第15話 奇跡の行方
地下の駐車場へ通じるエレベーターの扉が左右に開く。
「よ!」
扉のすぐ傍で壁に寄り掛かり携帯電話を掛けていた男から、不意に岬は呼び止められた。
それが相棒のジンだと気付いた岬は、レイナを拘束しなかった後ろめたさから、戸惑いの表情を浮べてしまった。
ジンは徐に通話を切ると、岬へ向き直って軽く溜め息を吐いた。
「まあ、そのう……なんだ。こうなるだろうなって事は、端っから判っていたけどな……そらよ、例のコントローラー」
ジンは半ば岬に同情するような視線を送ると、黒いカード型のコントローラーを投げて遣した。それを岬は難なく片手で受け取る。
「もう出来たのか?」
「ああ。ちょいと開発部の奴を急かして遣ったんだ。奴には個人的に貸しがあるんでね。そいつは何でも人間の耳には聞えない周波数を出す仕組みらしいな。奴に言わせると、要するに『犬笛』みたいな物だそうだ」
岬は手にした極薄型のコントローラーへ視線を落とす。
「何も犬だけに限定効果が有る訳じゃ無い。他の生物にも該当するらしいが、極稀にこの周波数を感知出来る人間も居るんだそうだ。お前みたいにな」そう言って岬に向かって顎を杓った。「全く。動物並みの運動神経に、耳まで持っているのかよ? そう言やぁ、今俺達が追っているのは何だったっけかなー?」
意味深な物言いを冗談気味に混ぜ返したジンの黒い瞳が、沈んだ表情の岬を映し出す。
視線に気付いた岬が彼を見返した。普段であれば二枚目半の岬だが、こうして物憂げに黙り込んだその表情からは、近寄り難い凜とした気迫が感じられ、気圧されてしまったジンは思わず口籠る。
「こ……こっちは粗方片付いた。奴等、自警団まで繰り出しての大騒動だ。向うは壊滅。こっちも僅かだが被害が出た……で、結局は薬事法違反でバイオ・ケミカル製薬会社代表取締役の園田と会長のバルツァーが逮捕された。先月、解体後に社名変更をしたミューズ社と並んで、これで二大大手医療関連会社が潰されたって訳だ。今日の朝刊各社一面がこの件で持ち切りだ」
「そうか」
岬は素っ気なく返事をすると、ジンに背を向けて歩き出す。興味の対象外だと言わんばかりの態度に、ジンは苛立ちムッとなった。
「話はまだ終わっちゃいないぜ」
「急いでいる。報告なら後だ」
岬はぴしゃりと断ったが、ジンはお構い無しに後を続けた。
「リストの上位に名前が上がっていたジェフ・ランディアは相変わらず行方不明だ。だが俺達が社内を捜査した時に、気懸かりなラボを発見した」
『ジェフ』と言う言葉に脚を停めた岬へ、ジンは岬の反応を探るような視線を遣すと、気に入らないとばかり鼻を鳴らす。
「ふん、ソイツの名前『だけ』には反応アリかよ? ……ま、いいや。連邦の冷凍保管庫から紛失していた、人獣の組織サンプル。その空容器が見付かったんだ。現物は既に焼却処分していたらしいが、ラボ内にあったセキュリティに画像データが残っていた。連中、それの削除まで気が廻らなかったのか、それとも所員の脅しか何かに使う目的で意図的に残していたのかは判らないが……映像での立証性は法律上認められてはいない。だが、真の証拠を引き出す為の足掛かりくらいにはなるだろうよ」
「妙だな……気を付けろ。こちらを嵌める罠とは考えられないか?」
仮にもあのジェフが、そんな落度を晒すだろうか? 余りにも胡散臭い。
「う……まあ確かに可能性が無いとは言えないが……」
ジンは岬に釘を刺されてうろたえる。
「お前も言っただろ? 映像での立証性は認められないって」
「あーあ、やぁーっぱ、こうなったら……お前が匿っている女に任意同行して貰うしか無いのかな?」
ジンは意味ありげに岬を上目遣いで窺いながら、両手を上に挙げて背伸びをした。
「拘束するのはいいが、彼女は何も知らない。手荒な事をすると……」
「へーへ、そう言うだろうと思ったよ。ま、安心しろ。お前がエレベーターに乗った直後にキリー達が入れ替わりで踏み込んだんだが、既にもぬけの殻だったとよ」
「居ない?」
岬はジンの言葉を聞き返す。
「ああ」
「此処に居ろと言ったのに……」
遅かれ早かれ、ジン達が岬の所へ来るであろう事は承知していた。レイナは勿論、他の者にも被害が及ばないよう、ベストな形で彼女を引き渡そうとしていたし、可能であれば、本人からの自首という形に持って行こうとさえ思っていた。
ジンはそんな岬の胸の内を読んでいたらしい。
「まあ、他人はそう簡単に自分の思い通りにはならないって事さ。それと……」
「まだあるのか?」
先を急ぐのに無理矢理引き留められて、岬は仏頂面になる。
「出張で部長不在の今、三課の田幡課長が代理として着任した。今のお前にはシュライバーを使用する権限が剥奪されているぞ」
「はあ? 田幡が? どうして……って、俺だけ?」
「そ」
「またかよ? こんな時に……任務中だぞ? それを……」
「さあね。俺に訊くなって。お前は容疑者の隠匿、同僚への暴行……他にも叩けば幾らでも出て来る。挙動不審の注意人物に見られても仕方が無いだろうが」
ジンは自分には関係無いといった表情で肩を竦めた。
「どういう心算だ? あの女……」
田幡のあまりな職権濫用に、岬はカッと頭に血が昇った。
岬は四年前まで田幡課長の部下だった。何事にも結果第一主義の彼女は、岬よりも七歳年上のキャリア組。人命重視で意見する岬に対して彼女の評価は特に厳しく、任務中であっても何かと制限を掛けられていた。
「よりにもよって、何であの女が代行する話になってんだよ」
たちまち岬は不機嫌になる。彼女でなければならない妥当な理由が見当たらず、納得出来ない。
「元上司に言うねぇお前も。ま、今回は色々と根回しがあったらしいぜ。一時的な代理人だ。上もその程度でしか考えてはいないさ」
「はっ! 三島さんが居なけりゃこのザマか? 大した事ねぇなFCIも!」
淡々と語るジンに岬は業を煮やす。
岬の苛立ちなど素知らぬ振りを通そうとしたジンだが、滅多な事では怒らない岬だけに今の反応は意外だった。
「とうとう陸防が動き出した」
「何だと?」
ジンの言葉に、岬は訝って彼を見詰める。
「死んだ女が生き還ったんだ。その神秘とやらを暴きたくて、ウズウズしてるんじゃね? あの女は、特殊な『生きたサンプル』なんだよ」
だがしかし、それはFCIとしても同じだ。
「陸防に情報を公開した話は聞いて無い」
岬はジンに問い掛けるような視線を遣した。レイナの件は極秘であり、彼女が人獣であるのを知っているのは、限られた極僅かな人物だけだ。
「お、俺が知るかよ。まぁ、蛇の道は蛇ってね」
岬は平然と白を切ったジンに対し、目を細めて疑いの眼差しを向けた。自分も他部署から遣って来たワケアリだが、ジンも理由はどうあれ同じ穴の狢。しかも自身の彼女が行方不明になってからというもの、不審な噂が後を絶たないと言う闇の部分も耳にしている。
ジンを信頼出来るかと問われれば、答えは『否』だ。
「俺はお前のサポートを任されている。で、三島部長は依然指示の変更を執ってはいない。この意味が判るな?」
「ああ」
「お前は先に行け。間に合うかどうか判らないが、俺はシュライバーのコード解除をする』
「許可も無いのに勝手に……」
ジンは黙って顎を引いた。岬はジンの思惑に合点がいかない。
「この場合、お前は俺を拘束するべきじゃないのか?」
「筋ならな」
ジンはあっさり肯定する。
「けど……」
「おいおい『けど』は無しだろうよ。お前がまた暴走でもしたら今度は誰が抑えられる? 俺はもう二度とご免だからな」
ジンは軽く笑うと自分の右脇腹を指差した。自分のインターセプタを起動させて、尚且つの肋骨骨折だ。二本の内、一本は完全に折れている。薬で痛みを散らせてはいるが、もう岬とは二度と遣り合うのは御免らしい。
「シュライバーに取り押さえて貰えって?」
「ご明察う~」
ジンはそう言ってにやりと笑った。尤もその表情でジンが冗談を言っているのがモロ判りだ。
ジンが敢えてリスクを冒してまで岬に手を貸すと言っているのには、何か裏があるように思えて、彼の言葉を素直には喜べなかった。寧ろ、自分を泳がせて何かを待っているようにも窺える。
助けてくれたジンに対して申し訳ないが、どうしても彼を信じ切れず、猜疑心が頭を擡げてしまう。仲間を疑うのは不本意ではあるが、綺麗事だけでは済まされないのだ。
「シュライバーのコード解除にどれくらい掛る?」
「田幡のディレクトリに侵入しないと無理だからなぁ」
「急いでくれ。頼む」
岬は即答を迷うジンに短く言うと、乱暴にバイクへ跨った。
一際大きく空ぶかしをし、前輪をウイリーさせて急発進した岬の後姿を、ジンは黙って見送った。
* *
高層ビルに囲まれ、狭い区画から見上げた遥か上空からサーチライトを灯している偵察用ヘリがゆっくりと旋回した。
偵察ヘリのコクピット・モニタは、熱を感知する赤外線フィルタが施されており、モニタが映し出した地上映像は、二つの蠢いている熱源を捉えていた。
「ポイント三〇八。発見しました。繰り返す。こちらセレウス。ポイント三〇八にて目標二頭を発見」
偵察ヘリの一機が、レイナ達を発見した。ヘリの側面と底部には陸上防衛隊の所属ナンバーが記されている。
―「了解。散開させた部隊を再編成後、直ちに急行する」
* *
豹のジェフを見失った檜山達は、捜査チームを分割して各自の持ち場の警備に当たらせていた。そして檜山とロブ、南の三人は、偶然拾った暗号通信の内容把握の為、路肩に車を停めていたのだ。
「ヤバイっすよ。檜山さん!」
眉間に皺を寄せながら通信を傍受していたロブが、乱暴にヘッドセットを剥ぎ取り、厳しい表情を浮かべて檜山へ声を掛ける。
「どした?」
半開きにしたパトカーのドア枠へ片腕を乗せて、立ったまま夜風に当たりながら、ぼんやりと眠気覚ましの缶コーヒーを飲んでいた檜山は、気怠そうに腰を屈めて車内を覗き込む。
「これ、陸防です。陸防が動き出していますよ」
「陸上防衛軍だとぉ?」
「ええ」
ロブの言葉に、夜通しの勤務で睡魔に襲われていた檜山は、一変で眼が覚めた。
「軍が動き出したとは……我々警察だけでは事が収束に向かわんと言う事か? ……場所は判るか?」
「はい。GSPから割り出すと……ポイント三〇八。此処からだとニ十キロちょいです。奴はかなり移動していたようですね。あと、もう一つ気懸かりな事が……」
「何だ?」
「そのう、通信からだと目標が二頭だと……」
「ああ? 二頭? ……確かにそう言っているのか?」
「はい。我々が追っていた奴と、白い奴。その二頭が発見されたと言っています」
「白いヤツゥ? 増えているぞ。どうしてそうなっているんだ?」
「さあ。当初は一頭だと思っていましたが、識別が違っているんですから間違い無く二頭居るんですよ」
ロブは右手の人差指と中指を立ててピースサインを檜山へ送ると、肩を竦めて首を傾げた。
「どうしますか?」
ロブの隣に座っていた南が不安そうな表情で檜山を見上げた。暫く判断に迷っていたが、彼の迷いを打ち消すように、可愛らしい着信音が鳴った。
「署からの通信が入りました」
ロブがモニタのスイッチを切り替える。画面には、桐嶋署長である高城雅哉が眉間に皺を寄せ、神妙な面持ちで映っていた。
―「檜山、君達ももう既に知っているかも知れんが……軍が介入して来た」
「らしいですね。署長これは一体、どう言う事ですか?」
憮然とした檜山が、事の経緯を問い質す。
―「軍は目標を殲滅する心算だ。D‐二十九を発令した」
「何ですって?」
「殲滅って……」
その場に居合わせた者全員が、軍の執った作戦に対して息を飲む。
「捕獲とか、射殺するならまだしも……」
「どうして軍が……一体、何処で漏洩が?」
檜山は呻くように呟く。
―「判らん。FCIがこの件に関与して、機密は護られていた筈なのだが……しかし軍が動き出したのは事実だ」
「はい」
檜山は大きく頷いた。暗に内通者の存在を確信する。
―「軍からこの件に関して手を引くよう要請があった。現場付近は既に戒厳令が布かれている。我々では太刀打ち出来ない……撤収だ」
「しかし、このままでは……」
岬の顔が檜山の脳裏を掠めた。自分の権限で岬を捜査から外してしまったが、当の岬は本来FCIの人間だ。軍が介入したとなると、情報不足で巻き添えになる可能性が高くなるのではないのだろうか? 捜査から岬を外さずに傍に置いてさえいれば、その心配も無かったかも知れない。岬の身を案じたからこそ執った手段であったが、それが裏目に出てしまった今となっては、逆に悔やまれてならなかった。
―「檜山、聞えなかったのか?」
署長の声で、檜山は我に返った。
「は? あ……いえ。この事をFCIは?」
―「既に承諾済みだ。問題無い」
「なら、いいんです。了解しました」
署長の言葉に安堵したものの、檜山は岬に対して、一抹の不安を覚える。
檜山が通信を切るのを確認すると、それを待っていたかのようにロブが口を開いた。
「係長?」
「うん?」
「何処かで飼われていた豹が逃げ出しただけの事でしょう? 危険な動物だとは言え、豹のたかが一頭や二頭を始末するのにどうして軍が動いているんです? 高城達のFCIだってそうだ。彼等が動いているって事自体不自然じゃないですか? 俺達はてっきりクラブでの臓器、薬物取引の件でFCIが動いているものだと思っていた。なのに開けてみればFCIも豹を追い掛けているっていう話になっている。そりゃあ、被害者が続出はしていますが……」
ロブは仏頂面で檜山を問い詰めた。
「そうですよ。私達だけ何だか蚊帳の外を歩かされているみたいだわ。何もかもが後手に廻っていて振り回されているって感じ……もしかしたら私達、彼等の囮にされているのかも知れない。そんな気がするんです」
南も釈然としない不満をぶつける。
「高城の件もそうだ。マスコミにスッパ抜かれちまって、汚い事は皆警察の責任になっているじゃないですか。FCIとしての潜伏捜査だったのに。いつから俺達は軍やFCIのパシリになって居るんですか?」
「お前達の言っている事は間違っちゃいない」
檜山は車中の二人にすまなそうに表情を崩した。
「だったら理由を教えて下さいよ!」
ロブは語気を強めて檜山へ詰め寄り、檜山は車内の二人を交互に見詰めた。
「間違った事は言ってはいないが、正論だとは言っていない。判っているなら俺だって此処にはおらん。俺に訊くな」
* *
「ほぉお~、この様子じゃと、だいぶ奴さん達混乱しとるようじゃの。まあ、ああ見えてアヤツ等は案外仕事熱心じゃからのぉー」
小島は他人事のように一頻り肩を揺すって笑うと、署長の雅哉を見上げた。
「誰が軍を……」
受話器機へ力無く手を置いたまま、雅哉は身動きひとつ出来ずに立ち竦んでしまった。
「このままじゃと、お前さんの時とまた同じ展開になりゃあせんか?」
「……」
「確か、あの時も軍が動き出して……」
「小島さん!」
雅哉は語気を強めて小島を鋭く制した。しかし、小島は猶も口を閉ざさない。
「いいや! わしは言わせて貰うぞ。お前は岬に、お前の時以上の辛い目に遭わせるのか? あいつは一度玲奈を亡くしておるんじゃ。わしゃあもうあいつの悲しむ姿を見るのは堪らんぞ」
「解っています。しかし……」
「FCIの三島が居らんのでは如何にもならん……か。桐嶋署の署長としてではなく、高城雅哉としてでは無理か?」
「小島さん、何を言っているんです?」
雅哉は表情を曇らせた。小島の真意が読み取れない。
「今、三島は連邦議会に出席していて、この件から離れておる」
「三島さんが?」
「ああ、チョッとあちらで事情が拗れておってな。じゃが、お前にとっては話し易かろうて。ほれ、三島と直接話してみぃ」
小島は徐に自分の携帯を差し出した。古めかしい骨董品のような携帯を受け取ると、雅哉は顔を顰めて意味深に小島の顔と彼の携帯とを交互に見比べる。
その携帯には、鋭い爪か牙のようなもので掻かれた、古い傷痕が深く遺されていた。
「優衣……」雅哉は携帯に刻まれた古い傷に視線を落とし、遠い昔を思い出すように眼を細めてその名を呼んだ。「まだ……これをお持ちなのですね?」
「外装のフレームのみじゃ。中身の機種は何度か取り替えておるわい。そいつは二度と……二度と同じ事を繰り返さん為の戒めとして、わしは持っておるでな」
「小島さん……」
「その……すまん。思い出させてしまったな……」
雅哉の複雑な表情に、小島は行き掛かり上とは言え、彼に辛い記憶を呼び戻してしまった自分の失態を詫びた。
「いえ」
雅哉は静かに顔を伏せる。
「なあ雅哉、無駄な努力なんぞわしはこの世に有りゃあせんと思うぞ。何も総てを自分の重荷にして背負い込んでしまう事は無い。重荷に潰されて自滅するのは目に見えとる。自分でとことん遣れる処まで遣って、それでも如何にも成らんのなら、時には他人様の手を借りて凌ぐ事もアリだとわしは思うがな。成功するかせんかは運次第じゃ。じゃが時として自分の努力如何によっては『運』さえも呼び寄せて味方に付ける事が出来るんじゃ」
「それが九課を設立した理由ですか?」
「はてぇ? 何の事を言っておる? 一体何処の九課じゃ? わしゃそんな事ぁ知らんぞ。最近、とんと物忘れが酷くてな」
小島は雅哉の前でもお構い無しに、伸びた鼻毛を抜いてそっぽを向いた。
* *
ビルの上空でホバリングしていたヘリの底部から、禍々しい砲塔が唸りながら迫出した。照準の微調整をするその先の地上には、二頭の豹が居る。
二頭の豹は凄まじい唸り声を上げて縺れ合った。鋭い牙と四肢の爪が、互いの身体を切り裂き、土煙がもう々と舞い上がり、血飛沫が飛ぶ。
―「はっ、丁度良い。奴等仲間割れでもしているのか、喧嘩しているぞ」
―「このままナパーム弾でもブチ込んでやればいいんだ。何も地上部隊に手柄を譲らなくても……」
―「貴様等無駄口を叩くな! そのナパーム弾を外して逃げられでもしたらどうする? それに、表向きにはD−二十九を発令しているが、本来はD−十三の『回収』が目的だ。殺してしまっても貴重なサンプル扱いだからな。燃やして消してしまう訳には行かんのだ。じきに地上部隊が集結する。外すなよ」
―「了解」
砲撃手のスコープに二頭の豹が拡大投影して映し出される。左右に離れていたクロスポイントが一つに重なった。
―「発射!」
ヘリの二つの砲塔から、立て続けに二回、太い四本の『銛』が発射された。
空を斬って飛んで来た銛は、二頭の豹を無残に串刺しにして地面へと貼り付ける。一本は白い豹の背中から、二本はもう一頭の背中と腹部をそれぞれが貫通していた。残りの一本は目標を失って路面を貫く。
―「っしゃあ! 命中!」
モニタで確認した砲撃手が、得意げに両の拳を胸元に引き付けてガッツポーズを取る。
途端にヘリの機体が激しく振動し、コンソールパネルがショートして火の手が上がった。
―「どうしたっ?」
ヘリに搭乗していた上官が操縦士を振り返った。
―「判りません。五時の方向からの狙撃……」
そこまでだった。上官の目の前で操縦士の首から上が一瞬にして消し飛び、コンソールが朱に染まる。
炎に巻かれたヘリの機体は、瞬く間に巨大な火の玉となってコントロールを失い、煙と炎の帯を曳いて失速すると、次の瞬間には空中で爆発した。機体の破片が炎の尾を引きながら四方に飛散する。
爆風の強烈な衝撃波が付近のビルの隙間を潜り、煽りを喰らって吹飛ばされたビルのガラスの破片が、ダイヤモンドダストのように輝いた。
「セレウス! どうした? 応答しろ!」
「迫撃砲か?」
地上からヘリの惨状を目の当たりにした指揮官が声を荒らげる。迫撃砲が発射された位置を特定するが、ビルに阻まれて此方からは死角だ。
部隊が火の玉と化して落下するセレウスに気を取られていた隙を衝いて、部隊とは逆方向から、一台のバイクが急速接近して来たのを数人が目撃した。
「目標に接近する二輪を捕捉!」
「何ぃ? 他には?」
「居ません」
指揮官は傍に居た隊員から赤外線スコープを引っ手繰るようにして奪い取る。
「何も……確認出来ないぞ」
「衝撃波! 来ます!」
「全員! 対ショック姿勢!」
慌てて指揮官は指示を出し、部隊の全員が素早く路上に平伏した。次の瞬間、セレウスの爆発で生じた衝撃波が、集結したばかりの隊員達を襲った。
小規模の爆発を繰り返しながら炎を噴いて崩れ落ちる落下地点には、未確認のバイクが通過すると予測された。喩えライダーがサイボーグであったとしても、あれだけの物量が雨のように降って来るのだ。無疵では居られないだろう。
墜落したセレウスは、地上へ激しく衝突して有害ガスを含んだ黒煙を巻き上げる。
「遣った……か?」
指揮官はバイクの人物が爆発に巻き込まれたと判断した。
「消えまし……い、いえ、確認! 光学シールドを展開した模様。非感熱タイプのL‐830!」
隊員の一人が捲し立てる。
「830シールド? ……連邦の者か?」
光学シールドの更なるバージョンである、非感熱光学シールドを使用出来るのは連邦軍でも極僅かな者だけだ。
「はっ! 現時点では不明であります!」
「馬鹿者! そんな事は判っておる!」
「はっ!」
「何をする心算だ?」
指揮官は訝しみ、深く腕を組む。
「未確認者、目標へ近接します」
未確認者の動向を、ヘッドセットで音を拾い出しながら窺っていた部隊の一人が報告する。
「目標は?」
「は……心音微弱ながら、二体とも生存を確認」
「至急、未確認者の照合を!」
「やっています! ……? 確認出来ません」
IFF(識別装置)のモニタにはエラーの赤い文字が激しく点滅している。
「ジャミング(妨害)されています。GPSからの通信不能。ダウンロード出来ません。レーダー機能完全に麻痺しています」
指揮官が軽く舌打ちした。
「後方支援が就いているかも知れん。解析急げ! 警戒を怠るな!」
「はっ!」
「以後は目視での行動になるか……作戦本部からの指示に変更は?」
「ありません!」
「ようし……本作戦は予定通り実行する。照準合わせ!」
指揮官が右手を高く挙げた。片膝を着いて腰を落としライフル銃を構えた隊員達が、遠巻きに二頭の豹を捕捉する。
「てーっ!」
十数人が構えたライフル銃が、一斉に火を噴いた。
* *
岬はまともにヘリの爆発衝撃の煽りを喰らい、走行中のバイクから投げ出されていた。防御シールドのインターセプタを起動させて身体を丸め、受身の態勢で激しく地面へ激突しながらニ、三度転がる。
岬を放り投げたバイクは横転し、火花を撒き散らせて路上を滑走した。燃料タンクが破損して引火し、歩道に引っ掛り爆発する。
「ツッ……」
気力を振り絞り立ち上がった岬は、全力でレイナ達の許へ駆け出した。走りながら、隊員達が上官の指示で一斉に銃を構えて狙撃体制に入ったのを確認する。
――間に合ってくれ! ……頼むッ!
祈る気持ちで再び『気』を集中させ、インターセプタの起動を促した。
一瞬のうちに岬の身体は黄緑色の光に包まれ、インターセプタが起動する。しかし、隊員達が手にしている大型ライフルではインターセプタを以っても歯が立たない。喩え自分の身体を盾にしたとしても、彼女が助かる可能性は殆んど皆無だ。
それでも無茶は覚悟の上だった。
「止めろおおぉー!」
白豹であるレイナを背にして跪き、絶叫する岬の声が銃声によって掻き消される。
隊員達が引き金を引くよりも早く、コンマ数秒ほどの僅かな差で上空から舞い降りて来た黒い昆虫形のロボットが、素早くその弾道を遮った。大きく拡げられた黒い翅から激しく火花を散らして、軍の銃弾全てを受け止める。
「!」
シュライバーが受け止めた一発が兆弾となって、岬のインターセプタを突き破り、右脇腹を貫いた。
ライフルの威力に競り負けたシュライバーが、岬のすぐ目の前まで吹飛ばされてしまう。
現れたシュライバーは岬の専用機。ジンがシュライバーのコード解除に成功したのだ。けれど、あとコンマ数秒シュライバーのバックアップが遅れていれば、岬とレイナの命は無いギリギリのタイミングだった。
特殊硬化ガラスでコーティングされていた漆黒の翅は無数の弾痕が残り、罅割れて白い翅になっていた。ダメージを負ったシュライバーはギギギと一声鳴くと、脚を折って崩折れる。そして、左右の視覚センサーである眼の青いランプが消滅した。損傷を受けた内部機能復元の為に、一時的に外部電源を落したのだ。
「く!」
岬は銃弾を受けた脇腹を押えながら、素早く手にした柄のスイッチを入れた。不快な音がして、柄から一メートル程の棒状になった青白い光が現れる。岬はそれを袈裟懸けに薙ぎ払い、二頭の豹を串刺しにしている銛を短く切断した。そしてジンから受け取ったコントローラーのスイッチを入れる。
銛に貫かれて意識を失ったまま、彼女の身体は人の姿へと戻った。白い彼女の長髪が素肌にふわりと纏い付き、傷口から溢れ出す自らの血で瞬く間に紅く染まって行く。
もう一頭の豹は身体を串刺しにされていても意識を保ったままだった。寧ろ、酷い仕打ちを受けて『人間』を嫌い、敵として見做している。真っ赤な血反吐を多量に吐き散らせながら必死にもがき、猛然と岬を威嚇した。
岬はレイナと同様、串刺しになった金色の豹に視線を遣した。地面に貼り付けられても激しく抗って、銛から逃れようとして猛り狂い、血飛沫が岬の顔や手足へ飛び散る。
辺りに立ち込めた白煙が部隊の視界を遮った。
「目標捕捉出来ません」
徐々に白煙が薄くなり、部隊は銃弾で翅が白くなったシュライバーが不自然な状態で機能停止しているのを発見した。その向こうで、狂ったように暴れている金色の豹と向かい合っている背の高い男の姿を認めて驚いた。
「あれは……FCIの『クワガタ』だ。それがどうして此処に?」
一人が呻るように呟いた。
「FCI? FCIは既に我々にこの件を譲渡したのではなかったのか?」
「どう言う事だ?」
隊員それぞれがお互いを見合わせて首を傾げる。
「このままでは埒があかぬ。各自、目標に接近するぞ」
指揮官は部隊の移動を促した。
岬はレイナの身体を地面へと貼り付けている銛を握ると、渾身の力を込めて彼女の身体ごと地面から引き抜いた。力を篭めた事で銃弾を受けた彼の脇腹から多量の血が溢れ、右膝を紅黒く染めるが、躊躇している時間は無い。
一刻も早く、この禍々しい銛を彼女の身体から引き抜いて処置して遣りたいのだが、状態から判断してそのままにしておいた。迂闊に抜けば彼女の失血死は免れない。岬は震える手で自分の血で染まった背広を乱暴に脱ぐと、彼女の身体を覆うように掛けて遣る。そして威嚇しているもう一頭の豹に向き直った。
豹は猛烈な痛みに堪え切れなくなり、苦痛の表情を浮べて顔を顰める。辺りはかなりの血溜まりが出来ていた。傷が深いのに大暴れしたのが災いしたのだ。人間ならば輸血なり対応出来るだろうが、相手が豹となるとそれは難しい。どのみちこれだけ多量に出血しているのだ。
通常であれば、凄まじい痛みにもがき苦しみがら死なせるよりも、介錯して楽にさせてやれば良いのかも知れないと誰もが考えてしまうだろう。けれど岬は、自分に対して敵意を露わにしている手負いの獣に対して、馬鹿正直に可能な限り手を尽くしてやろうと思ったのだ。
軍の攻撃を受け止めて機能停止したシュライバーの両目に、再起動の兆しが現れた。青い光が灯り、見る々うちにその光が強くなる。
シュライバーの額部分にある三つの小さな再起動ランプが正常に点滅しているのを確認すると、岬は恐怖に怯えて威嚇する豹へと慎重ににじり寄る。
「おとなしくしろ。今、お前を貼り付けているヤツを抜いて遣るから」
岬は覚束ない足取りで近付くと、傷口を抑えて汚れてしまった血染めの利き手を伸ばして豹に触れようとした。
=近寄ルナ!
はっとして、岬は手を引いた。
「な? ……喋れるのか?」
豹は顎を引くと、上目遣いで鋭く岬を睨み返した。金色の燃えるような瞳が躊躇する岬を見据え、その背後で気を失って倒れている白髪のレイナの姿を捉える。
=れいな、一緒ニ……来イ!
豹は天を仰ぐと静かに眼を閉じた。
岬はその言葉が何を意味するのかを瞬時に悟り、素早くレイナを自分の身体で庇って地面へ伏せる。
* *
「こんな所に居たのかよ。でも、よくもまあその程度の怪我で済んだよな」
警察病院の屋上でベンチに独り膝を抱えて座り込み、ぼんやりと空を仰いで喫煙している岬を見付けて、ジンは近付き声を掛けた。
岬の右手は再び肩から吊るされ、固定されている。そして、顔や腕には至る所にリバテープやガーゼが貼られていた。
「……」
岬は感情の読み取れない、呆けたような視線だけをジンへ遣す。
「今更ながらお前の腕には感心したよ」
「何が?」
ほけっとして答えた。まるで他人事だ。
「何が……って、あの状況下で彼女を助け出したのが……さ。お前は負傷していたし、彼女も一時はCPA(心肺停止状態)だったと聞いた。けど、お前は本当に助け出した……怖くはなかったのか? 自分が大切だと思っている者に対してメスを握るのは。失敗するかも知れないとは思わなかったのか?」
「あの場合、俺しか居なかった。彼女の状態を診てもう駄目だと諦めていた奴等を拝み倒して……お前なら、執刀を任せられるか?」
「いや」
「替えの利かない、一つしかない命を託されるんだ。『出来ませんでした』は理由にならない。だから患者が彼女でなくたって、俺はいつだって怖いよ」
岬はジンから視線を逸らせると、珍しく青空が覗いた空に向って煙草の煙を吐き出した。
いつもの覇気の無い岬に見えるのだが、今は何かが違っていた。ジンは岬から妙な違和感を覚えて身を引き締めながら、話を続ける。
「それにしても、あの爆発でよく助かったな」
豹は覚悟を決めたのか、体内に潜ませていた小型の高性能爆弾で自爆。彼等を包囲していた軍の地上部隊総てを巻き込んだ。
「助かったのは、シュライバーが楯になったからだ。幾ら俺でもインターセプタだけじゃ助からなかった」
自分達が助かったのは奇跡でも何でも無かった。
岬は胸のポケットから、シュライバーのメモリチップを取り出してジンに見せる。コイン程度の大きさのメモリチップは高熱で変形し、既に元の形状を留めてはいない。
支援A・Iのシュライバーは壊れれば何度でも製造される。岬が手にしているメモリのコピーを共有する、寸分違わない同じシュライバーが製造されるのだが、岬を庇ったあの時のシュライバーとは違うのだ。
指示する人物を認識し、いざとなれば自らの身を呈してでも護る。しかし、シュライバーには生物の持つ一切の感情等はプログラムされてはいない。寧ろ岬達の楯になったのは、シュライバーが『身代わり』として採った行動ではなく、岬達を襲った『爆発』という物理的な現象を回避する為に取った行動の結果に過ぎない。
だが、本当にそうだったのだろうか?
真剣な表情でメモリを見詰める岬に気後れしてしまったジンが、伝えるべき用件を思い出して我に返った。
「田幡が自殺した」
「んで? お前は行かなくても良いのか? 報告はそれだけか?」
視線を逸らせたまま意味深に問い掛けた。岬は少しも驚いている様子は窺えない。
岬は自分を見ていたジンの『気』が乱れたのを鋭く感じ取っていた。意識下でジンに対して警戒するが、表面上は無表情のまま何も気付いていない素振りをして、手にしていたメモリチップをそっとポケットへ戻す。
少し離れた頭の上で、乾いた金属音が聞えた。岬はその音が銃の安全装置を外す音だと素早く察知する。しかし、岬はベンチへ座り直すと、ジンに背を向けたまま動かない。
その背後で、緊張したジンの手に拳銃が握り締められていた。彼は息を詰めながらゆっくりと岬の後頭部へ照準を合わせる。
「田幡に何を言われた? 軍を介入させて……事を大袈裟にしたのはお前の女の為か?」
振り向きもせずに問い掛けられ、岬を捉えていた銃口が僅かに逸れる。
まるで、ジンが何をしようとしているのかを、岬は総て見通しているとしか思えなかった。
「き、気付いていたのか?」
普段通りに喋ろうと努力したが無駄だった。鼻白んだジンの声が上擦る。
岬には可能な限り情報を収集させて、何も知らないまま消えて貰おうと思っていた。そろそろ自分の立ち位置が岬にばれてしまうのではと、頃合いを見計らっていた処だったのに、まさか自分の行動が岬へ筒抜けだったとは……その事実だけでも十分焦ってしまうのに、岬は危険を承知で今の今まで自分を泳がせていたのだ。
両手で堅く握り締めている拳銃が、ガタガタと震え始めた。
「ああ。確か俺に『女で破滅する』とかって言ったのはお前だよな?」
「言うなッ! お前は俺に答えていれば良いんだ!」
ジンは立続けに二発の銃弾を撃ち込んだが、震える手で引き金を引いてもまぐれで命中する確率は低い。弾は岬を捉える事無く在らぬ方へ軌道を取る。
銃声に驚いて、屋上で羽を休めていた鳥達が一斉に飛び立った。
「……て」ジンの手から拳銃が解けて滑り落ちる。「どうして反撃しない? お前なら今のこの俺を撃てるだろう? 俺が銃を握った時にもう勘付いていた筈だ」
感情が昂り、呼吸が乱れる。
「勘違いするな。人に銃を向ける事がそんなに簡単なものか。それに、俺を本気で殺る心算なら、お前はそんな口径なんか使わない……だろ? 軍のヘリはお前が遣ったのか? 田幡の事も? 居なくなった『彼女』の情報と引き換え……違うか?」
大型獣の死と共に陸防が壊滅した直後、三島部長の代理人として着任していた田幡課長は、自室で自らの拳銃を用いて頭部を撃ち死亡していた。彼女の死は既に『自殺』として内々に事が収められており、彼女がバイオ・ケミカル社と深い関係があった事を知っていた極一部の者は、彼女の死を境に皆口を噤んでしまった。
「ああそうさ。俺がこの手でな。彩香を……彩香を取り戻せるとあの女はそう言ったんだ! なのに……裏切られたのはこの俺だ。当然だろう? 俺の遣った事が何処か間違っているか?」
「いや」
肩を怒らせ震える手を力一杯握り締めるジンとは対照的に、岬は何事も無かったように平然として静かに答えた。
「何故だ? お前にはあの女が護れて、俺にはそれが出来なかった……これだけ捜しても何処にも居ない。彩香はもう……もう……」
ジンはその場に力無く崩れて跪き、両手で顔を覆って激しく嗚咽する。
報復に手を染めても自分の大切な人を護れなかったと嘆く同僚の惨めな姿を直視出来なくなった岬は、視線を逸らせて空を仰いだ。
澄み切った空が却って岬の心を重くさせる。レイナは一命を取り留めはしたものの、彼女にどんな処分が下されるのか岬には概ね予想がついていたからだ。
「岬……今、此処で俺を殺してくれ……」
両手を突いて伏せたまま、深く項垂れる。
「何を言ってる」
「俺は今、お前を殺そうとした……頼む」
だがしかし、ジンのその態度も口調からも、殺意は全く窺えない。
「ジン!」岬は立ち上がると、跪いて項垂れたジンの胸倉を左の逆手で乱暴に掴み上げる。「諦めるな! まだ彼女が死んだという確証は何処にも無い! お前はその弱味につけ込まれただけだ!」
彩香の事を思った時、岬の心に何かが触れた。
レイナの何処か怯えている表情と、行方不明になっている彩香の表情が二重にダブって見えた。別に二人が外見上似ていると言う訳では無い。けれど、レイナの時折見せる一寸した仕草を垣間見る度に、岬はずっと誰かに雰囲気が似ているなと感じていたのだ。もしかすると、ジェフはレイナの補完に彩香のI・Dを利用したのではないのだろうか? 機械のA・I(電子頭脳)ではなく、生身の人間のI・Dをより自然な人間としての状態として蘇生を選択したのではないだろうか?
蘇生技術が進歩しているとはいえ、一度死亡が確認された身体に人間の持つ複雑な感情や表現力を完璧に修復する事は難しいとされている。ましてや玲奈は頭部を損傷していた。他者からの補填無しに脳を再び蘇らせると言う技術は、如何にジェフが腕の良い脳外科医であっても極めて困難だろう。
彼女が『笑わない』原因が、精神的なものでは無く、物理的な処置によって引き起こされたのだとすれば……
岬は堅く絡まった糸の先端を見い出せた気がした。もしかすると、行方不明になっている彩香の件も解決出来そうな予感がしたのだ。
「来い!」
「う? お、おい、何なんだよ!」
岬はジンの胸倉を掴んだまま、早足で歩き出した。