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第1話 女…

 明け方の平穏な空気を破り、人影がまばらになった繁華街でパトカーの甲高いサイレンが響き渡った。

 賑々しく回転灯を点灯させながら駆け付けた先は、侵入する者総てを包み込んで溶かしてしまいそうな漆黒の闇が拡がる細い路地の入口。車両はその入り口を幾重に塞ぐ形で慌ただしく停車する。

 一様に神妙な面持ちで言葉少なく車から降りた刑事達は、各々両の手へ白い手袋を嵌めながら事件が起こった現場へと足早に歩を進めた。

 一人が、先に現場へ到着していた警察官へ声を掛ける。

被害者ガイシャの身元は?」

「は、ボブ・マークウェル。男性。年齢不詳。職業は霊媒師です」

「霊媒師ぃ? この科学万能の時代にか?」

 刑事は胡散臭そうに眉を顰めて頭を掻いた。そして地下に通じている石造りの階段を、足を滑らさないように用心深く下って行く。

 要所々へ配置されていた警官が、彼に対してそれぞれ軽く敬礼をして案内誘導を執る。

 案内されたその先は、地下五階にある入り組んだ狭い通路の奥だった。地上から離れているために辺りの気温はぐっと下がっているが、年間の温度差は一定していて変化は殆ど無い。空調が悪く、淀んで湿った空気がひんやりと背後から纏わり付いて来るように感じられ、これから事件が起こった現場へ赴かなければならない浮かない気分を、より一層陰鬱としたものにしてくれた。

 この界隈での緊急車両の進入は日常的であり、大して珍しい事ではなかったのだが、捜査に関わっている彼等の様子から、少し普段とは違った事件ケースらしいと窺える。

 刑事は自分の後へ数人の警察官を伴って、事件現場のドアを潜る。

遺体のある部屋へ踏み込むなり、思わず息を飲み立ち止まった。

 それは誰もが我が眼を疑いたくなるような、信じられない光景だった。被害者の身体は血に塗れた肉の塊と化していた。腹部と思われる塊は大きく抉られており、本来あるべき内臓器官の大半を失っている。壁に何度か激しく叩き付けられたのだろう。室内の至る所へ飛び散ったどす黒い血痕が、凄惨な状況を生々しく伝えていた。床には夥しい血と肉片が散乱しており、被害者が男性か女性かの性別さえ判断するのに時間を要するほど損傷が激しかった。

「ほ、本当に……喰われて……いるのか?」

 警部は稀に見る残虐な惨状から眼を逸らす事が出来ないまま、喉の奥から必死に言葉を振り絞り上擦らせた。


  *  *


「大型の肉食獣だとぉ? 何処の馬鹿がそんなくだらん冗談を言ってる? ああ? 動物園のトラかライオンが逃げて人を襲ったとでも言うのかよ? そんな報告は何処からも聞いてないぞ? もっと真面目に仕事しろよ! この真っ昼間から何を寝惚けた事言ってやがる!」

 彼――桐嶋署の芹澤課長は、隣の所轄内で起きた事件の報告書を机に向けて乱暴に叩き付けながら吼えた。四十代後半の中間管理職。彼の薄くなった頭頂部がその神経質さを物語っている。

 通り掛った婦警が彼の大声に驚いて、会議用の資料CDと書類一式をばら撒いてしまった。

「こんなモノを遣して……在り得ない!」

 手にしていた報告書には、長年自らの目で確かめて培って来た経験からは、在ってはならない出来事の詳細内容が記されていた。余りにも非現実的な報告に、芹澤は自分達警察官が馬鹿にされたのだと勘違いしている様子だ。

高城(タカジョウ)は何処へ行った? ああ? 奴ぁまたサボリか?」

 署内で召集を掛けて集まって来たメンバーの中には、彼の部下である高城岬の姿は無かった。

 芹澤は苛々しながら殺気の籠った視線で部署内を見回し、彼の姿を捜そうとする。

 とばっちりは御免だとばかり、芹澤と視線を合わさないように署内の誰もが顔を背けた。わざとらしくデスクに向かって書類作成を始める者や、何処かに連絡を取ろうと受話器を持つ者までいる始末。皆、芹澤の怒りの矛先を回避しようとしての行動だ。

「ああ、岬なら、今日は居らんぞ」

 署内の片隅にある来客用のソファで日本茶を啜りながら、年配の婦警相手に詰将棋をしていた老人が口を開いた。既に現役を退いてもう何年になるのだろうか。見掛けは七十をとうに超している小柄な老人だが、矍鑠とした物言いだ。

「何だとぉ?」

 芹澤の片方の眉が撥ね上がる。

「幾らお前さんが喝を入れて遣ろうと思うとっても、今日ばかりは勘弁してやれ……っと、おっ? うーん、そう来たか」

 老人は芹澤へは目もくれず、終始腕組みをして正面の棋盤に集中している。

「爺さん、そいつはどういう意味だ?」

「ああ? どういう意味も、こういう意味もありゃあせん。そのまんまじゃ」

「……」

 芹澤は鼻息を荒くして老人の小柄な背中を睨み付けた。『年寄りが出しゃばりやがって』と言わんばかりの態度だ。そんな芹澤を見兼ねて、老人の相手をしていた小太りの女性課長が、細い眼を更に細くさせて困った表情を浮かべた。

「芹澤さん、肩の力を抜いて。ね?」

「自分が……で、ありますか?」

 心外だと言わんばかりに、芹澤は猶も鼻息を荒らげた。

「ガイシャの名を、お前さんなら聞いた事がありゃあせんか?」

「え?」

 老人の不意な問い掛けに芹澤は怯み、一旦は目を通していたはずの報告書類へ慌てて視線を落とす。

「ああ、ありゃあ奴の偽名じゃったかな?」

「偽名?」

「本名はゲイル。もとは大陸からの流れ者でな、奴は一昔前にこの辺りを根城にしとった麻薬組織の頭取じゃった男じゃよ。引退してもう何年になるかのぉ……大方、若い者の遣り方に口でも挟んで消されたのと違うか?」

 老人は手を止めて顔を上げると、昔を思い出すような遠い目をした。

「組織の?」

 耄碌していても不思議ではない老人の達者な記憶力に舌を巻き、芹澤は呆然として立ち竦んだが、すぐに自分の背後へ立った人物の気配を感じて我に返った。

「芹澤君、高城なら今日は非番で此処には居らんよ」

 背後に立った相手が静かに話掛けた。振り返れば、背の高い白髪交じりの紳士が立っている。

「あっ……し、署長」

 芹澤は相手を見るなり狼狽し、慌てて背筋を伸ばして姿勢を正す。

「構わん。気を遣わなくていい。『あれ』は今頃墓参りだ」

「は、墓参り……で、ありますか?」

「君は『あの後』の異動で此処に来たな……まあ此方での私事だ。各国の閣僚会議が開催されている上、組織間での不穏な動きもある今、人手が不足しているのは十分承知している。が、もう少し……今だけは『あれ』に時間を遣ってはくれないか?」

「は……ぁ」

 署長から頭を下げられてしまった芹澤は、気勢を殺がれて肩を落とした。

 署長も苗字が高城(タカジョウ)――芹澤が捜している男の父親だ。

 赴任して暫くの間は、この署長と同じ姓を持つ部下の岬が、実は親子関係だったとは、全く思い付きもしなかった事だった。当人だけでなく、二人を取り巻く周囲の者も、業務中では誰もが一切の馴れ合い感情を持ち合わせて居なかったからだ。それだけ公私混同を微塵も見せない徹底した姿勢を維持していた署長が、非番である息子を庇い、初めて身内として芹澤に謝罪したのだ。

 それ以上の言及は憚られた。恐らく、岬と深く関わりを持つ大切な人物の墓参りなのだろうと言う事は、芹澤でも理解出来たからだ。


  *  *


 鬱陶しい雨雲が低く垂れ込み、煙るように降頻る雨が静かに辺り一面を浄化して行く。

 墓地は、郊外にある海が望める小高い丘にあった。周囲の敷地を取囲むようにして、凝ったデザインの白いフェンスで外部と切り離されている。樹木の緑をふんだんに取り入れた静かな場所だ。

 一台の黒塗り高級車が、墓地の駐車場へ静かに停車した。

 車から降りて来た人物は、日焼けした肌を持つ背の高い男だった。髪は緩く癖を持った茶髪で、一見アウトドアが似合う遊び人と間違えられそうな容姿だが、彼はこれでも歴とした警察官である。

 彼の名は『高城 岬』。桐嶋署の芹澤課長が捜していた人物だ。

 岬は複雑な面持ちで雨雲を見上げると、黒い無地の傘を広げて奥へと歩き始める。喪服の黒いスーツを着用しているのだが、手には墓参りに似つかわしく無い、真紅の薔薇の花束を持っている。それは生前『彼女』との記念日に幾度も手渡していた花束だった。

 何処から香って来るのだろうか? 車から降りた時からずっと、手にした薔薇の花束の芳香を凌いで退けるほどの甘い高貴な香りが漂い、岬の鼻を擽っている。


 岬は彼女の墓前で歩を止めた。

 俯いていた顔を僅かに上げて、花束を供えようとしたその手が止まる。虚ろな彼の視線の先には、大輪の見事なカサブランカが降頻る雨の中で濡れそぼっていた。

 誰かが先に献花をしていた。辺りに拡がっていた甘い香りは、この大輪のカサブランカの香りだったのだ。

 彼女が亡くなってから此処へ何度も足を運んだが、決まって自分よりも先に誰かが献花をしていた。尤も、墓参りと言っても此処に彼女の遺骸は無く、形式だけのものだ。遺体は彼女の生前の同意を汲んで、ドナーとして然るべき所で冷凍保存されている。

 その事を知っているのは、彼の他には極限られた人物しか居ない。


「遅かったですね」

 振り返ると、黒いトレンチコートを着た、岬よりも五、六歳くらい年下の男が傘を差して立っていた。背が百八十五ある岬よりも更に高く、細身で赤銅色の肌に銀髪。そして澄んだ蒼い眼を持った彼には、まだ少年のような幼い面影が残っている。

 彼の片手には、淡い紫色で花弁を縁取った白いトルコ桔梗の花束が携えられていた。

「アーヴィン……お前か。俺に付き纏っても、ネタなんか無いぞ」

 お約束の言葉を浴びせて軽く睨み付けたが、報道関係者である彼がカメラではなく花束を手にしていたのを見て、岬は硬い表情を幾分か和らげる。

「別に。俺は単に、彼女のファンでしたから」

「お前が? 玲奈の?」

 岬はアーヴィンを見下すように鼻で笑った。

「貴方にどう思われようと結構です。俺の気持ちの問題ですから」

 アーヴィンは自分を見て不機嫌になっている岬を後目に、さっさと墓前に花を手向ける。そして墓前に暫く手を合わせて黙祷すると、徐に岬の方へと振り返った。

「俺は今でも貴方を許せない。何故こんな事になってしまったんです? 貴方が傍に付いて居ながら……何故、彼女を死なせてしまったんだ」

「お前から玲奈の事を許して貰おうとは思っちゃいない」

 岬はアーヴィンの問い掛けに答えられず、彼から視線を逸らせて俯いた。そして、自分の利き手である左手をゆっくりと広げると、掌へ視線を移して凝視する。

『何故助けられなかったのか?』アーヴィンの問い掛けが、岬の胸に重く圧し掛かる。尤もその問い掛けは、彼が自分自身に対して何度も問い続けていたものだ。

 押し黙ってしまった岬を、アーヴィンは怪訝そうな顔で見返すが、済んでしまった事を今更問い質してみた処で納得出来る答え等在ろう筈も無い。

「ところで、最近貴方の身辺で変わった事はありませんか?」

「あぁ?」

 心無い言葉を投げ付けられたすぐ後だ。まともに返事をする事さえ億劫だった。しかも、アーヴィンは普段顔を突き合わせたくはないマスコミ関係のハイエナだ。公でも、私的でも彼と関るのは願い下げだった。

「その様子じゃ『異常無し』ですか? 今の所は……」

 アーヴィンの蒼い瞳が、憮然としている茶髪の岬を映し出す。

「何の事だ?」

 岬はアーヴィンの心の内が読み取れないもどかしさに苛立ち、眼を細めた。

「じゃあ、アレックス通りにある会員制クラブ『ラジェンドラ』をご存知ですか?」

「あ? ……ああ」

「行った事は?」

「馬鹿言え。公務員の俺には敷居が高過ぎて入れるか」

 急に何を言い出すのかと思えば、高級クラブの話題だ。岬は、突拍子も無いアーヴィンの問い掛けを見下して笑った。

「貴方が……ですか?」アーヴィンは意外だなといった表情を浮べると、肩を揺らせてクスクスと笑う。「まあ、いいや。行くか行かないかは貴方次第だ」

 アーヴィンが口にしたクラブ――『ラジェンドラ』は上流階級層に人気が高く、マスコミからよく採り上げられているクラブだ。当然の事ながら、芸能界をはじめ角界の利用客も多く、訪れた事が無くてもクラブの名前くらい知っている者は更に多い。

 彼はどうやらそこに行った要人を取材していて、何かを見付けたらしい。

『きっと驚かれますから』と、そう言葉を残して意味ありげな笑みを湛えると、アーヴィンはその場を立ち去った。

「ンだよ……」

 からかわれたのかと思った岬は、ムッとして口を尖らせる。暫くの間アーヴィンが消えて行った通路へ向かい、降頻る雨の中で佇んだ。


 遠くから近付いて来る数台のパトカーのサイレンに気付いた岬は、音のする方を気にして振り向いたが、此処からでは樹木に遮られて確認出来なかった。

 事故でも起きたのかなと暢気に構えていられるのは非番だからだ。それに、この辺りは管轄外でもある。自分には関係が無いなと思っていると、無意識に左手が煙草を捜していた。慣れた手付きで一本を取り出して銜えると、今度はライターを捜し始める。

「ん?」

 思い当たる箇所をスーツの上から弄るが、ライターと思しき硬い金属の感触は何処にも無い。


 何を遣っているのだろう……


 岬は自分の不甲斐無さを痛切に感じて、深い溜め息を吐いた。

 その気になれば、セキュリティの履歴検索で、誰が彼女の墓参りに来ているのかすぐに判る事だ。しかし、今の岬はそれを調べようとはしなかったし、知る気にもなれなかった。

 『彼女』を失って以来、岬は自分の時間が停まっている。後から着任して来た上司の芹澤は、そんな腑抜けた岬を格好の弄りネタにしていた。

「もう、一年になるんだな……」

 岬は低く呟くと、黒曜石で出来た墓石にそっと利き手を伸ばし、そこへ刻まれている彼女の名前を愛おしそうに指先で辿った。

 一年と言う歳月が、これほど途轍もなく長く感じられた事は無い。今でもあの時の事は夢であって、何かの悪い冗談だと強く願わずには居られない。だが、彼女が二度と還らぬ人になってしまったのは、変える事の出来ない事実なのだ。

 雨に濡れた墓石から、触れる者総てを拒絶しているよう指先へ硬く冷たい質感を与えられて、岬の沈んだ気持ちは一層深く落ち込んだ。


 何故、彼女が犠牲にならなければならなかったのか?

 何故?


 幾ら問い掛けても、答えは戻っては来ない。戻る筈が無いのだ。

 虚しさを覚えて肩を落とし項垂れた岬は、持って来た花束を供えると、両手を合わせて静かに黙祷した。

 彼女にもう一度逢いたいと言う強い想いが胸にこみ上げて来て堪らなくなるのだが、岬はその想いを捩じ伏せるように硬く眼を閉ざした。

「?」

 偶然だろうか?

 一瞬、何者かの強い視線を肌で感じ取り、弾かれたように顔を上げた。身体の中で警報が鳴り響き、咄嗟に緊張の糸を張り巡らせて警戒する。

 何処かの組織の者かとも考えられるが、今はまだ事を荒立たせるような状態ではない。それに視線には殺気が全く感じられなかった。寧ろ救いを求めて縋り付くような気配さえ窺える。

 気配のした方向へ視線を奔らせながら、同時に左手を無意識の内に上着の懐へと滑り込ませ、携帯していた拳銃の銃把を握る。

動くものがあれば、即座に反応出来る状態で身構えた時だった。

 視界の隅で、質感を持った白い塊が、十数メートル程離れている緑の生い茂った樹木からどさりと落ちた。しかし、樹木の手前にある生垣に遮られて、何が落ちて来たのかを確認する事が出来ない。

 岬は軽く舌打ちをして傘を放り投げると、握っていた拳銃を懐から取り出した。安全装置を素早く外すと、腰を低く落として構えつつ用心しながら小走りに生垣へ向って駆け寄るのだが、一メートル程の高さの生垣に阻まれて、近寄っても未だに確認出来ないでいる。

 罠かも知れないと警戒したにも関わらず、何故か緊急を要すると判断した。

 左手で握っていた銃を再び構え直し、意を決して一旦大きく息を吸い込むと息を詰め、一気に生垣を飛び越えた。

 素早く銃口が足元の獲物を的確に捕らえる。

「はっ?」

 瞬間、岬の視界へ信じられないモノが飛び込み、思わず息を飲む。

 白く見えたものの正体――それは、横向きに倒れ伏している長い亜麻色の髪を持つ若い女性の姿だった。しかも彼女は一糸纏わぬ姿なのだ。

 岬の無意識下の良心が、素早く彼女から視線と銃口を逸らせたが、その行動を執った事で逆に我に返った。接的した相手から一瞬でも眼を逸らせる事はセオリーに反する。相手が銃を所持していれば、完全にアウトだ。

 彼女の姿に度肝を抜かれて驚いてしまった岬だが、すぐに冷静さを取り戻した。そして意識の有無を確認しようと彼女の背後に廻り込んで顔を覗き込んだ途端、岬の心臓がドキリと大きく脈打った。

 絹のように輝き、身体のラインに沿って流れる柔らかな長い髪。透き通るような白い肌。長い睫に、瑞々しい果実ように紅く甘やかな形の良い唇。肩から腰にかけての滑らかな曲線――その何もかも総てが岬の知っているものだと思えたからだ。

「れ……玲奈!」

 女性が余りにも亡くなった玲奈と似ていた為に、思わずその名が口を突いて出てしまった。

「違う……い、いや、そうだよな。そんな筈……無い」

 自分の思い込みを振り切るように、首を静かに横に振った。そして、自分が口にしたその名前で、一気に現実に引き戻されてしまったのだ。

 どんな奇跡が起こったとしても、彼女が亡くなったのは紛れも無い事実。他人の空似でしか在り得ない。息苦しい失望感に襲われた岬は、何度も自分に言い聞かせる。

 女性の背後へ片膝を着くと、利き手の左指先でそっと女性の頚動脈に触れてみた。不規則ではあるが、指先へ速いテンポで脈打つ鼓動が伝わって来る。

「玲奈」

 もう一度、呼び慣れたその名を呼んでみた。何度人違いだと思っても、彼女は想い人の玲奈とそっくりだ。信じられないほど良く似ている……いや、似過ぎているのだ。

 岬は彼女が『玲奈』であると証明出来る手懸かりは無いかと、必死になって辺りを見回したが、周囲には彼女の身元を証明出来る物は何ひとつ見当たら無かった。唯一、彼女が身に着けていたものは、細い首に着けていた、プラチナ製の凝った飾り細工が施されているチョーカーのみだ。

 だとすれば、彼女はこんな姿で今まで何処に居たのだろうか? しかも墓地のセキュリティを容易にパスして。

「う……」

 意識を取り戻しつつあるのか、気を失っている筈の彼女の表情が苦痛に歪んだ。

 岬が彼女の肢体へ視線を這わせると、左足首から夥しい出血が認められ、蒼白い素足が真っ赤に染まっている。

 それが銃創だと言う事は一目で判った。貫通していない為、まだ彼女の足に銃弾が残っている。それでも血の匂いに気付けなかったのは、この降頻る雨のせいなのだと判った。

 岬は上着を脱いで彼女の身体を包み隠した。そして、黒いネクタイを解き、止血の為に傷口の上部をきつく縛る。

「弱ったな……」

 彼女を両腕で軽々と抱き上げたものの、流石にこのままの状態で救急車を呼び出すのは躊躇ってしまう。


  *  *


 鉗子を用いて彼女の足から血塗れの銃弾を抜き出すと、金属のトレーへ落とした。切開部へ抗生剤のスプレーを吹き付け、岬は慣れた手つきで手早く傷の処置を完了させる。銃弾を摘出した際の出血は思ったより少なく、傷口も小さくて済んだ。

 一気に緊張感から解放されて、岬は大きな溜息を吐いた。夢中になって傷の手当てを行ったが、未だに頭の中が真っ白だった。思考回路が全くと言っていい程停止している。


 この女性は一体誰なのだろうか?


 彼女が横たわっているベッドのすぐ傍で膝立ちをしたまま、岬は自分の上着を掛けて遣っている、意識不明の女性へ視線を這わせた。

 見れば見るほど、彼女は亡くなった玲奈に似ている。まさか死んだ筈の彼女が、再び黄泉の世界から舞戻って来たとでも言うのだろうか? 彼女を眼の前にして、そんな在り得ない馬鹿げた妄想でさえ脳裏を過り、岬は心を掻き乱されてしまう。夢なら早く醒めてくれと思った。一目で良いから彼女に逢いたいと願って已まない岬にとって、この女性の存在は余りにも酷過ぎる。

 けれどその半面、岬はこの女性が誰なのか知りたい欲望に駆られてしまった。何れにせよ、彼女が目覚めれば総てが明るみになる事ではあるのだが、今はもう少しだけ彼女の安らかな寝顔を見守っていたいと思った。


 運悪く、ものの五分と経たないうちに、テーブルの上に放置していた携帯が鳴った。墓参りに行っている間、わざと自宅に置いていた為か、着信の履歴ランプが点滅している。

 呼び出し音で特定の相手を登録設定しているので、上司の芹澤からだとすぐに判った。こちらの都合で電源を切ったとしても、芹澤は手段を替えて何処までも執拗に呼び出そうとする性格だ。何より、岬の直属の上司なので無視するわけには行かない。

 通話の遣り取りで彼女が目を覚ましてしまうのも悪いと思い、慌てて椅子から立ち上がった。そしてテーブルの上から引っ手繰るように携帯を掴むと、急いで部屋から出て静かに後ろ手でドアを閉じる。

―「何度掛ければ出て来るんだ? ああ? 『携帯』の意味が無いぞ!」

 通話ボタンを押した途端に聞き慣れた罵声が飛び、岬はウンザリとした表情を浮べる。

「芹澤さん。俺、今日非番ですよ」

―「非番だろうが何だろうがそんな事は関係無い! 一時間後に署まで来い!」

「けど……」

―「緊急召集だ。いいか? 必ず来いよ!」

「ちょ、ちょっと待って下さ……あ!」

 芹澤は、岬に有無を言わせないまま一方的に捲し立てて携帯を切った。身勝手な上司の言葉に閉口すると、岬は忌々しそうに手にしていた携帯を睨む。


 ドア越しに、彼女が眠っている部屋から小さな物音が聞こえた。もしかすると彼女が意識を取り戻したのかも知れない。そんな期待を持って、少しだけ岬の表情が和らぐが、ドアの向こう側からは人が居るらしい気配が一向にしない。

 不思議だと思いつつ、それでもいきなりドアを開けて彼女を驚かせる訳には行かないと、一旦ドアノブを握った手を離し、逸る気持ちを落ち着かせようと、その手で自分の鳩尾辺りを押えた。

 一呼吸おき、二度ノックをしてゆっくりとドアを開ける。自分の部屋なのに変だなと思いながら、岬は中へ入った。

 開け放たれた窓から吹き込む風が、呆然と立ち尽くす岬の身体を撫でて通り過ぎた。先程までベッドに居た彼女の姿は何処にも見当たらない。窓へ続く床には、彼女の身体を包んでいた岬の上着が無造作に落ちているだけだ。

 咄嗟に身体が動き、空け放たれている窓へと駆け寄り外へ出た。窓の外はバルコニーだが、地上十六階のバルコニーだ。その空間の左右に視線を素早く奔らせて彼女を捜すのだが、彼女の姿は何処にも見当たらない。

 考えたくは無かったが、念の為バルコニーの手摺から身を乗り出して真下を覗き込む。

 マンションの片側は都内が一望出来る崖の上に建てられている。岬が居るバルコニーは崖の斜面の上にあり、実際には二十階以上の高さに匹敵する。落下すればまず命は無いが、此処にも彼女の姿は無かった。

 最悪の状態を想像していた岬はほっと胸を撫で下ろした。けれども今度は替わって彼女に対する猜疑心が頭を擡げて来る。

 自分はおかしくなってしまったのだろうか? それともやはり彼女の姿は幻だったのだろうか? ……と。

 岬は不思議な出来事に首を傾げながら部屋へ戻った。

 そのまま脱力してベッドへ倒れ込むと、彼女が居た辺りに触れてみる。シーツからは、まだ仄かな温もりが伝わっている。そして彼女が落としただろう長い亜麻色の髪が指先に絡まった。

 室内の照明へ、その髪を透かせてみると、明るい亜麻色の髪は、光の加減で輝く金の糸のように見えた。


 本当に『人』だったのだろうか?


 まさか、自分の墓参りに遣って来た男の許へと現れた幽霊でもないだろう。サイドテーブルのトレーには、彼女の脚から摘出した銃弾が残っている。証拠がある以上、確かに彼女は存在して、先ほどまで此処に居たのだ。

 岬は上体を起こすと、トレーに残された銃弾へ眼を凝らした。

 間違い無く、それは所轄の警官が所持している銃弾だった。墓地で彼女を発見する少し前にパトカーのサイレンを聞いていた事や、摘出した銃弾を考慮すれば、彼女は警官から撃たれている。しかも、彼女は岬に気配を感じさせる事無く、忽然と姿を消したのだ。


 一体、彼女は何者なのだろうか?


  *  *


「ただいま。あれぇ? お兄、居たの?」

 サラサラの栗色の頭がドアから覗いた。大きな瞳が、リビングのソファで仰向けに寝そべっている岬を見付ける。

 ぼんやりと考え事をしていた岬は、環の言い様に軽くムッとなる。

「居て悪いか? って、たまきお前、帰りが早く無いか? 学校はどうしたんだ?」

 環は中学一年生。岬とは一回りも歳の離れた腹違いの妹だ。二つの赤い球が付いたゴムで頭の上部を縛った、栗色のボブが良く似合っている。サラサラの髪と同じ色の大きな瞳がよく動いて活発そうな女の子だ。三つの時に母親を病で亡くしたが、父親の仕事の都合上、普段は岬が環の保護者になっている。

「うん。今日は参観日だったから」

「はあ? 聞いてないぞ」

「だって、今日は……」

「ンだよ?」

 鬱陶しそうな岬の返事に環は口籠った。

「もう……言えないよ。実は、ついででも良いからお兄が少しだけ環の為に時間を取ってくれるのかな? なんて勝手に思っちゃったけど……やっぱ違っていたね」

 環なりに岬の事を気遣ってか、玲奈の名を口にはしない。岬もそんな環の心遣いに気が付いた。

「ごめんな」

「良いよ別に。だって、今までお兄が来てくれてたワケじゃなかったモン」

「あ、ああ……そうだったな」

 気不味く相槌を打った岬は、徐にソファから立ち上がり身支度を始めた。

「あれ? お兄どこへ行くの?」

「召集。遅くなるかも知れないから、戸締りちゃんとしておけよ」

 岬は環の視線に気付き、背広に腕を通しながらそう言った。

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