表情を満足そうに見詰める、ぞっとするようなジェフの冷たい視線が、いつもレイナへ絡み付くように注がれていたからだ。

 けれど今は違っていた。煙草の香りは苦手であったが、その香を漂わせている男が自分のすぐ傍に居ると判った途端、不安な気持ちは掻き消されて、少しばかりではあったが安らぎさえ感じる事が出来る。

 煙草の主が覗き込み、彼女の視界へ入って来た。日に焼けた浅黒い肌が、男の羽織っている白衣と妙に適わない。

「気が付いた?」

「み……さ……」

 レイナの唇が解けて微かに動いた。

 薬の為か、全身の感覚がまるで無い。ぼんやりと見詰めたレイナの瞳へ映った岬には、いつもの快活そうな笑顔は無かった。見れば、彼の顔だけでなく、白衣から出ている手にも負傷したのか、至る所に大小のリバテープやガーゼが貼り付けられている。

「何が……あったの?」

 彼女は岬の姿を不思議そうに見詰めるが、彼女からはショックに因る一時的な記憶の混乱が窺えた。

「今、ガーゼを換えるから」

 彼女の問い掛けには答えず、事務的にそう言うと、岬は付き添っていた看護師二人へ向き直った。

「悪いけど、サージカルテープとガーゼの予備を取って来てくれないか? 持って来たこれだけじゃ足りそうに無いから」

 残り僅かになっていたテープの一巻きを手に取り看護師達に見せると、看護師二人は岬を残して退室する。

 病室へ独り残った岬は、慣れた手付きでレイナの胸元を肌蹴けると、ガーゼを固定しているテープをそっと剥がした。

 銛は彼女の背中から肺と心臓の一部を損傷させ、貫通していた。縫合されていた傷口には軟質のチューブが挿入されている。岬が術後の経過を確かめるように、埋め込まれているチューブに向かって軽く肌を押すと、チューブからは血が混じった透明の綺麗な体液が溢れた。感染等の心配は今の所は無いようだ。

「う……」

 薬によって痛みは全く感じられなかったが、触診で押されているという感覚はある。レイナは不安と羞恥心に顔を顰め、全身を強張らせた。

 続けて岬は冷静に聴診器で心音の状態と呼吸音を確認する。

「異常呼吸音の症状も無い……経過は良好だ」

 並みの人間ではこんなに早い回復は望めない。岬は半ば感心しながら鉗子でチューブを摘出して消毒し、ガーゼを取り替えた。テープも手持ちの分だけで事足りた。

 尤も、看護師達にテープを取りに行かせたのは口実だった。本当は、彼女達にレイナの異常な治癒能力を見せたくなかったからに他ならない。

 処置後、岬はベッドの傍へ跪き膝立ちになった。怪我をしている右手でそっと彼女の手を掬うようにして握ると、彼女の手がぴくりと軽く反応する。

「もう、大丈夫だ」

 穏やかな安堵の溜息を漏らした岬へ、レイナはゆっくりと顔を向けた。彼女自身、ヘリからの攻撃で銛が身体に貫通した瞬間からの一切の記憶が無い。

「ジェ……フ……は?」

 今度は岬の手が反応した。

「ジェフ? あそこに居たのは君と一頭の豹だけ……」

岬は彼女の表情から、豹が人間の姿に戻れなくなったジェフだったのかと気付いた。

 助けようと手を出した岬へ、あの豹は近寄るなと言った。レイナに一緒に来るようにとも……その時は豹が喋ったのか、獣人の血を持つ自分が豹の言葉を理解していたのかさえ判断出来なくなっていた。言葉が理解出来た事実に驚いてしまい、岬は獣が何者であったのかを特定する冷静さを欠いていたのだ。

「……そうか」

 岬は溜息混じりに呟くと、顔を伏せてゆっくりと首を横に振る。

 言葉に出して言わなくても、ジェフが助からなかったのだと察したレイナは、柳眉を寄せて軽く息を乱した。薬によって感覚を失っている彼女の手が、包み込んでいる岬の手の中で弱々しく縋り付こうともがく。岬はその手をもう片方の手でそっと包み、彼女の震えを抑えるようにしっかりと握った。

「レイナ、黙って聞いてくれ」眼を閉じると、神妙な面持ちで静かに彼女の耳元へ囁く。=「君が通常の人間よりも、短時間で代謝や回復が出来る特殊能力を持っている事を知っているのは、多分俺だけだ。今は薬で感覚が麻痺しているだろうが、無理さえしなければ君はもう独りで動く事が出来る……」

 岬は言葉に詰まった。そして、何かを振り切るように首を横に一頻り振ると、白衣の内側からケースに収めてあった注射器を取り出す。

「な、何をするの?」

 レイナは岬が手にした注射器を見て怯えた。

「何って……」

 思いもよらなかった彼女の反応に、岬は口篭ってしまった。そして、出会った時に解毒剤を投与した注射器を見て、彼女が異常に怯えていたのを思い出したのだ。ジェフ達医師から彼女が随分と酷い目に遭わされて来たであろう事が窺えた。

「痛覚以外の感覚を取り戻す為の薬だ。別に君へ危害を加えるような物じゃない」

 そう言って点滴のチューブへ針を刺す。薬を注入した後、彼女の腕から点滴の針をそっと抜き取った。内出血しないよう厚めに折った不織布をテープで圧迫固定すると、岬は彼女の耳許へ更に声を落として囁いた。

=「レイナ、君は此処から逃げ出すんだ」

「みさ……き?」

 レイナの明るい栗色の瞳がくすんだ。

=「既に此処もマークされている。けど、逃げ出せるチャンスは手薄になっている今しか無い。俺が連中を引き留めておくから、君は逃げるんだ。誰も手の届かない何処か遠くへ」

 岬はドアの外の気配を窺いながら、隠し持っていた拳銃を背後からそっと取り出した。慣れた手つきで素早く弾倉を引き出し、装填されている弾を確認する。

「『一緒に』って、貴方は言ってくれないの?」

「すまない」

 彼女の言葉で一瞬息を止めた岬は、困った表情を浮かべると視線を逸らせて項垂れた。

 既に彼女の意識が戻ったと言う知らせを受けたジン達が此方へ向かって来ている筈だ。岬はFCIとしてレイナの身柄を引き渡すしか無いが、それは彼女との死別を意味している。彼等が来るよりも前に彼女を無事に逃がすしか方法が無かった。けれど、ジン等が現れなくても岬に勝算は皆無だった。

 彼女について行って遣りたくても、状況がそれを許してはくれない。自分がレイナの盾となって彼等を喰い留めなければ、此処からの脱出は不可能だと判っていた。

 彼女を助けたいと願う気持ちは強いが、だからと言って仲間へ向けて引き金を引く気にはなれない。そして彼等を撃つ事が出来なければ……それが何を意味するのかを、岬は十分理解していたのだ。

「駄目……」

 レイナは力なく首を振り、細い腕を伸ばして銃を握っている岬の左手を優しく抑える。

「此処に残っていれば、君はいずれ間違い無く殺される。それでも良いのか?」

 焦る岬とは対照的に、レイナは何も言わずにゆっくりと岬を見上げて穏やかに微笑んだ。

 彼女のその表情に驚いた岬の視線が釘付けになる。


――玲奈!


 思わず声に出して叫びそうになった。出逢ってから一度も笑顔を見せた事が無かったレイナが微笑んだのだ。

 見てはいけないと強く意識していても、否が応でも玲奈と二重写しに見えてしまう。そしてこの微笑みは玲奈の『身体』が、覚悟を決めた岬への最後の想いを聞き届けてくれたからなのか? そうとも取れて、岬は切なくなった。

「もう……もう充分だよ」

 命令で幾ら危険な眼に遭うとは言え、死ぬのが怖く無いのかと聞かれれば誰だって怖い。それは岬であっても同じだ。岬が辛うじて今までのミッションをクリア出来ていたのは、死への恐怖から逃れたいと思う強い気持ちと、助かる為の一縷の希望を見付け出す事に長けていたからだ。

 だが、此処での岬の決心は今までの時とは条件が全く違っている。この道を選んでしまえば、自分が助かる確率はゼロに等しい。怖くないと言えば嘘になるが、不思議な事に『レイナ』の微笑みを見た瞬間、それまで駆り立てられていた恐怖から解放され、優しく癒されたような気がしたのだ。

 岬の覚悟を覚ったレイナは、途端に表情を曇らせる。

「止めて! 危険な事はしないで」

「俺は……俺は嫌だ! 君を……」

 岬は首を強く横に振り、昂って言葉を詰まらせる。

 レイナの瞳が一瞬大きく見開かれた。

『君を……』その後に続く言葉はなんであったのだろうか? 

 ずっと、岬が自分と写真の彼女とを重ね合わせているのだと勝手に思っていた。彼が自分へ優しく接してくれるのは、彼女と同じ容姿だからであって、決して自分へ向けられたものでは無いのだと思っていた。

 嘘でも良いと身を委ねたのはレイナ自身だ。それでも心の何処かで振り向いて欲しいと、叶えられもしない儚い望みを抱いていた。

 けれども今、岬は命を賭けて自分を逃がしてくれると言っている。『彼女』の身代わりとしてではなく、岬は『レイナ』としての自分の事を想ってくれていたのだと気付き、彼女の心は大きく揺れた。

「止めて……お願い」

「覚悟はもうとうに出来ているさ」

 岬は表情を緩めて優しく笑ったが、その笑顔は何処か哀しそうだ。想いを振り切るよう直ぐに真顔へと戻ると、銃を手にして立ち上がる。

「駄目!」

 立ち上がった岬へレイナが素早く反応して半身を起し、彼の腕へ必死になって追い縋る。

 本気で岬が自分の代わりに『死』を覚悟している事を覚り、胸が一杯になった。『私を見て欲しい』……そんな自分の想いが叶えられた代償として、次は彼を失わなければならないのだろうか? 

「良い。もう……良いの。お願いだから止めて」

「レイナ?」

「私の……私の事は……忘れて」

 やはり岬に想いを寄せる事は叶わない願いだったのだと思った。

 自分は人獣――岬とは棲む世界が違っているのだ。今此処で、岬が人獣である自分の為に命を投げ出す必要など無いと思った。叶えられもしない望みを抱き、彼の想いを感じ取って舞い上がってしまった自分は、何て愚かな事を考えていたのだろうかと。

 自分の身体を通して岬が見ているもう一人の『玲奈』。彼女の存在が重くレイナの心に圧し掛かる。

 岬を見詰めるチカの存在を歯痒く思った事はあったが、これほど一人の女性を恨めしく思った事など無かった。岬と共に在りたいと一瞬でも願った自分がとても惨めに思えてしまう。

 やはり岬が救いたいのは『あの女性(ひと)』なのだ。岬が救えなかったあの女性を、今の自分に重ね合わせている……それだけなのだと無理に思い込み、レイナは自分の想いを諦めて振り切ろうとした。

「レイナ? 何を言い出す……」

「死のうと……死のうと思っていたの」岬の言葉を遮るように、ぽつりとレイナが漏らした。「貴方のマンションを離れてから、私はずっと貴方の後を追っていた。貴方が事件現場へ行った時、そこで私はチカや小夜子達を殺めたのが自分だと知ったの。獣になった私が彼女達を……私は殺人者なの。殺されて当然なのよ」

「レイナ、違……」

 それは変身した彼女が人としての意識を取り戻すより前の事だ。

 思い詰めた表情で息を乱して告白するレイナに気圧されて、彼女の言葉を遮る事が出来なかった。岬は彼女が心の何処かで生きる望みを失い、諦めようとしている事を鋭く感じ取ってしまった。

「でも……でも死ねなかった。必ず刹那に変身してしまう。私の中に居る獣が、死のうとする私を許してはくれない……自分で自分を殺せないの。だからお願い」

 顔を上げた彼女の肩から、銀色の髪がさらりと流れた。あの美しかった亜麻色の髪が、どれだけ思い詰めれば……どれほどの恐怖を味わえば色を失くしてしまうのだろうか。

「……お願い。こんな私なんか……忘れ……て」

 無理に笑顔を見せようとした彼女の頬へ、不意に大粒の涙が伝い零れ落ちた。濡れた明るい栗色の瞳へ、戸惑いの表情を浮べた岬が映し出される。

 彼女の涙を見てしまった岬は、力無く項垂れた。そして居た堪れない辛さに眼を細める。彼女の存在が今にも消えてしまいそうで、とても儚く思えてしまう。

『俺では……俺では駄目なのか?』そう訴え掛ける心の声を、彼女から涙で以って拒絶された気がして虚しくなった。

 あの豹と……ジェフと逃出す事は出来ても、逃げろと言う自分の言葉は聞き容れてはくれないと言うのだろうか? 

 銃を握っていた岬の腕が、ゆっくりと力を失う。


「やれやれ。お姫様に泣いて頼まれちゃあ、ナイトも形無しだな」

 ドアが開いて見慣れた黒髪の男が現れるが、彼の右手には拳銃が握り締められ、銃口は既に二人を捕らえていた。

「ジン……」

 彼が遣って来る前にレイナを逃がそうと思ったのだが、間に合わなかった。岬は万事休すだと観念して眼を閉じる。

「二人とも、そのまま動くなよ」

 そう言って駆け寄ると、素早く岬の銃を取り上げて後ろ手に拘束する。岬は抵抗する事無く素直に従った。

「お前には借りが出来たよ」

「彩香を見付けたのか?」

「ああ」しかし、言葉とは裏腹にジンの表情は暗かった。「I・Dのダビング装置の中に居たよ。生命維持装置の中にな。お前が予測していた通り酷いもんさ。あれじゃ連絡すら遣せ無い。維持装置も予備電源に切り替わっていた。あともう少し遅かったら……」

 ジンはそう言うと言葉を詰まらせた。言葉には表せないほど彼女の状態はかなり深刻だったのだろう。


 通常、I・Dダビング装置は人工的に処置されている電脳サイバノイドに対してのみ適応される専用更新機器であって、心身ともに健全な生身の人間を装置に掛ける事は違法行為であり、現在では全面禁止されている。

 膨大な容量の個人データをデジタル化して読み取りコピーを興す際、人体に有害な電磁波が一気に読み取り側の身体へ流れて危険な状態に陥ってしまう。体内機能を侵された部分から壊死を起こし、適切な処置を怠るとやがてオリジナルは死亡する。万が一、助かったとしても植物状態になった症例が多い。これらの原因を解明して装置の使用限定化を法律化し、厳重に管理設定されるまでの期間、事故が多発していた代物だった。


 行方不明になっていた彩香は、生身の身体であったにも拘わらずバイオ・ケミカルのラボでこの違法処置を施されていたのだ。

「彼女の意識障害は?」

「辛うじてレベル三。バイオノイド処置をすればそれも無くなる。元の彩香に戻れるんだ……リハビリには少し時間は掛かるけどな」

「そうか……良かった」

 岬はほっと胸を撫で下ろす。

「良かっただぁ? 事がそれだけで済んでいれば、俺だってそう思うさ」

「……」

「田幡はこの女を蘇生する為に俺の彩香を利用したんだ! 在りもしない社外秘のデータを持ち逃げした犯人に仕立て上げて。……あんまりじゃないか! 犯人扱いされた彩香は、俺以外の誰からも捜索して貰えなかったんだ。たった一人で半年以上もあんな所に……畜生! それだけじゃ無い。他にも何十人ものI・Dデータがヤツのファイルからわんさかと出て来た。少なくともこの女の頭の中には二、三人以上のI・Dが入っている可能性がある」

 ジンはそう言い、レイナへ向かって乱暴に顎を杓った。

 レイナは突然自分の事を引き合いに出されて驚き、表情を強張らせる。

「知っている」

 岬は穏やかに肯定した。

「だろうな。お前の態度を見れば判るよ。けど、彼女の他に誰のI・Dが使用されたのかまでお前に判るか?」

「他国のエージェント」

「そこまで知っていやがって今までずっと黙っていたのか? この女の頭の中には、俺達でも知らない、現在使用されている他国の国家機密情報や解除コード云々が、潜在的におまけとして具わっているんだぞ? 既にコイツが気付いているのか、否かは判らないがな」

「ああ。けど、彼女はまだその事に……」

「この女がその気になれば、戦争も滅亡も思いのままだとは考えなかったのかよ?」

 岬の答えを待たずに、苛立つジンは一気に捲し立てる。


「蘇生? パスワード? 戦争って……一体何の事?」

 思い掛けないジンの言葉に、レイナは答えを求めようと岬を見詰めたが、岬は彼女の視線から逃れるように顔を背けた。

「今の処は何も思い出せてはいないみたいだな。だが、いつ何がきっかけで思い出すかも知れない。FCI内部からでさえ不穏分子でこの有様だ。田幡だけじゃない。踊らされた俺も俺だが……いずれこの女の頭の中を巡って、もうひと悶着ありそうな厭な予感がするよ……で? これからお前はこの女をどうしようとしていたんだ?」

 岬はジンの言葉に顔を伏せた。訊くまでもない状況に、ジンはふんと鼻を鳴らす。

「此処で俺に見逃してくれと言っても、そいつは無理な相談だからな。それはそれ。これはこれだ」後ろ手に廻された岬の両手首へ、電磁手錠を掛ける。「悪く思うなよ。これが仕事なんでね」

「ああ……判っている」

 自分を逃がそうとしていた岬が目の前で拘束された。レイナは不安に怯えながら岬を見守っていたが、ジンに連行されると知った瞬間、レイナはベッドから身を乗り出し、腕を伸ばした。

「岬……ま、待って!」

「近寄るなッ!」

 レイナの反応を警戒したジンは、拳銃を素早く彼の後頭部へ押し当てる鈍い音がした。

 岬が痛がって顔を顰める。

「動くなよ? お前が動けば、コイツがどうなるか解らないぞ。それに、今更逃げ出そうったって無駄だからな」

 ジンは鋭い一瞥をレイナに送って牽制する。

「ジン、本気か?」

 岬は呻った。

「悪いな。零距離なら、お前のインターセプタを俺でも中和出来る」

 緊張したジンの表情から、それが唯の嚇しでは無いのは明らかだ。興奮気味のジンの態度に、気弱になったレイナが息を飲んで怯える。

「止せ! 彼女を刺激するな!」

 鋭い岬の一喝が飛んだ。レイナの変身は、恐怖や憎悪と言った負の感情の昂りに起因している。ここで彼女を怯えさせ、変身させるような事があっては絶対にならない。

「レイナッ!」

 一際大きく張り上げられた岬の凜とした声に、はっと我を取り戻す。レイナはがくがくと大きく震えながら、助けを求めて岬を振り仰いだ。

「大丈夫……だから」

 岬は精一杯の虚勢を張り、笑顔を作って彼女の視線に応えると、ジンから促されて病室を出て行った。


  *  *


-「オヤジは何て?」

 数時間後、留置所に居る岬へジンが面会に遣って来た。面会は各監視室内に設置されているモニタでの遣り取りになっており、外界とは一切遮断されている。岬は簡易ベッドの上で、壁に填め込まれているモニタへ向い、胡坐を掻いて座っていた。

「三島さんの事か?」

-「当たり前だ。他に誰が居るよ? 変な事を聞くな」

 九課へ異動して日が浅いジンは、岬の父親が彼の通常勤務先の桐嶋署の署長だと言う事をまだ知らなかった。

 岬の返事に呆れながら、ジンは手にしていたカードキーの向きを持ち替えると、部屋のドアロックを解除した。

「出ろ。釈放だ」そう言って顎を杓る。「連絡、あれから在ったんだろ?」

岬の反応をジンは暫く窺った。けれど、その表情からは何も読み取る事が出来なかった。

「無かったのか? ……って、返事くらいしろよ」

 岬が黙ってノロノロと重い腰をベッドから上げると、痺れを切らせたジンが不満そうにぼやいた。

「いっその事、このままずっと俺を閉じ込めていれば良かったんだ。そうすれば俺は諦められるのに」

 弱音を吐いた岬は、虚ろな目でジンを見据えた。

 岬が何を考えているのか、表情からも、眼差しからも何も読み取れない。得体の知れない『何か』を感じ取り、ジンは思わず気後れしてしまった。そしてまた『玲奈』を失ってしまった『あの時』と同じ眼をしているのかと同情する。

『彼女』は『レイナ』でもあり『玲奈』でもある。あらゆる違法処置に手を染めた男から、失った命を黄泉から現世へと再び引き戻されてしまったのだ。しかし、蘇生された身体であると雖も、自我を持つ一人の女性である事には違いない。まして『彼女』は岬の大切な女性なのだ。

『玲奈』を亡くして間が無かった頃の岬をジンは知らないが、周りの者から彼がどれだけ荒んでいたのかを聞いて在る程度は理解している心算だ。大切な人を奪われてしまうと言う嫌な想いは、ジンも同様に味わって判っている。それこそ何度身を引き裂かれそうな想いを味わえば楽になってくれるのだろうかと、自分の不幸を呪い、あらゆるものに嫉妬した。それだけに今の岬が余りにも不憫に思えて辛くなってしまう。

 だが、時間は容赦なく刻一刻と過ぎて行く。

 ジンは岬に、レイナとの最期に一目逢わせて遣ろうとしていたのだ。

 FCIでの決定は過去に一度も覆った事はない。ジンが岬にして遣れる事と言えば、彼女と逢う為の僅かな時間を捻出して遣るくらいしか出来なかった。

「もう時期生身の彼女には会えなくなるんだぞ? 上からの許可は取っている。さあ、彼女に別れを言って来い」

 ジンから背中を乱暴にどやし付けられ、気の乗らない素振りをする岬は、勢いでニ、三歩前に詰んのめり転びそうになる。

「彼女には最新鋭のサイバノイドが用意されている。ちゃんとアッチの機能も搭載されてな。試せば良いじゃないか」

「そういう問題じゃない。サイバノイドはオリジナルの身体が基本となっている。彼女の場合、全身フル換装だ。所詮、IDを持った最新型の『人形ドール』だよ」

「『ドール』って……そんな蔑称を……第一、彼女は量産タイプじゃ無いんだぞ?」

「俺から見れば同じだっ!」

 岬は項垂れていた頭をついと上げ、ジンを真っ向から睨み付けた。その気迫に打たれたジンは、一瞬怯んで息を飲む。

「彼女がそうしてくれとでも言ったのか? 馬鹿な……彼女はそんな事……俺だってそんな事を望んでなんかいない」

 岬はジンの額に掌を宛がうと、『気』を込めた瞬発力で強く押す。

「痛てっ!」

 堪らずに声が漏れた。殴られた訳では無いのに脳へ直接衝撃が伝わり、一瞬くらりと眩暈を起こす。

「頼むから……もう放っておいてくれ」

 力無く呟くと、岬は少し足元をふらつかせながらジンに対して背を向けた。両手をポケットに突っ込み、レイナの居る方向とは全くの逆方向へ、背中を丸めて歩き出す。

「あっ痛う~いーててて……って、そっちは違うだろ? おい! 何処へ行ってる? もう時間が無いんだぞ?」

 押え付けられた頭に手を当てて、ジンは岬の後姿を見送った。そして深い溜め息を吐いて肩を落とす。

 その背中はいつもより小さく見えた。岬の気持ちを察して遣れる分、ジンは掛けるべき言葉が無かったのだ。

 違法行為であるにも拘わらず、レイナは彩香が酷い眼に遭わされた時と同様、I・Dダビング装置に掛けられる事になっていた。彼女のI・Dを完全電脳タイプのサイバノイドへダビングして定着させた後、彼女の生身の身体は全て焼却処分するという恐ろしい処置が下されていた。それは獣へ変身してしまう彼女のDNA一切を、後世に遺さない為の配慮だった。表向きにはレイナは存在する事になるのだが、事実上は彼女を処刑するのと何ら変わりはしない。

 岬には、彼女の記憶を電子化して遺す事に何の価値も見出せなかった。要は、連邦側が他国のエージェントのI・Dを使用されていた事実を見逃がさなかっただけだ。彼女がどれだけの国家機密を深層意識下へ施されているのか、その秘密を確認したいだけであり、その為に用意された特別な選択肢に他ならない。

 勿論、レイナが望んでなってしまった身体では無い。彼女こそが被害者なのだ。


「やはりのぉ……素直に向かわなんだか」

 岬の背中を見送るジンのすぐ後ろで、聞き覚えのある老人の声がした。急に現れた気配に驚いて振り返ると、いつも桐嶋署の片隅に居る小島だ。

「こ、小島さん? うわ、酒臭ぇ~」

 強烈なアルコールの臭いを撒き散らせる小島は、赤ら顔でフラフラと足元が覚束ない。立っているのがやっとだと言う感じだった。この様子ならば、先ほどの岬との会話も聞かれてはいないだろうが、一体いつからそこに居たのだろうか?

「まだ昼前ですよ?」

 ジンは小島が苦手だった。仕事らしい仕事もせずに、毎日桐嶋署の応接室で署員と詰将棋に明け暮れている、暇潰しの隠居老人だと思っていたからだ。

「いつ飲もうとわしの勝手じゃろうが。わしゃぁ夜勤明けなんでな」

「はいはい。待ち切れなかったんですね? ご自宅に帰って続きをどうぞ」

 この老人が夜勤などを任されたりするものだろうか? ジンは小島を疑いながら、鬱陶しそうに片手をひらひらさせた。強いアルコールの臭いが鼻について堪らない。

「岬の事じゃ、相変わらず自分の事となると極端に消極的になりおるわい」

「心配ですか? ヤツの事が」そう言った後小声で=「自分の心配をしろってンだ。帰れっつってるのに聞いてねーし」と毒づく。愛想笑いをしたものの、ジンは小島の対処に困り、片手で額の生え際を掻いて眉を顰めた。

「わしがかぁ? さあてな……ジン、ちょっとコッチャに来いや」

 小島はそう言ってニヤリと笑い、ジンへ手招きして見せる。

「タダ働きは御免ですよ?」

 胡散臭く思ったジンは警戒しながら、彼の後をついて行く。

どうして自分がこんな酔っ払いの爺さんなんかとつるんでいなくてはいけないのだろうか? ジンはムッとなって口を尖らせながらそう思った。

 小島は左右へ大きく蛇行しながら、しかし躊躇せずにどんどん署内の奥へと進んで行く。このまま進めば、そこは許可された者しか立ち寄れない連邦の機関なのだ。

「何処へ行くんです? そっちはFCIですよ? 小島さんが入るには許可が……」

 ジンが止めるのを無視して、千鳥足の小島は認識画面へ痩せた節太の右手を翳す。

 瞬時にロックが解除されて分厚いドアが左右に開いた。

「え?」

 何故この老人にロック解除が出来るのか? ジンは我が眼を疑い、唖然として小島の小さな背中を見詰めた。只の所轄の爺さんではない。

 俄かに猜疑心が頭を擡げる。

「うん? どした? ……お?」

 後に続いて入って来ないジンに気付き、小島は覚束ない足取りで振り返った。その脚がふらりと縺れる。

「危ない!」

 咄嗟に駆け寄り、小島の枯れ枝のような二の腕を素早く引いた。バランスを崩した小島の小さな身体は、酔っ払い特有の身軽さで踊るようにくるりと一回転してくにゃりと座り込む。

 ジンは大きく安堵の溜め息を漏らした。自分の目の前で転倒して怪我でもされては迷惑だ。

「もお、気を付けて下さいよ。危なっかしいなぁ。それでなくても年なのに」

「お? おお、すまんな」

 惚けた返事が返って来る。ジンは渋々屈み込んで背中を小島に向けた。

「さ、俺が連れて行きますから」

 小島を軽々と背負うと、ジンは不機嫌な顔で足早に歩き出した。

「いやぁ〜すまんのぉ。ラクチンじゃあ」

「で? 何処に行けば良いんですか?」

 楽になった小島は上機嫌になって陽気に喋る。

 ジンは酒の匂いに包まれた為か、くらりと軽い眩暈がして気が滅入ってしまった。元々アルコールは強く無い。飲酒していない自分が匂いで酔ってしまいそうだ。

「地下十三階の第ニブロックじゃ。そこにあの嬢ちゃんが居る筈じゃ」

「は?」

 ピタリとジンの足が止まり、頭の中で疑問符が乱舞する。確かに小島が言う通り、そこには拘束された後、薬によって眠らされているレイナが収容されて居る場所だ。

「お前の『腕』を貸して貰いたいのじゃが……ああ、言っておくがお前達が言う『許可』っちゅうモンを、わしゃあ取ってはおらんからな」

「って……事は?」

「気にするな。わしゃ、所謂不法侵入ってヤツじゃろうなぁ」

「ええ~っ?」

 小島は全く悪びれず、他人事のようにさらりと言ってのけると、それを聞いたジンの顔がたちまち蒼褪める。

「今更何を騒いでおるか。一緒にわしと入って来た時点で、お前も既に監視カメラに撮られとるから共犯じゃあ。まあ、人間諦めが肝心じゃな?」

「じょ、冗談じゃないですよ! 何が『共犯』ですか! 勘弁して下さいよ!」

 慌てて背負っていた小島を振り落とそうとするが、小島は妖怪のようにしっかりとジンの背に掴まり、簡単には離れてくれそうもない。

「まぁ、そう慌てるな。冗談じゃよ。安心せい。部長の三島までは話が届いとるわい」

 ジンの動きがぴたりと止まる。

「『部長までは……』って、小島さん? 貴方は一体?」

「なんちゅう顔をするんじゃ。それが証拠にほれ、誰も警備員が出て来んじゃろうが? ああ、ほれ、早う先を急がんか」

「イテ!」

 小島はジンの反応を愉しみながら、彼の頭を軽く叩いた。

 悪戯っぽく笑った小島とは対照的に、ジンの蒼褪めた真剣な表情が凍り付く。確かに小島が不審者であれば、セキュリティがとっくに動いている筈だ。だとすれば、桐嶋署で隠居アドバイザーだと噂されている小島の本当の肩書きは、一体なんなのだろうか?

「わしゃあな、あの嬢ちゃんには生きていて欲しいんじゃよ。でないと……」そこまで言うと、小島は急に俯いて声を押し殺した。「でないと、わしの気が治まらん。もはや連邦も警察も関係無い。これは極めて個人的な頼みなんじゃ。ジン、この老いぼれの我儘に協力してはくれんかの?」

「そ、そんな事を言われても……」

 小島の計略に自分がまんまと嵌められた事に気付いたジンは頭を抱えた。自分は小島に付いて良いものなのだろうかと。

 悩んでいるうちに、二人の目の前へ第二セクションと表示されてぴったりと閉ざされている両開きのドアが立ち塞がった。

「着きましたよ?」

 ジンは小島を通路に降ろす。

「うん? 何処じゃったかな……お?」

 小島は自分の懐を弄った。

 どうやらロック解除用のカードキーを捜しているらしい。その隙にジンは素早く小島の背後に廻り込み、小柄な老人へ銃口を向ける。

「この場所をどうしてアンタが知っているんだ? 此処の地下三階以下は、所轄の上層部でも知らない筈だ」

「お前こそ何の真似じゃあ。わしゃ、此処に居る嬢ちゃんに用があるだけじゃとさっきから言うておろうが。危ないのぉ」

 小島は節太い枯れ枝のような指先で、向けられた銃口をひょいと逸らせる。

 ジンが手にしている物が、本物の拳銃だと小島は思わなかったのだろうか? 小島には恫喝さえ通用しないのだろうか?

 ジンは焦った。

「う、嘘だ!」

「嘘なんぞ吐いておりゃせん。言っておくが、わしゃお前が思っている『曲者』とは違うぞ」

「え?」

 特別な言い回しに気勢を殺がれて銃を引く。

「そう言やぁ、お前は旧世紀の時代劇……特に旧日本国マニアじゃったのう」

「あ、は……はい」

 不意を突かれて素直に答えた。

「差し詰めわしゃ、黄門様かも知れんぞ?」

「黄門様……って、あの旧日本国、エド水戸藩主の?」

 会話を好みの趣向へ向けられて、ジンの瞳が輝く。

「冗談じゃ。真に受けるでないわ。未熟者め」

 そう言うと、小島は陽気にカカカと笑った。

 ジンは手玉に取られた自分に嫌悪して軽い眩暈を感じた。小島とはほんの数分しか居合わせていない筈なのに、嘘みたいな疲労感に襲われる。

「て、手強い……岬は普段、この人の相手をしているのか?」

 普段、小島との遣り取りをしていると言うだけで岬が物凄い人物に思えた。同時に小島の大らかさに触れて、彼に対する猜疑心が晴れて行く。此処へのセキュリティを難なく通過した事と言い、極秘事項を心得ている事と言い、小島はどう見ても桐嶋署では無くて連邦側(FCI)の隠居組としか考えられない。だとすれば、小島は自分達の大先輩と言う事になる。

「さあて……と」

 小島は再びカードを捜し始めた。

「俺のがあります」

 ジンは自分のカードを取り出した。そして手早くスキャナへ奔らせるが、彼のカードではロック解除は為されなかった。

「うん?」

 エラーメッセージの電子音を聞き、小島に緊張が奔る。

「おかしいな?」

 ジンは手にしたカードに破損等異常が無い事を確認して、再度カードを読み取らせようとして手を伸ばす。

「待て!」

 真顔になった小島がジンの手を強く掴んで引き止める。そして今度は見付けた自分のカードを懐から取り出すと、低い声で囁いた。

=「中からロックされておる……どうやら先客の鼠が来ておったか」

=「えっ? 『先客の……鼠』?」

 普段のへらへらした小島の表情では無い。ジンは瞬時に事の重大さを覚った。

=「人数は三、四人といった処か……おい、お前、独りで大丈夫か?」

=「は? 独り?」

 ジンは眼を丸くして、小島に確認するよう自分を指差した。

=「なにを言っとるか。わしゃあ見ての通りの戦力外じゃ。お前が駄目じゃと言うのなら応援を呼んで遣っても良いのじゃが……」

=「んな事していたら逃げられますよ! お、俺だって、さ、三、四人くらい……」

=「ほおお。頼もしいな。声が震えとるぞ」

 突然の実戦を強いられて退き気味になっているジンを、小島は意地悪そうに見上げた。

=「ちゃ、茶化さないで下さいよ。人がマジこいてる時に!」

 訓練であれば順調にメニューをこなせていたし、成績もまあまあだとの評価を得ている。ジンは冷静さを保とうと必死だが、残念ながらこれが初めての実戦だった。

 ここまで来たらもう後戻りは出来ない。押し寄せて来る責任と極度の緊張感で息苦しくなり、無意識に片手を伸ばしてネクタイを緩めた。

 小島が自分のカードを読み取り部に宛がい、タイミングを見計らうようにジンと視線を合わせる。

=「わしのは強制解除用なんじゃ……開けるぞぃ。良いか?」

=「いつでも!」

 ジンは早口で応えて顎を引く。生唾を飲み、胸元で構えた拳銃を持ち直す。


 ドアが開くとほぼ同時に、女性の絹を裂くような悲鳴が上がった。

 小島は素早くドア陰へと背を合わせて瞬時に反応したのだが、想定外の悲鳴に驚いてしまったジンは、開いたドアの真ん中で仁王立ちに立ち竦んでしまう。

 ドアの開いた音を聞き付けて、室内の薄暗い照明を頼りに蠢いていた数人の人影が、一斉にこちらへ注目する気配がした。彼等に取囲まれた中央で、拘束されていた筈のレイナの姿が淡い照明の中で浮かび上がる。

 総ての機能を麻痺させる水溶液から、たった今彼等の手で引き摺り出されたばかりだった。彼女の身に纏った薄絹が透けて身体のラインに沿って張り付き、雫が周囲を濡らしている。彼女は長い髪を無造作に掴み上げられ、両膝を着いて半身を宙吊りにされている状態だった。意識が朦朧としているせいか、半開きの瞳に生気は無く、左に浅く顔を落して人形のようにピクリとも動かない。

 訝って彼女を凝視したジンは、異変に気付いてはっと息を飲んだ。

 レイナの項から、赤い滴の一筋が細い鎖骨を伝い白い胸の谷間へと流れ落ちている。

 彼女の髪を掴んでいた何者かが手を放し、彼女の身体は糸の切れたマリオネットのようにその場へゆっくりと崩折れる。

ジンは大きく息を乱した。

 目の前のレイナの姿と、脳裏に浮かぶ岬の沈んだ表情とが交錯する。状況から、既に手遅れだと判断して怯んだジンは、完全に無防備になってしまった。

「何をしているッ!」

 鋭い小島の一喝で我に返る。

「うっ、動く……あッ!」

 銃を構えて警告するが、それよりも先に人影の方が動いていた。銃弾の雨がジンを襲い、そのうちの一つが銃身に命中した。

銃を手にしていた右の人差し指が大きく外方向へ折れ曲がり、異様な角度を強いられた掌の皮膚が裂ける。

 慌ててインターセプタを起動させるが手遅れだった。右手の激痛が脳天まで駆け上がり、ジンは苦痛に呻いて大きく身体を『く』の字に折り曲げる。

 銃弾は尚も休む事無くジンを狙い、数発が彼の身体を掠めた。

 場内のセキュリティが異常を感知して、警報ブザーがけたたましく鳴り始める。

「遅いっ! 何を遣っておるかッ!」

 小島は右手を庇って蹲ったジンの左脇腹を乱暴に蹴り、彼等に対して射程外の死角になっているドア陰へと押し倒した。

 蹴り倒されたジンは頭から無様に通路へ突っ込む。

 間髪を容れずに銃弾の雨が小島を狙うが、彼は素早くドア影に隠れた後だった。とても老人だとは思えない敏捷性だ。

 小島は懐から自分の銃を取り出し、タイミングを計って応戦する。

「しっかりせい!」

「ああ……痛っううう!」

 ジンは激痛の余り消えそうになる意識を、首を振って強引に引き戻す。血塗れの右手を脇腹で押えて庇いながら、落とした銃を震える左手で拾い上げた。

「あ!」

 突然、室内から一陣の風のように、四肢を持った白い獣が飛び出した。

 余りの素早さにジンも小島も凍り付き、身動き一つ出来ない。今襲われれば逃げられなかったが、幸運にも獣は二人を無視して逃走した。

「ジン! 追えッ! 奴にはエレベーターは遣えん! 先回りして第五、第六ブロックを閉鎖するんじゃ!」

「え? はっ、はいっ!」

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ