帰還の代償4
壮絶な帰還であった。
ダディストリガの屋敷に馬車が到着したのは、西刻の五課(午後十一時)で、屋敷の主が慌しく担ぎ込まれ、邸内では騒動が引き起こされかけた。
勤め人達の動揺を鎮めたのは、夫人である。
「みな落ち着きなさい。
騒ぎたてては、旦那さまのお体に障ります」
女主人ジュリシア・パドラは、狼狽える人々を毅然と叱責し、さらに寝室から飛び出して来た子供たちもたしなめた。
二歳の長女を侍女頭に預けて下がらせ、五歳になる長男が泣きながら父親にすがりつこうとするのを、立ち塞がって制止したものである。
「武門の跡取りが、何ですか。
男の子はみだりに泣いてはいけません。
お父上は泣き虫がお嫌いです。気を強くお持ちなさい」
取り乱す事なく長男を諭してから、医師の手配が済んだかを確認し、熱湯を用意させ、とりあえずの寝台を居間に拵えさせ等々。きびきびと指揮した。
ほどなく、医師と副官が、先を争うようにして現れた。
ランスフリートは、人事不省寸前にある従兄の耳元へ顔を寄せた。
「ダディストリガ。
ユグナジスどのがお見えになったぞ。判るか」
「……ああ。
ここへ、来させてくれ」
声は普段と打って変わって弱々しかったが、意識が保たれていると分かる口調で、彼は応じた。
ユグナジスが至近へ駆けつけると、ダディストリガは動員出来る全ての体力を振り絞った。
「国王御子息、誘拐事件、御子息はご無事、犯人は逃走中……」
そこまで言った時、この気丈な男の体力と気力は、ついに底をついた。
声は唐突に途切れて、手が垂れ下がった。副官は慌てて飛びのき、医師を呼び寄せてから外へ走って行った。
「閣下。
剣将閣下。お気を確かに」
医師が懸命に呼びかけながら、急いで手当てを始めた。
従兄の妻は服の裾を握り、蒼白になりながらも、しかし声を絶やして微動だにしない夫から、目をそらそうとはしなかった。
ランスフリートは、これも蒼白な顔で彼女の肩に手をかけた。
「お休みになられた方がよい。
後は医師どのにお任せしましょう」
「ありがとう存じます、ランスフリートさま。
ですが、大丈夫です。わたくしは主人の命運を見届けますわ」
ほのかに笑って、彼女は示された好意を謝絶した。
それから、ふと心づいたように周囲を見回した。
「お連れの女人の方は」
「ティプテですか。
心配ありません。少し具合が悪いようですが、馬車酔いでもしたのでしょう。
客室を借りて休ませました。侍女もついていてくれています。
他の医師を呼ぶよう頼んでもおきましたし、お気遣いなく」
「そうですか。
ですが、女人とはあえかなものですわ。お側について差し上げてくださいまし」
「男のわたしが側でうろうろしていても、役に立つどころか邪魔になるだけです。
女性の事は女性に任せた方がよろしいでしょう。
それよりダディストリガが心配です。
わたしのせいで、とんだ事になってしまった。
申し訳ない」
ランスフリートがうなだれると、ジュリシアは労わりの視線を夫の従弟へ向けた。
「お気に病まれることはございませんわ。
これが、主人の任務です」
「ですが」
「彼は武門の男ですわ。王家の栄光を守る剣士ですのよ。
剣士が、自分の仰いだ旗と、その旗手たる主君を守りまいらせるのは当然の事です。
お気に病まれたりなさっては、かえって主人は怒りますわ。
わたくしも、武人の妻です。心構えは出来ております。
どうか、お気になさらずにいらして」
彼女の態度は涼やかで、優しい誠実さに満ちていた。
この女性は、夫が最期の時を迎えたとしても、武人の妻を貫き通すのであろう。
あっぱれな貞女に、ランスフリートは深く一礼した。他に謝意をあらわす術がなかった。
やがて、ダディストリガの治療にあたった医師が、難しい顔を二人に見せた。
「なすべき事はすべて施しました。後は剣将閣下のご運次第です。
急所を外しておられた事と、閣下のお体がまことに頑健であられたので、傷そのものはお命に関わる深手にはなっておりませぬ。
ただ懸念すべきは、血を失い過ぎておられる事です。
今晩から明朝にかけてが、岐路と申せましょう」
「では、今晩を耐え抜けば、ダディストリガは助かるのですね」
ランスフリートは、あえて楽観的な表現で尋ねた。医師は重々しく頷いた。
「出血は収まっておりますので、とにかくご安静になさってください。
それと、お体をお冷やしになられぬよう。
血を大量に失いますと、寒さを感じるものでございます。
暖を求めて、無意識に動かれる事が考えられます。
今動かれては、せっかく止まった血がまた流れ出します。
これ以上の出血はお命に関わりますゆえ、何とぞご配慮を」
「かしこまりました。
主人の事はわたくしが確と承ります」
ジュリシアは言いつけを受けながら、ランスフリートへそっと目配せした。
従兄の傍らには、この妻が一人あれば良いであろう。
頷いて謝意を示すと、ランスフリートは廊下に出た。
医師の助手らしい若者が、正面から慌ただしく走って来るのと行き会った。
彼は、屋敷の若主人を診た医師の手が空いているかを、ひどく焦った様子で知りたがった。
求めに応じて、壮年医師が姿を見せた。
若者は、彼の手を引きたい程に急いでいると見える。
「こちらへお急ぎください。先生が、直ちにご意見を伺いたいとの事です」
その様子を眺めていたランスフリートは、急に嫌な予感に襲われた。
ともあれ、廊下で言い騒いでも仕方が無い。
医師を先に行かせ、彼も足を速めた。
ティプテを休ませている東の客間まで来たとき、二人の医師が額を合わせるようにして、何やら話し合っていた。
「本当か。見立てに間違いないか」
「初見ではそうとしか考えられない。
ゆえに、先生にも見て頂きたい」
彼らはランスフリートに注意を払っていない。
ダディストリガを診た医師が、あたふたと客間へ飛び込んでゆき、もう一人も後に続いた。
不安がいや増してくる。
おかしい。
彼は、侍女の制止も聞かずに医師達を追いかけた。
全ての窓には厚地の黒い帳かけられ、室内を十本ばかりの大ろうろくと、大ぶりな点灯篭が照らしている。
窓際の寝台に医師達が居る、恋人が寝かされているに違いなかった。
ランスフリートは激しくなってくる動悸に耐えながら近寄った。
ダディストリガの主治医が診察している最中だった。手の空いている医師を、やや強引に振り向かせる。
「どうしたのです。
何があったのですか」
「いや、その」
医師の反応はたいそう歯切れが悪い。
明らかに説明しかねて困惑し、朋輩の医師と患者、そしてランスフリートを、忙しく交互に見やっている。
いよいよ、これはただ事ではない。
我慢しかねて、返事を待たずに医師の脇から寝台を覗き込んだ。
危うく大声をあげるところであった。
恋人は目を閉じているが、安らかな眠りについているのではなかった。
額から汗が大量に溢れ、鼻筋を伝って顎から滴っている。少し開かれた唇からは、激しくて短い呼吸音と、苦痛を訴えるような呻き声が漏れて来ており、眉はきつく寄せられて時折り顔が弱々しく左右に振られる。
顔色は悪い、いや一見して異常と分かる程に黒ずんでいる。
まさか。
オレンジルが使おうとした毒粉を、吸いこんだのではあるまいか。
ランスフリートを戦慄させて余りある予感が、彼を捉えた。
「ば、馬車酔いでしょう。
ただ馬車酔いしているだけなのでしょう。そうなのでしょう」
「いいえ。
馬車酔いの症状ではございません。国王御子息さま」
頼りない希望的観測を、深刻な声が粉砕した。そして
「風邪の症状にも見えますが、それにしてはこの肌の変色が気になります。
よもやとは思いますが、鉱毒を服用されたのでは」
追い討ちがかかった。
ランスフリートはぎくりとし、よろめいて二歩三歩と後退した。
医師はその動揺ぶりを見咎めた。
「心当たりがお有りですか」
「嘘だ。そんな事……そんな事があるものか。
あってたまるか。そんなばかなことが」
「服用されたのですか。真実を仰ってください」
尋ねる声も上ずっていた。
「もし鉱毒を服まれたのなら、こうしてはいられません。手当ての仕方を変えなければ。
どうか教えてください。
こちらの女性は、鉱毒を服用されたのですか」
医師の切迫した口調が、ランスフリートに最悪の事態が現実化した事を認識させた。
彼は、全身の血が逆流するような衝撃を努力して堪え
「直接に服んではいません。
ですが、吸ったかもしれません。
吸えば楽に死ねるという強い鉱毒を、頭に振りかけられそうになったのです」
絞り出すように、先刻の事件について語った。
話が終わったと同時に、先の医師が診察の手を止めて朋輩を振り仰いだ。聞き終えた方は、床を蹴って走り出していた。
「誰か、薬師を。
薬師の手配をしてくれ」




