東風吹かば3
言葉を聞いて、ラミュネスは軽く身じろぎした。
少しの間隔をおいて、別の答えを口にしようとしたその時
「待て。
ヴェリスティルテを呼べ」
若主君に制された。
「妃殿下を」
「ああ。
妻の意見も聞きたい。
何せ、北湖岸の屋敷を調べろと言ってのけた女だ」
「かしこまりした。
それでは、一旦御前を下がらせていただきます」
黒髪の青年は席を外した。
一人になったジークシルトは、また天井を見上げた。
初めて、弟という存在を知らされた日の事が、思い起こされる。
母という女性と対面して、まもなくだった。
パトリアルスは当時五歳で、傅役の屋敷に連れてこられた、年齢の割には随分と大柄な子供だったと記憶している。
「お初にお目にかかります、あにうえ」
意外と物おじせず、むしろ初めて会えて嬉しいと、全身で表現していた。
七歳になったジークシルトには、修学仕という同年代の学友役が何人かつけられていたが、誰も上手く仕える事が出来ないでいた。
皆、勝気な王太子に怖気づき、勘気を被り、すぐ交代するの繰り返しで、当初から残っていたのは、ダオカルヤンとラミュネスだけだったものだ。
「おまえ、おれが怖くないのか」
恐れられるのが当然だったジークシルトにとって、弟は、図太く悪戯にも進んで手を貸すダオカルヤンや、物静かでありながら的確な意見を述べるラミュネスに次いで、珍しい存在だった。
馬術を披露した時だ。
一般的に、馬術の嗜みは十歳あたりが適切とされていたこの時代、ジークシルトは六歳から馬に慣らされていた。
しかも、小柄で気性が穏やかな牝馬から始めるところを、傅役ツァリース大剣将の意向で、大人同様に牡馬を扱わされた。
七歳にして、大人と競える程に牡馬を乗りこなす姿を、パトリアルスに見せた際、弟は
「あにうえっ。
お見事におわしますっ」
感激した様子で、幼児なりに惜しみなく賛辞を送り、憧れの目を向けてきた。
初めて、称賛が心地よいと思った事を、今もジークシルトは忘れていない。
以来、彼らは頻繁に会い、手本を見せる兄、そのたび素直に感嘆し、憧憬を捧げる弟、両者の間柄はそのようになっていった。
常にそうだった。
「あにうえ」
という幼い発音が、しっかりとした
「兄上」
に変わった時も、態度に少しの変化も無かった。
それが。
(おれに刃向かうのか、おまえ。
グライアス側につき、臣下となる意向を示したとは、つまりそういう事だろう。
グライアス王の臣下となったからには、おれと戦えと命じられても、断れない……承知しての事だろう)
彼に限っては有り得ないと信じ切っていた弟の、逆心。
亡命という単語が示す、容赦の無い現実は、ジークシルトの胸を深く、そして鋭くえぐっていた。
横に、人影がさした。
軽く顔を向ける、同時に手布が差し出された。
新妻と目が合った。
「ご免あそばせ。
お声をおかけしましたが、お返事がございませんでしたので」
「ヴェリスティルテ。
おれは……泣いているのか」
手布を見やりながら、彼は妻に訊いた。
彼女は、直接には答えず
「お疲れなのでしょう。
お目をお休めになられては」
布を夫の手に握らせ、背後まで退いた。
手渡されたそれを見つめているうちに、ゆっくりと湿り気が広がっていくのが分かった。
濡れている。
ジークシルトは、自分の涙を見たのだった。
「許せ、とんだ見苦しい姿をさらしたな」
ややあって、呼びつけた妻を対面に座らせ、ラミュネスには横に立つよう命じ、ジークシルトは手布を畳んだ。
ヴェリスティルテは頭を振った。
「御心労が重なれば、誰でも皆同じです。
それよりも、お召し出し。
道すがら、ある程度の事情はラミュネスどのから伺いました。
わたくしの意見をお求めとか」
「ああ。
話は聞いているのだな。
なら、率直に問う。
パトリアルスに反逆の意志あり。
おれはそう見るが、おまえはどう思う」
「同感ですわ。
甚だ残念ながら、パトリアルスさまは、御国に敵対なされる御決意をなさったと考えます」
「聞いての通りだ、ラミュネス。
おぬしの事だ、おれに忖度して言えなかったのだろうよ。
違うか」
「殿下。仰せの通りにございます」
ラミュネスは頭を下げた。
ジークシルトは手を振った。
「いや、いい。
あれだけ、兄弟仲睦まじく過ごしてきたのを、おまえは嫌という程に見ていた。
言葉を選びたくもなるだろうよ。
もうよい、ラミュネス」
「もうよい、と仰せなのは」
「気遣いは不要だ。
ついでに、いろいろ骨を折ってもらったが、それも無用になった。
パトリアルスが反逆するのなら、受けて立つまでよ」
ジークシルトは、敵対した相手に情けはかけない。
酷薄な微笑が口元に浮かんでいる。
ラミュネスは
(殿下。
ついに思い切られたのですか)
戦慄した。
もはや後戻りはきかない。
王太子は、弟を敵と見なした。
かつてのように、嫌々ながら討伐の勅命を受け、何とか助ける手立ては無いかと、あらん限りの努力を払っていた。
弟思いのジークシルトは、既に居ない。
「ところで、ヴェリスティルテ」
急に、妻へ視線をやる。
ヴェリスティルテは静かに頷いた。
「はい、ジークシルトさま」
「おまえと寄り添ってみて、一つ分かった事がある。
正確には、ついさっき悟ったのだがな」
「承りますわ」
「おれは、誰彼からも、父上にも、再三に渡って疑問を投げかけられていた。
なぜ、そこまでパトリアルスに執着するのかと。
おれにも説明できなかった。
自分でも分からん、としか言いようがなくてな」
「はい」
夫は何を言わんとしているのか。
ヴェリスティルテは、普段の明るい大声も控え、静かに聞く姿勢をとっている。
「過去を振り返ってみた。
おれが求めていたもの、パトリアルスに見出そうとしていたもの。
簡単な話だった。
まったく我ながら、子供じみていると思うが、事実だ。
おれが望み続けていたのは、おれに都合の良いパトリアルスだった」
苦笑いとともに、ジークシルトは、今の今まで直視を避けていた心の中の真実を、認めた。
「おれは、生まれながらに王太子だ。
我がエルンチェアを指導する、王座の主となるべく生まれた。
他に存在意義は無い。
また、あってはならん。
おれは我がエルンチェアの守り人としてだけ、存在が許される」
「殿下」
驚いたのは、ヴェリスティルテだけではなく、ラミュネスもだった。
二人そろって、声を合わせた。
ジークシルトは微笑をやめ、表情を引き締めていた。
「そうでなくてはならんのだ。
王権国家とは、そういうものだ。
承知しているし、不満に思った事もない。
むしろ、光栄だと考えている。
だが、それでもやはり、心のどこかに願望があったのだな。
人としてのおれを求めて欲しい、とな。
今まで、ただ一人だけだった。
おれの求めに応じてくれていたのは、パトリアルスだ」
「そのように、思し召しでおわしたとは」
ラミュネスはひっそりつぶやき、唇をかみしめた。
自分でも、旧友ダオカルヤンでも、王太子の孤独を慰める得る存在にはなれなかった。
確かに、主従の間柄では、無制限で無遠慮な交流は許されない。
考えてみれば、とラミュネスは思う。
(母君は、言うに及ばず。
父君も、あの御気性ゆえ、殿下には後継者への御期待をあそばされても、父親らしく振舞い給う事は御有りではなかったはず。
臣下はしょせん臣下。
殿下が仰せの『人としてのジークシルトさま』を、素直な目でご覧あそばされたのは、パトリアルスさまだけだった。
それが為に、殿下は、パトリアルスさまのご助命に全てを賭けておいでだったのでしょう。
それが……潮目が変わった)
思いつつ、ヴェリスティルテへそっと視線を投げる。
(これからは違う。
パトリアルスさまにご執着あそばされずとも、ご伴侶がおわす。
殿下。
ジークシルト殿下。
ようやく、弟君の呪縛から、解き放たれ給うたのですね)
ラミュネスの視線を受けている事に、気づいているのか否か、ヴェリスティルテは穏やかに微笑んで、夫だけを見ていた。
ジークシルトは、まだ表情を崩さない。
「今は、未練を断ち切っている。
考えるまでもない、パトリアルスも一人の人間で、いつまでもおれの思い通りで居るわけはない。
あいつは、あいつなりに考え、あいつの利益を求めて動く、当たり前の事をやっているだけだ。
おれは、その当たり前を認められなかった。
愚かな話だ。
ヴェリスティルテ。
おまえが、おれの新しい心の拠り所だ。
おまえが横に居る限り、おれは前を向ける」
「これは、ありがとう存じます。
ユピテア大神に誓って、わたくしは生涯をジークシルトさまに捧げますわ」
厳かにそこまで言ってから、彼女は急に目を丸くし、明るくあははと笑った。
「間違いました。
ジークシルトさまは、ユピテア大神への誓いをお好みにおわしませんでしたわね。
言い直します。
ジークシルトさま御当人に誓って、わたくしは生涯を背の君と共に致します」
王太子の孤独を救う、何よりの言葉だった。