悲劇の始まり4
「際どい綱渡り外交か。
考えるのは簡単だが、実行となると話は別だ。不幸な土地柄だよ、ダリアスライスは」
「国土の全方向を、かつての敵国に包囲されている地理事情がある。
半ばは望んでこうなったのだ、ここで愚痴を言っても始まらぬさ」
「それもそうだ」
近頃では非常に珍しい、従兄の意見に笑って素直な相槌を打ったランスフリートだった。
しばらくこの笑顔や態度とは無縁だったダディストリガはほっと息をついて、自分も口元を和らげた。
それを潮に、彼は腰をあげた。まだ笑う力が従弟に残されていたと確認できた事が、今夜の最大の収穫であったろう。
「我が国をとりまく最近の南方事情はこんなところだ。
よく頭に入れて、明日からの公務に臨んでくれ。おれは帰る」
「……ありがとう、ダディストリガ」
立ちあがりながらいくぶん照れくさそうに、ランスフリートは礼を言った。
ダディストリガは扉の取っ手に指をかけた時、不意に衝動に駆られたように鋭く振り向いた。
「ランスフリート。
誓って言うが、おれはおまえと不仲になりたいなどとは望んでおらぬ。むしろその反対だ。
ときおり懐かしい時代を思い出す。
大人たちに叱られながら屋敷の屋根を登った事や、庭の片隅でうたた寝した事をな。
知らぬうちに時代が変わってしまった。あの頃に戻りたいとは思わぬが、あの頃のようになりたい、とはいまも思う」
「……無理だ」
ランスフリートはたちまち顔を伏せた。
「おれたちは、もうあの頃のようにはなれない。
お互い無邪気な時代は終わったよ」
「別に無邪気でなくとも、良好な関係は保てるはずだ」
「……ジュリシアどのが待っているんだろう。早く帰ってやれよ」
真摯な表情で訴えかける従兄に、ランスフリートは直接の返答はせず、視線を床に向けたまま帰宅を促した。
ダディストリガは苦しげに、項垂れる従弟の横顔を凝視していたが、やがて何かを振り切ったように顔つきをいつもの無表情へと戻した。
「御免」
固苦しい調子で言い残し、扉を勢いよく開けて廊下へと歩き出す。
その去って行く背に、ランスフリートは足を止めるよう求めた。
「ダディストリガ。
おれは……あなたを嫌いじゃない」
「ランスフリート」
「嫌いじゃない。
他に言いようがないが、とにかく嫌いじゃないよ」
「無理するな――その言葉だけで、十分だ」
扉は閉ざされた。こつこつと規則正しい足音が遠ざかって行く。ランスフリートは再び寝台のへりに腰を下ろし
「遠いよ、ダディストリガ。あの日はもう遠すぎる。
ティプテの件が無かったとしても、おれたちは遠くなるしかないんだ」
小さく独語した。悲哀の影が、無音で彼の頭上を覆った。
ランスフリート・エルデレオンの宮廷仕官は、バースエルム一門をみごとに憤激させた。
ことに立腹甚だしかったのは、バースエルム剣爵ブランケルト・シムレオンである。
「何だと。あのどら息子が文務総裁補佐役だと。
正気の沙汰とは思えぬぞ、ティエトマールの死にぞこないめ。
国務にまるで疎い放蕩者をそのような重役にいきなり就けるとは何事だ、我らに断りもなく。
いよいよ、国政の私物化も度を超すわ」
「女に血迷うばか息子に、国の何が分かるというのでしょうな。
我らを見下げるにも程というものがありましょうぞ、兄上」
バースエルム盾爵ハンスケルト・ギルレオンも負けずに憤慨した。
若者の栄達をひどく嫌う彼にとっては、鼻持ちならない若造の盾爵号授与だけでも頭の血管がちぎれ飛びかねない、怒りの発作に見舞われる重大憂事だというのに、今度は放蕩者とそしられている王の実子にすぎない無官の男が、国務に参与するというのである。怒髪天をつくのも無理はない。
「この多忙な最中に何を考えておるのでしょうな、あの老体。
女に接するのと同じ感覚で政治を判断されてはたまりませぬぞ」
「ええい、腹立たしい。
これは早々に例の件を実行へ移さねばならんな。
あれからどうなっておる。フェレーラを、あろう事が南西三国へ輿入れさせるという言語道断な話も出ておるのだ。ぐずぐずしてはおれぬぞ」
「むろんでございます、兄上。こちらと致しましてもフェレーラに嫁かれてはたまりませぬ。
先方も何やら思惑があるようで、策動しているようすが伺えます。事を急ぐよう催促しておきましょう」
「うむ。急げよ。
それはそうと、あの娘。ティプテ・ワルドの事だが」
「心得ております。
まもなく参上致しましょう。暫時お待ちを」
彼らの密談に、ランスフリートの恋人が登場した。というより、引きずり出された。
名前のみならず、当人すらも。
ティプテ・ワルドの一日はまことに多忙である。
朝は東刻の一課(午前五時)から奉仕と呼ばれる仕事に従事する。
寺院内の清掃を手始めに、諸神礼賛の儀式に使用する供花を摘んだり当番制の食事作りに参加したりし、侍僧として式典に参列した後は片付け、続いて布施を集めに市街へ出かけて、午後には裁縫や城内の手入れの手伝い、と休む暇もない。
途中で教会が執り行う冠婚葬祭の行事が生じれば、準備にも携わる。自分の時間を持てるのは、日暮れ間近の二刻ばかりと就寝直前、南刻の六課(午後八時)だけであった。
この生活を、七歳の時からじつに十年続けている。
ティプテは父の名も顔も知らなかった。彼女はタステリク近郊の小都市イルビウクにある教会で生まれ、誕生と同時に僧籍へ入った。
実母と生活を共にしてはいたのだが、母メルティエ・ワルドも尼僧であったため、今の彼女同様たいへん多忙で、親子の時間をもつこともままならぬ毎日であった。
そして、母はティプテが十歳になった年の春、病に倒れた。
母との死別から二年後、ティプテの境遇は急変した。まったく突然、首都にあるリッツェンテーゼ城内の教会へ、身柄を移されたのである。
この降ってわいた異動話が、さらに彼女の運命を急転させた。
恋の巡り合わせ――そう、ランスフリートと出会うきっかけになったのだ。
愛と芸術の守護者・水の女神アロアヴェーネ神の計らいとしか思えぬ、喜びに満ちた環境の変化であった。
「ランスフリートさま」
ティプテには日課がある。就寝前に、ユピテア大神へ祈りを捧げるのだが、その後に恋人の名をそっとつぶいやいて、彼と出会えた幸福を、そのアロアヴェーネ神に感謝するのである。
粗末な寝台の下で膝をつき、両手を胸の位置で組んで、女神が守護するとされる西の方角へむかって拝礼する。
このような祈りは、僧侶でなくともするもので、特に奇行ではない。ティプテと同室になっている尼僧もしている。
ただし、僧籍にある者は通常、北か東へ拝礼するものだった。
それも道理で、北は学問と正義をつかさどる風の女神ヴェレーネ神の方角であり、東は豊穣と生命をつかさどる大地の神ランダイリス神の方角である。
よってこれらはともかく、アロアヴェーネ神は恋愛の守護神であるから、俗世間と絶縁している僧侶が、用のあるはずはない。
例外的に、結婚式では拝礼があるが、これは他者の愛の成就を願うためにおこなうもので、自分のために祈るわけではない。そこが、ティプテと他の僧侶との大きな違いであった。
彼女の日課を、快く思わぬ者もいる。同室の少女もその一人で、西に向かって祈るティプテの姿を眺める目は、たいそう冷ややかである。
「ねえ、ティプテ。
いつになったらそれを止めるの」
「止めるって、何を」
祈りを済ませて寝台に休もうとしていたティプテは、少女に声をかけられて、意外そうな表情をつくった。
シア人の少女は怖い顔でティプテを見ていた。
「その祈り。
あなた神僕の身で、男性に熱をあげているっていうの、いい加減に止めたら。いやらしいと思わないの」
「どうして」
ティプテは無邪気な笑顔になって、問い返した。
「どうしていやらしいの。
ランスフリートさまはとても優しい、暖かい御方よ。とってもいい匂いがするの」
「それがいやらしいのよ。信じられないわ」
少女は禁欲主義の傾向をしめした。年若い尼僧にはめずらしくない。
元からシア人の至高神思想には、恋愛感情を冒涜とみなして軽蔑する考えがあり、それが禁欲をよしとする風潮をうんだのである。
この少女に言わせれば、半分とはいえ至高神に仕えるべき民族の血をもつからには敬虔な神僕たるべき義務を優先させるべきで、異性を恋するなどもってのほかなのだった。まして、修行中の身が。
ティプテにはとうてい同意しかねる説だった。
彼女の意識では、人が神の意によって生まれ神の手が自分をかたち創ったものであるのなら、異性を恋する感情も神から授けられたものではないか。神から賜わったものを人が否定することこそ、冒涜ではないか。
かねがねそう思うのだが、口に出すことは控えている。
ランスフリートにだけは語ったことがあるのだが、彼はいたく感心して大いに賛成してくれたものの、同時に
「もっともな意見だが、それはおれ以外には言わないほうがいいな。
わからずやに言えば、酷い事になる」
忠告もした。思うところあっての事に違いなく、彼女は恋人の言葉を素直に受け容れている。
「どうしていやらしいのか、判らないわ。
判れば止めるけど、判らないうちはいつもの通りにするわ」
今も、ティプテは持論をもちだして応戦したりはせず、無邪気に笑ってそう返答した。
彼女は反対意見を聞くときも、それに答えるときも、怒らない。にこにこ笑っている。
ほとんどの者は、言葉より笑顔に負けて、口を閉ざすのである。シア人の少女も再反論する余地も気力も失ったらしく、あきれたようなため息をついて後は何も言わなかった。
その分、明日の朝、陰口で発散される可能性は高まったが。
ティプテは、そういうことには慣れている。
(いいの、何て言われても。
お母さまは言ってらしたわ。いつも笑っていらっしゃいって。笑っていれば、きっと幸せになれるって)
亡母の残したことばを心の中で反芻した。
(本当に、そうなんだわ。
ランスフリートさまはいつも、わたしの笑顔が好きだって言ってくださるもの。
笑ってさえいれば、ランスフリートさまから嫌われたりしないんだわ)
この見事なまでの単純さが、ティプテの悲境をどれほど救ってきたであろう。
ある意味で、ランスフリートよりもよほど性根が据わっているかもしれない。
急に扉が叩かれた。
「ワルド神僕女。お召しです」
その性根が据わった少女でさえ驚かせる出来事は、程なく起こった。




