そして月は翳り3
西へ、教会へ。
ランスフリートは、廊下をすれ違う人々が驚くのも構わずに、血相を変えて駈けて行く。
もし言葉が交せないならそれでもよい。せめて顔を見るだけでもよい。ティプテの笑顔が見たい。
ただその一念で、彼は廊下を駈け抜け、敷地内の移動に使う小馬車へ飛び乗った。
(ティプテ、いま何をしている。一目でいい、おまえに会いたい。
ユピテア大神よ。おれに時間を与え給え。水の女神よ、ティプテに会わせ給え)
その祈りは通じた。
馬車が教会の玄関前に到着した時、彼女は外に出ていた。大勢のシア人僧侶達に混じって、雑草抜きの作業を行う姿が車窓から見えた。
ランスフリートは大急ぎで馬車を停止させた。
盛大な物音に何事かと周囲がざわめきたち、ティプテも大きな目を瞠って辺りを見渡した。
やがて、表情に喜びがはじけた。
「ランスフリートさま」
馬車から降りて来た恋人めがけて、彼女はまっすぐ走った。
雑草抜きに使っていたペルトナ籠も何もかも放り出して、ランスフリートしか見ていない。
僧侶仲間がぼう然と見守るなか、恋人達は久々に互いを長く見つめ合った。
「ランスフリートさま」
「ティプテ。元気だったかい」
「はい、このとおりです」
ティプテは胸に両手をあて、涙ぐみながらも、朗らかに答えた。
「ランスフリートさまも、お元気そう」
「たった今、元気になったよ」
ランスフリートの声にも、みるみる生気が甦った。
言葉を交す以上は何も出来ない。だから、彼は表情に精一杯の誠実と労わりをこめた。
万感に満たされたその再会は、だが。
ごく僅かな時間しか許されたものではなかった。
ランスフリートの背後で凄まじいばかりの気配がたち、ティプテがびくりと身をすくませた。ランスフリートが踵を返す間も無く
「謀ったか、おまえ」
満腔の怒気を湛えた声に背中を叩かれた。
若い男の、この上なく厳しい声。
ランスフリートは振り返った。
強い光を放つ一対の緑の目が視界に収まった。彼は苦痛を耐えるような声で、その不粋な闖入者の名を呻いた。
「ダディストリガ……」
なぜ、ダディストリガ・バリアレオンが姿を見せたのか、ランスフリートにもティプテにも分からなかった。
ただはっきりしているのは、教会の一室に二人揃って放り込まれ、ダディストリガに出口を塞がれているという、せっぱつまった現状にある事だけだった。
有無を言わさずティプテの手をとり、ひきずるようにして連れて行く従兄に、ランスフリートは抗議しようもなく後に従う他は無かった。
ダディストリガは押し込めるようにして、二人を教会内の一室へ連れ込み、扉の前にしっかと立ち塞がった。
ランスフリートは怯えるティプテを背後に庇いつつ、どうやら尾行してきたらしいダディストリガへ、嫌悪と軽蔑で満ちた視線を向けた。
従兄も激怒をたぎらせた目で、従弟を睨めつけていた。
無言の睨み合いは、だがすぐに従弟が終息させた。
「いったいどういう積もりだ、ひとをつけて来るとは」
「どうもこうもあるものか。よくも裏切ってくれたな」
「裏切るだと。おれがいつあなたを裏切った。
さっきの閣議での一件を言っているなら、お門違いだぞ。
勝手に期待しておいて、勝手に失望したくせに、裏切ったとは何だ。人聞きの悪い。
話を横にそらさないで答えろ、ダディストリガ。何でおれをつけて来た。監視役でも拝命しているのか」
「おまえが慌ただしく西へ向かおうとしているのが見えれば、ここへ行くとしか思えぬではないか」
「弁解になっていないぞ。
そんな言い訳以下の物言いで、尾行を正当化できると考えているんだったら、あなたの倫理観は相当に歪んでいると言わざるを得ないな。
おれのほうこそ失望だ」
ランスフリートは逆上寸前だった。
対するダディストリガは表情から怒気を消し、落ち着き払った態度に代わっていた。
だからといって、この謹厳で知られる若い武人が、従弟の言い分を認めたとは考えられなかった。
「どけ。女を渡せ」
問いに応じず、短く命じる声の調子が、尋常ならざる冷淡さを秘めている。
ランスフリートはそう感じ、直感と同時に、ダディストリガが教会まで追いかけてきたのは、自分を議場へ連れ戻すだけが目的ではないようだ、とも思った。
「嫌だ。
何の責任もないティプテには、指一本触れさせるものか。
悪いのはおれなのだろう、だったら存分に、おれを殴るなり何なりすればいい」
「おまえを殴って事が済むなら、とっくにやっている。当分は起き上がれぬくらいにな。
おまえが望むまでもない、後でゆっくり叩きのめして性根を入れ替えてやる。
さあ、女を渡せ」
「渡してから、どうする」
「……城から叩き出して、二度とおまえたちを会わせぬようにする。知れた事だ」
やや間をあけてから答えたダディストリガの態度に、ますますランスフリートは疑惑をかきたてられた。
この従兄が、放逐程度で妥協するだろうか、と。警戒心も自然せりあがって来る。
「そう言われて、おれが素直に要求を呑むとでも思うのか」
「ならば、実力に訴える」
ダディストリガは大股に近づいて来た。ティプテはいっそう怯えて、ランスフリートに抱きついた。
「ランスフリートさま」
「ちょっと離れていてくれ、ティプテ。必ず守ってやるから」
細い肩を優しく抱いてなだめつつ、ランスフリートは言った。ティプテが驚いて顔をあげた。
「守る……ランスフリートさま」
「しがみつかれていては、やりにくいよ。少し下がっているんだ」
「何だ、おまえ。
おれと渡り合える積もりでいるのか」
ティプテを離れさせたランスフリートへ、ダディストリガが鋭い嘲笑を浴びせた。
「笑止千万だ。
日頃家に篭りきりで、ろくに体を鍛えてもおらぬおまえが、おれをどうできるという」
「やればできるさ」
ランスフリートは拳を握った。
刹那、ダディストリガは床を踏み抜く勢いで従弟へ突進した。
剛腕が風を切って伸び、従弟の秀麗な横顔を、石のような拳が捉えた。ティプテが裂帛の悲鳴をあげた。
彼は横転し、置かれていた椅子と円卓の間に頭から落ちた。
椅子が二脚吹き飛び、円卓に載っていた陶磁器製の呼び鈴が床上で砕けた。彼は立てなかった。
「ランスフリートさまッ。
ランスフリートさまぁッ」
ティプテは我を忘れたように絶叫し、駆け寄ろうとした。
その細い右腕を、ダディストリガは無表情に掴み上げた。激痛に襲われた彼女は、短髪を振り乱して声をあげ、身を激しくよじった。
大神に救いを求める声が、鳴咽ともども広い室内を満たす。が、若い武人は動じなかった。
「ざまはないな、ランスフリート。
女一人守れない。それがおまえの限界だ。
よく弁えて、ばかな考えは捨てろ。
おまえが今少し物分かり良くあれば、おれもこんな事はせずに済んだのだ」
つかんだ腕を引き抜かんばかりに力を込めて、ダディストリガは少女を連れ去ろうと背を翻した。
そのとき。




