第13話 揺れる想い
現場検証を終えた岬が自宅へ戻ると、白豹はバルコニーから忽然と姿を消していた。岬から頑なに拒絶されてしてしまったと気付いたのだろうか?
それとも、何か他の理由で……
レイナを一旦は拒否してしまったものの、岬は彼女を再び迎え入れるタイミングを完全に逃してしまい、どうしようかと考えあぐねていた処だっただけに、彼女に対して罪悪感を覚えてしまった。
変身が解けないのであれば、簡単に情報が入って来るだろうと思われていたのだが、白豹の目撃情報は、あの日以来ぷっつりと途絶えてしまった。依然として白豹の行方が判らないまま悪戯に一週間が過ぎ、大型獣による殺害事件はこのまま迷宮入りになるのではないかとの噂が署内を駆け巡り、捜査を続けているFCI側からは焦りの色を禁じ得なくなっていた。
出来る事ならば、今すぐにでもレイナを捜しに行きたかったのだが、乱闘の傷害事件を起こした岬は、要注意人物としてFCIの上層連中から疑惑の眼を向けられている。迂闊に身動きする事は出来なかった。
ならばいっそ、レイナがこのまま何処か――自分達FCIや警察の手の届かない遠くへ逃げて行ってくれれば良いと思った。そうすれば彼女を辛い眼に遭わせる事も無いし、自分にもきっと心穏やかな日々が戻って来るだろうと。
けれど、無理に自分を抑え付けて納得しようとすればするほど、逆に居ても経っても居られなくなり、彼女への想いが募って辛くなる。
『厄介払いが出来た。そう思えば良い』と、岬は何度も自分に言い聞かせる。
灯りも点けず、独りで薄暗いリビングのソファで胡坐を掻き、ロックグラスを一気に呷る。
彼女が居たバルコニーの片隅へ視線を遣すのだが、何度見ても去って行った白豹が戻って来る気配は無かった。
空になったグラスを傾けると、一点の曇りも無い透明な氷の塊がグラスの中で澄んだ音を立てる。岬はボトルを手にすると、角が丸くなってしまった氷の上へ琥珀色のウイスキーを注いだ。
少し酔いが回って来たのか、手元が狂ってグラスの表面一杯に注いでしまった。慌てる程では無かったが、自分の失敗に気付いて氷の浮いている琥珀色の液体を覗き込み、グラスへ口を付けようとしてハッとする。
そこに映っていたのは、今にも泣き出しそうな不甲斐ない顔をした自分だった。
「玲奈、これで……良かったんだよな?」
心の中で自分の『玲奈』に問い掛けるのだが、それでも猶岬の心は揺れていた。
レイナが自分の事を意識している事はとうに気付いていた。しかし、それは『玲奈』の記憶が戻ったからでは無い事も。
「止まった過去よりも、目の前の現実……か。全く……俺も情けないよな」
溜め息混じりに呟き、岬はそっと眼を閉じて『あの時』の事を思い出した。
『駄目だ。絶対に反対だ!』
岬は頑としてその要求を拒否した。
『しかし……』
一同は言葉を濁す。
『タダの人質交換じゃない。奴は薬を遣っている! そんな事はダミー・ドール(身代わりロボット)に遣らせればいい! 奴はあの状態だ。誰だっていい! 君じゃなくても解らない!』
険しい表情をした岬の瞳には、毅然として彼を見詰め返す長い亜麻色の髪を持つ女性刑事が映っていた。
薬物中毒患者が病院内に立て篭もってから、既に六時間が経過しようとしていた。初期の段階で取り押えれば良かったのだが、第一通報で駆け付けた警官は、犯人を捕らえるどころか逆に拳銃を奪われて射殺されてしまった。
健常者であった頃の犯人はかなりのガンマニアで、有名な射撃大会には必ず上位に名前が出るほどの人物だった。しかし、二年前に地方で起こった猟銃による連続殺人事件の容疑者として誤認逮捕されてしまう。
刑期が確定してから七ヵ月後に真犯人が別件で逮捕され、晴れて冤罪であった事が証明されたのだが、既に彼の人生は総てが手遅れになっていた。
以後、薬物に逃避してしまい、身内の介添えで都内にあるこの病院で入退院を繰り返していた。
犯人の要求は、自分を誤認逮捕してしまった当時の警察官への報復だったが、無論聞き入れられる次元の要求等では無い。しかも時間の経過とともに、薬物の副作用で錯乱状態が顕著になっていた。
岬達が駆け付けた時には、既に人質の患者数名と医師一人が射殺されており、院内には猶も数人の人質が居り、その中には透析を必要としている重篤な患者が含まれていた。
犯人の過去の事件を調べ上げたマスコミ連中がどっと押し寄せた為、警察は身動き出来ずに膠着状態が続いたのだが、透析患者には時間的な余裕など残されてはいない。
眼の前で刻一刻と症状が悪化して行く患者の容態に、警察は患者の人命を優先して人質交換の交渉を申し出ると、犯人は偶然警官隊の前で指示をしていた亜麻色の髪の女性――主任の玲奈を交換条件に指名して来たのだ。
『ドールを此方に遣っている猶予は無いわ。マスコミが押し掛けて来ているのよ? 何より人質にされている人達がいる。此処で犯人を欺いても他の人達は欺けない。ただでさえ警察に対する市民の不信感を払拭出来ないでいるのにこれ以上煽る事は……犯人の弾はあと一発。大丈夫、行きます』
彼女の明るい栗色の瞳には、反対する岬の言葉を撥ね返すだけの毅然たる信念があった。
『玲奈、止せ! 君が今その全ての責任を負う事は無い。行くな!』
必死で説得を繰り返す岬の声も、人質を助けたい一心に駆られた彼女の熱い心へは届かなかった。
同僚達に背を向けて、犯人へ向って歩み始めた玲奈を見た岬は、慌てて車内からスナイパーライフルを掴み、向かい側のビルへと全速力で走り出す。
犯人に気取られぬよう移動する岬の背後から、無情の銃声が響き渡った。
あの時、何故力尽くでも彼女を引き留められなかったのか……自分の不甲斐無さは十分過ぎるくらい承知している。幾ら後悔しても悔み切れない事ではあるのだが、彼女を愛していたからこそ、玲奈の意志へ重きを置いて譲ってしまったのも事実だ。
そして玲奈を失ってからこの一年、片時も彼女の事を忘れた日は無かった心算だ。
それほど深く彼女の存在が焼き付いていた。なのに今ではその玲奈の記憶が薄れ掛けている。いや、寧ろ玲奈の記憶を消そうとしているもう一人の自分が居て、日を増す毎にそれを強く感じずには居られなくなっていた。けれど、今更玲奈の身体を取り戻しても、彼女は――岬を覚えている『玲奈』はもう居ない。何処にも。
眼を閉じて思い出す玲奈は、いつも優しく笑っていた。なのに、彼女の身体を持って現れた『レイナ』は、全く笑わない女だった。いつも何かに怯え、哀しそうな眼をしていた。何とかして遣りたい気持ちが先走り、任務中であるにも関らず外へとレイナを連れ出してしまったが、却って彼女を傷付けると言う辛い結果を招いてしまった。
「嫌われるのは簡単だが、想いを伝えるのは難しい……か」
岬は静かに眼を閉じた。玲奈が嫌っていた酒も煙草も止めていた筈なのに、いつの間にか求めるようになってしまった。
* *
真夜中、サイドテーブルに置いていた岬の携帯が鳴った。寝惚けながら手探りで携帯を探していて、ベッドから転げ落ちそうになる。
「はい?」
―「高城、夜分にすまんな」
呼び出しは、負傷した芹澤に代わった檜山からだった。
「被害者は大学生二名。隣の署管轄内に在住している。帰宅途中で大型獣に襲われたらしい。これまでは薬物・臓器取引に関与していた者達ばかりだったが……彼等は全くの無関係。遂に民間人に被害が及んだ……我々の力不足だ」
檜山は沈痛な面持ちでブルーシートに覆われた遺体へ向かい、眼を閉じて合掌した。
周囲のビルの壁や道路には、夥しい量の血の海へ赤黒い肉の塊が飛散していた。現場の事後処理を任されていた新人警官の数名が、余りの惨状に気分を悪くして路肩で吐き戻している。
岬は血染めの道路へ描かれた人形の白線を凝視した。数日前、岬も危うく彼等と同じ眼に遭う処だったのだ。純白の強靭な身体と燃えるような真紅の瞳に圧倒され、一時は死さえをも覚悟した。あの時の戦慄が今でも鮮明に蘇る。
「また……また人を襲うのか? ……レイナ?」
思わずうわ言のように呟いた。
あの時、本気で白豹を……いや、レイナを助けて逃がして遣りたいと思った。それがFCIの任務不履行に該当し、尚且つ裏切り行為になると承知していても、正気に戻って自分を気遣ってくれた彼女を救いたいと願ってしまったのだ。
けれど、自分が彼女を助けた事によって起きた見返りが、この殺人なのだろうか? 自分は取り返しのつかない過ちを犯してしまったのではないのか?
「……ウ? ……ジョウ? ……おい、高城?」
思い詰めた表情を浮べている岬を見兼ねて檜山が声を掛けるのだが、岬には檜山の声は届かなかった。
所詮、獣は獣なのか? 飢えと、追われていると言う恐怖が、彼女を再び野獣へと引き戻してしまったのだろうか? そして、レイナはもう二度と元の人間の姿には戻れないのだろうか?
何度問い掛けてみても岬には答えが出せない。
「高城ッ!」
何度呼んでも気付かない岬に檜山が痺れを切らし、遂に大声を張り上げて一喝した。
「え? あ……は、はい」
「大丈夫か? おい」
檜山が眼を細めて岬の蒼ざめた顔を覗き込む。
「え? ええ……チョッと考え事を……」
檜山の探るような眼をかわして、岬の視線が所在なく泳いで落ち着きを失う。
「芹澤さんの件もあるし、お前自身が襲われたのだから、色々と思う処があるのだろうが、これだけは言っておく。いいか? 間違ってもお前一人で解決しようとするなよ?」
「檜山さ……」
「仇なんて取ろうと考えるな」檜山は強い眼力でもって説き伏せようと、人差し指を立てて岬へ釘を刺す。「今のお前はそんな面構えをしている。一度奴と対峙してそんな怪我をしているんだ。だがな、相手は人間じゃ無い」
「だけど……」
「『けど』も『でも』も無しだ。口答えは許さん!」
言い淀む岬に、普段温和な檜山が珍しく声を荒らげた。パワハラだと反論したい処だったが、岬はぐっと言葉を飲み下す。
「いいか? 感情論でどうこう言っているんじゃない。お前が危険なんだ。解るな?」
「解りません」
ムッとして言い返した。
檜山はわざと高圧的な態度に出たのだが、今の岬には却って逆効果だったようだ。檜山は自分の言葉に反発する岬の様子を冷静に窺い、眉を顰めた。
「そうか……なら、已むを得ん。お前はたった今この捜査から離れて貰う」
「な……何を言っているんです? 檜山さん?」
「俺は署長と話していたんだ。結局、最後まで署長は首を縦には振ってはくれなかったが、今のお前の態度で俺の迷っていた気持ちにカタが付いたよ」
「何がです?」
「お前を捜査から外す」
檜山は強く突っ撥ねる。
「そんな……」
「なあ高城。俺だってお前の立場なら多分同じだ。相手が人間なら少しは考えて遣れる余裕を持っちゃあいるが、今回の相手は獣だ。恐怖や憎悪、そんな一瞬の気の迷いが命取りになるくらい、俺にでも察しはつく。気の毒だが少し頭を冷やせ。今のお前にはそんな時間が必要だ」
一方的な檜山の言葉に、岬はぷいとそっぽを向いた。捜している獣の正体を知っているだけに、尚更素直には従えない。
「ほら、拳銃と手錠」
「……」
檜山は岬に片手を差し出し、催促して見せる。
岬は言われた通り、拳銃と手錠を渋々差し出した。
「これでお前がこの件から手を引くとは俺には思えん。こちら側の捜査からお前を外したとしても、何ら抑止になるとは思っていない。FCIの捜査がこの件にどれだけ関与しているのか俺には全く判らんが……悪く思わんでくれ」
檜山から心苦しそうにそう言われたのだが、納得出来ないまま、岬は檜山の言葉に頷くより他は無かった。
* *
気落ちした岬は、桐嶋署へ先に引き揚げていた。
「お帰り。お早いお着きじゃったのう」
署内の片隅で一人ぽつんと詰め将棋をしていた小島老人が、岬をちらりと一瞥するなり口を開いた。まだ夜明け前だと言うのに、小島はいつもの場所に居る。
「小島さん? こんな時間にどうして?」
「わしか? わしゃあ、単なる留守番じゃよ。見ての通りじゃ」
「『留守番』って……」
小島はさらりと言ってのけたが、署内は当直の者が慌しく外部との連絡を取り合い、情報が行き交って昼間と何ら変わり無い。既に定年退職を迎え、相談役の非常勤アドバイザーである小島が『留守番』と称して夜中に居ること自体有り得ない。
「ジン達もバイオ・ケミカルの方に行っておるからのぉ。あちらもいよいよ大詰めってとこじゃな。皆、出払っておるで、わしゃあその応援よ」
「バイオ・ケミカルに?」
岬はその報告をジンから一切受けてはいない。まさか自分はFCIからも外されたのだろうかと妙な疎外感を覚えて、がっかりと肩を落とした。
「留守番じゃ無くて、オヤジか三島さんから俺の監視を任されただけだろう? どうせ」
岬は大きく溜め息を吐くと、片手で前髪を掻揚げながら苛々して言い放った。
「いんや? こんなひ弱な老いぼれにお前のお守りなんぞが出来るかい。雅哉や三島は、わしにそんな酷な事を頼みはせんよ……ほおぉお、その顔は『捜査から外されました』って顔をしとるぞ? どうじゃ? 当たったか? うん?」」
小島は意地悪そうに笑って見せると、ズバリと言い当てた。岬はそんな子どもっぽい小島に毒気を抜かれた気がして、思わず頬を緩める。
「う……うん」
「大方、檜山がそうしたんじゃろう? あん?」
小島の読みに、岬は黙って素直に頷く。
「まぁ、仕方が無かろう。檜山も微妙な役職じゃからのう。芹澤達の件で相当堪えとる上に、今のお前の様子ではな。慎重に慎重を重ねるようになっても仕方あるまいて……そうじゃ、岬。お前、暇なら熱いお茶を一杯淹れてはくれんか?」
小島はそう言うと、傍に置いてあった週刊誌を手に取って据わり直す。
岬は軽く頷くと、小島の傍に置いてあった茶筒へ手を伸ばした。普段から家事を遣っている岬にとって、緑茶を淹れる事など造作も無い。手早く急須と湯飲みを食器棚から取り出すと、ポットの湯を再沸騰にセットする。
「あ、そうだ、小島さん。訊きたい事が……」
話掛けながら振り向いた岬の視線が、小島の手元で止まり、言い掛けた言葉を飲み込んだ。
「ふふん、やぁーっと気が付きおったか? お前が檜山から干された理由の一つは、これじゃよ」
固まって身動き出来なくなった岬の目の前へ、小島は手にしていた週刊誌を軽く振って見せる。そこには爆破されたクラブ『ラジェンドラ』が表紙を飾り、その原因が行過ぎた警察の囮捜査だと指摘したスクープ記事が掲載されていた。
「無理も無かろう。既にホステスの嬢ちゃんが一人行方不明になっておるからの。胡散臭いと嗅いで、どこぞのハイエナが金脈を掘り当てたとしても不思議じゃないわい。わしゃあコイツはでっち上げのハッタリ記事だと思うておった。じゃが、この内容は本物じゃ。ずっと以前から張り付いておらねば判らん事まで調べられとるぞ。幸いお前の名は伏せられておるが、お前が潜入しておった事についても書かれとる。FCIでの潜入捜査じゃったが、現職の警官でもあるお前はどう足掻いても不利じゃろう。此方(警察)からはそんな事実は無いと弁明しておるが、世間様がその言い分をすんなりと受け容れてくれるとは思えんしなぁ……それと、最近、巷で噂になっとる獣に因る殺人事件も、警察の責任だと大きく採り上げられとるぞ。報道規制が却って仇になったな。誰かが突破口を開けば、そこに在ること無いこと枝葉を付けて書き立ておるわい。ハイエナ共が皆そこに群がって来よるでな」
小島はそう言うと、乱暴に雑誌を机上へ放り投げた。
「何処でそんな……」
そこまで言って、ハタと思い当たる人物が居た。
玲奈の一周忌に当たるあの雨の日に、墓地でこの事件の情報を真っ先に岬へ提供して来たあの男――脳裏に一人の若いグレネイチャの男の顔が浮かんだ。彼は情報を提供しておきながら、それに踊らされる者達を撮影するのを生業としているフリーのカメラマンだ。
「此処まで調べ上げられとるとはな。お前の事をよーく知っている者でなければ不可能じゃろう。誰ぞ心当たりはおらんのか?」
「……いえ」
「そうか。此方からこの記事をモノにした奴を調べさせたのじゃが、上手いこと撒かれてしもうて、結局判らず終いじゃったわい」
返事を返すのに間があった岬を小島は訝り、その異変を見落とさなかったのだが、この場はひとまず惚けるのが良かろうと判断したらしい。
岬は小島から疑われていると薄々感じながらも、惚けた素振りをする小島に従った。そして小島が放った雑誌を手にして、彼がどういう心算でこの記事を書いたのだろうかと思いを巡らせる。
『僕は彼女のファンでしたから』――玲奈の墓前に花を手向けてそう言った彼の言葉が蘇る。これは、玲奈を忘れ掛けている岬へ対する当て付けの心算なのだろうか? それとも、これ以上『レイナ』には近付くなと言う警告なのだろうか?
=「ふん。この様子じゃと、心当たりが大有りじゃあな」
呆然と立ち尽くす岬の表情を読み取って、小島は独り毒吐いた。しかし、心当たりが在ったとしても、岬からはその相手の事を喋ってくれそうな気配は微塵も無い。恐らく、この件に関しては自分で対処する心算なのだろうと小島は岬の胸の内を読んだ。ならば御隠居である自分の出る幕では無い。
「ま、時間が掛かっても、何とかこの状況を打開せんとならんぞ」
「え、ええ」
岬は曖昧に返事を返した。
* *
岬達が居る桐嶋署所轄管内は、昼夜を問わず引っ切り無しに出動要請の依頼が入って来る。幾つもの連絡回線の中に紛れて、その通信は入って来た。
「はい、桐嶋署。はい……え?」
受けた署員が素早くヘッドセットを離した。傍に居る署員に目配せを遣して、逆探知をを指示すると、再びヘッドセットを取り上げ、マイクに向かって冷静に話し掛ける。
「落ち着いて。もう一度ゆっくりと話してください」
只ならぬ署員達の雰囲気に、岬と小島は何事だろうかとお互いの顔を見合わせる。
「どうしたんじゃ?」
小島が訝って声を掛けた。連絡を受けた署員の顔色が血の気を失って真っ青だ。
「それが、通報者が凄く興奮していて……例の猛獣に追い掛けられていると……」
傍で逆探の操作をしていた別の署員が手短に答える。
「何じゃとぉ? 檜山達はまだ戻っとらんのか? 連絡は?」
「まだです」
小島の問い掛けに、通信オペレーターの一人が硬い声で答える。
「ええい他の者は?」
「各国の要人警備に殆どが駆り出されていて……」
「む……ん。何とかならんのか?」
「手配します!」
小島は腕時計に眼を遣って呻った。
岬は署内の通信装置に近付き、スイッチを署内のスピーカへ切り替える。
―「……けて! 此処から逃げ出せないよ! すぐ近くにいるんだ! 僕も、僕達もあの人みたいに殺される! 早く……早く助けに来てよ!」
息を切らせている少年の声は、不安と恐怖に慄いて今にも泣き出しそうだ。彼の傍でもう一人居るらしく、か細い啜り泣きが聞えている。
「君達は今、何処に居るのか判るかね?」
署員がマイクに向かって呼び掛けた。
―「判らない……め、メチャクチャに走って……けど、けど、お、追い掛けて来るんだ! もうこれ以上走れないよ!」
少年の切羽詰った金切り声に、岬達の表情が強張り、緊張が奔った。
「君、落ち着いて。場所が判らないのなら、何か目印になるものは無いか?」
署員が少年に冷静に呼び掛ける。
「状況をもっと詳しく教えてくれ」
岬の呼び掛けに、傍で助手をしていた署員が振り返る。
「例の大型獣に襲われた被害者を発見して、通報して来た第一発見者の少年達です。発見時にまだ大型獣が付近に居たらしく、後を付けられているのを気付かずに配達をしていたそうです」
「配達ゥ?」
小島の片方の眉が上がった。
「ええ、牛乳配達です。最近じゃ自然派趣向が見直されていて、時間と手間暇を掛けたものが一寸した流行になっているんですよ。……報告に戻ります。数分前にその大型獣が何かと激しく争ったらしく、そこで初めて自分達が付けられていたのだと気付いて……」
岬は窓の外へと視線を遣った。まだ室内の方が明るくて、鏡と同じ状態になっている明り取り専用の窓から、微かに東の空が白み掛けて来ているのが判断出来る。
「気付くのが遅れて、結果追い込まれたと言うのか? 規制して夜間は外出禁止だとあれほど此方から呼び掛けておったに……この非常時に自分の命より小遣い稼ぎの方が大事なのか? 馬鹿者めがぁ」
小島が顔を顰めて唸った。
「携帯のGPSから、少年達の位置を割り出しました。都内の繁華街の……裏の小路ですね。あそこはやたら入り組んでいる上に道幅が狭くて車両での進入が……」
署員が3Dで表された管内の地図に黄色のマークを点灯させる。
「近いじゃないか」
岬は椅子の背凭れに掛けていた背広を手に取り、正面出口へ向おうとした。
「待て!」小島は鋭く岬を制した。「お前一人で行くのか? 応援はどうする。こっちはスグには遣せんぞ? 今、署員の手配をしとるからもう少し待って一緒に……」
「待ってなんか居られませんよ。一刻も早く彼等を助け出すのが先です。バイクならそう時間は掛からない」
そうは言ったものの、包帯でぐるぐる巻きにされている自分の右手に視線を落とした。疼く痛みに軽く顔を顰めながらニ、三度軽く右手を握ってみる。手首を固定さえすれば、痛みはあるものの靭帯まで逝ってはいない。今のところ握力は問題無さそうだ。
岬は部署内の簡易救急箱からテーピングを取り出すと、巻かれていた包帯をするすると解いた。傷口にはガーゼが貼り付けられているが、その周りの肌には内出血で真っ黒な痣が拡がり、手首は普段の倍以上に腫れ上がっている。
「うわ、痛そう……」
「岬さん、それ、どうしたんです?」
酷い状態の手首を見た署員数人が顔を歪め、彼の傷から視線を逸らせた。
岬は彼等に大丈夫だと見栄を張って見せるのだが、テーピングでの固定処置で激痛に見舞われてしまい、ハッタリの努力は敢え無く掻き消されてしまう。顔を顰め、息を吐いて痛みを逃しながら、岬は素早くテーピングで右の手首を固定する。
その処置を、小島は眉を顰めながら黙って見守った。
「本当に行くのか?」
問い質す小島の声は低く沈んでいる。普段の陽気さは微塵も無く、いつも以上に真剣な顔つきだ。
「ええ」
「拳銃は? 丸腰でどうするんじゃ」
「俺にはインターセプタが……」
「それは無理じゃろう? ジンから不具合の通知を受けとるぞ」
続きを小島から無下に遮られてしまい、言葉に詰まった岬はお節介な相棒を思い浮かべ、軽く舌打ちしてふて腐れる。
「私情が入り過ぎとるな。もっと冷静にならんか」
「俺はいつだって冷静ですよ」
「丸腰で向かおうとするその何処が冷静じゃあ。未熟者めが。その手首、もう一度咬まれたら二度と使い物にはならんぞ? 判っておるのか?」
「……」
言い当てられてしまいムッとなるが、返す言葉も無い。
小島は徐に懐から自分の銃を取り出した。
隠居だと思っていた小島が手にした厳つい回転式弾倉の拳銃に、その場に居た署員達が驚いて眼を見張る。
「暫らく使うておらなんだから、コイツも言う事を聴いてくれるかどうだか……ほれ、持って行け」
小島は自分の愛用していた拳銃をひょいと投げて遣し、岬は難なく左手でキャッチした。
ズシリとした確かな銃身の重みが岬の掌へ伝わった。それは過去、幾度もの修羅場から小島を護ってくれた拳銃の『重さ』でもある。
「わしの長年の相棒じゃあ。大切に扱ってくれよ? じゃが、必ずお前自身がわしへ返しに来るんじゃぞ?」
小島はそう言うと器用にウインクを遣したが、重い言葉を混ぜ返すような小島の茶目っ気に、岬を含めその場に居合わせた者達は退いてしまう。
「小島さん……」
岬は受け取った小島の銃へ視線を落した。
旧式タイプではあるが手入れは十分行き届いている。岬はまだもう一丁、予備の自動小銃を所持していた。けれど、敢えて小島の銃を借りることにした。必ず返すと言う約束付で。
「行って来い。檜山達には、至急お前の後を追うよう取り計ろうておく。じゃが、出来ればその銃が使われる事の無いよう、わしは祈っとるぞ」
そう言うと、岬に向かって小島は右の親指を立てて見せた。
岬は黙って小島の言葉に頷く。
* *
「ま、まだ警察は助けに来てくれないのか?」
暗闇の中で警察に連絡を取った少年二人は、恐怖に怯えて震えながら、警察が来てくれるのを待つ事にした。
彼等が居る所は、普通車両がやっと通る事が出来る道幅の路地裏から、更にずっと奥へ進んだ光の殆ど届かない袋小路だった。
「警察より、機動隊か動物園に連絡した方が良かったんじゃないのか?」
「今更遅せえよ! 第一、機動隊や動物園に俺達が直接連絡して来てくれるか? 大体、あの時に直ぐ連絡して帰った方が……」
「お前だって、あと少しだからって……言ったじゃないか!」
「なにをぉ!」
不安と恐怖の現実から逃避したくて、二人が掴み合いになりそうになった時、五、六メートル程離れて置いてあった大型のゴミ箱の陰から、動物特有の荒々しい息遣いが漏れ聞える。
「!」
少年達は息を詰めて跳び上がった。二人共、恐怖で悲鳴が声にならないのだ。低い獣の唸り声が二人の恐怖を更に煽っているように、不気味に路地裏へ響く。
間も無くして、遠くから大型バイクのエンジン音が近付き、高層ビルに囲まれた明け方の路地に反響した。
「こっちだ! 援護するから一気に走って来い!」
男が叫ぶ。
ハッとして少年達はお互いの顔を見合わせると、我先に声の方へと駆け出した。岬は彼等の進行方向途中の陰にある気配に逸早く勘付くと、小島から借りた銃を両手でしっかりと構えた。
「え? お兄さん警察官?」
駆けて来た少年達が、銃を構えている背広姿の岬に気付いて駆け寄った。
「正確には刑事さん。ほら、もうすぐ警官のおじさん達が来るから、その角を曲がった近くに店を開けている花屋がある。保護して貰え」岬は銃を構え、視線を逸らさないまま少年達に答えた。好都合に店が開いていたのは、毎朝、明け方に仕入れた花を店内へ搬入するからだ。
「必ず行けよ? 保護して貰わないと、お兄さんが仕留め損なったら、また追い掛けられるぞ」
しかし、少年達からの返事は無い。
「おら、返事はァ?」
彼等が自分の指示を無視して、闇雲に逃げ出しそうな素振りがあるのを察した岬は、声を張り上げた。
「はい」
「ああ? 聞こえねぇーぞ! コラァ!」
岬はわざと乱暴に凄んでみせる。
「はいっっ!」
効果覿面だ。少年達は岬の指示通り、花屋に保護を求めたようだ。彼等が行った後、俄かに表通りが騒がしくなる。彼等はもう大丈夫だ。後の処理は、掛け付けた警官へ任せることにした。
岬は銃を構えたまま素早くバイクから降りると、慎重に歩を進めて間合いを詰める。
=「うっ……はぁ……」
荒々しい獣の息遣いが、急に女性の苦しそうな息遣いへと変わった。
岬は全神経を尖らせながら、気配のする物影へ近付き、状況の変化に訝って眉を顰めた。
しかし、岬は尚も警戒を怠らない。銃口は逸らされる事無く気配を確実に捉えている。
=「……て」
「え?」
微かに人の声が聞こえる。
=「待っ……て」
息を潜めて耳を澄ませると、乱れた呼吸に交じって、喘ぐようなか細い女性の声がする。
「レ……レイナ? 君か?」
岬の迷いが、銃口を気配から逸らせてしまい、その事に気付いて慌てて構え直す。
=「撃たない……で」
「だ、駄目だ。君は……君は民間人を襲った……もう言い逃れは出来ない」
神経を張り詰め、集中しながら徐々に彼女との距離を詰めて行く。
=「……お願い」
「もう……もうこれ以上罪を重ねて人を殺めるのは止めろ」
「違う! 違うわ! ……聞いて。お願い!」
「誰がそんな手口に乗るものか! いい加減にしろっ!」
苦しそうな彼女が必死で訴えるのだが、今の岬には彼女の声が届かなかった。 岬は乱暴にゴミ箱の一つを蹴り倒し、物陰に隠れていたレイナが、怯えて短く悲鳴を上げた。
障害物を除けられて拡がった視界に、此方へ背を向けて座っているレイナの姿が映った。仄かな明かりに包まれて震えている彼女の肢体から、岬は今までには無かった違和感を覚えて眼を凝らした。
血に塗れた肢体を包み隠すように、レイナの長い髪が美しい裸身に纏わり付いているのだが、その長い髪には以前のような色は無かった。
=「……さき……違う……」
自分に対して怒りを露わにしているのだと思ったレイナは、振り仰いで岬を見詰めると、力無く首を横に振って犯行を否定した。既に彼女の瞳に生気は無い。 朦朧として今にも意識が消えそうになっている虚ろな彼女の瞳には、拳銃を向けて厳しい表情をしている岬の姿が映し出されていた。
妖艶なレイナの姿に視線を奪われてしまった岬は、滴る鮮やかな紅い血の色と匂いに気付いて、はっと息を飲んだ。
血は彼女自身のものだ。見ると身体には至る所に裂傷が奔っている。特に右上腕部内側からの傷が深く、庇っている左手からは猶も血が溢れている。
瞬時にそれが動脈を損傷しているのだと判断出来た。そして彼女に何が起こったのかと訝り、眼を細める。
=「私じゃ……ないわ」
「嘘だ!」
岬は心を鬼にして、自分に背を向けて座り込んでいる傷だらけのレイナに向かって、再び銃口を突き付けた。
「私じゃ……ないわ。信じて……」
傷を負ったレイナの呼吸は浅い。それが一刻を争う緊急を要している傷である事くらい、外科医である岬には判っていた。けれど、彼女が負傷していても、再び人を襲ったと言う疑いは晴れてはいない。彼女が罪も無い人間を襲い、殺戮してしまったのだと思い込み、自分が裏切られたのだと思った岬は、銃口をレイナから逸らせる事が出来なかった。
「君はさっきの少年達に何をしようとした? こんな袋小路に追詰めて、何をしようとしたんだ!」
=「信じ……て……」
崩折れたレイナの意識が途切れた。
倒れ伏す彼女に、岬は震える手で握り締めた銃口を向けたまま、身動き一つ出来なかった。