北方騒然6
「ご賢察、恐れ入ります」
ツェノラ人は深く頭を下げた。表情は見えない。
「かかる事態を、南方の大国が黙って眺めるはずはございませぬ。
性急な変化で安定が乱れるより、段階的に動く方が、誰にとっても好ましいのですから。
となれば、かの国は必ず何らかの対策を講じて来ましょう」
「それはむろん、介入が無いとは考えられませぬな」
「さて、弊国の提案でございます。
南北経済同盟の締結を、ご検討頂きたいのです」
「ど、同盟ですと」
相当に予想外だったらしく、外務卿は目を瞠って言葉を失った。
高いものについた、と苦々しい思いを禁じ得なかった。
贔屓にしている商人からの打診を受け、相応の謝礼と面談相手がツェノラ人という物珍しさで、話を受けたのである。
北方圏の西沿岸国家にとって、南方圏の東端に位置する小国の存在は視界に入りづらく、またそれだけに情報量も少ない。
(南方東地方の動静を探る貴重な機会でもある。人脈を築いておくに越した事はないだろう)
そのような計算に基づいて会った結果、彼の裁量では捌けない話題が提供された。
やむなく王に奏上し、その日のうちに討議すべきだとの判断に至ったのである。
前代未聞の議題が御前会議に提示されたのは、日が落ちた西刻の六課(午後五時)すぎだった。
たちまち、閣僚の数人が反対意見をまくしたて始めた。
「ツェノラ人は、随分と耳ざわりの良い事を並べていたようだが、それは本質ではあるまい。
つまり、我が国に薪市場の需要比率を揺さぶらせ、それによってヴェールトの動向を牽制するのが狙いだと思われる」
「他には考えられまい。我々には、塩の市場を抑える力など無いのだから。
要は、煮沸式で塩を大量に生産するのに不可欠な燃料、即ち薪の線からグライアスの塩市場に対する野心を封じ込める積もりだな」
「根本を抑え、手も足も出ないようにしてしまえ、か。
鉱石資源を持つ我らは、ダリアスライスと誼が深い。
南方国家としては、我らそのものよりも、かの国の動向に注意する。我らが薪の取引枠拡大を申し入れれば、かの国の手前、先方にすれば無碍には扱えないだろう。
そうなればヴェールトも、グライアスとの取引について考え直さぬわけにはゆくまい。
そういう算段だと推察し得る」
一連の発言を受けて、一人が不快感を超えた表情を作った。
「ばかな。
あのエルンチェアへ喧嘩を売れ、というのか」
迷惑だと、言葉でも態度でも強く主張している。
「生半可に薪取引の現況をひっかきまわせば、怒りの矛先は当方に向くぞ。
何が悲しくて、グライアスの身代わりを買って出なければならんのだ。
ツェノラがどのような勝算を抱いておるか知らぬが、巻き添えになる義理など砂一粒たりとも無い。
話に乗っても、利益はおろか、要らぬ火種まで抱え込んでしまう。
こんな割の合わぬ話があるものか」
「まったく。ツェノラも直接エルンチェアへ駆け込めば良かろうに。
かの国は当事者だ。こんな迂遠な策を弄さずとも、話を聞けば進んで動くであろう」
他の者も怒りを含んだ声の調子だった。
面談した当人にしてみれば、居心地は宜しくなかったであろう。
遠回しに非難されている心境だったに違いない。
だが、満場一致で反対かといえば、そうでもなかった。
「いや、しばらく。
当方としても、あながち無関係とは言えますまい」
比較的若い閣僚の補佐役が反論を試みた。
「ダリアスライスが介入した時、我がヴァルバラスにも探りを入れてくるに相違ないのです。
その時、当方は何も知らぬというのでは、あまりに決まりが悪い。
彼らに足元を見られる事にもなりかねませぬぞ」
「ならばいっそ、ダリアスライスと同盟すべきであろうよ」
長時間に渡って激しい議論が場内を飛び交ったが、一回の会議で決定に至る議題ではなかった。
それどころか、まとまる様子さえ見出せぬうちに解散となってしまい、一同は荷重な宿題を携えて帰宅するはめに陥ったのだった。
「お帰りなさいませ、お父さま」
屋敷の主人を出迎えたのは愛娘だった。
父親は当代国王の実弟で、政治の要である総裁職に就いている。
「すっかり待たせてしまったな。
今日に限って、執務が立て込んでね」
疲れた様子ではあったが、一人娘には優しい父の顔を向ける政治総裁だった。
美女との評判が立った事は、残念ながら一度も無かったが、その分を補うように利発と目されている。娘を、彼は限りなく愛おしんでいた。
「すぐ食事にしよう。おまえもお腹が空いているだろう」
父娘は食堂へと急いだ。
さして広くもない室内には、豪華な家具が所せましと置かれている。
いかにも南方産らしい、手の込んだ彫刻が施された食器棚や酒棚がずらりと並び、食卓にも、一目でそれと判る派手な原色使いの織布がかけられている。
椅子に至ってはペルトナ造りだった。南方でよく用いられる、植物の皮を複雑に編み上げる工芸の手法である。
当国は、西にあるもう一つの峠を領土内に収めている。
南方の華麗な調度品、美術品などを入手しやすい国柄のせいか、質朴と合理性が尊ばれる北方圏国家としては珍しく華やかな家具類が好まれている。
当家も然りで、部屋を広く造らない北方建築物にはいささか不釣り合いと思われる、大型で豪勢な調度品が満ちていた。
まことに華やかな室内に比して、食卓に供された夕食の内容は、だが驚くほど質素であった。
野菜の煮物にクエラ、果物。これだけである。貧窮が理由ではない。夕食が質素なのは、単にレオス人の食習慣によるものなのだ。
「母上は今夜も外出だったかね」
食事を始めながら、娘に質問した。というよりも確認した。
彼女、ヴェリスティルテ・アロアはおかしそうに頷いた。
「ええ。お母さまは、何とかいう会合にお出かけですわ。
遅くなるから、と仰っておられました」
「ふむ。そう言えば、朝に聞いたような気がする」
「また、わたしの引き取り先をお探しなのでしょう。
相変わらず、あんまり成果が挙がりそうもない事に熱中なさっておられますわ。
ご苦労さまです」
彼女は、あははと元気よく笑った。総裁は苦笑を漏らした。妻の外出は彼も認めるところである。
娘は婚期を逸して、四年ばかりが経っていた。
十六歳から十八歳あたりが、レオス人女性の結婚適齢期とされている大陸常識に照らせば、子の将来を真剣に案じたくなるのが親の情というもので、夫人は縁談の伝手を求め、火がついたように東奔西走している。
頻繁に夜会へ足を運ぶ妻を、彼も応援こそすれ、なじる気には一向になれない。
両親、殊に母親が隠しもしない焦燥感に、だが肝心の当人は少しも同感していなかった。他人事のように評して笑っている始末である。
娘の豪快なまでの笑声に、総裁もつられて表情を明るくした。
「おまえは結婚したいとは思っていないのかね」
「焦ってはいませんわ。成るようになる、と思っています。
慌てておかしな縁談に飛びつくのも考えものですものね」
はきはきと歯切れよく、ヴェリスティルテは答えた。口調といい、ものの考え方といい、たいそう一般の貴族子女離れしている。
あるいは、これが縁遠い原因の一端なのかもしれない。その事を思う時、彼は少なからず後悔の念に襲われる。
快活で利発だった幼少時の娘を、つい出来心から、男の子同然に扱ってしまった。
後継者を教育する楽しみを密かに味わいつつ、彼は娘を膝に乗せて、政治の仕組みや宮廷の裏事情などを語って聞かせたものだったが、今にして思えばそれが良くなかった。
男子優越の社会において、娘にそのような教育を施すのは残酷だった。
気づいた時には遅く、当家令嬢は利発との評判が立ちすぎていた。
いったい宮廷の風潮は淑女に有利で、才女は歓迎されにくい。判っていながら、何という事をしてしまったのか――頭を抱えずにはいられない。
反面で、娘の知力にしばしば舌を巻き、時には感服もする。
もしも息子でさえあれば、躊躇なく南北経済同盟について語り、参考意見を求めたであろう。
いや。正直なところ相談相手に適任な者が、他に居ないのだ。
内心の思いを打ち明けたい。その胸中の本音が
「おまえが男の子だったらな」
呟きになって、口から漏れた。 娘は聞き逃さなかった。
「どうかなさいましたの」
興味深そうな表情で、彼女は父の顔を覗き込んだ。
宮廷で何かあったらしいとの察しは、とうにつけていたヴェリスティルテである。
いつもより帰宅が遅い上、思い詰めた様子の父を観察しておれば、おのずと達する結論であろう。
総裁は決まり悪そうな顔になり
「何、大した事ではないよ。
女の子は知らなくてもよい事だ」
ごく平凡な言い回しで娘の関心を逸らそうとしたが、大いに逆効果だった。ますます興味をそそられたと見え
「あら、聞きたいですわ。
お父さまだって、ご本心では仰りたくていらっしゃるのでしょ」
笑いながら内心を指摘してきた。
図星であった。彼は返事に困ったあげく、苦笑して頷くしかなかった。
「おまえにはかなわないな。
そうだ、わたしは誰かに相談を持ちかけたくて、たまらないのだよ」
「でしたら、仰ってみて下さいまし。
愚痴の聞き役くらいにでしたら、なれるかもしれません」
「うむ……」
さすがに国家の命運に関わる大事を娘へ語るのは気がひけて、 すぐには切り出せなかった。
ヴェリスティルテは、逡巡しているらしい父親へ重ねて促したりはせず、あえて視線を手許に供された深皿へ落とし、静かに決心を待った。
しばらくの沈黙を経て、彼はついにためらいを振り切った。
「ツェノラが何を思ったか、我が国に経済同盟の締結を求めて来たのだよ」
「あら、たいへん」
ヴェリスティルテは顔を上げた。瞳の中で理知の光がはじけた。
「詳しくお話して下さいましな、お父さま」
「実は、こういう事なのだ」
王爵は突発した難題について、事細かに語り始めた。
彼女は沈黙を守り、一切口を挟まなかった。話が結ばれた後も、容易に反応しようとはしなかった程である。
やはり荷がかちすぎたかと、心配げに娘を見やった時。
「ツェノラの真意について、別の見解を要すると思われませんか」
思慮深い表情のまま、静かな声で問いかけて来た。総裁は目を瞬かせた。
「別の見解、だって」
「はい。
彼らが本当に言いたい事は、別にあるという気がしてならないのです」
ゆっくりと、問答するような形をとって話を始めた。しばらくのやり取りを経た末に
「そうか。判ったぞ。これが、ツェノラの真意か」
父は膝を打っていた。
ヴェリスティルテ・アロア。後に、エルンチェア第七代王太子妃として迎えられる運命にある女性は、にっこり笑うと元気よく食事に戻った。