2、紛い物の神に祈りを
少女が目覚めた時、男の姿はもう既になかった。体に不調がないか確認し、自らの貞操は守られていることに一つ安堵の息を吐く。
体を起こして自分が寝台から落ちたのだということを認識し、少女は驚いたかのように目を丸めた。
「私がベッドから落ちるだなんて」
そう言い、彼女は寝台を見やる。以前使っていた彼女の寝具と比べれば確かに小さいと言わざるを得ない。しかし、それでも二人寝るには十分な広さは有しているだろう。
彼女が自分が寝台から落ちた理由を考察していると、街中に大きな音が響き渡る。
鐘の音だ。
修道院からのものだろう。そう結論付けた少女は昨日の男の言葉を思い出す。自身を修道士だと語ったあの男はいま、祈りを捧げているのではないだろうかと思い、少女は動いた。
少女の探し人は存外早く見つかった。部屋を出たところから見える、中庭にいたのである。
下へ降りる階段を探し、少女は駆け下りる。
そして男が祈りを捧げる先、中庭の像を見て、少女は呟いた。
「なぜマータの像が……」
その声に、男は振り向いた。
祈りの時間を邪魔してしまったと思った少女は、謝罪の言葉を口にする。男はそれを意に介さずに首を横に振る。それでも申し訳なさそうな顔をする少女に向かって、立ち上がった男はおどけてみせる。
「祈りはとっくに終わってる。ただ独り言を言っていただけだ。自問自答だなんて、馬鹿みたいだろ」
「それなら、いいのだけど」
男は宿の中に戻っていく。少女は少しの間だけ中庭の像を見つめていたが、やがて興味を無くしたかのように体を建物の方へ向け、歩きだした。
宿の主人に「朝食を頼む」と伝えると、すぐに料理が運ばれてきた。男が祈っているところを見ていて、厨房に指示を出しておいたのだろう。
頬張りつつ、二人は話す。
「あなた、本当に修道士だったのね」
「まだ決まったわけじゃないだろう。ただの敬虔な信者かもしれないだろう」
「確かにね。帯剣もしているし、その悪魔の衣だってそう。昨日は酒場にいたのだし」
何か理由があってのことなのだろう。男は顔を右下に向け、顔を険しくした。嫌なことを思い出したとでも言いたげな表情である。
そんな様子を見つつ、少女は続ける。
「名前、何と言っていたかは忘れてしまったけれど、それも本名かどうかはあやしいところね。まあ、その点については私にも同じだけど。あなたも私が贖罪塔の持ち主だと信じていないようだし」
男は落ちついたのか、少女に向かって笑って見せた。
「わかってるじゃねぇか。初対面の人間の言うことなんてそうそう信用するものじゃない」
「まるで実体験のように言うのね」
「ああ、それで一回失敗してるからな」
「あなたが? そんな風には見えないのだけど」
そう言われて、男は目を見開いた。あまりにも意外だったのだろう。自分がそう思われているなど夢にも思っていなかったに違いない。
少女はその様子から、男のことを推察する。
「きっと、昔のあなたはもっと隙があってからかい甲斐のある人間だったんでしょうね」
男は苦笑する。少女にはそれが自分の考えが見当違いだからなのか、それとも正答だったからなのかの判断がつかなかった。
百面相をしていた男だが、どうやら物を食べるのは早いようだ。いつの間にか朝食を摂り終わっている。
「お前があの塔の管理人だって言うのは本当なのか?」
少女は静かに首を振る。
男は怪訝そうな顔をして再度尋ねた。
「違うのか? お前は昨日、あの塔は自分のものだと言っていた気がするが」
反論しようとしたのだろう。身を乗り出しかけて、少女は座り直した。それは口に物が入っていたからで、何かを頬張ったまま話すのはよくないと心得ているからだろう。
飲み込んで、水を一口含んでから、少女は言う。
「確かに贖罪塔は私のもの。だけど私は管理人ではないの。そこのところは少しばかり複雑だし、あまり言いたくない。けれど、これだけは言える。私は――追い出された」
少女の言を聞き、男は少し険しい顔になる。
スープを最後の一滴まで飲み干し、少女は息を吐く。目を伏せ、その日のことを思い出すかのように苦い顔をする少女に掛ける言葉が見つからないのか、男は口を閉ざしたままだ。
沈黙を破ったのは、宿の主人だった。
「食い終わったなら食器を下げてくれ。他の客もいるんだ、ほら」
そう言われ、二人は立ち上がり、言われたとおりに食器を下げた。
部屋に戻っているとき、中庭を見てあの像のことに気が付いたのか、少女は問うた。
「そういえばあなた、何の神を信じているの? あの像は一体、誰を模っているの?」
訊かれた男は立ち止まる。左手で頭を掻きながら振り返り、少女の方に向き直った。
「悪いがわかんねぇ。修道士になろうと思ったのは昨日だ。ただの追放人だよ、俺はな」
「そう、なら言うけれど、あれは神ではない。あれは昔からあったマータの像よ。マータは確かに英雄ではあるけれど、神ではないはず」
それを聞き、少し考えてから男は言った。
「それは、街では言わない方がいいかもな」
男がそう忠告した意味を少女は正しく理解した。男がそれを言うということは、少なくとも男はマータの像が神を模ったものだと知っていたのだろう。それほどまでに知られている神ならば、街でそんなことを言えば背信者と呼ばれ、指を差されることになる。その国の法によっては最悪死刑ということすらあり得る。そうなれば元も子もあったものではない。そう思っての忠告だろう。
しかし、少女の話に興味が湧いたのだろう。男は少しだけ追求する姿勢を見せた。
「あれが神じゃないなら、信者たちは何を信じているんだろうな」
その問いに、少女は呆れた様子で答えて見せる。まるでその答えはわかりきっているとでも言いたげだ。
「神を信じているのよ。たとえ信じる対象が神でなくとも、それが神であると信じているの。信じる先が本物の神であろうがなかろうが、そこに大きな差はないと思うのだけど」
男は神妙な面持ちになる。少女の言葉を考えているのだろう。
やがて結論に至ったのか、少女に向き直る。
「じゃあ俺はお前を神だと信じてみよう。人間の想いが人を神格化するのなら、無理ではない話だろう?」
男がどんなことを考えてその言の葉を紡いだのか、少女は知らない。
ただひたすらに可笑しくて、年相応に笑い出す。腹を抱えて、声を上げて。
「あなた、面白いのね。あなたの神になってあげる代わりに、一つ聞いて欲しいことがあるの」
「何だ?」
「私を贖罪塔の部屋まで、送ってくれない?」
男は少女の言葉が冗談でないかを測ろうとするとするも、真摯にこちらを見つめてくる少女の目をずっと見ていられるわけもなく、逸らしてしまう。もし少女が男のことを真っ直ぐに見ていなくても、男は考えるために目を逸らしていただろう。
しかし、自分の今後を加味した上で考えるのなら、少女の提案は魅力的なのではないか。
行く宛てのない自分に目的を与えてくれるというのなら、それだけで十分ではないか。たとえそれが茨の道だとしても、その過程で命を落とすことになったとしても、それを悲しむ者はいないと男は自分に言い聞かせる。
男が肯定の意思を見せたことに、少女は驚いた。いままで虚言と思われ、無視されてきたのだろう彼女にとっては意外でならなかったからだ。
彼女は自分が涙を流していることを知らない。その量からして、彼女のいままでの苦労が察される。
泣きながら笑みを浮かべた少女の表情は、男の心を強く揺さぶる。
続く言葉に、男は胸が締め付けられた。
「……ありがとう」
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