北東の逆襲4
クレスティルテ・フローレン死す。
一報がグライアス王の元に届けられた時、さすがの彼も
「何だとぉッ」
執務机の卓上を両掌で激しく打ち叩き、椅子を蹴倒して立ち上がった。
「王爵どのが、御母堂を刺殺しただとッ」
「は、はい。
御当人さまがそのように申し出てこられ、従者もクレスティルテさまのご遺骸を確認しております」
「で、王爵どのはッ」
「現在は、ツィンレー剣将閣下が立ち会われ、神殿傍の小部屋にご待機なされておられます。
陛下に言上仕るよう、申しつけられました」
「ツィンレーが。
なぜか」
「は。
その辺りについては、特に承っておりませず」
「……そうか。
今は、ツィンレーが王爵どののお身柄を預かっているのだな」
「御意にございます。
なお、王爵どのは陛下へ御面談を賜りたいとの由。
先刻に使者を遣わしたところ、お取込み中の御様子で、ご遠慮申し上げたとも仰せになられておられます」
伝令に言われ、そういえば、と思いあたった。
怒りに任せてツィンレーを呼び出し、怒声を浴びせるのに夢中になっていたが、確か直前に面談を求められていたのだ。
実母を殺害する、その思惑を事前に話しておこうと考えていたかもしれない。
王は、個人的な感情を昂らせて、優先すべき事項を間違えたと悟った。
「もはや済んだ事だ」
ぽつりと言い、意味を察しかねているらしい伝令の、まごついた様子には関心を払わず
「ともあれ、何があったのか、御当人に語って頂かなければ分からぬ。
ダロムヴェール王爵どのをこれへ。
衣服を改める必要があるなら、しばしの時間を猶予する。
左様、王爵どのへ伝えよ」
指示だけを与えた。
室内では、ツィンレーとパトリアルスが、立ったまま向かい合っている。
「手間をおかけした。ツィンレーどの」
「まさか、パトリアルス殿下におわしたとは」
二人とも、それぞれの理由で顔が青ざめていた。
名乗りを聞いたツィンレーの衝撃と混乱は、ただ事ではなかった。
西国境の戦場から、北の漁村を守る小塁を経由して、当国に戻ってきたばかりの、しかも怪我人である。
宮廷内の事情にはとんと疎く、更にはパトリアルス・レオナイトともあろう貴人が滞在しているなどとは、想像外も甚だしかった。
加えて、その重要人物が、実母を殺害したのだという。
にわかには信じ難かったが、現に返り血を浴びた生々しい姿が目前にあり、教えられた現場に踏み込んだ際も
「うッ」
壮絶な光景に絶句した。
うつぶせに倒れている貴婦人の、既に生命を失ったと分かる姿が視界に入り、部屋中に漂う独特の臭い、天井近くの壁にまで届いている血しぶきの赤が、鼻と目に痛かった。
扉の内側には、茶を運んできたのだろう従者が、全てを床にばら撒いて、腰を抜かしていた。
「ひっ……ひぃッ」
がたがた震え、頬を引きつらせて、従者はしゃくりあげるような声を漏らしている。
とにかく人を呼ばねば。
使い物になりそうもない従者はさておき、廊下へ走り出て、ありったけの大声をあげた。
たちまち神殿を守る衛士らが駆け寄ってきて、何事かと室内を見、揃って悲鳴を抑えられず、また硬直したものだった。
一旦は、現場をこのまま保持するように、そして故人に布をかけて差し上げるように、命じた。
「良いか。
このままだぞ。
指示あるまでは、この場所のものは一切動かすな。
そして、今この場に来た者以外の、追加の立ち入りを厳禁する。
分かったな」
厳しく言いつけ、また神殿へ戻って
「まずは、それがしの誘導に御従いください」
約束通り逃げずにいたパトリアルスを、空き部屋に連れてきたのだった。
手間をかけたと謝る彼を、距離を取って扉の前に立ちつつ、ツィンレーは見やった。
とても、このような大胆な事をしでかす風には見えない。
噂通りの、物静かな学者肌にしか思えないのだ。
が。
間違いなく、あの部屋にはクレスティルテの亡骸が残されており、当人は物凄い姿になっている。
「恐れながら、殿下。
これは一体どういう事なのですか」
つい説明を求めるツィンレーだった。
パトリアルスはうっすらと笑い
「事の次第は、陛下の御前にて申し開き致します。
それと、ツィンレーどの。
わたしは殿下と敬称される身分ではなく、今は臣籍に降りた爵位号の主です」
「えっ。
しかしながら、ジークシルト殿下の弟君にあらせられるのは」
「かつては弟でした。
今は違います」
ツィンレーにとっては、全く訳が分からない事を言い出した。
どうしても、事情聴取には応じない、国王陛下の御前で全てを語ると、パトリアルスは頑なで、やむなく伝令を走らせた。
しばらく無言の対峙が続き、ようやく王の指示が届いた。
行きがかり上、ツィンレーは国王の居間へ行きたいとはあまり思わなかったのだが、パトリアルスの身柄を抑えた、あるいは彼自らが身を委ねてきたというべきか。
預かったからには、出頭に付き添わなければならない。
気まずさを
「この母子に何が起きた」
真相を知りたい意欲で拭い取り、気を取り直して、案内を始めた。
まずは、着替えをしなければならない。
もちろん、国王も同感だった。
ツィンレーの方はなるべく見ないようにしつつ、衣装を改めたパトリアルスへ
「どうぞ、お楽に」
声をかけた。
人払いしようかと少し考えたようだったが、第一発見者は腰を抜かしてしまって動けないうえ、多少なりとも状況を把握できているのは、先ほど怒鳴り散らした臣下しかいない事実から、目をそらせなかったと見える。
とりあえず、扉の前に立って護衛を務めよと命令し、自分も居間の安楽椅子へ腰を下ろす王だった。
「さて。
王爵どのにおかれては、随分と思い切ったもようだが。
何を思われて、御母堂を御手にかけられた」
「謹んで、国王陛下へ申し上げ奉ります」
パトリアルスは神妙に応じた。
ツィンレーも、やや身を乗り出していた。耳を澄ませているのかもしれない。
「わたくしは、貴国への亡命を希望致します」
「ぼ、亡命」
「はい。
エルンチェア王国において、王太子毒殺未遂事件が発生し、首謀者は我が実母クレスティルテ・フローレンでした。
諸般の事情により、母は生国さがりを言い渡され、わたしは親王号剥奪、新たに姓を与えられ、王都から追放されたのです。
そこまでは、恐らくご存じかと」
「あ、いや。
実は、詳しくは知らなんだ」
「左様でございましたか。
では、そういう事態が発生したと思し召されますよう」
淡々と語るパトリアルスを、ツィンレーは
(この男……やはり血は争えない。
ジークシルトどのに、戦場で見たあの炎神の化身のような男に、気質がそっくりだ。
何が、気弱な学問好きなものか。
御母堂を弑し、ここまで冷静に振舞える男のいったいどこが、武断王の気に障ったというのだ)
不思議な気持ちで見つめていた。
亡命を口にした青年は、相変わらず淡々としている。
「わたしは、冤罪を被ったのです。
首謀者が帰国して、しかも紛糾中のブレステリスです。
今更、罪には問えません。
身代わりとして、わたしが罪を受ける手配になっておりました」
「……ほう、そのような裏事情が」
「はい。
従いまして、わたしは身を守るため、首謀者を成敗しなければならなかったのです」
「そのうえで、亡命をご希望か」
グライアス王の表情も、だんだんと色めき立ってきた。
彼は、目前にいる青年の思惑を、どうやら看破したらしい。
「首謀者を討ち取ったとして、堂々の凱旋を希望するのではなく。
我がグライアスに、身を寄せたいと。
なるほど、そういう事か」
「ご理解を賜りましたのなら、幸甚に存じます」
自分の考えの、少なくとも一部は伝わった。
そう見たか、パトリアルスも凄みのある微笑を口元に湛えた。
もし、この場に居合わせる二人が、バロート王の表情を見た事があったなら、確信したであろう。
「この男は、武断王の血を引く男だ」
と。
グライアス王は喉を鳴らした。
「確かに、王爵どのは、我がグライアスの為に役立ちたいと、先日お申し出をなされたな。
亡命のご希望は、しかと了解した。
本日より、そこもとを、我が臣下として迎えよう」