帰還の代償3
突拍子も無い奇声が上がった。
小馬車の影から誰かが躍り出てくるのが、全員の視界に収まった。
オレンジルが安堵したような表情を作った。
まだ、味方がいたのだ。
身を潜めていた馬車の御者が、逆転劇を目の当たりにして腰を抜かしたが、自分にも課されるであろう罪と罰について思い至り、恐怖に襲われたのである。
男は短刀を引き抜いており、不格好な構えのまま、ランスフリートめがけて走り出した。
意表をつかれ、思わず棒立ちになった。
が、不意を打たれたのはダディストリガも同様ながら、彼は剣士らしく鋭い反応を見せた。
従弟へ咄嗟に体当たりして、我が身と盾と代えたのである。
御者が突き出した短刀は、若い武人の体躯まで達した。
右肋骨の下あたりに、刀身の半分ばかりが吸いこまれた。
賊の腕を掴み上げている態勢では、柔剣を振るって防御するゆとりが無かった。
刺された瞬間、ダディストリガは呻いて片膝をついた。
「ダディストリガッ」
ランスフリートは絶叫した。
その叫びを合図としたかのように、従兄は長身を折って石畳に崩れた。
オレンジルはまろび逃げ、這いつくばった姿勢で異様な笑声をたてた。
事態が悪化の方向に急転したと知り、ティプテは両手で顔を覆って神に救いを求めつつ、鳴咽を漏らしていた。
オレンジルは彼女へ這い寄った。よろめきながら立ちあがったと同時に、使い慣れない左手で少女の腕をとり、連れ去ろうと試みる。
「ランスフリート、女をもらうぞ」
「オレンジル――ティプテッ」
ランスフリートは、従兄を刺した御者を殴り倒したところであった。
愕然と立ちすくんだ彼を、オレンジルは恋人を盾に取った恰好で威圧した。
「動くな。
一歩でも動いてみろ、女を縊り殺してやるぞ」
自由になる残された腕を、少女の細い首に巻きつかせ、転倒した配下をしきりにちらちら見やっている。
御者が回復するのを待っているようだった。
ランスフリートは、自分が殴った男が足元で苦しげに呻いている様子を見、立ち上がってくれるなと念じた。
この男が再び動けるようになれば、オレンジルは自らに代わって事を遂げよと命じるに違いないのだ。
どうにも行動しかねているランスフリートへ、オレンジルの憎悪に満ちた嘲笑が叩きつけられた。
「残念ながら、救援の増員は無さそうだな。
ざまは無いな、どら息子めが。
我が身の不甲斐無さを存分に味わって死ね。
なに、死んだ方が幸福というものだぞ、どうせ全員仲良く神の国行きだ」
「きさま……」
「それとも、こんなざまになっても、人生に執着するか。
命の恩人も女も死んで、おまえだけが生き残る。
それも一興だな。さぞ、王座の座り心地は良かろうよ」
圧倒的優位に立っていると信じたオレンジルが勝ち誇った瞬間。
ティプテが信じ難い行動に出た。
ランスフリートすら目を疑う――敵の手が顔に触れた瞬間、少女は勇敢にも、その親指へ噛みついたのである。
白い歯が、男の指の付け根に深々と食い込んだ。
ぷっくりとした彼女の唇を赤く染めながら、血が滴って石畳に落ちた。
「こ、この女」
オレンジルは、刺された方の腕を痛みも忘れたように振り上げ、ティプテの頭上へ拳を何発も見舞った。
さらに華奢な体を、力任せに前方へ突き飛ばした。
激昂にかられて、思わずそうしてしまったのだろう。
ランスフリートは、倒れた恋人へ駈け寄り、同時に幸運を発見した。
立腹の極みにあるオレンジルは、自分の行動の意味を理解していないと見えた。。
「必ず殺してやるからな」
「ティプテ、おまえ……」
怒りを振りまく男は無視して、ランスフリートは少女を助け起こした。
「何て無茶を」
「わたし、何でも出来ますわ」
激痛に耐えつつ、ティプテは笑った。
「あなたのためなら、何でも出来ます」
「やっと、二人揃ったか。
さんざん手を焼かせてくれおって」
非情な声に、恋人達は身をすくませた。
すぐ近くに、くじけぬ闘志を満身から溢れさせた男が来ていた。
手に短刀こそ無かったが、代わりに小さく畳んだ紙があった。
「まとめて八つ裂きにでもしてやりたいところだが、大目に見てやる。
ほんの少量吸えば、楽に神の国へ直行できるぞ、ありがたく思って慈悲を受けるがいい」
「毒粉か」
「血を流して欲しかったのだがな、この際はやむを得ぬ」
オレンジルは苦心しながら紙袋を開いた。
標的二人の頭上へ振りかける積もりなのだろう。
だが、手の不自由さが、この不慣れな刺客に災いした。
ランスフリートはもたつきを看過しなかった。
何食わぬ顔で手に入れた幸運、すなわち、取り落とされたまま顧みられなかった短刀を握りしめ、オレンジルへ飛びかかったのである。
激しい抵抗は無かった。
気づいた相手は、大慌てで逃げようとしたが足をもつれさせ、両手を激しく振り回しながら、前のめりに転倒していった。
ランスフリートは夢中で一突きを繰り出した。
心からの絶望にかられた悲鳴が迸った。
倒れ込んだオレンジルは、下腹部を抱え込み、七転八倒して助けを求めている。
躊躇わずに見放して、ティプテを連れ、ダディストリガの元へ急いだ。
従兄は胸の負傷に一人で耐えていた。
「しっかりしろ、ダディストリガ」
「まだ、死んではおらぬ」
ダディストリガは抑揚に欠ける声で呼びかけに応じた。
顔から血の気が引いているのが、夜目にも分かる。
ランスフリートは従兄の胸に刺さっている短刀を抜こうとしかけたが、手を払いのけられた。
負傷者は、むやみに抜けば出血が余計に激しくなると、目で訴えていた。
ランスフリートは察してすぐ手を引っ込め、抱き上げにかかった。
今度も拒まれた。
「無用だ。おれは女人ではない」
「意地を張っている場合か」
「自分の腕力を考えろ。
肩だけ貸してくれればいい」
もっともな指摘をして、短刀を胸に突き立てたまま、自ら立ち上がる彼であった。
超人的な剛毅さに、ランスフリートは要請通り肩を貸しながら、改めて従兄を畏敬した。
圧倒されてばかりもいられない。
ようやく頭を振りながら、上半身を起こした御者を脅しつけて、負傷者を馬車まで運ぶ手伝いをさせ
「大至急、王都へ戻れ」
厳しく命じた。
男は、自分のしでかした事の重大さに震え上がる暇も無く、大慌てで御者座に飛び乗った。
馬車が急転回する。
哀れにも、オレンジルはこの場に取り残された。が、誰も思い出しもしなかった。
座席に従兄の長身を横たえさせたランスフリートは、上着を脱いで傷口をくるみ、全身を使って少しでも苦痛に耐えやすいよう、その逞しい体を固定した。
「少しの辛抱だ。
すぐ医師を呼ぶ。がんばれ」
「……自宅へ」
聞き取りにくいかすれ声で、ダディストリガは要望を口にした。
「自宅へ……おれの副官を呼んでおいてくれ」
「判った。
判ったから動くな。出血が酷くなる」
車内の揺れは大きく、しかも断続していた。
何度も座席から放り出されそうになり、その度に負傷者の右胸から血が溢れ出てくる。
従兄は固く目を閉じ、呼吸も荒いながら、苦痛を訴える声は一言も発さなかった。
「がんばれ、もうすぐ帰れる。
奥方が待っているぞ。
ジュリシアどのと会わずに死んでいいのか。耐えてくれ」
ランスフリートは盛んに声をかけている。
ダディストリガの反応は薄い。
呼吸もだんだんと浅くなってきている。
急に咳き込み、血を吐く。
「ダディストリガッ。
もう少しだ、自宅までもう少しなんだっ。
死ぬな、がんばってくれ」
呼びかけに熱中している彼は、だから。
恋人が無言で、苦しげに座席へもたれかかっている事には、注意を向けなかった。
馬車は、南下して行く。




