祖国のために5
「我が軍は、大規模な戦術的転進を行う。
作戦実行にあたり、貴部隊には殿軍を命じる」
司令官の指名だという。
要するに、前線基地たる塁内への退却であり、撤収完了まで戦場に踏みとどまれとの意である。
そこまで追い詰められたのかと、彼女は苦い思いを噛みしめた。
表情には出さず、静かに頷いて命令を受けた。
当人はまことに淡々と了解したが、そうではない者も居た。
ツィンレーである。
伝令に対して
「ばかを言えっ」
怒声を張り上げた。
この状況下で殿軍を引き受けろとの要請は、死ねというに等しい命令であると、彼も承知している。
決定は、どうしても覆さねばならない。
「ヴォルフローシュ隊は傭兵団だ。殿軍には不向きであろう。
我がツィンレー隊にお任せあれと司令官へお伝えせよ」
次いで、吐き棄てるように命じる。
急ぎ戻ってゆく下級兵士の背を睨みながら、この気鋭の将校は
「何を考えているのだ、あの老いぼれ」
ひどく不機嫌だった。
一方で、司令官もすこぶる機嫌を悪くした。
復命した伝令の口上を聞くや
「ええい判らん小僧め。
殿軍を引き受けられるような状態か。
己の部隊の惨状を少しは省みてみるがいい」
白皙の肌に朱を差した。
彼としても、好んでマクダレアに殿軍を命じたわけではない。
何せ主君から
「最低限、マクダレアは無事に連れ帰れ」
耳打ちされているのである。
立候補されるまでもなく
「ツィンレー隊ではどうか」
確認しており、その結果として、今まさに瓦解しかけている当事者であるとの回答を得たのだった。
やむを得ず先の命令を行い、そして
「時が惜しい。
戯言をほざいておらずに、さっさと戻って来いと伝えろ。
あの男の首に縄をかけてでも引きずり戻せ」
絞り出すような声で再度命じた。相当な怒りが含まれている。
不運な伝令は、司令官と部隊長の間に挟まって、とんだとばっちりを受ける恰好になった。
死闘が展開している中、何度となく脳天を叩き割られる恐怖に震えつつ、また前線へ走った。
その苦労は、だがまたしても報われなかった。
「女人を置き去りにして戦場を離脱など、出来るものか」
鞍上で爆発する若い剣将だった。
横に従う副官が、非常時ながら失笑を禁じ得ぬ程、感情的になっている。
笑ってばかりもいられず、補佐役は
「閣下。
命令が出た以上は服従するより仕方ございますまい。
我が隊は直ちに全部隊転進を」
声をかけた。
ごくまっとうな意見であった。が、ツィンレーは物凄い形相で首を振り、具申を無言で却下した。
補佐役はひどく困惑した。
いったいどう言えば逆上している上官を説得出来るのか。
まさか匙を投げるわけにはいかない。彼は脂汗を流しながら考えこんだ。
しばらくして、救いの閃きに恵まれた。
上官が目前に次々現れる敵へ目をやった隙をついて、手隙の伝令を呼び寄せると、すばやく指示を与えた。
命令を託された下級兵士は走り去った。
ツィンレーはそれに気づかない。走りながら槍を繰り出してきたエルンチェア歩兵の額を叩き割り、倒れた敵の雑兵には一瞥もくれずに味方へ視線を転じて、
「おれは引かんぞ。
いま一度、司令官閣下へ具申する」
獰猛に喚いた。
副官は逆らわなかった。仕方なさそうに軽くうなずいて、自分の身辺へ群がってくる敵との戦いに専念し始めた。
ツィンレーは、戦いつつ伝令を探した。
が。ほどなく彼が発見したのは、部下ではなく、馬を飛ばして来る美しい女性剣士の姿であった。
「マクダレア」
驚きのあまり、思わず呼び捨てにした。
マクダレアが突然現れた理由について、彼には思い当たらなかったのだ。
こっそりと安堵したのは、補佐役だった。
頭に血を上らせた上官に手を焼いて、ひそかに彼女へ助力を請うたのである。
同僚の副官に呼びつけられるという、前代未聞の経験をした女性剣将も静かに怒気を発していた。
彼女にしてみれば、ツィンレーが撤退を渋って戦場に居残っているというだけでも、非常に腹立たしい事態なのである。
僚友が塁内へ撤退しなければ、いつまでたっても退却出来ない。
ましてや問題の彼が司令官の命令を拒否し、副官が促しても転進命令を出さないので説得してくれなどと要請されれば、憤激せずにいられないのも道理というものだった。
「何をしておられる」
マクダレアは厳しく咎めた。
「転進命令が出ているはずです。
殿軍はヴォルフローシュ隊が承りました。
剣将どのは急ぎ塁門内までお退がり下さい」
そう言われて、ツィンレーもぼう然とした状態から一瞬で我に返った。
「それは出来ない、ヴォルフローシュ剣将どの。
あなたこそ、お退がり頂きたい。
あなたを戦場に残して引き上げるなど、わたしには出来ない」
「ばかな」
マクダレアはいよいよ憤慨した。氷の彫像とも評される表情が厳しく引き締まる。
「状況を弁えて頂こう、ツィンレーどの。
早急に転進命令を出されたい」
彼女はさらに厳しい声で迫った。ツィンレーは切なげに唇を震わせた。
二人の目が合った。
「塁へ戻って下さい」
冷然と若い剣将から視線をそらして、再度要請すると、マクダレアは軍馬へ鞭をあてた。
彼女は、これ以上の時間の浪費は避けなければならなかった。
意地の張りようがなくなって、ツィンレーは酷い苦痛を耐える表情で黙っていたが、やがて補佐役へ
「転進命令を出せ」
指示をだした。
マクダレアは、背後で退却を意味する太鼓が鳴り響くのを聞いた。
ツィンレーがやっと観念して部隊を動かしたのだと知り、荒く息を吐いた。
(つまらぬことを言う男だ。
ここが宮廷の舞踏会だとでも思っているのか)
とことん煩わしい男だ……思わず舌打ちした瞬間。
頭上に違和感を覚えた。
ほぼ同時に、聴覚が独特な風のうなりを捉えた。
短く鋭い音がたちまち後方へ去っていくのが判った。
頭へ冷たい空気の流れが降り落ちてきた。
何が起こったのか。
のんびりと驚いていられるゆとりはなかった。
エルンチェア弓矢隊が射かけてくる矢の雨が、今、こちらに向かって降り注ごうとしているのだった。
しかも、敵兵らが至近へ迫って来ていた。
「しまった。
ええい、出すぎたか」
難しい事態に陥っていた。
迂闊に逃げにかかれば、無防備にならざるを得ない背後を、数本の手槍が襲うであろう。
自陣へ帰還するには、何とか乱戦に持ち込んでその間隙を巧みに突く以外に無い。
一瞬で覚悟を決めると、気合を入れて応戦にかかった。
敵軍の兵士が、悲鳴のようなけたたましい声を上げながら長槍を突き出して来た。
マクダレアは落ちつきを失わない。愛用の柔剣で防御した。
ジークシルトの斬撃すら、しのいだ彼女である。
即座に槍の先を払い飛ばし、そのまま馬上から得意の突き技を放った。
狙いは相手の手首である。
敵兵士は、手の甲から上に深手を負った。ぎゃっと叫んで武器を取り落とし、その場に両膝をつく。。
マクダレアは容赦なく襲った。馬で踏み潰したのである。
おお、とエルンチェア兵士の間からどよめきが沸いた。
「魔女だ」
誰かが言った。畏怖の念が込められている。
「魔女か」
彼女は復唱し、うっすらと微笑した。
「いかにも魔女だ。
わたしは、生きて帰らねばならぬ。
魔女に成り果ててでもな」
小さく独語を漏らすと、馬首を西へ巡らせにかかる。
西の兵士が攻めあぐねている今こそ、離脱の好機と見たのだった
が。
「待て」
制止の声がかかった。
まだ若い、少年とも見えるような童顔の騎馬剣士が彼女を呼び止めていた。
「貴官を逃すわけにはいかぬ」
言い終わるより早く、突進して来る。
マクダレアも応戦態勢になった。
間を置かず、巧みに馬を操りながら、二合三合、切り結んだ。
互いに譲らず、双方ともに必殺の手応えを感じられないでいる。
しかし、何度かめに西の剣士が振りかぶった時、剣戟の流れは大きく変わった。
「あっ」
中途半端な姿勢で、マクダレアの動きが止まったのである。
エルンチェアの若者は訝しんだが、敵の足元を見やった瞬間に理解したらしい。
女性剣将の足首を、エルンチェア兵士が掴んでいたのだ。
いつのまに忍び寄ったものか、その歩兵は味方が近づきかねている合間に彼女の後背へ回り込んで、しがみついたと見える。
馬上で戦う場合でも、剣士は静止してはいない。横から槍などで奇襲される危険を避けるため、むしろ頻繁に手綱をとって絶えず位置を変える。
その激しい動きの最中、騎馬剣士に接近するのはたいへんな勇気と敏捷性が要求される。簡単な事ではない。
それだけに、マクダレアも虚を衝かれたのだった。
「不覚っ」
つい、目前の敵にばかり気をやってしまった自らの失策に対して罵声を飛ばした。
「ジェイル・エルンチェアッ」
気合もろとも上段から斬撃が襲って来た。
その一閃は、彼女の手から柔剣をもぎ取った。
それを合図としたかのように、エルンチェア歩兵らがよってたかって手を伸ばし、女性を馬から引き下しにかかった。
「おのれ、離せっ」
なおも果敢に、男達の額や鼻を蹴りつけ、踏みにじって抵抗したが、もはや劣勢を覆す手だては残されていなかった。
ついに、腕が力を失った。
体がぐらりと傾ぎ、間もなく、優美な体は鞍上から草原へと転落した。




