悲劇の始まり2
ランスフリートは足を止めるどころか歩調を緩めようとさえせず、前を見据えたまま鋭さに欠ける声で、ダディストリガを突き放した。
しかし、彼は引き下がらなかった。足を速め、夜陰に靴音を高鳴らせる無作法にも構わないで、従弟の背について行く。
「待てと言っている」
「あなたに命令される筋合いも無い」
「……ランスフリート」
取りつく島もない従弟の態度に、ダディストリガは表面にこそ出さなかったが充分失望した。
呻くように名を呼んだきり何も言えなくなって、彼は歯を食いしばった。拳が強く握りしめられた。表情も、激痛に耐えるかのように引き歪んだ。
従兄が心に受けた衝撃を、ランスフリートは無視した。
無視するより他に、どうしようもなかったのだ。ランスフリートは自分たちの間に横たわる深い溝の存在に、いち早く気づいている。そしてどう話し合おうと、溝が埋まる見込みがない事にも。
話し合っても徒労に終わるという印象が、あの口論の日に芽生え、今では手の施しようがないところまで、わだかまりが成長してしまったのだった。
あの日
「二度とおまえの顔は見たくない」
と捨てぜりふを浴びせた事は、時間が過ぎて冷静さが回復するとともに後悔を覚えている彼である。
ダディストリガの指摘が、決して的を外したものではないとも、理性では承知している。ただ、感情が理解をこばむのである。
もどかしい思いは、従兄も同様だった。
彼は内心で
「いつかはランスフリートもわかってくれる」
と信じていたが、そんな日が本当に来るのか、いささか自信を無くしていた。
とはいえ声をかけた以上、何とかして会話を成立させねばならない。ダディストリガは大きく息を吸い、吐き出す勢いを借りるようにして
「おれが嫌いなら嫌いでよい。だから話を聞け。
公務に関する事なのだ。私的な感情は抜きにして、話を聞いてくれ」
ようやく見つけた話題を早口に切り出した。
ランスフリートは、だがやはり足を止めようとはしなかった。もっとも、わずかながら歩調を落とした。自室のすぐそばまで来ている事でもあったが。
「公務か。要するにお得意の説教なんだろう。
公務と称してティプテの話を持ち出すのは、ダディストリガの得意技らしいからな」
「皮肉を言うな。あの娘の話はせぬ。
そんな場合ではない。おまえは明日から大父さまの補佐をするのだろう。予備知識を頭に入れておかなくては、ひどく難儀するぞ」
「そんな事、別に心配してくれなくてもいい。
おれが難儀したところで、あなたに何の関わりがある」
「ばか、無いわけがあるか」
ダディストリガはいらいらと声を荒げた。
「おまえ、公務とはそんな単純なものではないのだぞ。
今すぐ理解しろとは言わぬが、関わりの有る無しを簡単に決められるものではない、ということは、承知してくれ」
「耳元で怒鳴らないでくれないか。響いてかなわん」
ランスフリートは扉を開けた。自室に足を踏み入れながら、いかにも大儀そうに従兄を差し招く。
「話を聴かなければ帰ってくれそうにないな。
分かった、聴けばいいんだろう。その代わり、絶対にティプテの名は出さないでもらいたいな。
あなたと彼女の話をするのは嫌だ。名を出されただけでも腹がたつ」
「出さぬと言ったら出さぬ。
その程度の信頼も、おれは失ったのか」
「おれが勝手に無くしたのではない」
無愛想にランスフリートは言って、ダディストリガを待たずに部屋へ入って行った。
ジークシルト・レオダインの寝室に慣れた目で見れば、彼の部屋は納戸でしかないと思えるであろう。美しい部屋である。
白木の家具と揃いの調度品、南国全体で好まれる、干した樹皮や背の高い草を細切りにして複雑に編んだものを使って作るペルトナ椅子、非常に高価な白香蓉石製の円卓、丁寧な彫り物が施された文机。
そして、成人男性が三人ほども楽に寝られるであろう天蓋つきの大きな寝台。これらが広い清潔な室内に、観葉植物の鉢ともども見た目よく配置されている。
物質的な充足をもって幸福と定義するなら、これほどの幸福は希有であるに違いない。部屋の主にとっては、だが豪華な牢獄にすぎないのだった。
ランスフリートは無言で寝台の端に腰かけた。ダディストリガはまさか並んで座るわけにはゆかず、少し離れた窓際に置かれているペルトナ椅子に座した。
「さっさと用件を済ませてくれ」
ランスフリートはぶっきらぼうに促した。頑固に従兄を見ようとせず、馬の絵が飾ってある壁を見上げている。
ダディストリガは従弟の秀麗な横顔を見やりつつ、椅子の傍らに置いてある小円卓上の呼び鈴を何とはなしに指で弾きながら
「ツェノラが北方圏に接近しているという話は、以前にしてあるな」
「ああ、聞いた。それで」
「彼らの真意が明らかになった。
どうやらヴァルバラスと結んだらしい。 南北経済同盟とやらを締結したとの情報が入っている。
綺麗事を言っているようだが、何の事はない。ありようは我がダリアスライスを通じてヴェールトに圧力をかけるのが目的だ。
でなければ、ヴァルバラスを盟友に選んだりはすまい」
「……ヴァルバラスか。エルンチェアではないのだな」
「さすがに、そこまでは手が伸びなかったようだ。
とはいえ、エルンチェアも無関係ではおれぬさ。
どうせやつらは長年の友好を捨てて、ブレステリスと手切れするのだからな。彼らの代わりを務められるのは、ゲルトマ峠を領土に持つヴァルバラスだけだ。早晩、両国は国交を開くだろう。
エルンチェアがツェノラと結んだヴァルバラスと関わるという事は、北方情勢が南方圏の動きとも大いに密接するという事だ」
「何か具体的な動きがあったのか」
いつしか、ランスフリートの声に生気がこもりはじめた。やはり生来の聡明、知性が、このような話を耳にする事を理屈抜きで喜ぶゆえであろう。
ダディストリガの口調も、それを受けて熱っぽく変わり始めた。
「あったと言ってよかろうな。
ヴァルバラスから貨幣鋳造用の鉱石の売却値をあげる旨、通達があった。今までに無い唐突さだ。
同時に、ツェノラからも接触があった。
現状は外交的な挨拶だが、やはり唐突な動きだ。ヴェールトを無視しているような観がある。
これらの状況から勘案するに、ヴァルバラスとツェノラが連合して当方に圧力をかけようというのだろう。まあ正確に言えば、彼らに代理してダリアスライスがヴェールトに圧力をかけるよう、状況をもってゆきたいのだろうな」
重大な政治的予見を、いっそさらりとした調子で、ダディストリガは言ってのけた。
ランスフリートは相槌を打たず、沈黙して思案顔を作った。彼としても同感は否めないところだった。
ツェノラがヴァルバラスと経済同盟を締結したのは、ひとえにヴェールトをして打ち切りを決定しているであろう彼らへの経済援助を存続させるのが狙いである。
一方、ヴァルバラスがこの提案を受けたのは、ヴェールトが薪の主力輸出先をエルンチェアからグライアスに変更する予定から発生した、軍事同盟に対抗する方針の一環としてである。
ヴァルバラスの意向は、東隣国であるブレステリスがこれらの計画にいわば巻き込まれて北方圏東部国家と軍事同盟を締結せざるをえなかった事情を受け、エルンチェアと国交を開きたい。
それによって雄国と経済的に交流し自国を潤わせるとともに、北方随一と畏敬される彼らの軍事力を背景にしてグライアスを牽制したい。
さらには、ダリアスライスに対してもエルンチェアとの交流関係をにおわせる事で一定の態度がとれるようになるとの期待感。この点に尽きる。
ツェノラと組んでダリアスライスに強気な姿勢を見せたのも、外交上の駆け引きに利用する目論見があっての事と推測できる。
そのような強腰を保守的な色合いが濃いヴァルバラスがとったのは、瞠目に値する。
むろん、これはエルンチェア向けの態度であろう。その気になればダリアスライスとも張り合えるといった一種の示威に相違ない。
ここまで大胆に振舞うからにはよほどの絆がヴァルバラスとエルンチェアとの間に築かれたと考えるのが筋であり、その絆とは王室間で縁談が整ったと見るのが常識である。
ここでダリアスライスが問題とすべきなのは、エルンチェアがヴァルバラスを介して南方圏に大きく接触する、その意味である。
真意は奈辺にあるか。




