諸南、不穏なり4
全員の認識として、北方圏西沿岸地方にある二か国は、共に保守の国柄だった。
しかし、度合いはまるで違う。
ヴァルバラスには、まだしも柔軟性が見込めるが、リコマンジェについては
「あの国は筋金入りだ」
南方圏でさえ噂される。とかく新規を好まない国として有名だった。
例えば当国は、製紙業を国の事業として展開している。
本音は巨大な消費圏であるエルンチェアと薪の取引を行いたい。
長年の念願だったが、どうやらヴェールトとの間に何らかの約定があると見えて、当国の参入する余地は無かった。
そこで、有り余る木材資源の活用法を研究し、製紙に行き着いた。
幸いにもその技術は、他国には模倣が難しいようで、今や製紙業の権威と見做されている節がある。新商品ともなれば、競うように買い手が殺到する。
しかし、どれ程の自信作を売り込んでも、リコマンジェだけは一切の関心を寄せない。
頑なに
「いつもの」
注文を貫くのである。
紙でさえ、一度馴染んだ品物以外には見向きもしない国が、果たして当方の思惑を尊重して、親交が無い国との橋渡し役を快く引き受けるものだろうか。
外商卿以下、同庁の主だった役人達は、実務の経験から首を傾げざるを得ない。
「が、そうとばかりも言ってはおれぬ。
エルンチェアとの薪取引に光明が見えたとあって、陛下の御意は殊の外お堅くあらせられる。
ヴァルバラスとヴェールトの繋がりがいかばかりか、我らに推し量れない以上は、仰せの通りでもあるのは事実だ。
交渉は避けられない旨、みな心得て欲しい」
こめかみを抑えつつ、同庁の長官はそう結んだ。
丘の開けた部分は南海に面しており、遠くまで見晴るかせてたいそう眺めが良い。
海は爽やかな青の水面に、乳白色のしぶきを跳ね上げつつ、規則正しく岸辺を洗っている。
水平線はやや丸みを帯びて、細い銀の糸のような姿を、どこまでも伸ばしている。
上空を、形になっていない雲が、幾重にも筋をたなびかせながら北へ流れて行く。
午後のうららかな日差しを浴びて、ゆるゆると動く筋曇の群れと凪いだ海。
穏やかだ。
「お兄さま、雲よ」
まだ十代にも達していないと見える少女は、年齢相応の無邪気さをいかんなく発揮して、盛んにはしゃいでいた。
澄みきった秋の空を見上げ、流れる雲を発見して、兄のロベルティート・ダリアレオンに報告してくる。
その嬉しそうな笑顔に、彼も微笑を返しながら、北の空を指差して見せた。
「あの雲の行きつく先が、ザーヌ大連峰だ」
「連峰は見えないわ」
懸命につま先で伸びをしながら北方へ目をやっているのは、十四歳のレイゼネア・エミューネという。
末妹が無邪気そうで可愛らしい顔立ちなのに対して、彼女は輪郭がすっきりしており、細身で、男装が似合うように見受けられる。発育途上の美姫候補といったところか。
ロベルティートは笑声をたてた。
「そりゃ見えるわけはないさ。
ここから連峰の麓まで行くには、馬で何日も旅をしなけりゃならないんだ」
「つまらないわ」
彼女は唇を尖らせた。
山影らしいものが一向に見えず、秋空の下に黒い森の姿がしみのように浮き上がっているだけの遠景しか視界に入らないのでは、見る甲斐が無いというものだ。
小さな妹が、兄を見上げながら
「お兄さまは、いらした事があるの」
尋ねてきた。彼は可愛らしく髪を結いあげた頭に優しく手を乗せた。
「無いよ。お父さまもお母さまも、他のお兄さま方も、誰も行った事は無いんだよ。遠い遠いところだから。
お山の向こうに沢山ある国々も、誰も見た事は無いんだ」
「お山の向こうにも、たくさんお国があるの」
「どんな国かしらね、兄上」
姉姫も、妹と一緒に好奇心を発揮して兄を見た。
口調や眼差しに、気丈さがよく表れている。
大陸の支配者民族では、少女が兄を「兄上」と敬称するのはあまり例が無く、彼女が勝気盛りであると知れる。
「さあ、よく知らないな。
何でも、寒くて雪が降って、喧嘩ばかりしている国が沢山有るらしいよ」
ロベルティートの説明は全く単純だった。
もちろん、彼まで本気でそう信じているわけではない。
このエテュイエンヌ王国を取り巻く現状には、今のところ、北方圏の情勢は大きな関わり合いは無く、従って第四王子である彼も、あまり詳しくは知らなかった。
王族の常識、あるいは教養程度である。
姫たる妹達であれば、これで充分であろう。詳細を聞いたところで、さして愉快な話でもあるまい。
末の妹が興味津々の体で
「雪ってなあに」
「白くて冷たくて、ふわふわした固まりだよ」
「見てみたい」
「はは。
そうだね、一度くらいは見ておきたいものだね」
「降らないかなあ」
空を見上げた。レイゼネアも頷いた。さすがに姉姫ともなれば、雪が南方圏の、それも最南端の国には降らない事は知っていると見える。
「わたしも、一生で一度でもいいから見てみたいわ。綿のようかしら」
「おれが聞いた話では、綿のようだったり、砂のようだったり、いろいろ形があるらしいよ。
それが、国を埋めてしまうくらい降るんだそうだ。
雪が嵐になって荒れる事もよくあると言う。
北の人々は、いったいどうやって暮らしているんだろうな」
嵐と聞いた瞬間、彼女は眉をひそめた。何か恐ろしい想像でもしたものか、小さく身震いした。
「……わたし、北には行きたくないわ」
「大丈夫だよ。
おまえが北へ行くはめになる事なんか、まず起こりっこない」
彼は明るい笑声をたてて、妹の細い肩を抱いてやった。
「もし、そんな話が出てきたって、おれが守ってあげるさ。
二人とも、南の人と結婚するんだよ」
「じゃあ、お兄さまは」
無邪気に尋ねたのは、末っ子だった。
「お兄さまも、南の人と結婚するの」
「ああ……もちろん」
ロベルティートは、すぐには答えなかった。その一瞬ほど遅れて答えた声にも、張りは無かった。
注意深く見れば、表情があえかに翳っているのが判るだろう。
彼は、二十一歳ながら実年齢より二、三歳は若く見える。どこか少年めいた容貌で、いたって温容、悪く言えば人畜無害な印象を与える青年である。
兄を慕う妹達と過ごしている時、特に王宮の敷地内にあるこの丘を三人で散策しながら、他愛も無い話に興じている間は、まずもってこのような顔つきを見せる事は無かった。
違和感を、レイゼネアは察知したらしい。
少し驚いた様子になったが、すぐ視線を妹に返して水平線を指で示し
「ほら、見てご覧なさい。小さなお船がいっぱい浮かんでいるわ」
にこやかに言った。たちまち子供の好奇心を、全て姉の指先に集中させて
「え、どこ。
ねえ、お姉さま、どこにあるの」
丘から転がり落ちんばかりの勢いで身を乗り出した幼い妹を手で制しつつ、背後を振り返る。
ある程度の距離をとり、黙って控えていた侍女達が、そこに居た。
「あっちよ。
さ、もっとよく見えるところに連れて行って貰いなさい。
この子をお願いね」
一人を呼んで少女を預けると、遠ざかったのを確認してから、やおら兄に向き直った。明らかに表情が強張っていた。
「兄上。ご結婚なさいますの」
「何だい、急に恐い顔になって」
ロベルティートは肩をすくめた。いつも通りの飄然とした様子に戻っている。
だが、妹の方は顔つきを変えなかった。
「ほんとう、ですわね」
「何だ、どうしたんだ」




