2 消えた先輩
葵先輩がいなくなって、丸二日。
木曜日の放課後、私は急いで文芸部の部室に向かった。扉の前に立って、深呼吸してから取っ手に手を掛ける。
思いっきり横に引いて、ガラッと開けば。
電気の消えた部室には誰もいない。がらんとした空間と静寂にひどい落胆を覚えて、私は廊下でしゃがみ込む。
いつもなら、先に葵先輩が来ていて。
笑顔で「空ちゃん」と迎えてくれて。
「……」
じわりと瞼が熱くなる。葵先輩、と呟いたとき、頭に衝撃が走った。
「いっ、痛……って木野先輩!」
「何泣いてんだ、コシバ」
「……泣いてません」
私は振り返って、木野先輩に拳骨を落とされた頭を擦る。恨めし気に見上げても、木野先輩はいつも通り素知らぬ顔だ。
そのいつも通りの態度に、私は腹が立った。
「木野先輩、葵先輩は見つかったんですか?」
「……いや。でも、一昨日の夜に警察に連絡して届けも出してるから、そろそろ見つかるだろ」
木野先輩には、昨日の放課後に、葵先輩が行方不明になっていることを聞いた。
火曜日の放課後、木野先輩は校門を出たところで葵先輩を二十分ほど待っていたが、いつまでたっても来なかったそうだ。スマホで連絡を入れても、電源が切られているらしく、返信は無い。
校舎に戻って探そうとすれば、見回りの当番だった瀬尾先生に呼び止められ、もう校舎に生徒は残っていないと言われたらしい。
他の部活動の生徒たちに交じって帰ったのだろうか。木野先輩はとりあえず帰宅して、隣の藤堂家(これが幼なじみである所以だ)を訪れた。
しかし、葵先輩は帰っていなかった。
そして門限の八時まで一応待ってから、すぐに葵先輩の両親は警察に連絡して届けを出した。葵先輩が連絡なしに門限を破ることなど、今まで一度も無かったそうだ。
葵先輩が行方不明であることは先生たちにだけ知らされており、生徒たちには伏せられている。あまり大きな騒ぎにしたくないという配慮らしく、葵先輩は病欠ということになっていた。
生徒で知っているのは、木野先輩と私だけだ。
「何でそんな平気なんですか!もう二日経つんですよ!学校にも来てないし、連絡も取れないし……!」
食って掛かる私を、木野先輩は「俺に当たるな。落ち着けよ」と冷めた目で流した。
その余裕の態度が……葵先輩を心配して居る素振りを見せない態度が悔しくて、悲しくなる。
「葵先輩に何かあったら……」
「アオはそう簡単にやられねぇよ」
木野先輩はあっさり言うが、木野先輩と葵先輩を一緒にしないでほしい。
そりゃ、木野先輩は全国大会常連の柔道の猛者で、変質者に襲われても返り討ちにしてしまうだろう。だが、葵先輩はか弱い女の子だ。しかも美少女。変質者の恰好の的だ。
そう言うと、木野先輩は「お前はあいつの本性を知らない」と返してくる。
幼なじみだからって、そんな全部知っているみたいな、信頼し合っているように言わないでほしい。葵先輩のことが心配じゃないのだろうか。
涙目の私に、木野先輩は一つ息をついた。
何か言いかけるように開いた口が、ぽかんと開いた。
「……アオ?」
木野先輩が、呟いた。
私の背後……部室の中を、睨むように見ている。
一体何なのだろう、と私が振り向けば――
そこに、葵先輩がいた。
「……葵、先輩……?」
さっきまで、誰もいなかったはずの室内。
夕陽だけが差し込む薄暗い部室で、いつもの席に座って、文庫本を手にして。頬に落ちる長い髪を、小指でさらりと耳にかける。
セーラー服を纏った黒髪の美少女は、紛れもなく『葵先輩』だった。
「あ……葵先輩っ!」
部室の中に飛び込もうとした私の腕を、木野先輩が掴んだ。
「ちょっ、放してください!葵先輩が!」
「……あいつはアオじゃない」
「何言ってるんですか!?完全に葵先輩じゃないですか!もうっ、放してっ……!」
木野先輩の手を外そうと躍起になっていれば、後ろで物音がした。
はっと振り返って部室を見れば、椅子に座っていたはずの葵先輩の姿が無い。木野先輩の手を振りほどいて、私は部室の中に入った。
辺りを見回すが、六畳ほどの広さの細長い部屋の中には、誰もいない。
部屋の両側にはガラス扉付きの木の本棚と、スチール製の本棚がそびえ立つ。窓側に寄せられたホワイトボード。部屋の隅には掃除用具入れのロッカーと物入れ。中央には折り畳み式の長テーブル二つと、椅子が六つ。物が少ない部室の中は見通しが良く、隠れる場所はない。
ここは三階の端っこでベランダもないから、窓から出ることはできない。
……葵先輩が、消えてしまった。
「な……なんで?葵先輩、どこですか?隠れているんですか!?」
私は目についたロッカーを勢いよく開けるが、中に葵先輩がいるはずもなく、箒やモップやらが倒れてきただけだった。
騒々しい音をたて、モップやちりとりが床に落ちた。顔面で箒の柄を受ける羽目になった私は、顔を押さえて呻く。……そもそも、葵先輩が隠れる理由なんてないのに。私は馬鹿だ。
「おい、大丈夫か?」
木野先輩が近寄ってきて、珍しく気遣うような声を出した。
「……大丈夫じゃないです……葵先輩は……?」
「いない」
「でも、さっき……!」
私は赤くなった額と鼻を押さえながら、顔を上げる。木野先輩は、どこか強張った顔でテーブルの方を見やる。
「何かはいた。けど、本物のアオじゃない」
「どういう意味ですか?」
私の問いに答える代わりに、木野先輩はテーブルを指さした。さっきまで何もなかったテーブルの上には、文庫本が一冊、伏せて置かれている。
葵先輩が読んでいた本だ。私が近づいて、本を持ち上げれば、白い紙がはらりと落ちた。
紙には、ホワイドボードに書かれた綺麗な字と、同じ字でこう書かれていた。
『私を探して』――と。