第11話 喪失(ロスト)!
連中の居る場所へ単身飛び込もうとしている岬は、緊張して手に汗を握っていた。慎重に歩を進めながら、時折後ろに付いて拳銃を握っている男達二人へ、肩越しから何度も刺すような鋭い視線を投げ付ける。
銃弾は岬が事前に取り上げており、彼等が握っている拳銃には実弾が装填されてはいない。
「妙なマネはするなよ? 少しでもすれば……判っているよな?」
「はっ……はい」
岬から凄まれた男達は萎縮して震え上がった。二人共、人相が変わるほど顔が醜く腫上がり、歩行も何処かぎこちない。
「ほら、さっさと来いよ。俺が捕虜に見えないだろう?」
遅れ勝ちになる二人に向かい、顎を杓って促した。岬の両手には、彼等が芹澤から奪い取っていた電磁手錠が掛けられているままだ。
「はいぃ」
情けない声で返事をしたラルの右頬は、殴られて酷く腫れ上がり喋り難そうだ。
連行されている筈の岬が全くの無傷で、彼を従えているラル達が瀕死状態なのはとても奇妙な光景だった。
岬は、二人の惨状を見て手加減をしておくのだったなと後悔するが、ラル達二人以外にメンバーの取替えは利かないので、彼等を利用するより他は無い。
=「ジン、俺を確認しているか?」
岬は襟に取り付けている小型無線機へそっと囁く。
―「ちゃんと捕捉しているぞ。その先のドアの向こう……左右に二人。室内には計八人。うん? い、いや待て、デカブツのサイバノイドが一体居る。気を付けろ。奥の地下にも何人か居るな。だが、コイツはチョッと人数が特定出来ない」
=「サイバノイドが居るのか?」
―「ああ、ゴツイのが一体だけど、な~んかヤバそうだぞ。ラステラル社製のSD‐530。スペックはギノー社のVU‐ビオ404と大差は無いが、強化タイプだ。経歴データからヤツの改造記録は三年前で終わっているが、上書き改竄している形跡がある。用心しろ」
=「厄介だな……了解」
会話を終えた岬はラル達に向き直った。二人は岬からまた暴力を振るわれるのではと思い、顔を引き攣らせてビクついた。
「な、な、何でしょう?」
岬はにやりと不敵に笑い、左の親指を立てて自分の頬を指した。
「俺を殴れ」
* *
「おらおらァ、さっさと入りやがれ!」
威勢よく吠えたラルから、岬は背中を突き飛ばされた。勢い余って室内に転がり込んだ岬を追い掛けて、ラルが脇腹を蹴り上げる。
仲間達と合流出来て安心したのか、水を得た魚のようになったラルは、今までのお返しとばかり何度も執拗に岬の腹を蹴り上げた。
「観念しやがれ! ……って、ええっ?」
調子に乗っていたラル達二人の表情が、周囲の空気を読み取った瞬間凍り付く。連中は、岬だけでなく、ラル達へも一斉に銃口を向けていたからだ。
顔を引き攣らせて委縮するラル達を見上げて、岬は不審に思い訝った。息を潜め、痛む脇腹を抱えて蹲るが、それでも素早く辺りの様子を窺い、警戒を怠らない。
「な、何であんた達が?」
息を飲んだラルの視線が宙を彷徨う。
「ばれてんだよ。お前等の事がな? 泳がしておけば調子に乗りやがって」
リーダーらしいサングラスの男が口を割った。その傍らに見覚えのある男が涼しげな顔をして立っている。岬は息を殺してそっと状況を静観する。
「あ、あんたぁ……そうか、そういうハラだったのか? 俺達を唆せて裏切ったんだな!」
ラル達二人はジェフの姿を見るなり、ニ、三歩後退りした。
「裏切っただなんて。そんな人聞きの悪い言い方は止してくれないか?」
ジェフは顔色一つ変えずに平然と構え、右手中指で眼鏡のブリッジ部を軽く押し上げた。
「あわわ……」
先にラルが恐怖に耐えられなくなって、逃げ出そうと背を向けた。途端に銃弾が容赦無く彼の身体を撃ち抜き、続いて彼と一緒だった男の身体もボロ雑巾のように貫いた。悲鳴に混じって、血飛沫が勢い良く音を立てて噴き上がる。
仲間割れ?
その光景を物陰から見ていた岬は眉を顰めて訝った。
「誰を連れて来たのかは知らんが……災難だったな?」
男の野太い声がして、物陰に潜んでいる岬に対して銃口が突き付けられる。
「そこの鼠も出て来い!」
岬は電磁手錠を掛けられたままの両手を彼等に見えるように挙げ、ゆっくりと立ち上がった。
「お、お前は?」
立ち上がった岬の姿を見るなり、緊張して額に汗を光らせているジェフの喉が鳴った。
「久し振り。ドクター。お元気でしたか?」
岬は壁に凭れ掛かり、意味深に眼を細めて、ゆっくりとジェフを見返した。口では彼に対して敬意を払っているような言い方だったが、その眼は彼をドクターだとは認めてはおらず、寧ろ哀れみを含んだ眼差しだ。
「貴様ぁあッ!」
ジェフは大きく目を剥き、頬を痙攣させて凄まじい怒りを露わにする。
「知っているのか?」
「し、知っているも何も……コイツは桐嶋署の刑事だ!」
途端に岬を捉えていた銃口が一斉に火を噴いた。
岬は反射的に身を翻して机の陰に隠れる。着弾した幾つかが壁やパソコンの硬い金属部分に跳ね返され、兆弾となって盛大に火花を散らす。辺りには硝煙独特の煙と臭いが立ち込め、銃を掃射した連中の足元には空の薬莢が幾つも転がった。
「除きやがれっ!」
銃で岬を狙っていた男達を乱暴に薙ぎ払い、厳つい形相をした大男が正面へ割り込み打って出た。
「っと、出て来る。お約束かよ?」
物陰に隠れて様子を窺っていた岬が軽口を叩いた。けれどその表情に余裕など微塵も無い。現われたサイバノイドの気配を感じ、更に状況が悪くなったと覚って顔を顰める。
ジンの言っていた『違法改造』野郎の仕様を確認しようと、そっと机の隙間から奴の姿を覗き見た。
男の顔半分は、模造皮膚が剥がれて金属が剥き出しの状態だ。右腕の肘から先は巨大な蟹のような鋏が付いており、左肩には右とのバランスを保つ為か、小型ランチャーが不気味な砲筒を覗かせていた。厳つい胴体はそれだけで装甲板の仕様だと判り、しかも左右から袈裟掛けに予備弾装と小型爆弾を提げている。
「アリかよ? あんなの」
戦車並みの仕様を眼にした岬の表情が強張った。
とても太刀打ち出来る次元の問題では無い。手元にあるのはラルから奪い取っていた一丁の自動小銃だ。岬はその拳銃を取り出すと、頼り無さそうに視線を落とした。これがあのバケモノに効くとは到底思えなかったからだ。
「覚悟しろ!」
一声叫び、男はもの凄い勢いで蟹爪の腕を振り回しながら突進して来た。
その勢いで楯にしている机ごと押し潰されては堪らない。桁違いの俊敏な反射速度を持っている岬は素早く物陰から飛び出した。
じりじりと間合いを詰められながら、それでも連続して振り降ろされる蟹爪の動きを冷静に見切り、後退しながら紙一重で何度もかわす。
岬の予備動作の無い身のこなしに翻弄された男は、自分が煽られたのだと勘違いして激怒した。けれど、何度渾身の一撃を振り下ろしても、岬の動きに全く追い付けず、岬の身代わりとして彼の背後にあったパソコン機器が机もろとも簡単に潰されて行くだけだ。
肝心の岬を捕らえる事が出来ない男は、歯噛みして悔しがる。
「逃げてばかりかよ? いつまでも逃げられやしねぇ!」
敵意を剥き出しにする男だが、岬と違って無駄な動きが多過ぎた。落ち着いている岬とは対照的に、激しく肩が上下してもう息が上がっている。
岬は横っ跳びに身体を投げ出し、滞空時に腕関節を狙って引き金を引いた。銃弾は皮膚にめり込むのだが、見た目通り強化模造皮膚で覆われていて、貫通には至らずまるで歯が立たない。
岬が攻撃をかわす度に、標的を失って勢い余った男の腕が、金属製の机や椅子を張りぼての玩具のように意図も簡単に薙ぎ払う。一度でもその腕に接触すれば、生身の身体など一溜まりも無く一瞬にして砕け散ってしまうだろう。
だが、重厚な装備を施している者は、得てして自分の装備に頼って胡坐を掻くものだ。この男も、岬ほどの反射神経を持ち合わせてはいなかったのがせめてもの救いだった。
一瞬の隙を突き、岬は男の眼球を狙う。
悲鳴を上げた男が大きく仰け反り、疑似血液が音を立てて噴き出したが、同時に岬にも隙が生じる。
目の前で火花が散った。仲間の一斉掃射が岬を襲ったのだ。
ギリギリでかわして机の陰へと身を滑り込ませるが、そこで何本もの配線コードに足元を掬われた。バランスを崩して転倒してしまい、配線は岬の両足へ複雑に絡まって自由を奪った。
身動き出来ない!
男達の銃口が一斉に岬を捉えている。
「よくも……」
右の眼窩から疑似体液を撒き散らせながら、男は岬の正面へ立ち塞がり、余計な真似をするなと言わんばかりに仲間の援護射撃を遮った。
もう一発お見舞いしないとヤツの脳核までは届かないようだ。
岬は肘を突いた反動で上体を起こし、サイバノイドの男を睨上げながら、再び銃口を男の右眼に向けて構えた。
周囲の連中の銃口を、岬は全く気にしてはいなかった。殺す心算であれば、もう手を下している筈だ。連中は、岬がこのサイバノイドに嬲り殺しにされるのを期待して待っているのだ。
「両の手足を拘束されているのにこの期に及んで……良い度胸だ。命乞い一つしないとは……今時珍しく骨のあるヤツだな」
男の口元が歪み、左目が細くなったが、岬を見下ろすその眼に情け容赦は微塵も感じられない。
岬は奥歯を強く噛み締めて、猶も男を睨上げる。極度の緊張状態に、一筋の汗が岬の顎を伝って滴り落ちた。
辺りに緊迫した空気が張り詰め、誰かの喉がごくりと音をたてる。
「皆、退け。手出しは無用だ」男は余裕で首を廻らし、岬に向き直ると勝ち誇ったように胸を張った。「俺と刺し違える心算か? 残念だったな。ソイツじゃ俺は仕留められねぇよ。」
そう言って負傷した右眼を手で隠すと、左肩にある小型ランチャーで動けなくなった岬を狙った。肩に載せている砲塔が不気味に唸りながら角度を落として岬を捉える。
「嬲り殺して遣ろうと思ったが、その度胸に免じて跡形も無く綺麗に吹飛ばして遣る」
「それを遣るのか? 此処に居る連中もタダじゃ済まないぞ」
岬は視線を逸らせて、男の背後で静観している連中へ視線を奔らせた。小型とは言え、男の装備しているランチャーの威力は絶大だ。岬はおろか、辺り一面が一瞬にして消し飛ぶ程の威力を持つ。
居合わせた者全員が岬以上に自らの危険を感じ、緊張して縮み上がった。
「ま、待て!」
「あん?」
リーダーが慌てて男の動きを制した。岬の言葉通り、自分達へも無傷では済まされないであろう事は読み取れる。誰でも巻き添えは御免だ。
「こ、此処でそれを遣えば、我々まで危険だ。お前も無事では済まないぞ?」
「そ、そうだ」
人垣に紛れてジェフの声がした。張りのある凛としたジェフの声に、一同は何事かと彼を振り返った。
「いい方法がある。それよりも……」
「それよりも?」
ジェフは、沈黙してしまったモニタの方へわざとらしく視線を向ける。一瞬、リーダーの男が訝ったが、じきにそれが何を意味しているのかを察して頷いた。
「ほほう。余興には面白いかも知れん」
捕虜となった岬の目の前で、ラルと相方の男の遺体が地下の暗室へと投げ込まれた。その暗室からは、何か得体の知れない強い気配が漂っている。
程無くして獣の低い唸り声と、彼等の骨が無惨に砕かれる嫌な音が聞えて来る。暗闇でその姿は確認出来ないが、気配からして大型の肉食獣に間違い無い。警察が血眼になって捜していた大型獣が、こんな所に潜んで居たのだ。
銃口に囲まれて、一緒に暗室を覗き込んでいた岬の喉が鳴った。
「高城」
ジェフは威圧するように岬を呼んだ。
岬は鬱陶しそうに振り返ってジェフを睨んだ。
何度も危険な修羅場を潜り抜けている岬だ。彼の気迫に飲まれ、一瞬怯んでしまったのだが、今は自分が彼の生殺与奪の権を握っているのだ。落ち着きを取り戻したジェフは、端正な口元を歪めて笑った。
「レ……レイナは僕の女だ。彼女にはもう二度と近付くな」
「なんのことだ?」
「と、惚けるな! 尤も、これでもう二度と僕のレイナには逢えないだろうけどね」
勝ち誇ったように吐き棄てると、眼鏡のフレームを軽く指で押し上げた。ジェフの整った顔立ちが、岬を見下して醜悪になる。
「下のドアは壊れていて此処からしか出入り出来ない。行き掛かりで連れて来られたとはいえ、お前も運が悪かったな……あばよ」
リーダーの男はそう言うなり、銃把で岬の後頭部を殴る。
銃把が直撃する寸前、相手に気取られないように岬は軽く首を引き、頭部へのダメージを軽減させる。直撃は免れたものの、殴られたダメージは勿論ある。眼の前で星が散り、鼻の奥がキナ臭くなった。じっと立って居られず、歩を乱してよろめくと、足を踏み外して一気に落ちた。
落下しながら岬は器用に電磁手錠を外すと、着地の衝撃に身構える。先程投げ落とされたラル達の死体の着地音で、ある程度の高さは予測済みだ。
着地の瞬間に受身をして二、三度激しく転がった。ラル達のものだろうと思われる生暖かい血溜まりが岬を汚し、泥濘で足元を滑らせる。
岬の落下に驚いて、暗闇に潜んでいた獣が物陰で身を潜める気配がした。
武器になる物は無いかと探っていた右手の指先へ、覚えのある手触りがした。すかさず腕を伸ばしてそれを掴む。岬には、それがマシンガンだと直ぐに判った。使用してまだ時間が十分経過していないのか、銃身はまだ熱を帯びている。 殆ど目視が効かない状態で弾倉を手探りで外し、素早く残弾の有無を調べる。指先のみの感触でそれがまだ使用可能である事を察した岬は、一瞬で安全装置が解除されているかを確認すると、気配のする方へ向かって構える。
地の底まで震わせるような低い唸り声と、殺気に満ちた獣の気配が近寄って来る。
唸り声のする方向へ銃を腰だめに構え直す。引き金に掛けた指先が緊張して震え、汗が珠のように噴出して心拍数が上昇する。
岬を落した後、直ちにドアは閉められた。中から白豹と激しく揉み合う音と、白豹の唸り声がする。
=「レイナに食われて死ぬんだ。君だって本望だろう? それが僕からのせめてもの情けだよ」
そう呟くと、ジェフは岬が落されたドアの向こうの暗闇に軽く興奮して耳を欹てる。
『レイナ』として彼女を手にした今でさえ、彼女の心は閉ざされたままだった。記憶操作を行ったにも拘わらず、彼女は自分に全く心を動かそうとはしてはくれなかったのだ。
彼女の心が欲しくて、高価な貴金属やドレスを買い与え、贅沢な暮らしを約束した。けれども、やはり彼女の心は硬く閉ざされたままだった。
自分に心を開かないレイナに業を煮やしたジェフは、自分の研究資金調達の手伝いをさせるべく、彼女にホステスとしての仕事を与えた。そして彼女が逃げ出さぬよう目付け役として、チカと小夜子を付き添わせたのだ。
時には彼女を薬で惑わし、時には惨たらしく暴力で以って屈服させようとしたが、それでもレイナは決して自分を愛そうとはしてくれなかった。
どうすればレイナが心を開き、自分を愛してくれるのだろうかと思い悩んでいた時に、彼女の前に『あの男』――高城岬が現れた。まるで、これは運命なのだと言わんばかりに二人は惹き寄せられ、めぐり逢ってしまったのだ。
予想外だったシナリオにジェフは心を掻き乱され、炎のように嫉妬した。ただ彼にとって唯一喜ばしかったのは、彼女が岬を全く覚えていなかった事だ。気乗りしないレイナを唆し、刺客として岬に向かわせたのだが、計略は何故か尽く失敗に終わり、彼女の気持ちが一層岬へ傾いてしまい、惹かれてしまうと言う、ジェフにとっては好ましく無い結果を招いてしまい、益々不愉快になった。
けれど、それもこれで終わりなのだと思った。岬が死ねば邪魔者は消える。正気に返ったレイナに総てを話し、自分に靡かなかった彼女の心をズタズタに引き裂いて遣るのも一興だとさえ思った。それでレイナが自らの命を絶ったとしても、自分には彼女を蘇生出来る術を手にしている。何度自分の手から逃げ出そうとしても、決して死なせたりはしないと言う、驕り高ぶった妄想に取り憑かれていたのだ。
「警察が嗅ぎ付けたらしい。引き揚げだ」
仲間からの通信連絡を受けて、指揮官が背を向けると、一同に撤収の指示が下された。
「え? で、でも……まだ奴は生きて……」
ジェフは口籠った。肝心の岬はまだ生きているのだ。暗闇で目視出来なくても、豹に変身した彼女に襲われ、食い殺される奴の断末魔の悲鳴を聞くまでは、この場から離れたくは無かった。
「どの道奴も終わりだ。それに、あの豹は我々の手には負えん」
ジェフは尚も閉ざされたドアを見詰めていた。レイナを従わせる為のコントローラーは既に彼等の手によって壊されている。流石にあれが無いと、彼女を猛り狂わせて岬を襲わせる事も出来ないし、自分も迂闊に彼女へは近寄る事が出来ない。
ジェフは未練がましい眼で壊されたコントローラーを見詰め、悔しそうに歯軋りした。これさえあれば、意図も簡単に岬を葬る事が出来るのに……と。
「付いて来ないのか? それとも貴様も今の奴と同じ目に遭わせて遣ろうか?」
「まさか」
苛立つ連中から脅されたジェフは、笑顔を引き攣らせながらドアに背を向けて彼等に従うことにした。
『レイナ、レイナ……必ず迎えに来るよ』そう心に誓って。
* *
「ヤバイぞ!」
ジンはヘッドセットを乱暴に外して放り投げると、シートの背凭れに掛けていた背広を引っ手繰り左腕に掛けた。足早に地下の駐車場へ向かいながら携帯を握る。
「テッド! 岬を見失った! 位置は特定出来ている。至急シュライバーを積んで先に現地へ向かってくれ。俺もこれから別ルートで向かう」
―「了解」
慌しく車のドアを閉めると、ジンはエンジンを噴かした。
岬が囮捜査を提案して来た時から、厭な予感は続いていた。連中の中に厄介な違法改造のサイバノイドが居た事も予測外だ。
ジンは違法改造の改竄履歴を洗い出して、岬に正確な情報として伝えるべきだったのだ。相手の性能を正確に把握した上で状況を分析し、頃合を見計らって撤収するよう指示すれば、問題は何も起こらなかった筈だ。正直、サポートする側のジンの腕が未熟であった事は否めない事実ではあったのだが、本人はまだ自分の遣らかしたミスに全く気付いてはいない。
ジンは単純に、岬の復帰が原因のミスであり、まだ無理だったのだと思っていた。
『情に絆されて死んだヤツは巨万と居る……』剥きになって岬に噛み付いた自分の言葉が脳裏に浮かぶ。
「馬っ鹿野郎!」
短く舌打ちをすると、ジンはアクセルを踏み込んだ。
* *
近寄って来る獣の気配が、岬の放った威嚇射撃で一瞬引いた。遠巻きにして低く唸ってはいるものの、獣はどうやら岬の出方を窺っている様子だ。
何処かで感じたことのある微かな気配を岬は訝り、握り締めていた銃を床へ静かに置いた。この暗闇で、暗視スコープ無しでの狙撃は不可能だ。幾ら自分の反射速度が人並外れているとは言え、人間と反射速度が違う獣とでは全く話にならない。よって、この不利な状況では接近戦しか無いと踏んだのだ。
接近戦と言っても、無防備で対抗するわけではない。FCI開発技術部の粋を集結した、インターセプタの処置を岬が受けているからこその選択肢である。
インターセプタとは、対サイバノイド(人造人間)戦用に開発された白兵戦用迎撃シールド。つまり、人間の誰もが所有している『気』を最大限に増幅させて、サイコエネルギーシールドとして使用者本人を保護する為の防御装置だ。
FCIでは、連邦軍が開発した軽装備のインターセプタを改良して、使用者本人の『気』に呼応可能なマイクロチップを独自に開発していた。このマイクロチップを脳内に埋め込み使用すれば、ヘッドセットや末端補助具等の装備も全く不要だ。しかし、特性として使用者の精神状態に直接呼応する為、雑念や迷いがあれば全く起動しない場合があり、自在に扱うにはかなりの集中力と熟練を要する。その為、インターセプタの処置を受けている者は、岬やジン達を含めた九課の人間と他の部署の極僅かな者だけだ。
獣が音も無く跳ぶ。
岬は『気』を集中させ、インターセプタを起動しようとした。インターセプタが起動すれば黄緑色の光に包まれる筈なのだが、岬の身体には全く変化が見られない。
起動しないインターセプタに岬は焦った。
目の前に獣の白い牙が迫る。
「うわ!」
攻撃を何度か紙一重でかわし続けていたが、遂に押し倒されてしまった。
岬は素早く右手で自分の喉元を庇ったが、獣は岬がガードした右手首に容赦無くがっぷりと食らい付いた。めりめりと骨が砕かれる鈍い音が聞こえ、激痛が奔った。強力な顎の力によって鋭い牙が腕の深部へ食い込んで行く厭な感覚を覚える。
けれど岬は噛み付かれた右手を引こうとはしなかった。寧ろ反対に左手を添えると咬まれた自分の右腕を獣の口の奥に向かって強く押し付け、力任せに獣の上体を浮き上がらせる。
驚いた獣は岬から離れようと手足をばたつかせた。鋭い爪が容赦無く岬の身体を引裂くが、岬は一歩も譲らなかった。裏返した獣の上に馬乗りになって圧し掛かり、動きを封じ込めると、眼にも止まらぬ速さで左足膝下に隠し持っていたサバイバルナイフを鞘走らせ、蒼白く光る刃を上向きにして逆手に握った。
一撃で仕留めなければ自分の命の保証は無い。
暗がりで全く視覚に頼れない中、暴れている獣の急所を狙うのは困難だ。それでも一撃で急所を突いて仕留めようと、腕を引いて身構える。
『ヤメロ!』
ナイフを振り降ろそうとしたその刹那、頭の中で自分の声が大きく響いた。一瞬の迷いが生じて動きが鈍ったその隙に、獣は岬の腕から逃げ出してしまった。
「な、何だ? 今のは?」
それは確かに自分の声だった。
今まで体験した事が無い不思議な幻聴だ。まるで自分の中に、もう一人の自分が居るように思えたのだ。
此処で獣を仕留めなければ、インターセプタが起動しない岬に命の保障は無い。それなのに『その声』は獣の喉を掻き切ろうとしていた岬を止めたのだ。
獣は上体を低くして恐ろしい威嚇の声を上げ、唸りながら遠巻きに此方を窺っている。
「あうっ!」
一時の『間』が生じて集中力を欠いてしまった岬へ、咬み付かれた後の猛烈な激痛が脳天まで駆け上がる。深く身体を折り曲げ、右腕を庇うようにして身体全体で抱え込む。鋭い牙が穿った痕からは、止め処なく暖かい血が滴り落ちる。早く止血をしなければ、血の匂いで獣を狂わせ呼び込んでしまう。そうなってしまえば、幾ら岬でも生き延びる事は不可能だ。
苦痛に顔を顰めながら、大きく肩で息を吐いて必死に痛みを逃そうとした。激痛に耐え、獣の動きを警戒しながらシャツの裾を噛んで細く引裂き、包帯代わりとして素早く傷口を覆い止血する。
血の匂いを嗅ぎ取って昂ったのか、獣の唸り声が一際大きくなり、荒々しい息遣いがする。
激痛に苛まれた岬は、自分の意識が飛びそうになるのを堪え、何度も頭を振って必死に眼を見開いた。負傷して窮地に追い遣られた状況に、遠退く自分の意識との闘いも加算されてしまった。更に、暗がりに眼が慣れて来ると、逆に獣の発する気配が掻き消されてしまい、動きが読み取り辛くなって来る。
正面五、六メートル先のデスクの上で、仁王立ちに立ち塞がる獣の白い姿が浮かび上がった。
岬は訝って目を細めた。見た事の無い体色だが、頭部や尾の先、四肢には特徴のある黒い豹紋が薄らと浮き出ている。その姿は紛れも無く『豹』。しかもそれはまるで雪のように白い純白の美しい豹だった。白い豹は身体を伏せて長い尾を優雅に振りながら、真紅に染まった眼で爛々と此方を見据えている。
自分が窮地に追い遣られてしまったと言うのに、人間には到底真似する事が出来ない獣が放つ独特な鋭い殺気と、何者をも寄せ付けない凛とした気高さに心を奪われてしまい、呆然と立ち尽くした。
「痛!」
辛うじて、右腕の激痛が唯一岬を現実に引き戻してくれた。止血をしていた筈なのだが、傷付いていた別の血管が裂けたらしい。岬の手首を覆ったシャツの切れ端が多量に血を含んでじっとりと重くなり、床にぽたり……ぽたり……と滴り始める。もう一度止血をしたいのだが、今のこの間合いで豹から視線を逸らせるのは自殺行為だ。
「俺が弱るのを待ち受けているのか?」岬は鼻で笑った。「獣の癖に人間並みの知能だな」
『人間並み――』そう言ってはっとした。自分は何を追っているのだろうかと。
唐突に、レイナの横顔が脳裏を掠めた。
時折見せる彼女の一寸した隙の無い表情が、俄かに気になり始める。まさか……とは思うが、疑い始めると限が無い。岬はそれらを雑念として振り払おうと首を横に振った。
暫らくの間お互いに動こうとはしなかったが、遂に待ちくたびれて痺れを切らせてしまったのか、豹が先に立ち上がった。しなやかな身体に渾身の力を溜めて低く身構えると、岬へ狙いを定めて一気に跳躍し襲い掛かる。
岬は再び『気』を集中させてみるが、やはりインターセプタは起動しない。
舌打ちをして再びナイフを握り直す。
今までこれ以上の危険に何度も晒された事はあったが、インターセプタがエラーを起こした事など一度たりとも無かった事だ。これでは自分は無防備なまま、いずれは豹の餌食になってしまうではないか。
「こんな時に限って!」
意を決してもう一度右腕を前に差し出すと、案の定、豹は血の臭いに誘われたのか同じ箇所にがっぷりと食らい付いて来た。唸り声を上げて容赦無く咬み付き、同時に頭を激しく左右に振ったせいで、今度は岬の方がバランスを崩してそのまま豹に押し倒される。
「うわああッ!」
激痛が脳天まで駆け上がり、堪らず悲鳴を上げた。そのまま右手を食い千切られて持って行かれても不思議ではない。必死で痛みに堪えながら、空いている利き手でナイフを逆手に持ち換えると、豹の首を抱え込み、大きく腕を廻して喉元を締め付けるように押さえ込む。
豹は唸り声を上げて猛り狂うが、咬み付いた『獲物』を離そうとはしない。鋭い四肢の爪は容赦無く岬の身体を引裂き、血飛沫が宙に舞う。
暴れる豹に手を焼きながら、それでも岬は必死になって豹の頸動脈を探り当て、青白く光るナイフの刃を宛がった。
そのまま一気に腕を引くのは簡単だった。しかし、またしても岬はその刃で豹の喉を切り裂く事を躊躇ってしまったのだ。
豹を抑え込んでいた腕が金属の細い鎖に触れ、何事かと思った岬は眼を凝らして豹の首を見詰めた。
「これ……は?」
精巧なプラチナの飾り細工の中央には、真紅のレディ・ブラッド……暗い室内でも極僅かに漏れ出でる光を集約させて、それは獣と同じように毅然とした光を放っていた。
息を飲んだ岬の脳裏に、忘れようとしても忘れられない『彼女』の横顔が浮かんだ。
「……」
岬の手からナイフがするりと滑り落ち、乾いた金属音が鳴り響く。
「レイナ? ……レイナなのか?」
溜め息混じりに言葉が漏れた。
岬の問い掛けに、豹の動きがぴたりと止まった。
それまで恐ろしい唸り声を上げていた豹の喉が急に静かになり、岬の頬に掛っていた荒い息も鳴りを潜める。
「ど……して……どうして君なんだ? どうして君が?」
出逢った時から、何故かレイナが捜していた人獣であることを心の何処かで予感していた。彼女は並みの人間には到底持てる筈の無い『気配を消す』術を心得ていたからだ。それだけでは無い。そもそも死亡していた人物が記憶を失くして現れる事自体、不可解で妖し過ぎるではないか。
『玲奈』の身体は、通常の処置では絶対に蘇生は不可能だった。人獣の研究がどのレベルまで進歩しているのか岬には判らなかったが、過去の人獣達には、驚異的な身体能力と徒ならぬ強い生命力を持っていた事が報告されている。盗まれた人獣の体細胞組織や違法の生体特殊技術等の高度な技術の総てが集結された事によって、再びこの世に『レイナ』が蘇って来たのではないのか。
此処で豹の息の根を止めて遣る事は可能だった。だが、岬にはそれが出来なかった。勝敗の行方は、この豹が彼女のチョーカーを持っていたと知った時点で、岬は完全に敗北しまったのだ。ナイフを手放し、落としてしまった時点で、岬の命は豹であるレイナに託されてしまった。
「捕まえなきゃならない相手に……馬鹿だ。俺は……」
溜息混じりに呟き、胸の奥が熱くなった。信じたくない事実を知ってしまい、岬は無性に虚しくなる。
彼女が本来の記憶を取り戻して、もう一度一緒に遣り直せればと微かな望みを抱いていた。彼女が普通の人間であったのなら、その夢も可能だったのかも知れない。
しかし、レイナは既にFCIと警察の双方で追われている。捜査して追う側の立場である自分は、彼女に近付くべきではないのだと言う事くらい既に判り切っていた筈だ。
不意に岬の腕から力が抜けた。豹の首に廻していた腕が解けて冷たい床に力無く落ち、左手で防御していた岬の喉元が全くの無防備になって豹の眼の前に晒される。
「殺れよ」
自分にレイナは殺せない。
咬み付かれている右手を震わせながら、岬は豹に向かって静かに言った。
豹が低く唸りながら真紅の眼で岬を見下ろしている……が、既にその眼光に岬への殺気は消失していた。見様によっては、獣が岬の心の内を推し量り、読み取っているようにも見える。
豹は岬の行動を訝り、そして銜えていた右手をそっと離した。
「?」
不意に豹が岬の負傷した右手を舐めた。血の滴っている腕を旨そうに舐めているのでは無い。それは獣が示す、労りの行動だった。
覚悟を決めていた岬は驚いて眼を見開き、信じられないと言う素振りで豹を見上げる。
「解かる……のか? 俺が」
名前を呼んだ途端に急に大人しくなった。一体、どうなっているのだろうか? 豹に掛けられていた呪縛が、彼女の名前がキーワードになって解かれたとでも言うのだろうか?
豹が顔を寄せ、呆然としている岬の頬を舐めた。その頬にも豹に掻かれた傷が残っている。雑食性の犬とは違い、肉食の猫科の舌は骨から肉を削ぎ摂る為に表面がヤスリのようにざらついている。
「痛たたっ……お、おい、止せよ」
岬の表情が僅かに和らいだ。
「これで良し」
胡坐を掻いて座り込んでいだ岬は、再び右手の止血処置を済ませると、傍に行儀良く座っている白豹へ視線を移した。
「早く此処から脱出しないと……どうも奴等は撤収しているみたいだ。気配がしなくなっている。奴等がこのまま俺達を閉じ込めただけで見逃してくれるとは思えないが……それにジンがもう動いている筈だ。俺は構わないが、君は何処かに消えた方が良い」
豹に向って岬は穏やかに話し掛けると、自分が突き落とされた天井部を見上げる。優にマンションの三階ほどの高さに匹敵している。天井部にあるドアは閉じられていたが、微かな光が矩形状に漏れ出ている所から、それ程厳重な鍵がされているようには見えなかった。
「鍵が掛かっているだろうが……君なら大丈夫だろう」
岬は立ち上がり、丁度ドアの真下に歩み寄ると、豹にくるりと背を向けた。脚を肩幅に開き、腰を軽く落して見せる。
「俺を踏み台にしろ。手を貸すから、思いっ切り俺を蹴って跳び上がれ」
白豹は両耳を後ろに寝かせて後退りした。まるで嫌だと言っているように見える仕草だ。
「愚図々している場合じゃないぞ。さ、来い!」
「……」
「レイナ! 早く!」
白豹は身体を揺らし、小走りで岬の足元に擦り寄った。ゴロゴロと喉を鳴らして甘える仕草は、まるで大きな白猫だ。
「い、いや、そうじゃなくて……」岬は困って頭を掻く。「自由になるんだ。此処を出て在るべき処に帰れ……さ、早く行くんだ」
白豹の喉を一頻り撫でて遣ると、岬は毅然とした態度を採った。猶も岬に擦り寄ろうとして来る豹を、力任せに押し戻す。
建物の上空でヘリが旋回している音が聞えて来た。時間的に計算しても、ジン達がエア・ブレイズで駆け付けたと考えてまず間違いないだろう。
「時間が無い。早く逃げろ! 見付かれば君は殺される!」
真剣な岬の心を読み取ってくれたのか、白豹は助走をつけると岬の背中を踏み台にして見事に跳躍した。岬もタイミングを合わせて豹の身体を上方へと強く押し上げて遣る。
鮮やかな跳躍で一気に天井部の扉を突き破った。壊されたドアが岬のすぐ眼の前へと落下するが、岬は一向に気に留めない。
「逃げろ……レイナ」
岬は白豹が消えて行った矩形状の光を見上げたまま、力無く両膝を突いた。
崩れるように突っ伏した状態で倒れ込むと、身体を捻って大の字で仰向けになる。極度の緊張から解放され、気が抜けてほっとした。
彼女が脱出した今、岬は猛烈な激痛を打ち消せるほどの安堵感と疲労感に襲われる。
意識が遠ざかり、そのまま目の前が真っ暗になった。