帰還の代償6
ティプテの病室にあてられている客間は、相変わらず暗かった。
厚地の帳はかけられたままで、夜通し蝋燭が大量に灯っていたと知れるこもった熱と、溶けた蝋特有の匂いが漂っていた。
病人が寝かされている窓際には、主治医と薬師、ランスフリートが居た。
いつ頃からそうしていたのか、彼は恋人の枕元に佇んでいた。
ユグナジス剣将補は、近寄り難い雰囲気を全身から発している国王子息に、ゆっくり歩み寄った。
「ティプテどののご容体は、如何でございましょう」
「変わらない」
短い返答だった。
病床の少女は、ユグナジスが見るところ、確かにまだ高熱にうなされていた。
大量の汗が、絶えず顔を濡らしている。
服毒の兆候なのか、彼女の肌は、やや黒ずんでいた。
薬師は、患者の汗を拭くだけである。
ユグナジスはその様子を訝し気に眺めやった。
「他にやる事は無いのか、薬師どの」
「はい、左様でございます。
もう暫くしたら、利尿作用のある薬を投与致します。
利尿を促して毒を体外に排出させる以外に、治療方法はございません」
薬師は悔しそうに答えた。
専門の者がそう言うのであれば、門外漢には口を出せる余地は無い。
後はせめてもの吉報を、国王子息に報告するくらいである。
「ティエトマール剣将閣下は、一命を取り留められました。
只今は意識もご回復なされておられます。
その事については、ご安心ありたい」
「そうですか。
祝着と伝えて頂きたい」
こちらを一瞥して、ランスフリートは冷静に言った。
その落ち着きからは、いささかならず意外な印象を受ける。
取り乱して自分も死ぬと騒いでいるかと、正直なところ、ユグナジスは懸念していたのだが、ランスフリートは一時の動揺からは、立ち直ったようである。
しかし、疲れ果てたさまは、取り繕いようが無かった。
「ランスフリートどのも、潮を休まれるが宜しかろう。
長丁場です。適宜に休まねば、身が持ちませぬぞ」
ユグナジスは言い、相手が聞いているのかいないのか、曖昧に頷いたのを見やってから、部屋を出た。
残ったランスフリートは、恋人以外は視界にも入っていないかのように、ひたすら病床を見ている。
昨夜
「予断を許しません」
薬師から告げられていた。
見立てでは、劇性の猛毒であり、致死量は極微量だという。
解毒の術は無く、体内に取り込まれた毒が致死量を下回っており、かつ中毒した者の自浄能力が優れている事を期待するしかない。
手当ての方法があるとしたら、排尿を盛んにさせて、少しでも毒を体外へ排出させるくらいである。
薬師はそう語り、専用の薬を処方していた。
「なぜ、わたしは何ともないのですか。
毒粉を手にした賊の至近に居たのに」
「間がお悪かったとしか、申せませぬ。
ティプテさまは毒粉を吸い込んだのではなく、何かのはずみでお肌のどこかに付着し、お気づきになられなかったのではないかと。
毒は、肌に触れただけでも人体へ侵入致しますれば」
説明を聞かされた時、ランスフリートの苦悩は深まった。
だとしたら、自分のせいではないか。
刺客と最後に争った際、身を守る為とはいえ、短刀を使った。
あの時、敵は毒粉の入った小袋を取り落とした。
宙に舞い上がった死の粉は風に流され、ごく少量ながら、ティプテの体に付着して、その忌まわしい力を発揮したのだろうか。
目の前が暗転する思いである。
「ティプテ、済まない。こんな目に遭わせてしまって、本当に済まない。
おれはばかだ。救いようの無いばかだ」
自責の念は、従兄の度重なる忠告を、悉く拒絶したあたりにまで遡っていた。
身内の言葉に逆らったりしなければ。
せめて、バースエルム家の血族だと判った時点で配慮していれば、ティプテは平穏に過ごしていられたのではないのか。
政敵の権力欲を甘く見積もり、自身が身に帯びる影響力を軽んじた報いは、当人ではなく、最愛の者に牙を剥いたのだった。
「おれは……自分の都合しか考えていなかったのだな。
真実、君を愛しているなら、君の為を思うべきだった。
ダディストリガの言う通りにしておけば、こんな事にならなかったものを。
済まない。
巻き込んでしまって、本当に済まない」
政敵一族への怒りはむろんあるが、それはそれとして、自分も免罪されるわけにはいかない。
ランスフリートは身を引き裂きたい後悔に打ちのめされた。
夜明けの光が、帳の隙間を通って、床のごく一部を明るく照らしている。
だが、彼は一人、闇の中で立ちつくしていた。
バースエルム剣爵は、成功直前まで進んでいた謀略が、予想外の失敗に終わった事を知った。
順調に回転していた運命の輪が、ある一瞬で逆転し、輪の上に居た彼を振り落としたのだ。
払暁まもなく、若い男の遺体が王城へ密かに運び込まれたと聞かされ、次にそれは、追っ手をかけたダディストリガ・バリアレオンの遺体であると報告された。
その誤報が打ち消され、真相が耳に入った時 間髪を置かず精鋭部隊に屋敷周辺を包囲された。。
「バースエルムどの。貴公を拘束する」
指揮官は、呼びかけるにあたって「閣下」の称号を用いなかった。
剣爵とも内務卿とも呼ばれず、敬意は最低限か、ある意味でそれ以下だっただろう。
寝室に居た剣爵へ、ユグナジスは剣先を向け、冷たく逮捕を宣言した。
「理由は、それがしが申しあげるまでもない。よくご存知でいらっしゃるだろう。
ご同行願おう」
弟であるバースエルム盾爵も、同様の運命に見舞われた。
彼の場合は、ダディストリガ死亡の報を聞き、自分であの鼻持ちならない若造へ報復し損なった事を残念がって、諦められず、念を入れて確かめさせた。
その結果、先に誤報と知った。
「何、オレンジル家の。
まずい」
速やかに妻子を連れ、馬車へ飛び乗った。
兄剣爵には一言も断らず、むしろ彼を捨て駒とするかのように、こっそり逃亡を図ったのである。
だが。何の意味も無かった。
ダディストリガは、意識を失う前に国王子息誘拐事件の発生と、犯人の逃走を告げたため、主要な道路は副官の手で残らず封鎖されていた。
厳重に張り巡らされた警戒網に引っかかり、弟盾爵も家族ともども逮捕されたのである。
「なぜだ。
何が間違っていた」
獄中の人となった兄弟は、異口同音に疑問を叫んでいるという。
だが、何をどう叫んだところで、彼らにとっての事は終わった。
本日中にも現王后は、正室の座を追われ軟禁されるであろう。
代わって、かつて一番の寵愛を受けたランスフリートの生母が、新王后に立つ運びとなる。
老チュリウスは、昔日の反省を踏まえて、今度こそは公文書で公示するに相違ない。
ランスフリートは嫡流として認められ、親王宣下を受ける資格を得る。
バースエルム家の壊滅は、確定した。
「何、ランスフリート。
今一度、申してみよ」
信じられないといった様子の祖父へ、ランスフリートは姿勢を正し、厳しい面差しを作って
「はい。
ティプテとは、すぐに別れます」
きっぱり言い切った。
一族長老にすれば、長く恋人の病室に閉じこもり、食事に呼んでも拒否を続けていた孫が、急に面談を求めてきた。
驚く暇も無く、あれ程に抵抗していた別れ話を、あっさり承知したと表明したのである。
どういう心境の変化であろう。
内心を無遠慮に探るような、狷介な視線にさらされたが、ランスフリートは怯まなかった。
祖父の控え室になっている部屋は、南側に用意された上等の客室で、従兄の病室になっている居間から近い。
年長者に目通りを願い出る前、従兄を見舞った。その時、決意は固まった。
暗殺の標的だったはずの自分は、かすり傷ひとつ負わず、従兄が代わりに血を流した。
更には、敵側の血筋であるはずのティプテが、毒粉に侵され、不当な苦痛を強いられている。
流血も鉱毒も、なぜ自分を避けて、愛する者の命をおびやかすのか。
長い苦悩から脱し、ランスフリートは一つの結論に達した。
(もう逃げない。
おれが逃げたせいで、こんな事になった。
逃げた罰は、おれ自身じゃない、大事な者達が肩代わりさせられたんだ。
それが、おれへの罰だったんだ)
結論は、決意に変化し、言葉へと形を変えた。
「最低限、彼女をわたしの側へ寄せても大事ない時が来るまで、時間をおきます。
今までの不明、お許しください」
「ふむ。
おまえが目を覚ましたというのは、どうやら本当のようだ。
ダディストリガには、礼を言うのだな。
随分とお前を庇い、口添えもしておったわ。
おまえの為に大怪我を負った、その功績に免じて、以前の事は不問に付す。
これからは期待するぞ」
「はい」
かつての不貞腐れた態度、投げやりな口調は、いまや全く影を潜めており、返答の声音には積極性が感じ取れる。
彼は退路を断ったのだ。
もう引き返せない。ティプテの元へは帰れない。
何もかもを承知して、彼は前を向いていた。




