諸南、不穏なり1
山裾を覆う森林は、ヴェールト王国にとって緑の宝である。
大連峰の巨大な山脈が、北から流れ込む寒気を大幅に阻んでいる影響で、南方圏でも北寄りにありながら国土のおよそ七割は降雪と無縁だった。
北では、冬季の訪れは材木伐採事業の中断に直結するが、南であれば、余程の山奥でない限り継続に問題は無い。
現在、森の国と言えば真っ先に当国の名が挙がる。
豊かな材木資源に対して、薪を求める北方諸国が競って取引を申し込んでくるのだが、当国は古い約束から長年に渡って特定の一国を最優遇していた。
近年、この状態を覆す動きが起きつつある。
ある年の終わり頃、北方国家グライアスの外務卿が訪ねて来た。
王家への表敬訪問だという。
帝国時代に定まった慣例の一つで、若干の変化を伴いながら現代も続いている。
王族謁見に先立ち、その国の外務卿が使者に応対するのも習いである。
「リューングレス王国について、貴国はご存知でいらっしゃいますかな」
「ええ、存じて上げておりますとも」
当国の外務卿は、慣例に忠実だった。外国の同じ職務にある貴人をそつなくもてなした。
「貴国よりめでたく独立なさった」
「痛み入ります」
双方、慎重な姿勢で雑談を交わす。もちろん、無意味な茶飲み話ではない事は、どちらも十分承知である。
グライアス側が何を切り出してくるか。表向きだけは穏やかな微笑で体裁を整え、内心で一つの予想を立てつつ、彼は待ち構えている。
「かの国の隆盛ぶりは、なかなかのものです。
弊国がいつまでも合力申し上げるなど、非礼と言える程に」
「それは重畳」
「今後『港をもって』栄えるのであれば、もはや弊国に出る幕はございますまいな」
「ほう」
聞いた瞬間、男の顔色が動いた。
言葉を額面通り受け止めるわけにはいかない。
グライアス側は、彼らが商用港を活用して栄えるのなら、見放すのも厭わないと匂わせたのである。
拡大解釈すれば、つまり
「リューングレスの商用港について、我々が貴国有利になるよう、取り計らってもよい」
暗に申し出た。このように考えられる。
実際には、属国扱いされている彼らが独自の道を行くなど、相当な状況の変化が無い限り不可能と断言して差支えなかった。
南北問わず土地が痩せている東に領土があり、しかも大陸で最も面積が小さい。国民も少なく軍事力も頼りなく、物産と言えば珍味とされる数種類の山菜か、近海の干魚くらいしか無い国が、宗主国に絶交されたらどうして自活出来よう。
もし、彼らが商用港を発展させて海路貿易を開拓したいとの希望を持っていたとしても、グライアスが一瞥すれば、たちどころに我意を捨てる、捨てざるを得ないのが実情であろう。
この事実を踏まえて、グライアスならヴェールトの意を汲み、リューングレスに商用港の使用を制限させるくらい、造作も無い事だ。外務卿はそう言ってのけたのである。
関心を持たずにはいられない事情が、当国にもふんだんにあった。
「非常に興味深いですな。
是非、お話をお聞かせ願いましょう」
胸中の予想とは違っていた事は、おくびにも出さず、彼は畏まった。
話し合いは二刻に及んだ。
席を立った北方国家の外交代表を見送った後、ヴェールト外務卿は自国の外商卿との歓談に臨んだ。
どの国にも見られる傾向として、外務卿と外商卿は、職務上の密接な関連から血縁者もしくは閨閥出身者で固められる。
当国も同様で、彼ら二人は親戚にあたる。
「グライアスの執念には頭が下がる
何が何でも、薪の貿易枠を拡大させたいのだろう。」
城の上級貴族向け茶話室に招かれた外商卿は、着席早々に親戚と僚友を兼ねる男が笑うのを見た。
「商いには権限が無い貴君にまで、話を持ち掛けて来たのか」
「直接ではなかったがな。
とうとうリューングレスに圧力をかけるとまで、申し出てきたわ。
港を閉じさせると言い出しておるよ。
要は、そういう事だろう」
ひとしきり笑ってから、香茶をすする。外商卿は意外そうな顔をした。
「それは思い切ったものだ。
例の海路何とかいう、小国同士の小賢しい知恵を潰す、か。
グライアスも知っているのだな」
「知らぬわけはない。
リューングレスは、要はグライアスの分家筋だ。独立の経緯は知らんが、まあ名ばかりだろう。
宮廷の中身が筒抜けになっているに違いない。
グライアスにとっては、海路振興策とやらは必ずしも悪くない話だろうに。それを惜しげも無く捨ててでも、我がヴェールトとの薪取引を望む所存と見える」
「先方には、死活問題なのであろうよ」
貿易の責任者らしく、彼には北の焦りが判るようだった。やや物憂げな表情になって頷き、茶を喫する。
「もっとも、それはエルンチェアも同じ事だ。
既得権の侵害を、笑って許す心境にはなれまい。
さて、面倒だな」
「確かに。あっさり納得するわけはない。
個人的には、グライアスの心意気を買いたいところよ。
正直に言ってしまえば、エルンチェアはどうにも好かん」
同じ閨閥の気安さで、外務卿は断言した。外商卿は笑い出した。
「正直な。
いや、判る。わたしも同感だ。
問題は、かの国の財力がついてくるかどうかだな。
心意気だけでは、貿易事業は成り立たぬ」
「うむ。その点は、やはり北の雄国と異称されるだけの事はある。
血統の点では、いささか難があるがな。財力についてなら、認めてやらんでもない」
外務卿の言葉と口調、共に敬意は無かった。
北方に対する優越意識は、外商卿も共有するところらしい。
「言うものだな。
まあ、否定はせぬよ。わたしとしても、かの国は貿易上の利益を得る相手としてなら、申し分ないと思うのみだ。
血統については、な」
身内相手の茶飲み話とあってか、こちらも本音が剥き出しになっている。
「大公殿下の御血筋が、余程に誇らしいと見えるが、何の事はない。
都落ちした権力闘争の敗者の末裔というだけではないか。
我らから薪を買わねば、冬は越せず塩も作れぬ。
要はその程度よ、エルンチェアなどは」
「たかが北方の田舎王家如きに、いつまでも大きな顔をされるのは、気分が悪い。
むしろグライアスの意気軒高ぶりが、遥かに好ましいとさえ思う」
「まったくだ。
気分が悪いと申せば、それ。ダリアスライスに至っては、反逆者の一族だ。
今でこそ富国がどうのと胸を張っているが、我ら帝室譜代家臣一同に、国土の全方向を包囲されている。
その現状は、何ら変わっておらんではないか。
都合よく忘れているのか、南方圏の盟主がましく振る舞いおるのが、どうにも腹に据えかねる。
分相応の慎みというものを弁えておらぬ輩は、要は田舎者よ」
両者とも、口を極めて大陸に名高い両大国を罵っている。
序列は自分達の方が格上と、二人揃って固く信じている様子である。
この気分は、帝国時代には首都が置かれ、大いに権勢をふるった土地柄という、昔の栄光に拠ったものだった。
当王室も、元をただせば皇帝に仕えた上級貴族だが、第二代皇帝冊立時にいち早く長子を立てて後ろ盾となり、功績を認められて皇女を娶った経歴もある。
彼らにすれば、皇太子が定まったと同時に臣籍へ退き、北方に隠棲した初代帝末子を家祖とするエルンチェア王室は傍流の出であり、ダリアスライス王室の如きは文字通りの反帝国派筆頭だったあたり、敬意を払うべき相手にはどうにも見えないのである。
現在では、両国はそれぞれに台頭し、入れ替わりに衰退した印象が強い当国だが、しかしまだそれなりの国力を示す事は出来る。
領土の過半分が森林地帯に覆われている事実が、今も当国に富をもたらし、二つの峠を掌握する事によって国際政治の場でも存在感を表している。
統一帝国時代の名残を色濃く保ち、歴史においては間違いなく大陸随一の伝統を誇る。
ヴェールト王国の矜持は、未だに高い。
「して、あちらの港はいつ頃閉じる」
「まだ詰めてはおらぬが、本年中には実行させたいところだな」
外務卿は、考えながら答えた。
「ツェノラめが、近頃は何かと我が国の申し付けに盾突きおる。
少々痛い目に遭わせてやらねばな。増長を始めると厄介だ。
あてにしている北東にそっぽを向かれれば、おとなしくなるだろうよ」
「北に締め出されれば、連中め、たった一つの取り柄を失う。
我らにいよいよ頼らねば、国を存続させる事など到底叶うまいな」
二人とも、あからさまにツェノラ王国を国とも思っていない。
今までの経緯からして、海路貿易振興策が潰れたとなれば、当国に恥も外聞もなく助力を仰ぎに来る他は無い。そう考えているのである。
だが。そうはならなかった。
「どうせ、ヴェールトはツェノラを使い捨てるに決まっておるわ」
とは、グライアス側の観測である。
「やはり、エルンチェアとの貿易に利が有ると見れば、我らとの話もあっさり無かった事にする。
逃げを打つとなれば、ツェノラを矢面に立たせるであろう。
そうはさせるものか」
北の外務卿も、周到だった。
ツェノラ王国にも手を回しており、いざという時にヴェールト王国が選択するであろう手段を、始めから封じていた。
彼らが気を変えてエルンチェア親和路線に立った際、一方的にタンバー峠並びにツェノラの港を閉じてしまう事が予想される。
そうなっては、直接南に来る手段を持たないグライアス王国は、抗議文一枚送りつける事も叶わず、薪の輸入路も閉ざされて、乏しい森林資源を食いつぶして行くしかなくなる。
その際ツェノラが巻き添えになって滅亡したとしても、そんな事はヴェールトの知った事ではない。
最悪の状態を防止するには、ツェノラがヴェールトへの依存心を自ら捨てて、彼らの港の利便性を高く評価してくれる国に鞍替えするのが望ましい。
「ほぼ間違いなく、ダリアスライスへ救いを求める。
南方圏で最も国力が高く、ヴェールトの代わりを務められるのは、あの国しかない。
内陸の国にとって、港を持つ国を己れの勢力圏に加えられる機会は、見逃せないに相違あるまい」
ヴェールトにしてみれば、とんだ計算違いを呼び込むべく、彼はツェノラに働きかけていた。
グライアスにも、南への抑止力としてダリアスライスの勢力を利用したい意向があったのである。
ところが。
北の思惑にも、ツェノラは乗らなかった。