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第12話 戻れない過去

 ジン達から救助された岬は、意識不明のまま医療センターへ搬送されて処置を施された。

 眼が醒めた後、自力で帰宅した時は既に日付が変わっていたが、岬の身を案じた妹の環と父親の雅哉は、まだ眠らずに起きて待っていたのだ。

 玄関のドアを開けて、同じ職場に居るにも拘わらず滅多に自分と顔を突き合わさない父親の姿を見た岬は、一瞬怯んだ。

「何だ? 二人共揃って。まだ起きてい……」

「『何だ?』 じゃあないよう! ジンさんから連絡があって……っもお! 心配したんだからねえっ! お兄の馬鹿ッ!」

 暢気に構えていた岬の言葉を、怒った環の声が遮った。凄く心配していたのだろう。環は真っ赤になって口元を引き攣らせ、真っ赤に充血した眼には涙を一杯溜めている。

『って、俺は別に心配してくれなんて……言ってないぞ?』

 喉元まで出掛った言葉を岬はぐっと飲み下す。

 自分の身を案じて待ってくれて居たのは判るが、正直、今はそっとしておいて欲しい気持ちの方が強い。待ってくれていた二人の険しい表情から察すると、ジンは岬が単独で潜入捜査を行った事をどうやら伝えてしまったようだ。

 余計な事を……と思う。ジンの生真面目過ぎるあの性格を、どうにかして貰えないものだろうかと。彼の事が鬱陶しくなり、少々苛立ってしまった。そして、目の前で自分の身を案じて心配している二人の姿を見ているうちに、益々居心地が悪くなって来た。

 岬はジンのお節介の意図が読めて来た。彼は、岬に対して『無茶をするな』と暗黙の警告を遣ったのだ。個人的に直接注意した所で、岬が素直に聴き入れる筈は無いと踏んだジンは、岬の家族である父親の雅哉と妹の環の存在を逆手に取ったのだ。

 ジンの方が一枚上手か……いや、それ以上に、幾ら自推して来たとは言え、彼を今回のパートナーにした三島の方が老獪で、もっと上だなと思った。

 不機嫌になった岬だが、黙っている雅哉から軽く目配せを受ける。

 それは雅哉が岬へ遣した『話がある』と言うサインだった。しかもその目配せは、同時に『環に席をを外させろ』とも伝えている。普段顔を合せる機会を設けていない雅哉から、珍しい事もあるものだなと思って訝ったが、余程の事だろうと察した岬は、ジンへの苛立ちも忘れてすぐに雅哉の指示に従った。

「わ、悪かったよ。心配掛けて……その、署長に報告があるから、環は先にオヤジん家戻ってもう寝ろ」

「『署長』って、お父さんだよ?」

 環は、自分達の父親に他人行儀に振舞っている岬を見て不思議がる。

「仕事上での話なら、この場合オヤジじゃ無い。『上司』なんだよ。だからいい加減お前も頭を切り替えろ」

 そう言うと、岬は指先で環の額を弾く。

「痛ったぁーいっ! お兄っ!」

 環は恨めしげに額を押えて睨み付けた。健康色に日焼けした環の額に、岬から弾かれた痕が薄っすらと赤く浮かび上がる。

「ほら。俺も早く報告して休みたいんだ」

 岬は肩から吊るしている右手を指差して、わざと困った表情を浮べた。環はそんな岬に対して、猶も口を尖らせて不満ありげな顔をするのだが、雅哉と視線が合った途端、急に素直に引き下がる。

「わ、解かったわよう。じゃあ、おやすみ」

 環は静かにドアを閉めて、岬の部屋を出て行った。

「何なんだよ? アイツ、俺が何を言っても聞きゃしないのに」

 環の態度の変わりように納得がいかず、今度は岬が口を尖らせた。雅哉は二人を見比べ、口元を僅かに綻ばせて苦笑する。


「さて……と。経過を聴かせて貰おうか?」雅哉は徐にソファに身体を預けて脚を組むと、膝の上で両手を浅く絡めて寛いだ。「勿論、報告せずにお前の胸の内に留めて措こうとしている事も全てだ」

 表情は穏やかなのだが、雅哉の岬を見る眼は鋭い。余裕の貫禄さえ窺えて、まるで取調室の現役刑事を彷彿とさせる。

「嫌だと言ったら?」

 仁王立ちに立っている岬の表情が硬くなり、刺すようなキツイ視線を雅哉に送り返した。素の目付きが悪いのが一層悪くなる。

 雅哉は大きく肩で息を吐き、遣れ々といった表情で首を横に振った。実の息子に凄まれても怖くは無いが、此処で自分が引き退らなければ、事情を話す処か単なる親子喧嘩で済まされてしまいそうな様相だ。

「まあ、座れ。私もお前に話さねばならん事がある。今回の件さえ無ければ、私が自分の墓まで持って行こうとしていた事だ」

「何だよ? 急に改まって」

「今度はお前が自分の墓に持って行け」

「だから、なにを?」

 促されて反対側のソファに座り、岬も脚を組む。どうやら一応は聞く耳を持って居るらしい。

「お前の……母親の事だ」

 途端に岬の顔色が変わった。

「はっ! 今更何を言い出すのかと思えば……良いよもう! 俺を身籠った時にグレネイチャに襲われてだか不倫してだか知らないが……こんな眼をして産まれて来た俺に絶望して自殺したんだろう! それだけのことじゃないか! 俺のせいなんだろう?」

 岬はカッと頭に血が昇った。


 グレネイチャ―― 宇宙世紀の初頭に一部のセレブ達の間で流行した、人工的に掛け合わせて創られた奴隷難民達の事だ。

 彼等に人権は認められてはいなかったが、人間により近い存在であったが為に『人であること』への権利を求めて幾度と無く人間に武力抗争を挑んだ。彼等は時として宗教や政治に利用され、弾圧され、殺戮された。

 やがて人としての権利を認められたものの、彼等の持つ美しい銀の髪と蒼い眼。そして赤銅色の肌は優性遺伝の為、彼等との間に産まれた子供は必ずその特徴を受け継いでいた。美しいと持て囃されていた反面、彼等が『奴隷』であると言う史実から、忌み嫌われる事となる。何世代経った今でも野蛮な種族だと誤解され、他人から時折理不尽な思いをさせられている。

 特定出来る銀の髪は持っていなかったが、日焼けしたような浅黒い肌に蒼い瞳を持っていた岬は、物心付いた頃から常に他人……特に大人達から『グレネイチャ』だの『雑種』だのと言われて後ろ指を差されて来た。肌の色は自分ではそれ程気にはならなかったが、瞳の色はカラーコンタクトを使用していなければ、人前へは出られない程強いコンプレックスを持っているし、妹である環にもこの事はずっと秘密にしている。


 雅哉は静かに岬を見詰め、岬は雅哉の穏やかな視線を避けるように顔を背けた。

「くだらん……誰がそんな事を言った?」

「子供の頃から周りの皆がそう言っていた。俺の眼の色はグレネイチャが持っているものだと……」

 俯いた岬は、左手で自分の顔を片方覆った。雅哉の話題で忘れかけていた事を蒸し返されてしまった。自分の眼にひと際強くコンプレックスを抱き、在りのままの自分が受け容れられずにいた頃の昔の厭な自分が再び現れそうになる。

「そうか」

 雅哉は小さく呟いた。まるで岬に同情しているような言い方だ。

「そんな言い方は止めてくれよ。それだけの事じゃないか。それだけの……」

投遣りに強く言い放ったが、終わりの方は尻すぼみだった。岬自身気付かないうちに縋るような視線で雅哉を見詰めている。

 自分は本当に『グレネイチャ』なのだろうか? 今まで怖くて雅哉に訊ねることが出来なかった。それを雅哉本人の口から肯定されたくは無かったからだ。

 一言雅哉が否定さえしてくれれば、岬は今まで他人から受けた中傷を覆し、総ての事から救われるのだと真剣に思った。けれど、雅哉の口からは肯定も否定も無かった。

「今回の件、三島の報告から何も聞かされてはいないのか?」

 期待していた雅哉から見事に肩透かしを喰らった岬は憮然とする。

「過去二十数年前にもこんな事件が……?」

 言い掛けた岬は、はっとした。

 幾らFCI部長の三島と桐嶋署の雅哉が個人的に親しくても、外部の者である雅哉が何故その事を知っているのか?

 それは雅哉が当事者だからではないのか?

 岬の様子を察して、雅哉はそっと眼を伏せる。

「私は……最後まで護っては遣れなかった……お前には同じ道を選んで欲しくは無い。いいな?」

「どういう意味だよ?」

 岬の身体が戦慄いた。

「それだけだ」

 雅哉は岬の問い掛けを無視して腰を上げた。

「待てよ! どういう意味だって! それに報告は……」

 つられて岬も立ち上がる。

「もう良い。報告なら三島とジンから訊いている。お前の事だ。初めから素直に在りのままを報告する心算は無かっただろう?」

「……」

 見透かされてしまい、ぐうの音も出ない。岬にとって、雅哉は父親である事を差し引いても鬼門である。自分の話を有耶無耶にされてしまう唯一の苦手人物だ。こうして同席しているだけでも息苦しくなってしまう。だから普段は余程の事が無い限り、極力会わないようにしているのだ。

 本当なら、同じマンションで暮すと言う事だけでも願い下げなのだが、雅哉は署長と言う権限を行使して岬を自由にさせてはくれない。良い年をして、雅哉は子離れが出来ていないのか……? とも考えられるのだが、普段の雅哉を見ていると、岬に執心したり、口喧しく指図する訳でも無いので、どうやらその見方は違っているように思える。

 恐らくは息子である岬の監視。だが、何故そんな事をする必要があるのだろうか?


「図星か」

 ムッとなって口を噤んでしまった岬を前に、雅哉は余裕で口元を綻ばせた。

「イチイチ煩いんだよオヤジは」

「そうか?」

 凄んで突っ掛かる岬を、雅哉は軽く受け流す。

「一つ訊かせてくれよ。拘留中のラルをどうして釈放した?」

「ラル? ……ああ、お前が連れて来た臓器密売人か?」

「ああ」

 岬は雅哉に視線を逸らさずに頷いた。

「妙な事を訊くな? あの男はFCIが連れて行った。何でも重要参考人だと言って」

「え?」

「確か、三課の者だったな? 前にお前が所属していただろう?」

「三課?」

 薬物関連を専門とする三課は岬が以前所属しており、現在も岬の元上司である田幡課長が在籍して居る部門だ。

「また、あの女……」

 岬は言い様の無い強い憤りに襲われた。彼女が関った事件には、何故かやたらと黒い噂が後を絶たない。

「此方はFCIの内部事情までは与り知らぬ事だ。訊ねる相手を間違えているぞ? まあ、良い。此処に来たのは、私なりにお前に一言伝えたかっただけだ。『同じ過ちを繰り返すな』とな」

「……」

 そして憮然として突っ立っている岬の傍を通り過ぎる時、雅哉は岬に追い討ちを掛けるように耳元で言い放った。

「お前の母親は……優衣は自殺なぞしてはおらん……私が……私が殺した」

「なん……だって?」

 一瞬、自分の耳を疑った。

「い、今……今、何て言った?」

「彼女を殺したのは私だ」

 雅哉は岬の目を真っ直ぐに見て、きっぱりと言い切る。

「何だとォ?」

 岬の何かが切れた。思考よりも先に、素早く左手が雅哉の胸倉を乱暴に掴み上げる。

「自分の女を……母さんを殺した? 仮にも警官が……それで……それでもアンタは今の地位にのうのうと甘んじて居られるのかよ?」

「言い訳はせん。お前がわしを軽蔑しようが、見下そうが、どう見ても構わん」

 岬の気迫には一向に臆さない雅哉の態度に煽られてカッと頭に血が昇り、胸倉を掴み上げていた岬の利き手にぐっと力が篭る。

「言い訳さえ出来ないのかッ!」

「今更言ってどうなる? お前に言い訳をしても、彼女は……優衣はもう二度と戻っては来んのだ」

 雅哉は岬から胸倉を乱暴に掴み上げられたまま、溜め息混じりに呟いた。澄んだ雅哉の栗色の瞳が、真っ直ぐに岬を見上げる。

 当時警察官だった雅哉が、実は人殺しの犯罪者だったと言うのだろうか? そんな馬鹿な事が在って良いものか!

 激昂して真っ赤になった岬の顔が引き攣り、息が大きく乱れた。

「馬ッ鹿野郎!」

 岬は固定していた右手を乱暴に外し、雅哉を殴った。手加減する為に、咄嗟に利き手ではない右手を出してしまったのだ。

 雅哉は岬の拳を避けようとせず、まともに食らってよろめいた。背中から壁にぶつかり、そのまま壁伝いに座り込んでしまう。

「く……傷の痛みよりも心の傷の方が痛い……か?」

「ああ! その通りだよ。クソ親父! ……痛っ!」

 岬は今にも泣き出しそうな顔をして雅哉に食って掛かると、次の瞬間には顔を顰めて右手を庇った。傷口が再び開いたらしい。濡れた感覚がして、見る見るうちに血が包帯の表面まで滲み出す。

 思わず身体を屈めて跪いた。鎮痛剤を投与されてはいるが、思っていたよりも余り効果が無かったようだ。包帯に滲んだ血は包帯全体に拡がり、猶も拳の先から滴って岬のシャツとスラックスを朱に染め、フローリングの床を汚した。

「此処で……今更此処で事情を説明しても、お前に何が解ると言うのだ? 頭に血が昇っている奴とまともに話をする心算は無い」

 雅哉は毅然とした態度を崩さず、何事も無かったように口元の血を片手で拭うと、岬を残して部屋から出て行った。


 岬は苛々しながら乱暴に窓を開け、逃げ出すようにバルコニーへ出た。霧状の雨はまだ降り続いていたが、とにかく雅哉と居た空気の悪い部屋には一秒として居たくは無かったし、自分の頭を冷やす為でもあった。

『同じ過ちを繰り返すな』――雅哉の言った言葉が耳に残って離れない。

 あの言葉はどういう意味なのだろうか? あの言い方はまるで……まるで雅哉が愛した人が――自分の母親が、おぞましい人獣だったとでも言っているようではないか。

 頭の中で激しく割れ鐘が鳴っているようだった。岬は顔を顰めながら、痛む右手を拡げて胸の前まで持ち上げると、真っ赤に染まった血染めの包帯へと視線を落す。

 確かに、物心付いていた頃から人並み外れた反射神経を持っていると言う自覚はあった。しかし、それは単に運動神経と集中力に恵まれていただけの事だと思って納得していたのに……

 まさか二十年以上も前にあった人獣事件に自分との接点があったとは、未だに信じられなかった。

 その事件は、ここよりもずっと北端の地方都市であった事件だったと記録に残っている。なら、此処まで逃げて来たのだろうか? 岬を身篭った母親――優衣と一緒に?

 彼女が、浅黒い肌を持ったグレネイチャの面影を岬の容姿から見い出して、自らの命を絶ったのだと聞かされたのは雅哉からでは無い。子どもの頃、大人の身勝手な噂話を岬が偶然聞いてしまっただけなのだ。

 今まで自分の存在のせいだと罪の意識を感じていた岬の心は幾分か晴れたが、新たな事実を雅哉本人から聞かされて、一層憂鬱になってしまった。

 岬が今回の件に関与するのに異論を唱えていたのは、何もジンだけではない。玲奈を知っている九課の全員が多少なりと反対していた。しかし、三島は敢えて岬を選び、父親である雅哉もそれに賛同していたのだ。それは一体何故なのだろうか? 

 三島達の真意が見い出せない。自分の上司であるFCIの三島は、この真相を知っていたのだろうか?

 曇って星が見えない夜空をぼんやりと見上げた。虚ろな視線が宙を彷徨う。

「あの人が知らない筈は……無いな」

 霧状に降頻る柔らかな雨が、岬の身体を静かに包み込む。

 岬は胸のポケットから煙草を取り出して銜えた。重苦しく被さっている暗雲に、つい自分の気持ちを重ね合わせてしまい暗くなる。

 眼を閉じると一昨日の事が、まるで今あった出来事のように鮮明に蘇って来る。


 ――レイナは無事に逃げ出せたのだろうか? 


 駆け付けたジン達からは、白い豹を目撃したとの報告は無かった。きっと彼女はジェフの居る所へ行ってしまったのだろう。

 ジェフの許へ……

 俄かに岬は彼に対して嫉妬を覚えた。玲奈の生前、彼女へ執拗なストーカー行為を繰り返していた男だった。だが、自分が逆の立場に立たされてしまった今となっては、彼の羨望の気持ちも何となく判るような気がして遣り切れなくなってしまう。

「ん?」

 煙草を一本吸い終えて、やっと落ち着きを取り戻せた岬は、背後で何者かの気配を感じた。それはたった今まで無かったものだが、殺気は全く感じられず、寧ろ岬を慕っているような穏やかな気配だ。

 まさか……?

 岬は恐る々右後方へと振り向いた。その視線の先には、白い豹がバルコニーの隅で、小首を傾げて此方を見ている姿があった。

 二本目を吸おうとしていた岬の指から、思わずぽろりと煙草が落ちる。

「な、な……何で此処に居るんだよッ!」

 思わず叫んでしまい、片手で自分の口を押え付ける。時間的にマンションでの大声は厳禁だ。しかも一階下には口喧しい環がまだ起きて居る筈だ。もうじき雅哉も戻っている頃だろう。

「お兄ぃ〜うるさいぃ。どうしたのぉ? 大声出してぇー」

 案の定、下の階から半分寝惚けた環の声がした。

「なっ、何でも無い。け、携帯だ。ま、まだ起きているのか? さっさと寝ろ」

 咄嗟に取り繕ったのだが、部屋には岬独りだけだ。わざわざ雨の降っている外へ出て携帯を掛ける理由が無い。岬は環に答えて『しまった』と後悔したのだが、どうやら環は岬の矛盾している答えに気付いてはいないようで、『ふうん』と相槌を打っただけだった。それよりも、岬から子供扱いされた事の方が納得出来なかったらしい。

「もおー。環は小学生じゃないんだからねっ? いつまでもコドモ扱いしないでよ……あ? お父さんが帰って来た。お帰りー」

 雅哉が戻ったようだ。環は雅哉を迎えようと玄関へと急いだのだろう。パタパタと小走りするスリッパの音が遠去る。

 子供扱いするなと言った直後に、父親を慕う子供らしい矛盾した環の発言を聞いてしまった岬は苦笑した。

 数秒後、戻った父親の異変に気付いて慌てた環は、声にならない悲鳴を上げて、バルコニーを目指して駆け戻って来た。

「お、お兄! お父さん殴ったの?」

 環の問い掛けに、岬は面倒臭そうに『ああ』と短く肯定する。

「ひ、酷いよ! どうしてそんな事するのよ!」

 事情を知らない環が岬を責めた。後半は涙声だ。

「判った、判った。判りました。話中だからあっちへ行ってろ」

「お兄の馬鹿あッ!」

 涙声で怒鳴った環が、窓を力任せにぴしゃりと閉める。

 これは当分環から嫌われるなと岬は思った。そして深い溜息を吐いて肩を落とすと、気を取り直して白豹へ向き直る。

「説明してくれよ……って言っても喋れない……か」

 白豹は喉の奥をゴロゴロと鳴らし、上目遣いで媚びて来た。犬猫等の動物は平気だが、流石に相手が豹となると話は違って来る。喩え眼の前に居る白豹がレイナだと頭では理解していても、獣は獣だ。自分の血の味を覚えてしまったのだと思うと、無意識に身構えてしまう。

=「何故ジェフの所へ戻らない? 言った筈だ。在るべき処に帰れと。此処は君が来るべき所じゃ無い」

 小声で怒鳴ったが、効果は全く無かった。寧ろ白豹は前脚を交差させて優雅に身体を倒して寝そべり腹を見せる。岬にはそれがリラックスのサインに見て取れた。

「お、俺なんかの処に来る事は無い。帰れ!」

 自然と声が上擦って大きくなる。岬はそう言い放つと部屋に戻って窓の鍵を掛けてしまった。背中越しに、窓に素早く遮光フィルタを掛けたのだが、擦りガラス状になった窓の片隅に、白い影が映っている。

 まさか、人の姿に戻れなくなったのだろうかと、急に不安になった。ジェフではなく、自分の許を訪ねて来たレイナを内心嬉しく思った反面、彼女に近付くのは駄目だと二の足を踏むもう一人の自分が現れて、心の中で鬩ぎ合う。


  *  *


 現場検証で、岬は当事者として惨事の起こった港のガレージに呼ばれていた。

二日以上経っていても夥しい血痕は干上がらず、コンクリートの至る所に穿たれた銃弾の跡が生々しく残されている。

 亡くなった被害者の状況が判るように、床には白いチョークで幾つもの人型が描かれていた。

「チカ……」

 岬はその中の、ひと際小柄な人型の跡を黙って見下ろした。彼女の首には獣に咬み付かれた傷痕が残り、骨を折られて絶命していた。あの状況下では白豹のレイナが手を下したとしか考えられない。

 美人で小生意気だが、男に対しては少し頼りない風を装う事が出来る強かな女だった。特別スタイルが良いわけでは無かったが、相手に自分を魅力的だと思わせる才能には恵まれていた。翳が付き纏うレイナとは違い、生きる事に貪欲で自分に素直な女だった。事実、チカから強引にキスを強要されたが、レイナがその場に居合わせていたにも関らず、悪い気はしなかったのだから。


「……さき、岬? おい?」

「ん? あ、ああ……」

 ジンに何度か呼ばれて我に返った。間の抜けた岬の返事を聞き、ジンが眉を寄せて顔を顰める。

「大丈夫か?」

「何が?」

「そこに居た被害者ガイシャ、お前の顔見知りだったよな?」

 ジンは多量の血糊が付いた床に描かれた、チカの人型に視線を落とした。岬の偽装呼び出しを快く承知して、身元引き受けに桐嶋署まで足を運んで来た事がまだ記憶に新しい。

「知っている奴が殺された現場には何度か出くわしたが、慣れるものじゃねーよな」

「……」

 岬は押し黙ったまま頷く。

「ジン! これ」

 鑑識のジュディがビニール袋に入ったカード型のコントローラーを振って、ジンを呼んだ。

「ああ、今行く。おい岬? お前も来い」

「え? あ、ちょっ? おい!」ジンから腕を強引に引かれ、二、三歩つんのめってバランスを崩しそうになる。「止せよ。俺はまだこっちの検証が終わってない」

 岬は迷惑そうにジンの腕を振り払おうとするが、ジンはそれ以上の力で岬の腕を引っ張った。

「あのまんまだと、お前どうにかなっちまいそうな顔をしていたぞ」

「お……大きなお世話だ!」

 岬はジンに言い当てられて半ば不愉快になりながら、彼に引き摺られるようにしてその場を後にする。

「どうした? 何か見付けたのか?」

「はい」

 ジュディは手にしていたカード型コントローラーをジンに渡す。初めから壊れていたのか、それとも壊されたのか……コントローラーは無惨に中央から真二つに折られていた。

 見てくれは何の変哲も無い、何処にでもありそうなカードだが……?

「放せってば!」

 岬はジンの腕を乱暴に振り解き、乱れた襟元を正す。

「何かの……制御装置?」

 ジンは岬を無視して、受け取ったコントローラーを珍しそうに見廻した。

「ええ。この上の階のダストボックスの中にあったの。ガレージの所有者に訊いても知らないそうだし……で、照合してみたら手配中の何人かの指紋が検出されたわ。その中から捜査リストにあったジェフ・ランディアの指紋を検出したの」

 にっこりと笑ったジュディは片手で頬に触れた長い前髪を耳に掛けると、その指先で細い銀縁のメガネをくいっと押し上げる。

「お手柄じゃないか。機能は完全に停止しているのか?」

「さあ? これだけ壊れているんですもの。そうじゃないの?」

 ジュディはジンの言葉に微笑みながら、小首を傾げて肩を竦めた。

ジンは躊躇する事無く袋の上からスイッチをランダムに押してみる。

 一呼吸間があって、コントローラーは赤い点滅を開始した。起動ランプが何度目かで緑色に変化する。

「へぇ、スゲー。まだ生きてら」

 廃棄されているにも関わらず反応したコントローラーに感心すると、物珍しそうに猶も興味本位でスイッチを押してみた。

「はうっ?」

 ジンの手元を見詰めていた岬に、突然大きな耳鳴りと突き刺すような激しい頭痛が襲った。

「岬?」

 ジンをはじめその場に居合わせた者全員が、何事かと驚いて顔を上げ、苦しんでいる岬へ注目する。

「おいっ! 岬? どうしたっ!」

 堪え切れない痛みに、岬は頭を抱え込んで倒れ伏した。身体を丸めて狂ったように激しく頭を打ち振り暴れ出す。

 慌てるジンの声とジュディの悲鳴が上がり、岬の目の前が真っ暗になった。


  *  *


 誰かが自分を呼んでいる……

 岬はゆっくりと眼を開けた。頭の中に靄が掛かったようにぼんやりとしているが、天井が高い位置にある事から、自分が床に仰向けに寝そべっているのは理解出来る。

「此処……は?」

 眼が覚めたと同時に起き上がろうとするのだが、上半身の自由が全く利かない。

「気が付いたか?」

 頭の上で声がした。

 岬は呻きながらゆっくりと上体を起こす。後ろ手に電磁手錠を掛けられた上、厳重にロープで縛り上げられていた。首にもロープが通してある。見た事も無い凝った縛られ方に気付いた岬は、変に意識して赤面する。

「ああ? ……み、妙な縛り方しやがって。何だよコレは? SMじゃねぇぞ」

 岬は声の主を睨み付けた。

=「妙な縛り方じゃない。ちゃんとした罪人の縛り方だ」

 先程の声の主がすぐ傍に屈み込んで囁いた。

「ざ、罪人? また妙な旧世紀の時代劇とやらに感化されたな? このヲタク野郎」

「おうよ。それだけ厳重に縛り上げれば身動き出来ないだろう? 何でも罪を犯した咎人にやった旧世紀の拘束術だ」

「あっつ! 痛ってえぇー! 怪我人に随分なコトするじゃないか」

 右手を不用意に動かしてしまい、強烈な痛みが脳天へ駆け上がった。負傷している右手まで包帯の上から容赦無く拘束されている。

「随分なコトって……それはこっちの台詞だ! 痛てて……」

 ジンの声が急に弱気になった。どうやら何処か怪我をしているようだ。

 胡坐を掻いて座り込んだ岬は訝り、立ち上がったジンを眼で追った。そして、自分の置かれた状況を確認しようと、辺りをぐるりと見回した。

 何人もの顔見知りがそれぞれ顔や手足を負傷したらしく、応急処置を受けている。目の前に居るジンの口元が紫色に腫上がっていた。彼が皆の中でも最も汚れの度合いが酷く、いつも粋に着こなしているブランド・スーツが埃と機械油で汚れている。

 嫌な予感が岬を襲った。なんとなくではあるが、自分の意識が飛んでいる間になにが起こったのかは、周囲の状況を踏まえれば在る程度なら想像がつく。

「ジン? それに皆? 何があったんだ?」

「何があっただぁ? それはコッチが訊きたいね?」ジンが噛み付く。しかし、岬が惚けて冗談を言っているようにも見えない。「お前、覚えていないのか?」

「何を?」

「『何を』って……」ジンは呆れ、一瞬口を閉ざしてしまった。「こ、これは皆、お前が遣ったんだぞ?」顎を杓って岬の視線を促した。「ジョイスは鎖骨の骨折、門田は左肩脱臼だ……他に何人も怪我をした。俺だって危うく……門田が庇ってくれなかったら今頃は病院送りだ。全く……一撃必殺とはよく言ったぜ。生身の人間とは言え、素人なんかじゃない。皆腕に覚えのある者ばかりなのに、お前は簡単に相手の動きを封じ込めやがって……」

「はあ?」

 岬はジンの言っている意味がいまひとつ理解出来ずに首を傾げた。

「『はあ?』じゃねーよ! お前、ふざけるなよ! これだけ皆に怪我させておいて」

 息巻いて怒鳴ったジンの肩が激しく上下する。

 どうやら岬は意識不明のままインターセプタを発動させ、誰彼見境無く襲い掛かってしまったらしい。インターセプタは、対サイバノイド用に開発された白兵戦迎撃シールドだ。生半可な銃撃では掠り傷さえ負わせられない。言い換えれば、インターセプタを起動させて生身の人間を相手にすれば、意図も簡単に殺人が可能なのだ。

 岬が殺人者にならずに済んだのは、岬と同じくインターセプタの処置を受けていたジン達数人が、暴れる岬から生身の彼等を庇い、辛うじて取り押さえたからだった。

「こいつ……」

 ジンはじっと岬を窺い、そして机上で無惨に粉々になったコントローラーへ視線を送った。

それは、彼が暴れる岬を押え付けながら、直感的に因果関係を見抜いて苦し紛れに壊した物だった。本当にそれが岬を狂わせたのかは未だに信じ難く定かでは無かったが、コントローラーを破壊したと同時に、岬が急に大人しくなったのだ。

 自分の意志で正義を貫く不動のメンタル面を持っている人間が、こうも簡単に操れる手段が在った事実を知って、ジンはごくりと音を立てて喉を鳴らした。

「マジで……覚えていないのか?」

 念の為、もう一度だけ確認する。

「ああ。何があったのか教えてくれ」

 次第に岬の頭の中がハッキリして来る。

「いきなり頭を抱えて蹲ったと思ったら、急に暴れだしたんだ」

「俺が?」

 岬は記憶の糸を手繰るように、虚ろな眼をして遠くを見る。

「ああ。お前一人を押さえ込むのに大の男が三人掛りだ。特にお前の場合はな。押え付けるのには命懸けだ」

 通常なら、インターセプタの処置をしている者が異常を来たし、敵対する側へ寝返り裏切った場合、上司の承認を得る事無く各自の判断での殺害を許されている。勿論、岬と同じく処置を受けているジンにとっても、立場は岬と同様だ。

「あの時……急に立って居られないくらいの酷い頭痛がして、目の前が真っ暗になった」岬は気を失う前の事を思い出す。「そうだ。あの時、ジンがコントローラーを触っていて……」

「壊れていると思っていたのにスイッチが入った」

 岬の台詞をジンが続けた。それから後の事は岬自身の意識が飛んでしまい、何が起こったのか全く身に覚えの無い事だ。

「おかしくなったのは俺だけか?」

「ああ、他には誰も居なかった。お前だけだよ。一体、どうしたんだ? 今日ほどお前をマジで怖いと思った事は無かったぞ? お前が敵に廻るのは願い下げだ」

 正気を失った岬とインターセプタでまともに対峙するとは思いもよらなかった。ジンは暑さと息苦しさに片手でネクタイを引いて襟元を弛めた。極度の緊張で汗だくだ。

「俺だけが反応したのか?」

 岬は左手で額を覆った。真っ先にインターセプタ増幅チップの異常かと疑ったが、どうやらそうでは無かったらしい。

 増幅チップのエラーでないとするならば、特別な『血』を持つ者だけに反応したと言う事だろうか?

 岬は机上の壊れたコントローラーをじっと見詰めた。もしかするとこれがレイナを操るのに使われていた物ではないのかと思い付く。そして、この装置が壊れた為に、彼女が元の人間の姿に戻れなくなっているのかも知れないとも思った。


 レイナはあれからずっと岬の部屋のバルコニーに居続けていた。もう数日が過ぎようとしているのに、遮光フィルタを掛けたガラス越しの白い影は微動だにしていない。

 岬は意地になって彼女を拒んでいる自分自身へ罪悪感を抱いていた。何日も動かないあの様子では、帰る気配も窺えないし、恐らくは食事さえ全く摂ってはいないだろう。仮に罠だとしても、自分を頼って来ていると言うのに……自分はなんて酷い仕打ちをしているのだろうかと。

 そして、もう一つ別の気懸かりな事があった。岬は腑に落ちない疑問を抱いて、負傷して運ばれて行く仲間達を見遣った。

「何故俺を殺さなかった? 通常なら……」

「簡単に言うな!」ジンは岬の言葉を遮った。「ふんっ……だけだ」

 口を尖らせてぼそりと呟く。

「あ?」

「聞えなかったのかよ? 何度も言わせるな。俺には出来なかっただけだっつってんだ。出来るかよ! そんな事!」

 苛立ち紛れに口走る。

 インターセプタの処置を受けた者は、同時に素手で簡単に殺人実行が可能だと言う不名誉なリスクを負う事になる。在ってはならない許されない行為だ。その回避対策として、仲間同士での監視下でその力の行使を厳重に管理されている。 二人一組になって行動するのはその為だ。もし、インターセプタに異常が発生し、今回の岬のように周囲の者の生命を脅かすと判断された場合、パートナーの手で殺されても文句は言えないのだ。事実、岬を取り押さえている間『諦めろ』と言う声が出て居たが、ジンはそれを許さなかった。

「ジン」

「あんだよ?」

 ジンはまだ何か文句があるのかと言わんばかりに喰って掛かった。

「助かった。借りが出来たな」

「き、気持ち悪ぃコト言うなよ」

 構えていたのに素直に岬から謝られて調子を狂わせたジンは、居心地が悪くなり、逆に素っ気なく言葉をはぐらかす。

 岬はそんなジンに表情を緩めると、視線をテーブルに戻した。その視線の先には壊されたコントローラーが残っていた。

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