南方炎上2
東のタンバー峠、西のゲルトマ峠、ともに南北を繋ぐ交通の要所である。
領地する国の不文律として、税を徴収する代わりに守備隊を置き、塁を築いて峠の通行を守っているのだが、そればかりではない。
薪や塩を筆頭とする重要な輸出入品に対し、南北それぞれの塁に備蓄所を設けて、一定量を保管するのも役目だった。
従って、峠にはある程度の食料や薬、その他の品は揃っているのだが、要は外国からの預かり品であって、峠の守備隊が任意に使えるものではない。
緊急事態を理由に、勝手に手を付けてよいものか。
守備隊の責任者という立場では、一存では如何ともなし難い。
リコマンジェ軍の厚意、あるいは別の何かの意図に甘んじるより手が無いのだ。
ヴェールト守備隊は、今後への不安と現状の屈辱に苛まれ始めていた。
「無理にでも下山を試みてみましょうか」
生き残りの一人が提案した。
隊長は首を縦に振ろうとはしなかった。
「死にたいのか」
「お言葉ながら、いつまでも膠着状態でいるわけにはいきません。
リコマンジェ軍の動員人数は、百名以下ではありますまい。
早晩、糧食が尽きるかと思われます。
そうなった場合、我々はどうなりますか。
北の同胞を差し置いて、南の我々を助けてくれるとは到底思えないのですが」
彼の反論にも確かに一理ある。
認めざるを得ないだろう。
「しかし、どう考えても無事に下山がかなうとは思えん。
我が宮廷はともかく、山麓の宿舎であれば、峠の異常な状況を少なくとも想像はしているだろう。
それでも、誰一人来ないのだ。
様子を見に来る事もしかねる程に、街道事情は悪化していると見るべきだ」
「来たくとも来れないという事ですか」
「もしくは、来ようとして失敗しているか、だな」
北側では、ヴァルバラスの守備隊が峠への守備兵増員を手配したものの、待ち伏せに遭って全滅したという。
リコマンジェ軍の指揮官が、その現場を通過して来たと語っている。
であるなら、南でも同じ事が起きている可能性を疑うべきだろう。
山岳民の正確な人数や居住場所は一切が不明であり、言語すら通じない。
敵の状況は何一つ判らないのだ。
もし彼らが峠付近の至る所に点在し、情報を共有して、何らかの連携をとっているとしたら。
同じ行動律で襲撃を繰り返しているとしたなら。
闇雲に山を下りるのは、あたら無駄死にするに等しいではないか。
「いや。
貴官の言い分はもっともだが、やはり許す事は出来ない。
今は動くべき時ではない。
救助を待つのが正解だ」
「隊長どの」
「まともに体が動く者は一人もおらんのだ。
人数も揃えられず、ろくに戦えもしない。
塁から一歩でも出たら、命は無いものだと思わねばならんだろう。
ただ死にに行ってどうする」
「仰る通り」
会話に割り込む者が居た。
いつのまにか詰め所に戻っていたらしい、席を外していたリコマンジェ軍の指揮官だった。
「南の街道については、我らの管轄外です。
貴軍の安全は保障致しかねる。
さしあたり、北の峠街道は我が軍が押さえております。
日常生活を御心配の模様ですが、食料の輸送は手配済み、我がリコマンジェが本峠に備蓄している品も、限度はありますが使用許可も下りております。
何も案ずる事はございません。
南側が何らかの策を講じるまで、お待ちになるのが得策でしょう」
「……お気遣い、恐れ入ります」
「なんの。
我らを頼ってくださって構いません」
北の指揮官に他意は無かっただろう。
むしろ親切心だったに違いない。
だが。
極限下にあって、心理的な圧迫感に苛まれる人心には、必ずしも快い響きには聞こえなかったとしてもやむを得ないところだった。
表向きは丁寧に礼を述べつつ、南の守備隊長とその周囲は、密かに唇をかみしめていた。
峠ばかりが騒動の中心部ではなかった。
激しい流血を伴ったゲルトマ峠の攻防と襲撃事件に、衆目は否応なく集められたが、大陸南方圏の火種は別の場所でもくすぶっていた。
南西三国の西翼、ラフレシュア王国である。
暦が変わる前に勃発した内乱は、未だ鎮まっていない。
鎮静どころか、国外にまで類焼が及ぼうとしている。
「もう国境を超えるしかない」
宮廷を追われた人々のうち、辛くも王都を落ち延びた一部が、行き場を失った末に祖国からの脱出を計画していた。
彼らは、王族ではない。
鎖国論打破を唱え、王国の未来を外国との交流に託すとの希望を持っていた故王太子に仕えた側近衆で、最も身分が高い者でも盾爵だった。
大陸の爵位序列では下から二番目で、かろうじて貴族と称せる程度だが、王都を出る時はそれが功を奏した。
革新派の掃討に全力を挙げていた親王率いる保守派は、主に身分が上の者を狙っており、身分意識から
「貴族は王城周辺に屋敷を構える」
という先入観を持って行動していた。
どさくさに紛れる形で、爵位が低いか王国貴族とだけ称される身分の者は、郊外へ避難する市民と一緒に逃亡していたのだった。
とはいえ、都市部でしか暮らした事の無いレオス人が、庶民階級に交じって村落へ腰を落ち着けられるはずもない。
ラフレシュアで生計を立てられる見込みもつかない彼らとしては、国を出る以外に生き延びる方法を考え出せなかった。
「ダリアスライスを目指す」
王都からある程度北西に離れた地方都市へ何とか逃げ込んだ盾爵は、革新派らしく南西三国の結束を見事に無視した。
農家に、厳しい懐事情を忍んで幾ばくかを都合し、数人の同志とともに納屋を借りている。
「サナーギュアはだめか」
同志の問いに、彼は渋い顔をして
「信用ならん」
きっぱり言った。
「予め断っておくが、エテュイエンヌも亡命先としてはふさわしくない。
南西三国は、保守派とどう繋がっているか判らんぞ。
長年の習慣で、王家の間では婚姻による閨閥が完成され尽くしているのだからな。
逃げ込んだ途端に捕縛されて、保守派どもが制圧した我が王都へ逆戻りさせられてはたまらん」
「なるほど」
「ツェノラは遠すぎる。だいたいあの貧国では、我らを相応に遇するなど無理な相談であろうよ。
距離からすれば、ラインテリアが一番近いが、ここから北へ向かう事になる。すなわち、王都を通らねばならんのだ。
そんな危険は犯せない」
「ヴェールトはどうか」
「難しいな。あの国は気位が高い。
何せ、旧帝国時代の首都を鼻にかけている面倒な国だ。
我らのような身分では、門前払いが見えている。
行くだけ時間の無駄だ」
「ならば、ダリアスライスに賭けるしかないか」
消去法につぐ消去法で、残った南方圏中央へ逃げる。
そう決まった矢先である。
「動くなっ」
納屋に、踏み込まれた。
「しまったっ」
「くそ、売られたかっ」
どうやら、農家は買収に応じるふりをしただけで、味方についたわけではなかったらしい。
歯噛みしても、敵陣営に押し込まれた事実をどうする事も出来ない。
剣を突き付けられた。
が。
「貴君、後を頼むぞ」
盾爵は耳打ちされた。
訊き返す暇は無かった。
一人の同志が、諦めて投降すると見せかけ、納屋にあった鍬を手に取り、振り回し始めたのだ。
「手向かうかっ」
捕縛の命を受けた兵士は、目算で二十名いた。
一人で立ち向かえる勢力差ではないにも関わらず、彼の同志は、誰か一人でもこの場を落ちる事が出来れば良いと考えたのだろう。
更に一人が、積まれていた藁の山を崩した。
突然になだれ落ちてきた枯れ草を頭から浴びて、前方に出ていた兵士が怯んだ。
鍬や鋤を握りしめた、覚悟を決めたらしい同志達が、虚を突いて暴れる。
決死の人間が全力を振り絞れば、その底力は瞬発的には凄まじいものを発揮する。
貴族が相手とあって、まさか戦いを挑まれるとは思っていなかったのだろう、捕縛兵らは形式的に剣を構えただけだったと見える。
数人が打ち払われ、混乱が生じた。
あえかな抵抗ではあったが、盾爵を納屋から押し出すようにして逃がすには十分な時間は稼げた。
「行け、早くっ」
たった一人だけではあったが、ラフレシュア革新派に属した下級貴族は、急場を切り抜けたのだった。
納屋に残った同志がどうなったか、それは考えない。
今の彼は、ダリアスライスを目指す事で精一杯であり、感傷に浸っていられる場合ではなかった。
生き延びなければならない。
使命感が、貴族らしからぬ過激な行動をとらせた。
納屋の入り口にいた、捕縛兵の指揮役が使っていたと思われる空き馬に、盾爵は文字通り飛び乗った。
轡をとっていた若い兵士を殴り倒した末、鐙につま先をかけ、鞍にまたがり切れていない状態で
「ハィッ」
馬の尻を蹴飛ばしたのである。
誰も止められない。
曲芸師さながらに、馬の横腹へ張り付いたかのような恰好で、東へ。
盾爵は、ダリアスライスへ向けて走り去った。