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ガロア剣聖伝  作者: 北見りゅう
第三十一章
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北東の逆襲3

 その朝。

 パトリアルスは、実母を伴って神殿へ参拝に訪れていた。


 どの国でも共通して行われる諸神礼賛の儀には、外国人である事から遠慮して出席しないが、人々が行事を終わらせた後、ひっそり祈りを捧げに訪れる。


 この二、三日ばかりそうしていた。

 クレスティルテは、かつて北方圏随一の美女と呼ばれた若い頃からは、すっかりかけ離れた外見に成り果てている。


 元から食が細かったのが、食欲を完全に失ってからは痩せ衰える一方で、頬もこけ、皺が目立ち始めている。


 度重なる発作で、時には自らを傷つけたのだろう、手首にはひっかき傷らしいかさぶたもあった。

 まことに痛々しい。

 だが、最愛の息子と顔を合わせ


「これからはいつも一緒です」


 長く熱望し続けた言葉を耳にしたときから、少なくとも生気は取り戻したようだ。

 母の為に、彼は約束通り絶えず居間におり、望まれれば会話をし、茶を喫し、美術庫へも同伴する。


 本日も、神殿参拝を誘われて、クレスティルテは機嫌よく廊下に出た。

 所用を済ませてからお迎えにあがる、との伝言を聞き、今か今かと待ちかねていたのだ。


「お越しあそばされました」


 侍女の取次に、足取りも軽く部屋を後にする。

 パトリアルスの丁寧な朝の挨拶を受け、クレスティルテはさらに機嫌をよくした。


「ようやっと、願いが叶うた」


 幸せそうに微笑んで、背の高い息子を見上げる。

 パトリアルスも頷き返す。


「さぞや、お辛い日々を過ごされた事でしょう。

 無力なわたしをお許しください」


「許しを請うのは、この母じゃ。

 そなたこそ、何もしておらぬのに、このような事になって」


()()()()()()()から、このような事になったのです。

 母上は、どうぞお気に病まれますな。

 全ての事は、ご放念あそばしませ」


 神殿につくまでの間、ひそやかに会話を交わした。

 この時、パトリアルスは、前日までの間に母の口から語られた実兄暗殺未遂事件の顛末を、心の中で反芻していた。


 決意が固まる。

 神殿で、母子は熱心に祈りを捧げた。


「少し休憩致しましょう。

 誰か、休める部屋を設えるように。茶も用意しなさい」


 付けられているグライアス人従者へ言いつけ、母を介添えする。

 クレスティルテは、嬉しそうに細くなりすぎた腕を伸ばしてきて、息子の主導に従った。


 まもなく、早い時間から温められている小部屋に案内された。

 諸神礼賛の儀に出席する、身分が高い貴族向けの休憩室らしい。


 グライアス宮廷は、ブレステリスと攻守盟約を交わした際、互いの友好の証としてそれぞれの国にちなんだ調度品、食器などを贈りあっている。


 この部屋も、ブレステリスの象徴色である緑を基調とした飾りの品、ザーヌ大連峰を描いた山河図が、見た目よく配置されていた。


 故郷をしのぶ心境になったのだろう。

 クレスティルテは、壁に架けられた一幅の絵を、最近に無い熱心さで鑑賞を始めた。


「母上、椅子はよろしいのですか」


 声をかけられても、すぐには反応しない。

 パトリアルスは、絵に見とれる母の後ろ姿を、少し下がった位置から凝視した。


(母上……母上)


 懐かしい思い出が蘇る。

 まだ幼かった頃、庭で遊んだ時に見守ってくれていた姿を。


 夕食の際、一日の出来事を熱心に語る自分へ、微笑みながら耳を傾けてくれた姿を。

 学問の教授に褒められ、我が事であるかのように喜んでくれた姿を。

 そして。


「そなたには、ジークシルトという兄がいるのじゃ。

 今どうしているか」


「あにうえ。

 お目にかかった事はございません」


「この母もな。会うた事は無い」

「それはなぜですか」


 ごく素直な問いに、力なく笑い、答えなかった姿も。

 今であれば、あの問いがいかに残酷なものだったのか、よく分かる。

 更には、母が極端な方向へ思い詰めた理由も。


(もっと早く分かっていれば。

 母上。


 兄上を御手にかけようなどとは、思わせないよう。

 わたしが取り計らってさえいれば)


 父の弾劾も思い出される。


「それが罪なのだ」


 何もしなかった、知ろうともしなかった。

 確かにその通りだったと、彼は思い、思いながら懐へ右手をいれた。


「お寒くはございませんか」

「おお。

 これはすまなんだ、パトリアルス。

 つい、絵に見とれて」


 優しい微笑を浮かべながら、クレスティルテが振り向いた瞬間。

 パトリアルスの右手が水平に動いた。


 手には、短刀が握られている。

 その凶刃は、実母の喉を一直線に掻き切っていた。

 鮮血が吹きあがる。


「パ、トリ……ア、ル」


 何が起きたのか。

 クレスティルテには、すぐには理解しかねただろう。


 よろめき、信じられないという表情で、彼女は息子を見つめた。

 パトリアルスが、前方へつんのめったクレスティルテを抱きとめる。


 その時も、彼の右手は短刀を離してはいなかった。

 母の胸元へ、とどめの一撃が突き刺さった。


「あ、あ」


 かっと目を見開いたクレスティルテは、息子の両肩に手を乗せた。

 それが、最後の仕草だった。


 その姿勢のまま、ずるずると滑るように崩れ落ちてゆき、やがて息子の足元に倒れこんだ。

 またたくまに血溜まりが出来る。

 パトリアルスの全身は、母の返り血で染まり、壁や床も血しぶきが鮮やかに、凄惨に、彩っていた。


「致し方ありません。

 わたしも母上も、重罪を犯しました。


 命をもって償わねばならない、重罪です。

 どうか、神の国にてお待ちください。


 わたしも、恐らくは遠からず、そちらに参りますから」


 もう動かなくなったクレスティルテを見下ろし、パトリアルスは静かにつぶやいた。

 謝罪ではなかった。



 その足で、彼は神殿へ向かった。

 母を誘いに行くその前に、所用と称してある場所へ行っていた。


 グライアス王の居間である。

 先ぶれの伝令を行かせてあったので、申し込んだ面会は受容されたものと思っていたのだが、いざ行ってみると


「恐れながら、ただいまは陛下の」


 私室を護衛する剣士が、困惑顔で「入れない」と言う。

 驚く暇もなく、王の激しい怒声が漏れてきた。

 どうも、誰かを叱責している様子だった。


「これは失礼。

 後ほど、出直します」

「恐れ入ります」


 やむを得ず、踵を返した。


(先に申し上げておこうと思ったが、仕方ない。

 事後承諾して頂くより外は無さそうだ)


 部屋から遠ざかり始めた時、扉が開く音がした。

 つい、足をとめて振り返った。

 若い武人が、蒼白な面持ちで出てくるところを見かけた。


(随分と怪我をしているようだが、あのような様子の者をお叱りあそばしたのか)


 何があったかは、パトリアルスは知らない。

 だが、その若い武人はどう見ても戦場からの帰還者にしか思われず、そのうえひどく顔をゆがめ、何かを思い切っている気配がある。


 よもや自決か。

 とっさに、そう感じた。


 青年は、パトリアルスとぶつかった。

 気づかなかったようだ。


 相当に叱責が身に堪えたらしい。

 どこを目指しているのかわからない、頼りない歩き方で、青年は去ってゆく。


(……早まらなければよいが)


 これからの、重大な行為を抱える身でありながら、パトリアルスはふらふら歩いてゆく青年を気に留めていた。


 その直後である。

 彼は淡々と、実母を手にかけた。


 全てが終わった後、故人となったクレスティルテを、出来れば神殿に安置したい。

 そう考えつつ、現場から立ち去った。


 クレスティルテ殺害は、いずれは発覚する。

 今後どうなるか。王へ断りもなく行った行為を、どのように裁定されるか。


 分からないからには、まだ自由に動けるうちに神へ祈りを捧げておきたいという思いもあった。

 神殿に足を踏み入れた時、どこをどう彷徨った末にたどり着いたのか、あの若い武人がユピテア大神の前にひざまずき、短剣を引き抜いた瞬間を見た。


「待ち給え」


 その青年、ツィンレー剣将の自決を、止めていた彼だった。

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