第10話 暗躍
爆発はラジェンドラの一階フロアホール内で起こり、多数の負傷者を出していた。爆風はフロア全体を吹き飛ばし、暗闇に赤々と照らし出される炎が僅かな出口を求めて、窓や排気筒から十数メートル以上もの火柱を立ち昇らせる。
情報では館内へ月面コロニーの外相がVIPとして来る予定だったが、幸運にも到着が遅れていた為、危うく難を逃れていたらしい。
岬は逸早く駆け付けた消防と合流して、行方不明者の捜索に当たっていた。まだ熱反応が高く二次爆発の可能性も否めない為、消防から耐火スーツを借りて瓦礫と化したクラブ館内を捜索する。
岬は爆発に巻き込まれて身体の一部が消し飛んでしまった無惨な同僚達の姿に眼を逸らせた。所轄の何人かは既に発見され、急速炭素冷凍処置を施されていた。その中に、香川達同僚の無惨な姿を見付けたのだ。
事件や事故に巻き込まれた者から、バイオノイドやサイバノイドといった高度な処置が優先的に与えられている。しかし、身体的に補完が可能であっても、事故の精神的ショックから立ち直れない症例が殆どだ。
この為彼等を引き受ける警察医療局では、事故のトラウマ対策として患者の記憶を一部削除するシステムが導入されている。だが、未だにマニュアルは不完全であり、記憶操作をして性格が変わったり、奇行を繰り返したりする症例が後を絶たない。香川達が岬を覚えたままで病院を退院出来る可能性は極めて低い上、職場復帰はまず不可能だろう。
『岬!』
香川の朗らかな声が聞こえた気がした。
玲奈を失い、塞込んでいた岬をずっと気に掛けてくれていた彼だ。つい先日も岬のマンションに遊びに来て、わざとエロ本を置いて行った茶目っ気のある奴だった。その彼が今は変わり果てた姿になって運ばれているのだ。
握った拳が小刻みに震える。爆発は、顔見知りになったクラブ内のスタッフ、密売組織、警察を無差別に巻き込んでいた。
けれどもレイナの姿は何処にも見当たらなかった。知らなかったとは言え、自分がこの場所へ彼女を送ってしまったのは紛れも無い事実だ。あのタイミングから推察すれば、彼女が爆発に巻き込まれた可能性は極めて高い。
岬は焦った。心の中では彼女が被害に遭っていない事を祈りつつ、炎の中で懸命に救出作業を続けた。
「……」
目の前の瓦礫から微かな気配を感じ取った。耐火スーツの側頭部に触れて、透視フィルタを掛けると、瓦礫の向こうに人が倒れているシルエットが浮かび上がる。
岬は勘を頼りに瓦礫を除けて行くのだが、大きな鋼材に行く手を阻まれてこれ以上先に進む事が出来ない。外気の酸素残存量をチェックすると、防護服のシールドを外して声を掛けようとするが、凄まじい熱気と煙に思わず咳き込んでしまった。
「く……おい! 聞えるか?」
何とか声を張り上げた。煙で眼を遣られて涙が止まらない。
「……」
呼び掛けに対して、微かに反応があった。
生きている!
生存者の存在が、諦め掛けた岬に一縷の望みを灯した。職務上の使命感も相俟って、何としてでもこの生存者を助け出さなくてはと、夢中になって鋼材を動かそうとするのだが、埋もれた鋼材はびくりとも動かない。
焦りの色が滲んだ時、タイミング良く岬の携帯が鳴った。
―「高城! 今、そのビルの上空だ。シュライバーを降ろすぞ!」
ノイズ交じりの音声が聞える。
「了解。テッド、早く遣せ! 生存者を発見したが柱が邪魔だ!」
―「よっしゃ!」
FCIの専用輸送ヘリ、エア・ブレイズから『クワガタ』三機が投下された。 医療器具を内蔵している救助用A・Iロボットのシュライバーだ。三機のシュライバーは、背中のフレームカバーを翅のように左右へ拡げて風を掴み、パラシュート代わりにして落下速度を調節しながら地上へと舞い降りて来た。
シュライバーは頭部にあるレーザーで巨大な鋼材を切断すると、持ち前の大顎を使って難なく生存者を救出する。
瓦礫に埋もれていたのは上司の芹澤だった。岬は自分が被っていた耐火スーツのメットを乱暴に剥ぎ取り芹澤へ被せると、自分は携帯用循環呼吸機器のオーバを銜えた。メットの横に付いている幾つかのスイッチを入れて、芹澤への酸素濃度を微調整する。
周囲の熱りが岬を容赦無く襲う。焼け焦げた金属の独特な臭いに閉口した。
芹澤は幸い大型の鋼材が楯となって爆風を遮ってくれた為、症状は香川達よりも遙かに軽かった。頭部の軽い打撲と左足の損傷以外に目立った大きな外傷は無い。しかし、自分の命を救ってくれた鋼材の重量で左足の膝から下が潰されており、足首から先が無かった。
岬はシュライバーの腹部へ組み込まれていた医療用キットを拡げると、素早く芹澤へ圧迫止血の処置をする。
三機派遣されたシュライバーの一機を残して、岬は二機を他の負傷者の捜索に当たらせるよう指示を出していた。残った一機へ消火剤を散布させると、同時に周囲の熱気を下げて、発生した有害ガスを逸早く排出する為に背中の部分へ搭載されているサーキュレータをフル始動させた。そして、大顎の内側に内蔵されているメディカル・スキャニング機能で仰向けになった芹澤の身体をスキャング(走査)して、怪我の詳細情報を頭部の小型モニタへ映し出すよう指示を送る。
芹澤の体内にまだ埋もれている破片類をチェックするが、足の怪我以外で致命傷になりそうな怪我は見受けられなかった。
「た……高城か?」
周囲の熱気が収まって来ると、芹澤は意識を回復した。
「じっとしていて下さい。今、応援が来ますから」
「すまん。ザマ……ねえな。嵌められた。う……奴等、目の前で仲間割れしやがって……こうなる事を予測して……俺達も巻き込みやがった……」
虚勢を張ろうとしたのだろうが、岬が傷口周辺に触れた途端、煤けた顔が激痛に歪んだ。
「ほ、他の連中は?」
芹澤は我に返り、血塗れの手で岬の腕を掴んだ。処置をしていた岬の動きが一瞬止まる。
「傍に香川とジャックが居たんだ。他にも……あいつらは?」
「芹澤さん……」
「教えてくれっ!」
芹澤は岬の胸倉を乱暴に掴んだ。その手にぐっと力が篭る。
「命に……別状はありません……ですから芹澤さん、じっとしていて下さい」
岬は眼を伏せて静かに言った。限定した岬の一言で全てを覚った芹澤の手が、力無く岬の胸元から滑り落ちる。
「畜生! 俺があいつらを……畜生!」
芹澤はがっくりと肩を落とした。部下を守れなかった悔しさと自分の非力さを嘆き、両手で顔を覆う。
岬はそんな芹澤を直視する事が出来なかった。
「生存者か?」
少し離れた背後から声を掛けられた。岬からの要請を受けて駆け付けた救急隊員だ。
「彼のカルテだ。至急、手術の手配を頼む」
岬はシュライバーからコピーした医療用データファイルを、隊員の一人に手渡した。
「了解した。君も早く此処から退出しろ。概ねフロアに居たと思われる全員の救出が終わった。捜索は警察へ移行する」
「被害者達の身元は?」
「ほぼ特定済だ。見るか?」
救急隊員はそう言って顎を杓った。
岬は救助車両内部に設置されたモニタへ食い入るように見入った。映し出される被害者のリストに何度も眼を通すのだが、レイナやチカ達の名前は何処にも見当たらないし、身元不明者でそれらしい該当者さえ見付からなかった。
「どうだ? 役に立ったか?」
オレンジ色のツナギを着た救急隊員が背後から声を掛けて来たが、先程岬と言葉を交わした人物では無い。
「何の真似だ?」
岬は呻るように言い、ゆっくりと両手を挙げた。
男が放つ殺気を察していたが、振り向かず、相手に背を向けたままそっと席から立ち上がる。
あろう事か、救急隊員が銃口を岬へ向けているのだ。
「いやあー、今時のA・Iってのは人間様が仕事をしなくても良く働くじゃねぇか。あっという間にリストを作っちまう。大したもんだよ」
男はそう言ってへへへと笑った。
岬は別の物音で気が逸れた。車両の外で誰かが揉み合って争っているのだ。
「まさか……」
脳裏に先程運ばれた芹澤の顔が浮かび、厭な予感が過る。
男の短い悲鳴と、何かを殴る鈍い音がして、勢い良く突き飛ばされた男が無様に車両のドアへ縋り付く。
岬はその殴られた男と視線が合った。
「せ、芹澤さん」
「高城……すまん」
「ほらほら、何処に逃げてンだよ?」
別の男が芹澤を追って来た。救急隊員に扮した男は芹澤を簡単に捕まえると、岬の目の前で乱暴に投げ飛ばして足蹴にする。
鎮痛薬が効いているものの、彼の左足は暴行を受けて再び傷口が開き出血し始める。自分の怪我の状態を眼にした芹澤は顔を歪め、声を押し殺して呻いた。
「止めろ!」
「おーっと、そこまでだ」
動こうとした途端、背後の男が岬を牽制するが、今の岬にはそんな脅しは利かなかった。
軽くスッと腰を落とした瞬間、背後から近寄って来た男へ、振り向きざまに素早く右のローキックを放つ。短く叫んでバランスを崩した男の右膝の後ろを、今度は軸足を変えて外側から内側へと振り抜くように薙ぎ払った。
不意を喰らった男は両脚を上げて派手に引っ繰り返り、拳銃が手から離れ落ちる。
すかさず岬が落ちた拳銃を蹴り飛ばすと、銃は独楽のように高速回転しながらシートと床の狭い隙間へ潜り込んだ。
「貴様ぁ!」
芹澤の背を踏み付けていた救急隊員の男が銃を抜いて岬へ向ける。
背広の裾に滑らせた岬の左手が背後に廻り、男にはそれが拳銃を抜く仕草に見えた。勝ち目が無いと覚ったのか、慌てて岬に向けていた銃口を芹澤へと戻す。
「くっ!」
岬の呼吸が止まった。芹澤を盾に取られては万事休すだ。
「あいっ……ててて……畜生!」
蹴り倒された男が、右の膝を擦りながら立ち上がる。
男の顔を見るなり、岬は眼を細くして訝った。
異様に大きく腫上がった鼻を持つその男は、臓器密売人のラルだった。潰れたラルの鼻は、以前岬が遣ったものだ。しかもラルは岬が捕らえており、今でも監獄に居る筈なのだ。彼の釈放の報告は受けてはいない。そのラルがこうして救急隊員の中に紛れ込み、岬へ向って銃口を向けているのだ。
岬は署内部で手を廻してラルを釈放した内通者の存在を疑い、今後の捜査の行方を懸念する。
「そうだ。いいか? う、動くなよ?」
芹澤に銃口を向けた男が、岬の気迫に圧倒されまいとして引き攣った笑みを浮かべる。
全神経を研ぎ澄まして彼らへ鋭い視線を遣しながら、再び岬は両手をゆっくりと挙げて頭の後で組んだ。
「形勢逆転だな」
丸腰になっている岬へ銃口を向けているラルが、眼を細めてにやりと笑った。
「うわ?」
突然、芹澤は岬に気を取られている男の脚へ必死に縋り付き、揉み合った。男は不意を喰らってバランスを崩し、芹澤諸共倒れ込む。
「た、高城……俺に構わずに逃げろ!」
「芹澤さ……」
「は、早く逃げろ!」
すぐさま起き上がった男に、呻きながら芹澤は柔道の技を掛けようとして掛け損ない、男に振り払われてしまった。芹澤は尚も必死に男の左足へ追い縋る。
「黙れ!」
芹澤によって片足の自由が利かなくなった男は、銃把で芹澤の側頭部へ一撃を与えるやいなや、彼の無事だった右大腿部を撃ち抜く。
しかし、芹澤は既に鎮痛剤を岬から投与されている。
「くっ! け、警察を……舐めるなぁ!」
痛覚を絶たれている芹澤は、凄惨な形相で男に襲い掛かった。既に自分と同行させていた香川達部下を負傷させている。これ以上、自分の眼の前で部下を負傷させる訳には行かなかったのだ。
「うわああ!」
「何だコイツはぁ!」
怯んだ男が、再び大きく銃把を振り上げて芹澤の頭部を狙った。
「止めろ! 芹澤さんっ!」
男がその腕を振り下ろすよりも先に岬が動いた。眼にも留らぬ速さで岬の左腕が袈裟掛けに降り降ろされた瞬間、芹澤を狙っていた男が、銃を握っていた自分の右手首を押さえて地面へ平伏し、悲鳴を上げて転げ回る。男の押さえている右手首には、岬の手から放たれた短刀が突き刺さっていた。
間髪を容れず、岬は男から放り出されてよろめいている芹澤の許へと駆け寄った。
自分を支えに来てくれたのかと安堵した芹澤だったのだが、次の瞬間、信じられないと言う表情で眼を剥き、渾身の力で岬へ追い縋る。
岬の拳が芹澤の鳩尾へ深々とヒットしたのだ。
「あぁ? た……か」
=「すみません」
岬は沈痛な面持ちのまま、小声で素早く謝罪した。
あっという間に堕とされ、意識を失った芹澤は力無くずるずると岬の足元に崩折れる。
上司へ手を上げたのは、芹澤の身の安全を確保する為に執った行動だ。芹澤が抵抗して連中を煽り、これ以上危害を加えられるのを黙って見過ごす訳にはいかなかった。
「は、ははっ……馬鹿かお前は? 状況が判っているのか? 自分だけなら逃げ出して助かったかも知れないのによ。命が大事じゃないのか? ええおい?」
男は口から白い泡を吹きながら、勝ち誇って銃口を岬へ向けると、蹲って気を失っている芹澤の懐へ空いた片方の手で弄って電磁手錠を探り出す。
男がラルへ電磁手錠を放って遣した。そして、先ほどの芹澤の態度が余りにも気に食わなかったらしく、顔を顰めて不快感を露わにし、意識を失った芹澤の息の根を止めようと銃口を向けた。
「この野郎、梃子摺らせやがって」
「止めろっ!」
岬が凄まじい気迫を放って男を睨み一喝した。男から銃口を向けられていると言うのに、岬は少しも怯んだりはしていない。それどころか、もしこの場で倒れている芹澤に止めを刺したりすれば、『気』が昂っている今の岬に何が起こるか判らない得体の知れない恐怖さえ感じられる。
「ま、待て」
岬の気迫に飲まれたラルは、慌てて相棒を引き止めた。
「こ、殺すなよ? そいつぁこの野郎を打ちのめすまでは生かせておけ」
虚勢を張ったラルの気味悪い高笑いが響く。
* *
「痛……」
意識が戻ったレイナは、ゆっくりと瞼を開けた。右の額が熱く熱を帯びて疼いている。他にも身体中の至る所が悲鳴を上げていた。無理に身体を動かそうとすれば、激痛が奔って思うように動けない。
耳を澄ませば、さほど離れていない所から規則的な波の音が聞えている。室内独特の閉塞感を感じられる事から、港のどこかのドックだろうと思われた。硬くてひんやりとしたコンクリートの感触が、彼女のシャツを通してじわりと肌に伝わって来る。
少なくとも、此処がクラブ館内では無いと言う事は周囲の状況から理解出来た。岬と別れてクラブの館内へ戻った直後、レイナは爆風に煽られたのだが、それから先の記憶が一切無く、いつの間にか誰かにクラブから運び出されていたのだ。
……生きている……
レイナはぼんやりと霞む眼の前で、ゆっくりと自分の右手を拡げてみた。あの爆風に翻弄されていながら、どうやら奇跡的に掠り傷程度で済んだようだ。
けれど、彼女の心は空っぽだった。助かった嬉しさよりも、まだ生きていると言う事実の方が虚しく、辛いと感じていたからだ。
「な、何よ! は、話が違うじゃない!」
不意に女の怯えた叫び声が聞こえた。切羽詰ったような口調から察すると、誰かと言い争っているようだ。
「黙れ! 勝手な事をして……この僕までが疑われたじゃないか!」
言い争う二人の声に、レイナは聞き覚えがあった。ホステス仲間のチカと、自分の夫であるジェフの声だ。彼等の他にも五、六人が居るようだが、その中に小夜子も居る気配がしている。
「何を言ってるのよ! 今更裏切る心算? アンタがいつまでもグズ々しているからいけないのよ! ヤバくなりそうだと自分だけさっさと逃げ出して後片付けはアタシ達? ズルイわ!」
チカが金切り声で罵った。
「もう止せ! 警察が動いている! 騒ぎで俺達のルートを狙っている組織の奴等も動き出しているんだ」
「今更喧嘩するな! 沖に船を手配している。事情は此処を無事に抜け出してから聴けば良い」
先を急ごうとする数人の声が止めに入ったが、二人は一向に引かなかった。
「堪え性の無い子供のお守りは御免だ!」
「それ、どういう意味よ? 一体、誰の事言っているのよ?」
「誰の事だぁ? もう一度言ってみろ!」
噛み付いたチカに、ジェフが声を荒らげる。
「組織の連中に見付かって、連れて行かれるよりはマシでしょ?」
「な……んだと?」
ジェフがチカに掴み掛かって揉み合いになった。何人かが二人を止めようとして靴音が入り乱れる。
「ジェフ……二人共もう止めて……」
レイナは横向きに伏せた状態から両膝を引き寄せて、身体を屈めて丸くなり、固く眼を閉じると両手で耳を塞いだ。
ジェフがチカや他の何人もの女性と関係を持っているのは知っていた。証拠を握った訳ではなかったが、彼の腕からは常に自分ではない他の女性の匂いがしていたからだ。
彼はレイナがその事に気付いていないとでも思っていたのだろうか? 尤も彼女自身、彼が他の女性と甘い一時を過ごしていたとしても、特別彼を軽蔑したり非難したりする気にはなれなかった。全く気にならないと言えば嘘になるが、彼から『夫なのだ』と名乗られても、何度甘い言葉を掛けられ、高価な贈り物を与えられても……彼の腕に抱かれている時でさえ、何故か彼女の心は一向に彼へ傾こうとはしなかった。
ジェフは眉目秀麗の脳外科医。『天才』の名を欲しい侭にしている彼に、言い寄って来る女性は数知れない。そんな彼の妻である事にレイナは不満を持っていたのだ。慕っているチカや他の女性達からすれば、なんと不可解で贅沢な言い様だろうか。
それでも……とレイナは想う。
『妻』とは名ばかりで、彼にとってはレイナもその他大勢の中の一人であるような気がしてならなかったのだ。
彼は記憶を失っていたレイナを救ってくれた。そしてレイナの存在を認めてくれた男だった。自分が何処の誰かも判らずに不安で心細かったレイナにとって、彼に縋り身を委ねるしか他に選択の余地を与えられていなかっただけなのだ。
喩え、生理的に『苦手だ』と言う嫌悪感を持っていたとしても。
『レイナ、レイナ……君だけだよ……』
今でも彼からの甘い囁きが耳に残る。何度歯の浮くような言葉を与えられても、レイナの心へは届かなかった。寧ろ、その言葉がどれだけレイナを傷付けた事か……抱かれる度に、他の女性の香を残すジェフの言葉が重荷になる。
「嘘吐き」
固く閉じた瞼から、光の筋が溢れた。
『お生憎様。彼はアタシのものよ』
惨めな気持ちに打ち拉がれたレイナの脳裏には、チカが自分の姿を見下ろして嘲り、声高に笑っている姿が浮かんでいる。チカは計算高い女だ。どんな事があっても常に主導権を握っており、優先順位が与えられていたために、レイナと小夜子は逆らえなかった。ジェフでさえチカには一目置いていたほどだ。
チカがジェフを想っているのは既に承知していたし、彼女が彼を想っていても別に腹立たしく思ったり、不快に感じたりはしなかった。可能であれば、妻の座を譲っても構わないとさえ思っていた。けれど、チカはジェフだけでは飽き足らず、自分が気になっている岬にも手を伸ばしていた。その事を知ってしまい、彼女の小悪魔的な行動が幾度となくレイナを苛立たせていた。
「……」
岬の事を想った途端レイナは胸が熱くなり、きつく締め付けられたような気がして切なくなった。
同じ医師でありながら、至れり尽くせりのスマートなジェフとは外見も中身も全く違っている。見るからに粗野で身勝手な振る舞いを平気で遣ってしまいそうな印象を受けるのだが、実際の岬は見た目とは違っていた。
ただあの時の夜、酔った客に絡まれていた時に自分を助けてくれた岬だけは、何故だかいつもの岬だとは思えなかった。心の隙に付け込まれ、絡まれてしまったレイナを助けてくれたにも拘わらず、何故だか怒っているように思えたからだ。
『君は……笑ったりしないんだな』
『え?』
『何かに怯えて思い詰めたような眼をしている』
助けて貰った後、岬から強引にクラブから外へと連れ出され、人気の無い展望台から見事な夜景を見せて貰った時に、岬が溜息混じりに呟いた意味深な一言が彼女の脳裏に蘇る。
――『笑ったりしないんだな……』
その言葉がレイナの心を深く傷付けてしまった。ジェフから籠の鳥にされ、逃げ出す事さえ叶わない運命の呪縛に雁字搦めに縛られてしまい、笑顔を作る事が出来なくなっていた。笑う術を忘れてしまっただけなのに。
あの時、何故岬がそんな事を口にしたのかは判らない。けれどレイナは胸に大きな風穴を空けられた気がして、ただただ悲しくなった。
岬には、そんな自分の心の内を気取られまいとして気丈に無表情を装っていたのだが、ダンスのステップを教えられて居る時に、不意に涙が止め処なく頬を伝ってしまった。
岬はレイナの涙に気付き、黙って彼女を引き寄せて抱き締めた。お互いが何一つ言葉を交わさなかったけれど、岬の温かい胸に抱き竦められた時、レイナは岬の心に一瞬触れてしまったような気がして戸惑った。言い寄って来る男は幾らでも居る。しかし、岬は他の男達とは違う印象を受ける。それは自分を見詰めるその瞳の奥に、安堵出来る仄かな温もりを感じてしまったからだ。
数日後、吹き抜けの二階フロアの階段近くで、他のホステスに足を掛けられてバランスを崩した事があった。あの時、岬は傍に居て腕を引いて助けてくれた。あのまま倒れていれば階段から転落して階下にあったガラスのオブジェへ頭から突っ込み、大怪我は免れなかっただろう。
助けてくれたのは偶然だと思ったが、実はその後も何度か岬に危うい所を助けられていた。
けれど、岬から連れ出されたあの一件の後だったので、レイナ自身が岬を避けていた事もあり、何度も助けられたにも関らず素直に礼の一つさえ満足に言い出す事が出来なかった。岬もそんなレイナの事を承知しているのか、視線さえ合わさずにその場を立ち去ってしまう。助けたのは偶然だとでも言うように。
無愛想だけれど、気が付けば常に何処かで見守って居てくれている気がしていたが、視線が合えば必ず顔を背けられ、自分が岬を嫌っているのではなくて彼の方から嫌われているのではと疑った事もある。なのに、それでも彼の姿を眼にする度に、保護されているような居心地の良さを感じていた。自分が気負う事無く自然体で居られそうな不思議な安らぎを持てたからだ。
しかし、今の岬にはチカが居る。レイナの脳裏には、クラブの地下駐車場での不快な出来事が鮮明に蘇り、胸に狂おしい程の何かが込み上げて来た。
レイナは岬と出会ってから、いつの間にかチカに対して嫉妬のようなものを芽生えさせている自分に気付いてしまったのだ。彼の存在は、レイナにとってその他大勢の男達の一人でなければならない。なのに気が付けば何故か視線が彼を探し、追い求めてしまう。
チカにとってもレイナのそんな様子が気に入らないであろう事は火を見るよりも明らかだった。
『イヴはこれからお客の相手でしょう? ホストの彼を見ていちゃ駄目よ?』
レイナの視線に気付いた小夜子が、彼女へ苦言を呈した事があった。三人の中で最年少ではあるが、持ち前のカリスマ性でチカはいつの間にか二人に指示を出す立場になっていた。
そのチカのお気に入りである岬を想う事で、レイナの立場は益々三人の中で浮いてしまい、チカにとって目障りな邪魔者として見られてしまう――今まで以上の酷い目に遭わされてしまうかも知れない。
けれど、それでも構わないと思った。
岬の本心が聴きたい……チカの事をどう想っているのだろう? 自分は岬にどう想われているのだろうかと。
ジェフから再び『岬を殺せ』と言われた時、レイナは彼に逆らった。何度殴られても指示に従おうとはしなかったが、それでも彼に逢いたいと思う気持ちが先走ってしまった。出来る事なら、岬に危険を知らせて此処から自分を連れ出して欲しかったのだ。
しかし、プライベートでの岬はクラブの態度とはまるで違っていた。『契約上』での単なる同僚……その程度でしか彼は自分の事を思っていなかったのだと知り、レイナは失望した。
ジェフの指示に従い、いっそこの手で岬を殺めて、自分の中に居座ってしまった彼の存在を消そうとしたのだが……そうする事は叶わなかった。
あの時、自分が狙われているのだと岬は判っていた。気付いていたにも関らず、全くの無防備な姿を曝け出していた彼に、レイナは畏怖の念さえ覚えた。そして、自分の遣ろうとしている卑劣な手段に嫌悪してしまったのだ。彼に近付けば近付くほど自分が愚かだと言う事を否応なく思い知らされてしまう。なのに何故こんなにも彼の事が気になってしまうのだろうか?
けれど、そんな苦しい想いも消えてしまうだろう。もうじき自分達は此処を離れてしまうのだ。それなのに、二度と岬に逢えなくなるのかと思うと、レイナの胸は心とは裏腹に張り裂けそうになり、眼頭が熱くなった。
銃声が響き、ドアが乱暴に蹴破られる。
「逃げろ!」
悲鳴に紛れて誰かが声を張り上げるが間に合わない。武装した五、六人がレイナ達の居るフロアへ、わらわらと雪崩れ込んだ。
「ま、待ってくれ! 僕は違う!」
ジェフは、入って来た黒尽くめの連中に向かって両手を挙げると、一際大きな声で叫んだ。
「僕はこいつ等とは無関係だ! 聞いてくれ!」
一瞬、今まで一緒に居た連中が、彼の執った言動に息を飲んだ。
「ジェフ!」チカが鋭く叫ぶ。「何を言ってるのよ! アンタいつから……」
「こ、こいつ等に脅されているだけだ! 助けてくれ! 頼む! 僕を信じてくれ!」
「ジェフ?」
「助けてくれ! ぼ、僕はバイオ・ケミカル研究員のジェフ。ジェフ・ランディアだ。き、聞いたことは無いか?」
「裏切り者!」
ジェフは咎めるチカ達を無視して、大声で必死に彼等へ訴える。
「……」
指揮者らしい男へ傍にいた男が何やら耳打ちし、男は軽く頷いた。
「良いだろう。来い」
「あ、ああ……助かったよ」
傍に居た一人が銃を引いて合図を遣すと、ジェフはそそくさと男達の後に付いて行く。
「残りの者は始末しろ」
冷酷に指示を出した男が顎を杓った。息を詰めて彼等を見据えていたチカ達がジェフの背中へ呪いの言葉を投掛け、絶望の悲鳴を上げる。
「へええ、いい女が居るじゃないか」
「殺すなんて勿体無い」
男達はチカと小夜子を値踏みするように視姦した。チカ達の顔が引き攣り、悲鳴が上がる。
「先に男共を始末しろ」
機銃が一斉に火を噴いた。悲鳴と夥しい血飛沫が飛び散る。目の前で容赦無く射殺され、薙ぎ払われる仲間の姿に、彼女達は狂ったように悲鳴を上げた。
「お? 此処にも居るぞ」
一人が倒れているレイナに気付いて手を伸ばしたが、恐怖に包まれたレイナは逃げ出す事さえ儘ならない。
「い、嫌。助けて……誰か、誰か……」
「よく見ていろ。あれが僕の創った最高傑作さ」
レイナの姿を映し出しているカメラの映像を指差して、ジェフは得意げに口元を綻ばせた。映像には、男に襲われているレイナの姿が映っている。岬から貰った玲奈のシャツが跡形も無く引裂かれ、白い素肌が露になっていた。
―『嫌っ! 止めてぇ!』
レイナは恐怖に怯えながら、長い亜麻色の髪を振り乱して必死に抗う。命乞いをして彼等に寝返ったジェフは、仲間どころか妻であるレイナさえ棄てた。総ての希望を失ったと覚ったレイナは、深い悲しみに突き落とされる。
意識が薄らぎ、呼吸が不規則になった。全身にアドレナリンが湧き出ているのか、皮膚全体が痺れて心臓の鼓動が極限まで早まり、白い肌に鮮やかなオレンジ色の痣のようなものが浮き上がる。
レイナは喘ぐように肩で大きく息をする。
―『あぁ!』
興奮し、彼女に馬乗りになって夢中に襲っていた男の動きがぴたりと止まった。
グルグルと地の底から湧き出すような恐ろしい唸り声が響いてくる。組み敷いている彼女の喉が音を立てて鳴っているのだ。それは獣が威嚇する時に発する呻り声と同じだった。
―『痛!』
掴んでいた彼女の手首が、何の抵抗も無くするりと抜けた。瞬間、刺すような鋭い痛みが奔り、男は慌てて手を引っ込める。見ると掌がスッパリと深く切り裂かれていた。
男は悲鳴を上げ、血が噴出する手首を押さえた。
―『こ、この女、ナイフなんか持っていないのに、い、一体どうやって……』
苦痛に顔を歪めながら言い掛けた男は、その言葉を呑み込んだ。今の今まで女だと思って組み敷いていたモノが、いつの間にか人間ではない白い獣に変貌している。
―『う、うわわっ……』
声にならない。男は慌てて獣から飛び退いて腰を抜かした。
白い獣は全身の体毛を逆立てて低く唸りながら、硬直して竦んだ男を睨め上げた。長い尻尾で床をピシリ! ピシリ! と打ち付ける。
それは大型猫科の肉食獣。しかも全身が真っ白な獣だった。四肢の先に僅かだが薄く豹の特徴である模様が浮き出ている事から、獣が豹であることが判る。アルビノ種の為、覚醒剤のブラッディ・アイを使用したような真紅の鋭い眼が爛々と男を見据えたかと思うと、鋭い牙を持った口が、耳元まで大きく裂けた。
「おお!」
モニタを見ていた連中が、一様に驚愕の声を漏らした。
「気の毒だが、あそこに居る仲間は諦めた方が良い」
ジェフは彼等の驚く様を見て有頂天になった。他の誰でも無い。自分の手で変身する人獣を完成させたのだから。
「それは、どういう意味かな?」
「別に……」
「我々は、まだ貴様を認めた訳ではない。図に乗るな」
言葉を濁したジェフに向かって、すぐ横に居た男が凄んで見せる。
「出来ないんだ」
「?」
「彼女は変身してしまうと、自分をコントロール出来ない」
ジェフは芝居めいた口調で言ったが、彼等にジェフの小細工は効かなかった。
「その為の『手段』とやらを貴様は持っている筈だ」
肩に掛けていたマシンガンの銃口をジェフに向けながら、男は薄ら笑いを浮かべる。
幾ら仲間にして貰ったとは言え、彼等からジェフはまだ信用されてはいないのだ。喩え本当に彼女への対策手段が無かったとしても、彼等に信じて貰えそうには無い。恫喝されたジェフが、顔を引き攣らせて息を飲んだ。此処は一先ず、連中の要求をおとなしく飲むしか自分が助かる道は無さそうだ。
「鋭いな」
ジェフは軽く唇を噛むと、仕方無く懐から薄いカード型のコントローラーを取り出した。
「遣せっ!」
男が乱暴に引っ手繰り、滅茶苦茶にスイッチを押す。
「ああ! 勝手に触るな!」奪われたコントローラーを取り戻そうと手を伸ばす。「大切に扱ってくれ。設定が狂うと……」
「『設定』とは、貴様のご都合の良い設定に……だろう? 自分が今どんな立場に立っているのか、まだ判ってはおらんようようだな?」
指揮者はふんと鼻で笑う。
見下されたと感じたジェフは、プライドを傷付けられてカッとなり、両肩を怒らせて拳を力一杯握り締める。
「レイナは最高傑作だ。僕が造ったんだ……彼女は僕のものだ。お前達には彼女の素晴らしさが判らないんだ」
「ほざけ!」
銃口をジェフに向けて居た男が、素早く持ち方を変えて銃把を彼の頭部へと叩き込む。
モニタには、レイナ達を襲った連中が、白豹に変身してしまった彼女を撃ち殺そうと狂ったように銃を乱射する姿が映っていた。けれど白豹は銃口の向きや、引金に掛けた指の筋肉の動きを素早く読み取って、雨の如く降注ぐ銃弾の中で優雅に舞っているように難なくかわしている。それどころか、彼等同士で互いに相撃ちをさせようと画策しているのか、わざと彼等の目の前を掠めて駆け抜ける。
血飛沫と断末魔の絶叫。そして狂ったような雄叫びが上がった瞬間、唐突にモニタの電源が落ちた。どうやら彼等が室内にあった配電盤を撃ち抜いてしまったらしい。電源が切れた事でドアが自動的に施錠され、室内は完全に暗闇に閉ざされた密室になった。辛うじて生き残っていた者達の助けを乞う悲鳴が、闇の中で虚しく響く。