北東の逆襲6
エルンチェアでは、王太子の事実上の成婚が、地味ながらも祝われている。
春の雪降ろし大祭と呼ばれる、融雪期には、国を挙げての盛大な祝宴が開かれる予定であり、今のところ螺旋の王都では
「王太子殿下万歳」
「妃殿下万歳」
人々は、街角の酒場や自宅で酒杯を交わして、世継ぎ誕生はいつかと語り合うのが日常に見られる光景だった。
肝心の王太子妃も、まだ披露されておらず、国民は顔を知らない。
宮廷内では、元気よく過ごしているヴェリスティルテを、勤め人たちが半ば面白がる様子で見守っている。
「先の王后陛下とは、全く御様子が異なられる」
「でもまあ、親しみやすい」
「お陰様というか。
王太子殿下も、心持ち御人となりが柔らかくなったような」
評判はまずまずである。
この時、グライアスで起きていた一連の事件については、まだ伝わっていない。
ジークシルトにもたらされた情報は、ゼーヴィスを経由して、親エルンチェア派の筆頭と称すべきキルーツ剣爵が探りを入れた結果だった。
内婚の儀が終わり、祝宴も滞りなく静かに閉幕した後、両者は王城に用意されている王太子の居間で、改めて顔を合わせた。
ゼーヴィスは、どういうわけか同席を許されているヴェリスティルテの存在に、内心で驚かされつつも、書状を取り出して
「クレスティルテさまが、移動先のモエライルから忽然と御姿をくらまされた件について、我々も承知致しております。
従兄にあたられるキルーツ剣爵閣下が、内々に調べられたところ、どうやらモエライルには親グライアス派の手が回っていた模様」
「やはりか。
あの厄介な婦人に何の用があるのか、さっぱり分からんが、とにかく東に拉致されたと考えてよかろうな」
「はい。
書状の二枚目から五枚目までをご照覧賜りたく。
親グライアス派と思われる要人が、ざっと十五人ばかり上がっております。
中には、神務庁の上級役人の名もあります」
「神務庁か。
随分と手広く抱きこんだものだな。
しかし、この名簿はよく調べられている」
「恐れ入ります。
キルーツ閣下はあくまでも、エルンチェア親和を国論とするべしのお立場です。
ただ、文治派貴族は親グライアス派が多く、親エルンチェア派は軍人が多数を占めているのが現状で、閣下は孤立ぎみでおられます」
ブレステリス宮廷の現況について、細かく語った。
ジークシルトは、書状をざっと読み下しながら、ふむと鼻を鳴らした。
自然な流れで、横に座る新妻へも紙の束を手渡す。
ゼーヴィスは正直に目を瞠った。
ジークシルトは笑った。
「我がエルンチェアもな。
実はグライアスを見倣う事にした。
貴君も、戦場に女流剣士が出張って来ていたのは承知しているだろう」
「は。
聞き及んでおります」
「同じ事だ。
人材と見れば、誰であろうが登用する。
妻にも、期待をしているところだ」
そう言いながら、彼女を見やる。目は優しいものだった。
「なかなかの切れ者だ。
そこが気に入って、娶る事にした」
「左様でございますか」
ゼーヴィスも、書状に目を通すヴェリスティルテを見、軽く頭を下げた。
気配に気づいたのだろう、彼女は顔を上げ、あははと笑声をたてた。
「有難い仰せ、恐縮しておりますわ。
以後、どうぞよろしく」
「少しも恐縮しておらんな」
「これでも、その積もりなのですが」
「よい。真面目に恐縮されたら、おれが面食らう。
せっかくだ、ヴェリスティルテ。
その書状を目にして、如何に考えた。
おまえの意見を聞きたい」
ジークシルトは水を向け、ヴェリスティルテも書状から一旦目を離した。
「では、述べさせて頂きます。
わたしどもヴァルバラスも、ブレステリスさまは、国論が二分されて未だまとまらず、親グライアス派の抵抗は根深いものと考えておりました。
この書状を見る限り、十五名の名が挙がっておりますが、実際はもっと数が多いでしょう」
「……否定しかねますな、妃殿下」
「先ほど、軍人の方が親エルンチェア派だと聞きました。
それはその通りだと考えます。
実際に戦うのは軍人ですもの、命がけで戦場に向かう立場からすれば、エルンチェアの武力を知らないはずはございません。
戦えば、かなりの被害を被ると、現実的に考えているのだと思いますわ。
誰でも命は惜しいですから」
ヴェリスティルテはすまし顔で言い、ゼーヴィスをますます驚かせた。
ジークシルトは、得意げな表情になっている。
「こういう妻なのだ。
貴君も気にせず、思うところを存分に述べるがいい」
「なるほど、かねがねお噂には上っておられましたが。
妃殿下にあらせられては、お噂を遥かに凌ぐ御方におわしますもよう」
「あらま。
そんなに噂になっておりましたか。
道理で縁談が来ないはずです」
また、あははと笑う。
「結婚した以上は、もうどうでも宜しいのですけども。
気にかかるのは、むしろブレステリスさまの御縁談ですわ。
同盟の裏付けと申しますか。
縁組がなされる様子が、この書状からは見受けられません」
「……ええ、確かに」
「王家の縁組は、そのためのものというのが常道です。
しかし、ブレステリスさまが、グライアスと強く結ばれたいとお考えであれば、縁組に欠かせない組織、つまり典礼庁の大御所が、もっと親グライアス派になっていてもよいはず。
この名簿には、典礼庁勤めと思われる役人の名が見当たりません。
大抵、どの国でも典礼庁を取り仕切るのはガニュメア人、もしくはリヴィデ人と相場が決まっておりますのに。
それらしい名が無いのは、いったいなぜでしょう」
小首を傾げつつ、重大な指摘をさらりと行うヴェリスティルテだった。
ゼーヴィスは返事に詰まり、考え込んだ。
言われてみれば、名簿にはだいたいがレオス人と思しい名前しか載っていない。
民族には、名づけの傾向というものがあり、例えばレオス人男性なら、必ず二つ名にレオス民族を現す発音が入る。
ジークシルト・レオダインしかり。
ゼーヴィス・グランレオンしかり。
バロート王も、名と姓の間には、レオルタスという二つ名がある。
一方でガニュメア人には二つ名が無く、名と姓の初めの発音が重なる傾向が見受けられるのだ。
ジークシルトの懐刀たるラミュネスの名にも二つ名は無い。姓はランドだった。
そこに注目して名簿を見直せば、なるほど典礼庁に籍を置く役人らしい名が無い。
「グライアスとの御縁談は、何もないのですか」
ヴぇリスティルテに問われて、ゼーヴィスは我に返り、首を振った。
「妃殿下、謹んでご返答申し上げます。
今までに、耳にした事は一度もございません」
「それなら典礼庁は今のところ、保守的な考えでいるのでしょう。
念のため、同庁をよくよく調査するよう、キルーツ閣下にはご進言致したいところです」
「聞いての通りだ、ゼーヴィス。
しかるべき手を打て」
「かしこまりました、殿下」
すっかり感心している。
「縁談。
確かに盲点でした。
グライアスには王族の婚姻という、閨閥形成の意思が無いのか……」
「冷酷な言いようになりますわ。ご免あそばせ。
グライアスは、ブレステリスさまとの本気の同盟を考えていない。
捨て駒扱いする腹積もりなのでは」
「恐れ入り奉ります。
それがしも、薄々ながら疑っておりました」
「クレスティルテさまご失踪も、あるいはその捨て駒扱いの一環かもしれません」
不意に、ヴェリスティルテが笑顔をひっこめた。
夫を振り返る。
「殿下。
今すぐに、北湖岸の御屋敷をお調べください」
「北湖岸の屋敷、だと。
パトリアルスの身に何か起きたと言いたいのか」
「はい。
クレスティルテさまのお身柄が御入用となる、理由について考えました。
既に閨閥関係は途切れ、人質としての価値はございません。
しかし、それは国の場合です。
パトリアルスさま個人の場合は、如何でしょうか」
一瞬で、ジークシルトは立ち上がっていた。
「ラミュネスを呼べッ。
可及的速やかに、王太子の居間へ出頭させよ」
振り返りざま、扉に向かって怒鳴る。
ゼーヴィスは表情を固くして、ヴェリスティルテを見た。
「まさか」
「わたくしも、考えすぎだと思いたいのですわ。
ですが、心配です。
北東が逆襲に出る手段の一つとして――弟君に手を伸ばし、占拠された塁の返還を求めようとしていたら」
王太子妃は、両手を膝元で強く組んでいた。
北湖岸のダロムヴェール王爵邸に、パトリアルスの姿がない。
勤め人と思われる者十数名の遺体が、屋敷の蔵から発見された。
報告がエルンチェア宮廷に入ったその同日に
「パトリアルス亡命を希望、グライアス宮廷は歓迎する」
国王親書も届いたのだった。