第14話 身勝手な願い
どの位経ったのだろう? ソファで仮眠を取っていた岬は、室内から何者かの気配を感じ取って目を覚ました。眼を覚ましたと言っても単に意識を取り戻しただけで、眼は閉じたままだ。身動き一つしていないので、傍目からはずっと眠っているようにしか見えない。
窓ガラスには遮光フィルタを掛けている為、外からの光は殆んど入っては来ないが、それでも室内の小さな常備灯から漏れる微かな明かりを頼りに、何者かが足音を忍ばせて岬に近寄って来る微かな息遣いと気配が感じられた。
かなり熟練した者でなければ殆ど気取られない気配ではあるのだが、岬は息を押し殺して気配の行方を窺った。
真っ先に負傷したレイナなのかと思ったが、彼女はまだ鎮痛剤でぐっすりと眠っている筈だ。
気配は岬の目の前で停まり、その手が眠った振りをしている岬の首へそっと近付いて来る。
「!」
岬は瞬時に跳ね起きて、その腕を素早く捕まえた。同時に、捕らえたその腕の細さと冷たさに驚く。
腕の主がはっと息を飲んで後退さった。一歩引いた片足がテーブルに当たり、ウイスキーのボトルが揺れて倒れそうになる。
目の前で、銀色の長い髪がさらりと流れた。
「レ、レイナ?」
片腕を捕まれ驚いていたレイナの両手には、拡げた毛布が握られていた。眠っていた岬を起さないように、そっと近付いて掛けようとしていたのだろう。
岬は彼女の常識から懸け離れた、余りにも早い代謝に面食らってしまった。
「も、もう起きたのか? いや、それよりも傷が……痛むのか?」
立ち竦んでいるレイナをソファから見上げ、彼女の身体を気遣った。
咄嗟の出来事にレイナは驚いたまま表情を強張らせながら、黙って首を横に振る。
岬の視線が、チョーカーの無くなったレイナの胸元で止まった。見覚えのある玲奈の服を着ている。
「勝手に忍んで来て不法侵入もいいとこだ……頼むから『彼女』の部屋を荒らすのは止めてくれないか?」
溜め息混じりに呟いて顔を伏せた。彼女を見ていると『玲奈』がそこに居るようで妙に落ち着かなくなってしまう。
「『荒らす』だなんてそんな……私はただ……」
レイナは言葉に詰まった。獣の姿で逃げ出した彼女は衣類さえ儘ならない。勿論、盗もうと思って着用しているのではない。岬もその事は十分承知している筈なのだが、玲奈の服を無断で着用しているレイナを前に、どうしても冷静では居られなくなってしまう。
「ただ……?」
岬はレイナの言葉を促した。
「す、少しの間だけ、借りているだけよ」
「返せる当てでもあるのか?」
「そんな……」
事情を判っている癖に、岬が面白がって自分を困らせているようにしか思えなくて、レイナは黙り込んでしまった。
所詮、この男も単なる気紛れで自分を匿っただけなのかも知れない……自分はこの男の事を買い被り過ぎたのだろうか? もしかしたら、ジェフが自分に遭わせた以上の事を平気でこの男が強要してくるかも知れない……そんな不安がレイナの胸に過る。
岬の澄んだ眼が、一瞬見せたレイナの戸惑いの表情を見逃さなかった。レイナにとって、そんな一分の隙さえも見逃さない岬から監視されているように思え、煩わしくて仕方ない。
「い、いつまで握っているの? いい加減にその手を放して」
「あ? ああ……」
岬が左手の握力を弱めると、レイナは力任せに岬の手を引き剥がす。
「目が覚めたのなら序だ。答えて貰おうか」
岬は眠気覚ましに煙草を取り出して火を点ける。
「何を?」
「惚けるな。今更言い逃れ出来る状態だと思っているのか? 君は一般市民を手に掛けた。あの少年達も喰い殺そうと……」
「ち、違う、違うわ!」
レイナは岬の言葉を遮り、首を横に振って強く否定した。
岬の手にした煙草から、青白い煙が真っ直ぐに棚引く。岬は煙草を肺へ深く吸い込むと、静かに話を切り出した。
「何処が違う? 君は彼等を袋小路へ追い込んで……」
「あの子達が勝手に道に迷ってしまったの。それでも私のせいなの?」
言い掛けた岬の言葉に被せるように、レイナは鋭く言い返した。
「じゃあ、あの殺害の現場をどう説明してくれるんだ」
憮然としてレイナを見上げる。
「見付けたの」
「何を?」
「私と……同じ豹を」
レイナは一字一句を自分に言い聞かせるように言った。
彼女が言った、もう一頭の存在を手放しで肯定は出来なかったが、少なくともその真剣な表情からは、とても虚偽や妄想など窺えない。
思わず岬は安堵の溜め息を漏らした。
「その傷は……大型の犬にでも遣られたのかと思っていたよ」
彼女の傷が大型の獣によって出来た傷なのだと言う事ぐらい、一目見た瞬間に気が付いていた。特に右上腕部内側の傷は、明らかに獣による咬み傷だ。
大型獣の捜査に多くの警察犬が投入されていたが、その傷口は警察犬のものとは明らかに咬み方が違っているのも知っていたし、白豹に変身したレイナが同じ種類の大型獣と争ったであろう事は、簡単に予想出来たのだ。だが、それを証明する事が出来なくて、岬は事実を有耶無耶にしていたのだ。
「随分ね。何て大雑把なの?」
レイナの艶やかな眼がキッと岬を見据えた。気の強い一面が顔を覗かせたのか、瞳には悔し涙を浮かべている。
「確かにな。君のその傷は違う……イヌ科の咬み傷ならそうはならない」
レイナの右腕には、鋭い牙が刺さった痕が痛々しく残っている。顎の力で噛み砕きダメージを与えるイヌ科の咬み傷とは、全く異なっていたのだ。
彼女の涙を見てしまい、とにかく彼女を落ち着かせる事が先決だと思った岬は、表情を和らげると肩を竦めて見せた。わざと彼女へ余裕を見せる事で余計な心配を掛けないよう安心して貰おうと言う魂胆だったのだが、岬に対して不審感を抱いてしまったレイナには逆効果だったようだ。レイナは岬からからかわれたのだと思い込み、一層不機嫌になってしまった。
「信じては貰えないの?」
「いや、信じている」
言葉では彼女に肯定してはみたものの、本心では俄かにレイナの言葉が信じられなかった。もし、彼女の証言が事実であったのならば、そのもう一体は本物の豹か、或いは彼女と同じく大型猫科の人獣だと言う事になる。
何れにしても、岬は事の厄介さを知り気が重くなった。自分のインターセプタが異常を起こしていると判った以上、咄嗟の時に使用出来ない可能性が高い。それでは満足な結果は得られないし、何より自分が危険に曝される。
「あの子達も狙われていたわ。私はそれを止めようとして……」
「逆に遣られたのか」
レイナは大きく頷いた。
「信じて貰えなくてもいいわ……私はあの子達を逃がそうと誘導した心算だったの。でも、どんどん反対の方へ行ってしまって……」
襲おうとしたのではなくて、襲われそうになっていた彼等に就いて、レイナは護っていたと言うのだ。
岬は黙って彼女の姿に視線を這わせた。全身傷だらけ。致命傷にもなり兼ねない動脈損傷まで負ったレイナから、一体、何処に疑う余地が残されていると言うのだろうか?
「傷を診せてくれないか?」
「……」
レイナは黙って岬が横になっているソファの傍で膝を折って跪く。
「顔に……」
「さ、触らないで!」
レイナは、頬に触れようとした岬の手を振り払った。
蒼白い肌をしたレイナの右頬には、赤い擦傷が奔っている。女性にとって、身体は勿論ではあるが、顔に傷が付くのがどれだけ辛い事か。外科医である岬は多少なりと心得ている心算だ。
岬はレイナの身体を改めて見上げた。出会った時よりも頬は痩け、襟から覗いている鎖骨が深い谷間を刻むまで彼女の身体は異様に痩せ細っていた。少年達が見付けた被害者の遺体には、喰われて無くなっている内臓器官が多数あったとの報告を受けている。今の彼女の状態では、とても人肉を喰らったとは思えない。
彼女の右上腕部に巻かれた包帯へ視線を這わせる。白く細い腕が生傷で痛々しく見える。他にも咬み傷や裂傷は全身に及んでいた。通常なら失血死さえ在り得る外傷だったが、岬が応急処置を下すよりも早く、彼女の腕の傷はほぼ塞がって回復していたのだ。
「仮にそうだとしても、君は俺を狙った。二度も殺り損なって今度は三度目の正直か? あ、いや、変身した時にも殺され掛けたから四度目になるのかな?」
他人事のように言って微笑する。
「知って……いたの? でも、私がまた貴方を狙って来たとでも?」
形の良い柳眉が寄った。レイナの不安な気持ちが痛い程伝わって来る。彼女にはもうそんな心算は毛頭無い。それは岬も承知していた筈なのに、何故意地悪を口にしてしまったのか自分でも判らなかった。
岬が黙ってレイナの煤けた白い髪の一房を手で掬い取ると、彼女は一瞬顔を強張らせてその手を振り払おうとしたが、岬のもう片方の手に捕らえられた。
驚いて息を乱したレイナが、潤んだ瞳で岬を見詰め返す。
「……すまない」
「どうしてそんな事を言うの?」
低い声で思わず呟いた岬に、レイナはその訳を問う。けれど、岬には答えられなかった。
どれだけ岬がレイナの事を想っても、彼女には夫であるジェフが居る。一時の感情に流されてしまい、あらぬ望みを抱かせて悪戯に彼女を傷付けたくは無いと思った。彼女はジェフの許へ帰る場所がある。だからこそ、あの時自宅まで遣って来た彼女を受け容れずに拒否したのだ。けれどその結果として、たった数日の間に、髪の色が抜け落ちてしまうほどの想像を絶する辛い想いをさせてしまったのか思うと、岬は自分の執った行動を悔んで胸を痛めた。
岬が返事の代わりにそっと手を伸ばして、レイナの白い髪を何度も労わるように撫で付けると、彼女は髪越しに岬の掌の温もりを感じ取り、そっと静かに目を閉じた。
「あっ!」
不意に岬がレイナの腕を軽く引いた。彼女は力無く岬の腕にすとんと収まり、咄嗟に身を硬くして身構える。
「何をす……んっ!」
最後まで言わせて貰えなかった。レイナの唇を岬が奪う。
きつくて辛い酒と煙草の味がした。レイナは元々酒も煙草も苦手である。けれども苦手な筈なのに、少しも厭だとは思えなかった。それは岬の広い腕の中が、温かくて心地良かったせいなのかも知れない。
「酔って……いるの?」
「そうかも知れない。駄目だ……すまない。俺、どうかしている」彼女の細い両肩を掴むと、岬は慌てて引き離した。「すまない……」
もう一度その言葉を口にした岬だったが、彼女と眼を合わせる事は出来なかった。一瞬でも『レイナ』を『玲奈』と重ね合わせた自分が許せない。喩え身体を共有しているとしても、彼女の身体は既にレイナのものだ。自分の身勝手で『レイナ』に『玲奈』を演じさせる訳には行かない。何より、彼女はもう自由なのだから。
そう判ってはいる心算なのだが……
眼を堅く閉じて、岬は顔を伏せた。
それでも彼女は玲奈では無い。岬が愛した『玲奈』とは違うのだ。『諦めろ』と言う自分と『諦めるな』と言う自分が鬩ぎ合い、この上無く不快で堪らなかった。理屈では頭で理解している心算だったが、感情が……身体がどうしても付いて来ない。
「どうして謝るの?」
レイナは伏せ目がちに視線を岬から逸らせたが、彼女の身体は岬の腕から逃れようとはしなかった。
ゆっくりと岬を正面から見上げると、細い肩に掛かった長い髪がさらりと流れる。色を失った彼女の髪は、光の加減で銀色の糸のように見えた。
「私が貴方の知っている女性に似ているから?」
「!」
今度は岬が凍り付く。
「あの写真の女性に……」
レイナが眠っていた岬の部屋には、机の上で小さな写真立てが裏返しに倒されていた。
目が覚めてその事に気付いたレイナは、悪いと思いつつそれを手に取って見てしまったのだ。
そこには岬に寄り添う玲奈が写っていた。穏やかな光に包まれた彼女は、此方に向って優しく微笑んでいる。
この人は誰なのだろうかと思った。
自分と同じ顔を持った女性が、岬と一緒に写っている。その事実を知った瞬間、レイナは自分が高い崖から一気に突き落とされたような気分になってしまった。
今まで岬が優しかった理由が、この一枚の写真に在ったのだと覚り、愕然とした。
岬の想っていた女が、自分では無かったのだと否が応でも認めなければならなくなった残酷な現実に気付いてしまったのだ。
暫くの間、レイナは頭の中が麻痺してしまい、考えを廻らせる事が出来なくなった。まるで身体に大きな風穴を空けられてしまったような感覚さえある。
彼女は写真を手にしたまま力無くベッドの端へ座り、ゆっくりと首を巡らせて窓に映っている自分の姿へと視線を移した。
流れ落ちる長い髪は既に元の色を失ってはいたものの、明るい栗色の瞳に、白い肌。少し痩せてしまってはいるが、そこには写真と双子のような自分の姿が映っている。
しかし、目の前の窓に映ったレイナには、彼女のような明るさも、ましてや自分の過去の記憶すら微塵も無いのだ。
『君は笑わないんだな』
いつだったか、岬が言った言葉が蘇る。
その時は、何故そんな不躾な事を口にするのだろうかと腹立たしく思ったのだが、写真を目の前にした今のレイナには、岬の心が読み取れたような気がしてならなかった。
岬のあの優しさは、自分へ向けられていたものでは無く、自分の姿とそっくりであるこの写真の『彼女』へ向けられていたものなのだと。
けれど、腹立たしく思っていた岬の言葉に、どうして自分が不用意に泣き出してしまったのかは、未だに判らなかった。涙など、自分はもう枯れ果てて、泣き方さえ忘れてしまったと思っていたのに。
魂が抜けてしまったような虚ろな瞳で、窓に映った自分の姿をぼんやりと見詰めているレイナの視線が、違和感を覚えて一点へと静止する。
その細い首には、ジェフが付けたチョーカーは無かった。驚いて両手で首を何度も探って確かめてみるのだが、いつも感じていた厭な金属の感触は指先に無い。
岬が外したのだろうか? 特殊な工具が無ければ、どんなにしても外せなかったものなのに。
ジェフから『高価な品だから』と言われ、大切に身に着けて決して外さないようにと言われていたものだった。けれども、高価な宝石類を買い与えては、レイナの心まで手入れたのだと勘違いして喜んでいるジェフの態度を眼にする度に、レイナはそれが厭で堪らなかった。それに、澄んだ輝きを放っている真紅の宝石――レディ・ブラッドには、何故だか人の欲望や邪念のような禍々しさをいつも肌身に感じていた。そんな宝石がどうしても好きにはなれず、何度も自分で外そうとしてはジェフに見付かり、その度に酷い暴行を受けていたのだ。
けれど、ジェフからもう付き纏われる心配は無い。自分はもう自由なのだ。
『でも……』とレイナは思う。
自分はこれからどうすれば良いのだろうか? ジェフの籠の鳥となっていた頃から『自由』という言葉にずっと憧れていた。しかしその反面、『自由』を得た代償として孤独になってしまった現実が重く圧し掛かる。
そして自由になった今、いつまでもこのままでは居られないと思った。『彼女』の存在を知った以上、自分が此処に居たければ、どうすれば良いのか? その答えはたった一つしか無い。しかし、それでは何より自分が可哀想で惨めではないか。
「……」
ふと、誰かに呼ばれたような気がして、レイナは薄暗い室内を改めて見廻した。
室内に置かれているクローゼットやテーブル等、レイナにとっては既視感を抱くようなものばかりなのに、思い出せるような物は何も無い。けれど何故か懐かしいような……錯覚とも取れる不思議な感覚に見舞われた。
恐らく、以前岬の部屋に来てその時に感じた『雰囲気』を感覚的に捉えて覚えていたものだろうと思った。一度ならず、二度までも此処へ来ているのだ。見覚えがあったとしても何ら不思議では無い。
錯覚だと認めたレイナは、軽い失望を覚えて肩を落とした。そして再び手にしていた写真の女性を見詰める。
岬に尋ねた訳でも無いのに、何故だかレイナにはその女性が岬の中に深く刻まれたまま、手の届かない遠くに行ってしまったのだと判った。
手にした写真立てに、不意に雫が零れ落ちる。
=「泣いているの? 私が? この女性に? それとも……私自身に?」
* *
「レイナ、見たのか? あの写真を」
「ええ」
岬が俯いたままそっと囁くと、レイナは溜息のような返事をして浅く頷く。
レイナに『彼女』の存在を知られたくは無かった筈なのに、岬は『彼女』の存在を証明していた写真をレイナの眼に触れぬよう隠したりはしなかった。自室に置いていた写真立てを、単に伏せていただけだったのだ。
『玲奈の存在を知られたくは無い筈なのに、伝えたい……』この矛盾している行動の裏には、岬の賭けとも取れる身勝手な動機が在った。もしかすると『玲奈』の記憶が戻って来るかも知れないと言う甘い思惑を抱いたからだ。けれど同時にそれは『レイナ』に対して酷い仕打ちをしてしまう事に他ならない。下手をすれば完全に嫌われてしまうかも知れないと言うのに、百も承知でリスクを冒したのだ。
「き、君には……君には全く関係の無い女だ。気にするな」
「嘘」
努めて平静を装った岬だったが、この期に及んで言い逃れなど出来る状況ではない。恐らくレイナも判っている筈だ。なのに岬は強引に『他人の空似』だと片付けてしまおうと言うのだろうか?
「だったらどうして……どうして?」レイナは右手でそっと自分の唇に触れた。「私は……私はあの女性の代わりなの?」
目頭が熱くなる。目の前に居る岬の顔がぼんやりとぼやけて、熱い涙が頬を濡らした。写真の女性と自分とを重ね合わせてしまうだなんて、何て失礼で酷い男なのだろうかと思う。この男は一体何処までずるい男なのだろうかと……なのにレイナの心の奥深くでは今でも尚、岬の事を想い続けているのだと自覚せずには居られなかった。
「レイナ、違……」岬は済まなそうな表情を浮べて、レイナから顔を逸らせる。けれど、言い掛けた言葉とは裏腹に、彼女の肩を力強く引き寄せて抱き締めてしまった。「このまま……少しだけでいい。このままで居させてくれないか?」
岬の吐息がレイナの首筋を擽り、レイナはゆっくりと瞳を閉じた。抱き締められた身体を通して、岬の身体に染み付いた煙草の香りと、彼の温もりが仄かに伝わって来る。
「岬……」
ずっと血の臭いと酒や煙草の臭い、そしておぞましい獣のような雄の体臭しか知らなかった。勿論、岬も酒や煙草を嗜んでいるのに、何故か不快感は覚えない。
着痩せするタイプなのか、岬の胸板は思ったよりも厚く、鍛えられた無駄の無い身体つきだ。岬に出逢って抱き締められたのはこれが初めてでは無かったが、その感覚は遠い昔の誰かの記憶と似ているような気がしてならない。なのにレイナはその大切な人を思い出す事が出来なくて切なくなった。
レイナの鼓動が速くなり、全身が熱くなり始める。傍に居るだけで安心出来る心地好さが、肌の温もりを通して現実のものとして直接感じ取れる。
今まで、何人もの男達に同じ様に抱かれていた。触れられるその度に、自分が穢されて何かを失って行く気がして、厭で堪らなかった。なのに、岬に抱き締められていると言うのに、レイナはその腕の中で不思議な安堵感を感じている。寧ろ温かくて気持ち良いとさえ思った。互いの体温を共有し、もう少しこのままで居たいと願った。
しかし、脳裏に写真の女性が浮かび、再び現実に引き戻されてしまう。自分はあの女性の身代わりなのだと言う、確たる事実を突き付けられた瞬間に。
「酷いわ」
レイナの白い腕が岬の背へそっと廻り、背中に廻されたレイナの腕の感触に、岬の背中がピクリと反応する。
「レイナ?」
「汚れた私では……いけない?」
レイナは岬の肩に頭を預け、ゆっくりと岬を見上げる。
「レ……イナ……」
物憂げな妖しい瞳に射抜かれて、頭の奥が痺れるように疼き、岬は心を奪われてしまった気がした。このまま彼女を手放したくないと言う身勝手な強い想いが湧き起こり、レイナの身体を折れるほど強く抱き締めて、再び柔らかな唇を奪う。
レイナは岬の腕に強く抱かれながら、挑発して刹那的に岬の心を天秤に掛けて推し量ろうとしている悪女のようなもう一人の自分を感じていた。今の自分は、チカ達と同じだと思った。傍に居れば居るほど、岬を独占したい気持ちが益々強くなって来る。
岬には自分と同じ姿をした女性が居たのを知っていながら、何というはしたない事を考えているのだろうかと自分自身に嫌悪するのだが、それでもレイナは岬から離れたくないと強く願った。
「シャワーを借りても良いかしら」
「その前に、傷を診せてくれ」
言うが早いが、彼女の返事を待たずに右腕の包帯を手早く解く。
思っていた通り、通常であれば致命傷だった筈の傷口は、既に完全に塞がっている。岬はレイナが通常よりも数倍の速さで治癒する能力を持っている事を改めて知った。
以前、レイナはジェフによってミューズ社の細胞蘇生液を常用されていた。あの薬は初期治療には驚異的な治癒能力を発揮するが、反面、使用頻度が高くなればそれに反比例して本人の自然治癒能力が衰えて行く代物で、事実上医療局からの不認可を受けた薬だった。
恐らく、レイナが事故で行方不明になった時以降、その薬は彼女へ投与されてはいないだろう。だとすれば、薬の効力が及ばなくなっている今が、彼女の本来持っている治癒能力なのだ。
動物は自分のモノだと主張する為に、傷や臭いを付けたりするマーキング行動を採る。何度も頻繁に蘇生液を使用していたのは、レイナの身体に残った傷を、逆に消さずに残していたかったからなのかも知れない。そんなジェフこそ動物的なヤツだと岬は思った。
しかし『玲奈』が生前、ジェフの事を徹底的に拒絶していたのを考慮すれば、ジェフの束縛したい男の気持ちが岬には解らなくも無い。だからと言って、自分の心の内だけに留めて居られずに現実の彼女に手を出す事が許されると思っていたのなら、それは大きな間違いだ。
『常に彼女を束縛していなければ気が済まない』――ジェフのそんな声が聞こえた気がして、岬は不快感に顔を顰めた。つくづくお前の遣りそうな事だなと、面と向かって本人に嫌味の一つでも言いたくなってしまう。
「どうかしたの?」
「あ? いや、何でも……」
『無い』と言おうとした時、唐突にレイナのお腹が可愛らしく自己主張した。
「……」
不意を衝かれ、お互いに見詰め合ったままで固まってしまう。
「い、厭っ!」
くすくす笑い出した岬に、レイナは真っ赤になって顔を背けた。
* *
サイドテーブルに置かれていた岬の携帯が鳴った。
岬は、傍らで軽い寝息を立てているレイナを起こさないように、腕を伸ばして着信音を素早く消した。
携帯から微かなノイズに交じって、慌ただしい遣り取りをする檜山達の通信が聞えている。桐嶋署の捜査には外されたが、岬は白豹のレイナと出会う確立が高い捜査班である檜山達の車両へ、盗聴器を仕掛けていたのだ。但し、彼女は今此処に居る。どうやら檜山達が発見したのは、彼女が言っていたもう一頭の事らしい。
「出掛けるの?」
「あ? ああ」
着替えていた岬は背後から声を掛けられて動揺した。
深い眠りに付いているものだと思っていたレイナがもう眼を醒ましている。通常の人間よりも鋭敏になっている彼女の『勘』の鋭さに、気後れしてしまった。
彼女は少し気怠そうな表情で、素肌にシーツを引き寄せて上体を起こす。乱れた髪が大理石のような白い肩に掛かって艶かしい。眠りを妨げられてさも迷惑だわと言わんばかりの態度が、普通の女性となんら変わらない。そして、その態度が却って岬を安堵させた。
「呼び出し? 貴方こそ一体何者なの?」
レイナの明るい栗色の瞳が岬を疑り、探っている。
一時の感情に流されてしまったが、レイナは心の奥深くで、まだ岬の総てを受け容れてしまった心算ではなかった。ホストだったり、医者でもあると言った謎めいた岬の言葉が俄かに気になり始めたのだ。明け方に少年達を助け出そうとして、岬が口走った言葉が蘇って来る。
「そう……確か、『刑事』って。貴方があの子達にそう言っていたのが聞えたわ」
「……」
「ねえ」
岬は一瞬躊躇ったが、彼女をこれ以上騙す事は出来そうもないと諦めた。
「本当だよ。俺は桐嶋署の刑事だ」
「警……察?」
「ああ。クラブ内での薬物取引捜査関連で、俺はホストとして潜入した。君は薬物取引に関与している重要参考人として、既に警察のリストに名前が挙がっていたんだ。しかも広域捜査の対象となっている豹だと言う事も後で気付いた。俺はその事実を把握していたが……報告出来なかった。叶う事なら、君が捜査に気付いて何処かへ消えてくれればとさえ願った。だけど、君は逃げなかった。それどころか……」
「医師だって言っていたのは嘘なの?」
「いや」
「嘘よ。今、刑事だって言ったじゃない」
岬は背広の内ポケットから、自分が外科医である事を証明するFCI機関のIDカードを提示した。
「結果的に君を騙す事になってしまったが……俺はそんな心算は全く無かった」
それどころか、レイナの身体の持ち主――『玲奈』の記憶が戻ってはくれないのだろうかと未だに願って已まないもう一人の岬が居る。
けれど『玲奈』に戻って欲しいと願っても、レイナは既に『玲奈』ではない。別の人格が形成されている『レイナ』だ。『玲奈』の命を奪った一発の銃弾が、彼女の記憶部まで消し去ってしまったのか、或いは人為的に削除されてしまったのか……岬には後者の人為的な操作が為されたように思えて仕方が無い。
レイナは放心したように暫くの間、岬の提示したIDカードを見詰めた。
「そう。疑って……悪かったわ。そうよね。でなければ介抱して貰えない。貴方に出会えなかったら今頃私は……」
レイナは一番傷の酷い右腕に視線を落した。丁寧に巻かれた白い包帯は、粗雑そうな岬の外見とは掛け離れている。
「君の言った事が本当だった。また犠牲者が出た」
「信じていなかったの?」
先を急ごうとする岬の背中を見ていたレイナの表情が硬くなり、背中で彼女の視線を感じていた岬の動きがぴたりと停まった。
いい加減な返事をして、不覚にも少なからずレイナを失望させてしまったと気付いて後ろめたくなり、岬は彼女に視線を合わせる事無く顔を背けた。
「出て行けば良いのでしょう? 此処から。貴方もジェフと同じ。厄介事はもう沢山なのでしょう?」
レイナはそんな岬の様子から自分の引き際を感じ取り、投げ遣りにそう言って涙ぐむ。
「いや、君は此処に居るんだ」
「え? 今、何て?」
聞き間違いかと思った。自分の都合の善いように聞き違えたのかと。
「誰も傷付けたくは無い。此処に居ろ」
「居ても……いいの?」
縋るような直向きなレイナの瞳に、一瞬岬は強い罪悪感を覚えた。
「勘違いするな。俺は君を匿う心算で言っているのじゃない。頃合を見計らって、君を警察に引き渡す。此処に居るんだ」
「そんな……」
心無い言葉に、レイナが息を飲む。岬の言葉は引き寄せておいて突き放す、酷い言い方だ。
「此処から逃げ出せば、今度は問答無用で射殺される。俺は……」
いや……此処で拘束されたとしても同じだろうと思った。レイナは何れ処分されるであろう事は簡単に想像出来る。
そして自分は二度も彼女の死を眼にしなければならないのか?
岬は焦りにも似た不安を覚えた。何か他に助ける方法がある筈だ……時間さえあれば、何か他に手段が……しかし、何度解決の手懸かりを模索してみても、自分一人の力では切り開く術がどうしても見付からない。
躊躇いが岬の口を更に重くしていた。
レイナは『射殺』と言う岬の言葉に怯えて気が動転した。
「自分の保身の為に、私を捕まえるの?」
「それは違う!」
「何が……何が違うのよ!」
レイナはカッとなり、思わずサイドテーブルに置いてあった目覚まし時計を岬に向かって投げ付けた。
かわそうと思えば簡単にかわせる事が出来た筈だった。なのに岬はそれを避けようとはしない。時計は岬の顎の左側を直撃して落下し、バラバラに分解して四方へと散った。たちまち顎の部分が赤くなる。
レイナの驚いた表情が、重く沈んだ岬の瞳に映る。
「わ、私……」
時計を投げた手が震えた。レイナは岬の赤くなった顎と足元で壊れた時計を交互に見詰め、自分が遣ってしまった事の重大さに気付いて我に返る。
「こ、来ないで!」
岬は黙ったままレイナへ近寄った。彼女は怯えた表情で首を大きく横に振り、拒否をして後退る。胸元へ引き上げたシーツを握る手に一層力が篭る。
ジェフの時のように殴られるのだと思い、堅く眼を閉じて身構えた。そして、変身が恐怖心から起因しているのだと知っているレイナは、自分がいつ獣に変身するかも知れないと言う恐怖に怯えた。
「厭! 変身したくない! あ!」
いきなりシーツごと上からふわりと抱き締められた。レイナの身体がびくりと震え、潤んだ瞳が大きく見開かれる。
=「気が……済んだか?」岬は眼を閉じて、優しくそっとレイナの耳元で囁いた。=「俺は君を護りたい……此処に居ろ。いいな?」
岬はもう一度念を押すようにそう言うと、部屋を出て行った。
「どういう……意味なの?」岬が消えて行ったドアを見詰めながら、両手で自分の身体を確かめるようにしてそっと肩を抱いた。「獣に変わらなかった……私……」
不思議だった。あのジェフでさえレイナの自由を束縛するコントローラーが無ければ、決して近付こうとしなかった。不安や恐怖に包まれて、いつ獣に変身するかも知れないと言う事を承知していながら、岬は全くの無防備の状態で自分に近付き、抱き締めたのだ。
覚醒剤や幻覚剤を投与され、幾度も意にそぐわない男達の相手をさせられた。そしてその度に記憶が飛び、再び意識が戻ると全身が血の臭いに包まれているという、おぞましい悪夢の繰り返しを何度も経験して来た。
岬と出逢い彼を襲うまで、変身したレイナは自分を取り戻す事が出来なかった。血に飢えた獣だった彼女に、武器を持たずに丸腰だった岬が、人間の心を取り戻させてくれたのだ。
レイナは左手でそっと自分の右手を包み、頬を寄せた。眠りに就くその時まで、ずっと指を絡めて優しく握り締められていた手だ。
「岬……」
切なさに甘やかな唇が解けて、思わずその名が洩れる。
記憶を失う以前に、そんな名前で呼ばれていた人が自分の近くに居たような気がしてならない。その人は自分にとって、恐らく忘れてはいけないとても大切な人だったように思うのだが、思い出さなくてはと焦れば焦るほど、指の間から擦り抜けて毀れ落ちてしまう一握の砂のように曖昧な記憶の中に流されてしまい、微かに感じ取っていた温かくて懐かしい思い出の手掛かりさえ消え失せて行ってしまいそうになる。
何かを思い出しそうで、思い出せない――じりじりとしたもどかしい焦燥感に苛まれる。ジェフと一緒に居た時は、こんな想いを抱いたりはしなかった。自分に近付く男達が何処で何をしていようと全く気にはならなかったのに。
けれど『高城岬』と名乗る男と出逢ってからは違っていた。
失った記憶を呼び起こそうとした引き金が、まさか『嫉妬』と言う感情であったとは、レイナ自身思いも寄らなかった事だ。自覚するに至ったのは、岬の部屋で彼女の写真を見てしまったせいなのだと気付いてからだ。
見た目が何もかも似ている女性を、岬が意識しない筈など無い。しかも今まで自分を見詰めていた岬の眼は、自分を通り過ぎて『あの女性』を見ていたのだ。優しい人だと思えたのは、岬が自分と彼女とを重ね合わせて見ていたからなのだと知り、狂おしいほど切なくなった。
『俺は君を護りたい』
たった今、そう言って出て行った岬の言葉が脳裏を過る。
その言葉に嘘偽りは無いだろう。けれど岬は自分を引き渡すとも言ったのだ。その言葉の裏には『愛したいけど愛せない……』そんな拒絶の答えがあるのではないか?
自分はあの女性の身代わりでしか無いのだと判って居ながら心を許した筈だ。なのにそれでも猶、岬の心が欲しいと願っている。醜く歪んだ自分の心が堪らなく厭になる。
これは何かの罰なのだろうか?
一人取り残された不安がレイナを一層悲しくさせ、大粒の真珠のような涙が溢れて頬を伝った。