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ガロア剣聖伝  作者: 北見りゅう
第十章
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そして月は翳り5

 逃げようと誘ったまではよかったが、具体的にはどうするべきなのか。

 ランスフリートは、議論もそっちのけで考え抜いていた。


 幸運にも、チュリウスには長く席を外した事は追及されなかった。

 祖父は、どこに居たのかについてはまるで関心を示さず、ダディストリガも報告する余裕が無いと見えて、先刻の一件はまだ不問に付されている。


 亡命の機会は、今を逃せば次にいつ巡って来るか分からない。、

 あるいは、永久に巡って来ないかもしれない。


 先刻の一件が知られれば、祖父も従兄と同様か、それ以上の怒りを示すに違いないと、ランスフリートは確信している。


 漏れたら万事休す。

 危険を意識すればする程に、躊躇の暇は無いと痛感するのだった。


(いや、だめだ。もう悩んでいられる段階じゃないんだ。

 行くか)


 心の迷路から、ついにランスフリートは抜け出した。

 思考に何時間費やしても、他の選択肢は無いとしか思えないのである。


 実生活の労苦とは無縁に過ごしてきた彼には、独力で生きて行く困難さを生々しく想像する事は出来なかった。いわば、怖いもの知らずの勇気が行動の源泉となって、迷いや恐れを胸中から洗い流したのだ。


 閣議が一時休憩となるのを待ちかねて、彼は慌ただしく席を立ち、議場から遁走した。

 かなり目立つ動きだったはずだが、従兄すら己の思案にかまけているらしく、無反応だった。

 ランスフリートは城の行政部から飛び出して、まっしぐらに教会を目指した。


(ティプテ、いま行く)


 ほとんど衝動的と言っていい行動だった。

 どうやってティプテを呼び出すか、見咎められずに城から出奔する手だて等々。具体的な計画は何一つまとめていない。


 とにかく逃げたいという感覚だけに、激しく駆り立てられていた。

 それだけ昼間の発言が、彼の心に重くのしかかっているのであろう。


 後日、ランスフリートは当時の軽率さを思い出すたびに、呪わしく自らを責める事になるのだが、今は反省も後悔も出番はない。


 日暮れの遅い南方圏でも、完全に夜の領域に入っている南刻の六課(午後八時)である。

 上空には星が満ち、月がまるく煌々と輝いているとはいえ、足元は闇に溶け込んで視界も良くはない。


 この濃紺の夜の闇に紛れて王都を脱出してしまえば、亡命の成功率は俄然高くなるであろう。

 教会へ辿りついた時、ランスフリートは意外な事に気づいて驚いた。



 どうしたわけか、ティプテが教会の玄関前にひとり佇んでいたのである。


 彼女はまるで恋人が来ると予知していたかのように、体を東、すなわちリッツェンテーゼ城本丸の方角へ向けて立っていた。


 ランスフリートの姿を見ても少しも驚かない。


「いったいどうしたんだ、ティプテ」」


 彼の方はすっかり驚いて、嬉しそうに駆け寄って来たティプテを抱きとめてやりつつ、問わずにはいられなかった。


「おれを待っていたようだが……なぜ、おれが来るとわかった」

「お待ちしていたのですもの。

 ランスフリートさまが先程仰ったとおりに」


 ティプテは笑顔で溌剌と応じた。

 ランスフリートは目を瞠った。確かに、待っていてくれと言った覚えはある。だが、それは連絡を待つようにという意味であって、この時間に迎えに来るから外へ出ていろといった指示の類ではなかった。


 ティプテは何をもって今ここに自分が来る、亡命を実行に移す、と確信したのであろう。

 どうにも解せなかった。困惑を拭えずにあ然としていると


「お二方、早く。

 こちらへ」


 男の声が闇の向こうから漏れて来た。

 他人がいるとは思っていなかったランスフリートは、ぎくりと身じろぎし、次いで目を凝らした。ティプテは、警戒心に乏しい笑声をたてた。


「大丈夫、助けてくださる方です」

「助ける。どういう意味だ」


 恋人ほどには無警戒になれず、さすがに軽々しく声に応じて動こうとはしなかった。

 物のあやめのつきにくい濃密な闇を見透かすように、目を細めて辺りを伺う。


 彼の警戒を感じ取ったのか、声の主がゆっくり姿を現した。手に燭台を持ったまだ若いレオス人青年である。ランスフリートの見知る人物ではない。


「貴君は」

「お話は後刻。

 今はただ、こちらの誘導にお従いください」


「そんな無体な話があるものか。

 いくら何でも、そこまで楽観的にはなれないぞ。

 おまえは誰だ、何を考えている」


「お疑いはごもっとも。

 しかしながら、今は詳細を申し上げる時が惜しいのです。

 ティプテさまのご信頼を根拠として、どうぞわたしをお信じくださいませ」


 訝しがるランスフリートを説得する男の声は、落ち着きがあっていかにも誠実らしかった。

 それでも彼は容易に警戒をとこうとはせず、説明を求めるようにティプテを見やった。恋人は幸せそうに彼を見上げていた。


 疑う事を知らない表情が、突然現れた男を信じて良いと明快に勧めている。

 だが、ランスフリートは躊躇った。


「済まんが、わけもわからぬまま話に乗るわけにはいかない。

 君は事情を知っているようだが」


「ええ。じつは」


 ティプテが説明しかけたときである。男が手を挙げて鋭く制した。


「お静かに。誰か来ます」


 短い警告には、ランスフリートとティプテの理性を失わせる力があった。

 特にランスフリートは、無断で国論討議の場を離れて来た身であり、威嚇じみた男の口調に対して冷静ではいられなかった。


 男が手招きしつつ身を移動させたと知った時、ランスフリートも反射的に後を追っていた。

 人が来るという警告が事実か否かを確認もせず、ティプテともども教会の裏側へ回り込んだのである。


 小馬車が待機していた。ヘリム人御者が一人、神経質そうに鞭をしごいているのが薄っすらと見える。

 乗降口も大きく開かれており、二人が乗れば直ちに出発できるであろう。

 正体不明の男は、二人を問答無用で車内へ招じ入れ、自分も乗車した。


「行け」

「は」


 小馬車は、貴人を乗せているにしてはひどく乱暴に発進した。がくんと大きく揺れて、ティプテがランスフリートの膝上に倒れ込んで来た。


「ティプテ、大丈夫か」

「ええ。ランスフリートさま、もう大丈夫ですわ。

 誰も追っては来ませんもの」


 ティプテは身を起こして晴れやかに笑いながら、恋人の求めたところとは意味合いがずれた返事をした。

 ランスフリートは苦笑したが、しかしすぐに顔つきをひきしめた。


 ティプテの微笑ましい誤解を笑っていられる場合ではない。とっさに、つい前後の見境無く男の言うなりとなってしまったが、冷静に考えてみると、彼の行動は奇妙の度をかなり過ごしている。


 ランスフリートは、改めて自分と相対して座っている男を見つめた。

 車内の天井には、小さいながらも明かりを灯す玻璃製の点灯篭が取り付けられている。そこから発されるろうそくの小さな光の中に、見知らぬレオス人青年の顔が浮かび上がっていた。


 とりたてて特徴の無い、ごく平凡なレオス顔の若い男である。ランスフリートやダディストリガと同年齢くらいか、少し下といった年頃であろう。彼は微笑していた。


 ティプテの方には、この若者に不信感を抱いている様子はまるで無い。むしろ、親しみと信頼感に満ちた眼差しを彼に送っている程である。

 彼女は恋人の不穏な気配を感じたか、視線を転じた。


「そんなにご心配なさらないで。

 わたし、この方をよく存じ上げておりますの」


「知っているとは、どういう事だ」

「助けてくださるんですって。

 あなたとお会いできない間、ずっと二人で相談しておりましたの。

 ね、オレンジルさま」


 ティプテは嬉しそうに、青年へ呼びかけた。オレンジルと呼ばれた男は、穏やかな笑顔とともに頷いた。


「左様でございます。

 ぜひティプテさまに合力申し上げたく、僭越ながら参上致しました」


「オレンジルどの。

 なぜそのように思われたのか」


 珍しく剣呑な口調で、ランスフリートは問いかけた。

 事態を把握出来ない苛立ちと、恋人がいつのまにか自分の知らぬ男と親しくしていたという事実に出くわした不快さが、彼を少々戦闘的な気分にさせていたのであろう。


 問いの内容自体は妥当と言ってよいものだったが、声の調子はそうではなかった。

 オレンジルは、更に親しげな笑顔を作った。


「やましい事など何一つございません。

 ただただ、お二方にご同情申し上げているだけでございます」

「たかが同情で、命を賭けられるものか」


 ランスフリートは顔をしかめた。彼の感じる不審は、なかなか好転しないと見える。


「ティプテの為だけに、というのならまだ分からぬでもない。

 わたしにまで、それも貴君からすれば親友でもなく、知己でさえない男の為に、なぜここまでの危険を冒せる。

 こんな事をしたと知れたら、貴君も無事では済むまいに」


「……されば、真実を申し上げましょう」

 オレンジルは秘密を打ち明けるように、声を潜めた。

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