悲劇の始まり6
「本当ですか」
喜んだティプテへ、バースエルム剣爵はいかにも残念そうに首を振って見せ、懐から青い宝石がはめられた指輪を取り出した。
「いや、それが。
つい先刻まで、彼もその積もりでここに居たのだが、君が到着する直前に気を変えてしまい、やはり会えぬと言い出したのだ。
何ら父親らしい事もしておらぬ身が、ぬけぬけ娘に会うなど許されまい、君に会わせる顔は無いと言い張ってきかなかった。
説得はしてみたが、頑強に固辞してな。ついに席を立ったのだよ。
会いに来た証としてこれを残す、いつか会える日が来るまで、くれぐれも健やかであるように、と言い置いてな」
「そんな……お父さま……」
独特の黄色い線が不規則な模様を形作っている青い石の表面を見つめながら、ティプテは膝頭で揃えていた両手を組み合わせた。
「どうして。
お会いしたいのに」
「彼も同じ思いだ。
遠慮したとは言え、ぜひ父娘の名のりを交したいと熱望しておる。
だが、彼は娘である君を寺院預けとして長く放置していた事をひどく気に病んでもいる。父親らしいことを、せめて一つでも成さぬうちは忸怩たる思いを禁じ得ぬ。
どうしても会えぬと、主張しておるのだ」
剣爵は語りながら腕を伸ばし、失望に声も表情も翳らせた姪の手をとって、青宝石の指輪を握らせた。
ティプテが伏せていた目を伯父に向け、視線が合った。
シア人の血を感じさせる青い瞳に、もはや親愛以外の光は宿っていないと見て取ったとき、彼は表情をややひきしめた。
夜分に姪を呼びつけたのは、何も虚偽で飾りたてた涙話を語って聞かせるためでは無かったのである。
「事実、辞去する間際に、彼は君の為に命懸けで奔走する事を誓った」
「わたしの為に」
ティプテは息をのみ、剣爵は真顔で大きく首肯した。
「左様。
君がある高貴な殿御と想いを通わせている事を、彼は知っている。
どなたであるかもな。
ランスフリート・エルデレオンどの。国王御子息にあられる」
「まあ」
正直に驚いて、声を上げたティプテだった。
ランスフリートとの愛は、密かに育んでいたとは、さすがの彼女も言いかねた。が、まさか実父にまで知られていようとは、想像外であったのだ。
剣爵は表情で同情と理解を示し、何度も強く頷いた。
「ランスフリートどのと君では、残念ながら身分が釣り合うとは言えぬ」
「……」
「この状況は、君の父から見れば、若い日の自分とメルティエどのが置かれた境遇そのものなのだよ。
判るね。君の両親も身分の壁に引き裂かれた。同じ轍を、血を分けた娘が今にも踏もうとしている。
父の身に、これほど耐え難い事態があろうか。
今こそ贖罪の好機、と彼は見ている。
このままにしておけば、やがて君達が別離の運命に見舞われるは必定。
父として、またかつて同じ悲運に泣いた者としては、この窮状は捨て置けまい。
彼は、君達を愛の守護女神(アロアヴェーネ神)の名の許に、末永く結ばせるべく努力を惜しまぬであろう」
劇的な口調で、剣爵は一息に語り抜いた。
少女は、ぱっと両手で顔を覆った。しくしく泣きはじめた姪の姿を見て、表情に成功を確信したことを表した剣爵だったが、しかし声にはまだ演技力を保たせた。
「ティプテや。
泣かずともよい。君とランスフリートどのの恋の成就を、父も伯父も熱願しているのだよ。
わたしもむろんの事、頼まれずとも力を貸す積もりでいる。君にも、だから一つお願いがあるのだ。聞いてくれるかね」
「はい――はい」
顔を覆ったまま、ティプテは何度も蜜色の頭髪を上下させた。
「はい、伯父上さま。
何なりと」
「決して難しい話ではない。
ただランスフリートどのへの愛を揺るぎなく、我らに信頼をおいて、早まった行動をせぬよう待つ、それだけの事だ。
君にとっては、容易い事であろう」
「はい」
「ときに、ランスフリートどのとは自由に会えるのかね」
「会えません。
この頃は、朝にお顔を拝見するだけですわ。
外出許可が下りない、とお文で仰っておいででした」
「そうか、気の毒にな……ふむ。文は届くのか。
ティプテ。君も知っての通り、ランスフリートどのは国王御子息という尊いお立場上、ご自身の御意志のみで行動する事が許されない。
文のやりとりすらも難儀に違いないし、書面は余人の目に触れるであろうと思っておいて、まず間違いはなかろう。
君が今夜わたしに呼ばれた件、父の件や指輪に至る一切は、決して漏らさぬようにな。
我らが困る以上に、ランスフリートどのの御身が、更なる困難な状況に置かれるやもしれぬ」
「はい。判りました、伯父上さま。
ランスフリートさまにも秘密に致します」
「聞き分けが良いな。
そう、誰よりもランスフリートどのの御為だ。
では話を戻そう。良いかね。誰の声にも耳を貸す必要は無い。
例えば、ダディストリガ・バリアレオン・ティエトマールという男がおる。
彼は、ランスフリートどのの従兄だが、権高で冷酷な性質と専らの評判なのだ。その彼が、君達の恋愛をたいそう不快がっておるという」
「ああ……あの御方。そうでしょうね」
涙を拭いながら、ティプテはしみじみと剣爵の言葉に同意した。
確かに、あのダディストリガ・バリアレオンの厳格な表情からは、ティプテに何らかの好意を寄せている様子など髪の毛一本程も読み取れない。
「そう言えば、ランスフリートさまも言ってらしたわ。
あの御方は、石から生まれた人物だって」
「さもあろう。彼などは、きっともって君たちの障害となろう。
彼が、いかなる脅迫をしかけて来ようとも、君は屈してはならぬ。
彼が何か言ってきたら、いかに些細な内容でも構わぬ。必ずわたしに知らせなさい。近々、信のおける者を連絡役に遣わそう。
我ら親族が、愛の守護女神(アロアヴェーネ神)ともども、常に君を見守っている事を忘れぬように。
いいね。我が姪ティプテ・ワルド」
「はい。伯父上さま」
ティプテは感動に細身を震わせていた。
自分は天涯孤独では無かったという喜びと、かけがえのない肉親が陰ながら応援してくれている、という心強さが、ランスフリートと会えない日々に閉じこめられていた少女に与えた感動はいかばかりであったろう。
そして、その感動が、彼女の肉親に対する信頼感をどれほど深めさせたであろう。今のティプテは、たとえランスフリートが説得にあたったとしても、バースエルム剣爵への親愛を容易に捨てそうもなかった。
感動と信頼感が、どのような形で報われるのか。
ティプテはこの時、それが恐ろしい絶望と流血の結果につながるかもしれない、などとは考えもしなかったのである。
感激に満たされて辞去して行く、純良な娘の後姿を、剣爵は無表情で見送った。
彼は、苦笑めいた淡い微笑を唇の上に載せると、卓上から鈴を取り、振り鳴らした。
同時に、居間の奥から痩せた男が姿を現した。娘への愛情に燃えて奔走しているはずの人物――バースエルム弟盾爵であった。
「ご首尾は上々ですな、兄上」
「うむ。あの娘はすっかりその気だ。
我らが持ちかける提案を、喜んで受け容れるだろう。
おぬしには、愛娘をこのように使わせてもらうが、異存はなかろうな」
「兄上、愛娘とはご冗談がきつうございますな。
わたしにはエピテュリの親族などありませぬ。あるのは、あの毒虫どもを駆除するための道具でございますとも」
冷淡すぎる事を、盾爵は平然と言ってのけた。エピテュリとは、混血者への差別語である。
剣爵は特に感銘を受けた様子も無く、そっけなく頷いた。
「覚悟を決めておるなら、結構だ。
何としてでも、あのどら息子を排除して、目障りな老体にひと泡吹かせてやる。
我がダリアスライスの未来の為だ」
「仰る通りです。
例の話も進んでおります事ですし、可能な限り早めに」
「ああ。
だが、我らが権力を奪取せぬ事には話にもならぬ。例の件もある。事は、急ぐぞ。
私は閣議において、フェレーラ輿入れの一件を可能な限り引き延ばす。
ついでに、あのどら息子をつるし上げてくれるわ」
腹立ちを口調に滲ませながら、剣爵は宣言した。
「やれやれ、本当になってしまった」
南西三国エテュイエンヌ王国では、ロベルティートも驚かされていた。
嵐がくる前、父王と茶飲み話として情報交換した折、縁談があるとは聞かされていた。
鎖国傾向の強い南西地方では、史上初であろう。同時に、中央には関わるなとの国是に背く。
南方きっての富国として知られるダリアスライス王国との縁談である。
指で示された文字を読んだ時には、率直に言って信じ難い思いだったが、父は本気だったのだ。
「フェレーラ・シトネーどのね。
嫡流ではないと聞いているけれど、どういう姫なんだ」
老腹心に尋ねたところ、仕えて長い執事のドライデルは
「母君は、ティエトマール閥のご出身ですな。第一麗妃エルデティーネさまの実妹にあたられるとか」
「へえ。姉妹とも王の側室にあがっているのか。
閨閥の繋がりは相当なものだ。有難い話だな」
「フェレーラ姫は、当年とって二十一歳との由。たいそうお美しく、レオス民族らしい淑女と評判が高い御方におわします」
「ますます有難いな。
さてと。問題は」
王室の末弟で、第五権利者。名をシルマイト・レオンドールという。
この弟こそ、何よりの大問題なのだった。
「おれもそうだけども、他の兄上方にも何をしでかすか判らない。
王座の、何がそんなに良く見えるのか、おれにはさっぱり見当がつかないが、とにかくあいつは野心家だ。
おれが他国の有力な美人と縁を持つと聞けば、まあ、ただでは済まないだろうな。
一層の注意が必要だと思うよ」
そして。
ロベルティートの言葉は、時を待たずに実際化するのだった。
しかも過激な手法で。




