暗闘の夜5
「渡さぬ。この子は断じて渡さぬ。
殺すと言うなら殺すがよい。その代わり、この子も生かしてはおかぬ。
母子は一体ぞ。
共にこの世を去り、ユピテア大神がおわす神の国にて、仲睦まじく永遠の日を過ごす所存じゃ。
誰にも邪魔だてはさせぬ」
さしもの武断王をも怯ませる母の愛は、ついに実った。
バロートは、ブレステリス王国への遠慮から、次男を妻の手に残すと承知した。
ようやく幸福は始まった。
パトリアルスは母の愛に包まれて、健やかに成長していった。
長じるにつれて、顔立ちは父親の面影を宿すようになり、身長も同年の子供達に比して格段に伸びるのが早かった。
しかし気質は、幸か不幸か父には似ず、死んだ野鳥の姿に心を痛ませる優しさを持ち、芸術を好む母に同化して武張ったものを好まず、学問や美術鑑賞に興味を示すようになっていった。
母子の時間を楽しみつつも、かつて奪い取られた初子の運命を、クレスティルテは密かに案じ続けていた。
事ある毎にパトリアルスへ兄の存在を語り、いま何をしているか、どう遇されているのか、と不安を口にした。
会いたい。初めての我が子に会いたい。
その想いは募る一方で、最愛のパトリアルスの存在を持ってしても到底消し難かった。
別れて七年の歳月が流れ、とうとう念願が叶う日が訪れた。
世子ジークシルトとの対面が許可されたのだ。
ただし、王子教育を一任されている筆頭傅役ツァリース大剣将の自宅において、との条件が付帯していたが、クレスティルテに異論はなかった。
王家嫡男は、王者の教育を受けなければならない。
それが、このシングヴェール王家における鉄則であり、バロート王が決して妥協しなかった一点なのである。
当日、王后でありながら臣下の自宅へ足を運んだ彼女の夢は、だが。
「わざわざお越しになられずとも、御用がお有りでしたら、わたしをお召しあそばせば宜しうございましょうに、クレスティルテ姫」
およそ子供らしくない第一声によって、当初からくじかれた。
特に衝撃だったのは、自分への呼びかけであった。
母上でも陛下でもなく「姫」と敬称したあたり、七歳の少年が発した言葉とは思い難い辛辣さがあった。
ジークシルトは、母を母として慕ってはおらず、父と並ぶ敬愛すべき上位者とも考えておらず、ただ政略結婚で輿入れしてきた外国の姫としか認識していないと、明言したも同然だったのである。
言葉だけではなく態度にも表れていた。
気を取り直したクレスティルテが
「ジーク。
さ、こちらに来やれ。母によう顔を見せてたもれ」
「御控え下さい、臣下どもが見ています」
抱きしめようと腕を伸ばしてもすげなく払いのけ、笑顔めいた表情も作ろうとはしなかった。
「そちらからでも、ご覧になれましょう」
「ジーク」
「父上から賜った名を、軽々しく省略しないで下さい。
わたしは、ジークシルトです」
この子はいったい、七年の間にどのような教育を施されたのであろう。
彼女はぼう然とする思いで、容姿だけは自らに酷似した少年を凝視したものである。
対面の時間は一刻にも満たなかった。
その短い間も、少年は母に冷淡であり続け、憎悪は無いにしても隔意は明らかだった。
嫡男の預け先である臣下宅を辞してまもなく、クレスティルテは堪えきれずに嗚咽を漏らした。
心には、癒しようの無い傷を無数に負っていた。
双方のいずれに罪があっただろう。
母性がほぼ完全に欠落した歪な世界で過ごし、母の何たるかを知り得ぬままに育ったジークシルトの、理解不足を責めるべきであろうか。
それとも、パトリアルスとは成長の事情が異なる点を無視し、出産の事実をもって母であろうとしたクレスティルテの、配慮不足を咎めるべきなのか。
両者は最初から視点が違っていた。
正確には、親子についての認識が違ったと言うべきであろう。
クレスティルテの考える親子とは、血の絆で固く結ばれ、永遠不変の愛を互いに注ぎ合う美しい存在であった。対して、ジークシルトの意識にあるそれは、単なる生物間のつながりに過ぎなかった。
二人は自分の経験によって得た観点に立って互いを見ており、相手の考え方を間違ったものと定義して譲り合わなかった。
殊にジークシルトは、断固として考えを変えようとはしなかった。
母をまがりなりにも
「母上」
と呼ぶようになるまで、更に五年の歳月が必要だったのである。
クレスティルテは失望し、深刻な喪失感を抱いた。
ジークシルトが、なまじ自らに恐ろしいほどよく似た容貌をもつがゆえ、彼と接する際には血の絆を意識せぬわけにゆかず、それがあの苦すぎる拒絶の記憶を否応なしに想起させる。
心の傷の耐え難い疼きを鎮めるには、手塩にかけて育てたもうひとりの息子との間に育んだ愛情に頼るしかなかった。
あじわった苦痛は、やがてパトリアルスへの偏愛に形を変え、今日では自分を愛さぬ我が子への憎悪にも変質して、固定に至ったのだった。
ジークシルトとの確執が、どのような経緯を辿って成されたものか、クレスティルテは自覚していなかった。判りたくも無かった。
「パトリアルス。
おお、パトリアルス。何としてもそなたを……そなたを王位に……」
追憶の苦味を振り払うように、クレスティルテは愛する息子の名を呼び続けた。
時刻は、夜の域をまだ出ない。
王の威嚇は、親王陣営に与した人々を震撼させた。
謀略が察知されている恐れがあると知った彼らは、不吉な予想に浮き足立ち、一様に狼狽していた。
もっとも、内務卿だけは別で、武人も恐れ入らせる強硬な姿勢を崩そうとはしなかった。
「この期に及んで、手を引くなど有り得ん。
だいたい、恭順したところで許されるはずがあるものか」
夜、自宅に招いたうろたえる同志達をつかまえて盛大に喚き散らす。
「祝い酒は、未だに我らが御方の御手元にある。
回収など出来る相談ではない。
行き着くところまで行くしかない。そうであろう」
「それは、その通りだが」
応じた外務卿が、気弱そうに首を振った。
「しかし、何ゆえ陛下がそのような御言葉を仰せあそばすに至ったのか。
ぬかりは無かったはずだが」
「内応者がある、とでもおっしゃりたいか」
反ジークシルト一派の根回しを担当した外商卿は、あからさまに気を悪くして僚友を睨み返した。
自分に手落ちがあると疑われ、責められた気がしたのであろう。
「誰も裏切っておらぬ。
我ら三十余名に及ぶ同志は、皆パトリアルス親王殿下の御擁立を熱望する者ばかりだ」
「証拠は。
貴公の主観による判断ではないのか」
「何と。貴公はわたしを愚弄するのか」
不安と苛立ちが互いを疑心暗鬼にさせていると見える。
二人は客間の椅子から腰を浮かせ、円卓を挟んで掴み合わんばかりに激しく睨み合った。
王が、親王陣営の内部対立を企図していたとするなら、案は成功を収めたと言えるであろう。
噴出する怨恨の毒煙に堪りかねたアローマ内務卿が、怒声を張り上げた。
「いがみ合っておれるほど、我らは暇ではないわ。
ご両人、冷静にあられたい」
ぴしゃりと言われて、喧嘩になりかけていた二人は口論を中断した。
理性を取り戻した同志達に、彼は盟主がましい顔をしてみせた。
「今のところ、我らが御方が手違いで件の酒をお召しになられたという報は無い。
わたしも、親王邸に置いている配下には、よくよく言い含めてある。
酒に動きは無いはずだ。
まだ機会はある」
「左様で」
「あまり悲観的になられぬほうがよかろう。
要は、事を確実に遂げればよい。
そのために、外商卿どのがお骨折りくださったのだからな」
「承知しているが……それにしても不思議だな。
手順のどこに間違いがあったのだ」
外務卿は、まだ首を傾げている。
手違いの心当たりなど、あるはずが無い。彼らは隠密裏に行動していたし、注意も万全に払っていた。
嵐の夜に開かれた秘密の会合についても
「夜会があったらしい」
といった噂ひとつ聞こえては来ない。
王太子の強制排除に至っては、王后と中心人物三名だけが共有している極秘計画である。
少なくとも彼ら三名は、他の同志に漏らした覚えはなかった。なぜ、バロート王は意味深な発言をしたのであろうか。
むろん、三名とも知らない。
あの会合の情報が、よりにもよってパトリアルスの口から漏らされ、しかもジークシルトの耳に直接とびこんだ事は。
その結果、典礼庁が水面下で動き始めたとは。




