ゲルトマ、再び5
リコマンジェの西峠に対する干渉は、彼らには相応の理由があったものの、東にはたいそう刺激が強かった。
リューングレス王国で、密に旗揚げをもくろむ第三王子アースフルト親王にとっては、計算外も甚だしく
「我が大陸で最も保守と申せば、誰もが、かの王国を第一に挙げると思っていたのだがね。
これ程に行動が早いとは、考えていなかった。
南がどう出るか、再検討を要するようだ」
驚きを隠さなかった。
有り得ないとまでは思わなかったのだが、自主的に軍隊を送り付ける程の過激な策へ、それも極めて迅速に打って出るとは読めなかったのである。
「つまりは、リコマンジェは状況の急激な変化を好まないばかりか、実力に訴えてでも変化を止めようとする気質なのだね。
さて。
我がリューングレスはどう出るべきか」
もちろん、北の情勢についても、アースフルトには連絡が入る。
親戚であるグライアス王は、想像通り、エルンチェアへの反撃を諦めてはいないという。
リコマンジェの思いもかけない参戦に、最初こそ仰天した彼だったが、やがて一案を講じ、秘密にしている経路ではなく、リューングレス宮廷を通じての奏上を試みた。
読みが的を射ていれば、必ず乗ってくる。
果たして、見込みは正解にたどり着いていた。
「そうか、祝着。
先方にわたしの意が伝わったと言う事は、わたしが何を考えているか、ある程度は察知されたとも見なければならないだろうね。
まあいいさ。
わたしとしても、グライアス王陛下に野心家と思われて、別に損は無い。
真の狙いを隠す外套の役割を果たせれば、わたしには重畳だ」
「それでは殿下、当方もそろそろ動きますか。
放っておいては、せっかくの手駒も役に立たなくなりかねません」
「確かに。
一時は断念も考えたがね、リコマンジェが想定外にゲルトマ騒動へ首を突っ込んでくれた。
あのお陰で、大いに時間が稼げた。
手配は、してあるのだろうね」
「御意にございます」
「結構。
準備はしておくものだな。
たとえ無駄になる可能性があったとしても」
アースフルトは満足して、彼にとっての一世一代と言ってよい賭けに出る決断を下したのだった。
吹雪は相変わらず猛威を振るっている。
エルンチェアの北にある王家別邸は、ひどく寂しい佇まいを見せていた。
春まで融けない白い壁が、湖岸を頑丈に鎧って、人の来訪を受け付けない。
屋敷に居るのは、主人であるパトリアルスと勤め人達、宮廷から差し向けられた執事の、僅か十三人だった。
外界から遮断された、内側だけで完結する日々に、誰もが息苦しさを感じている。
パトリアルスさえ、この温厚な紳士としては珍しいと言うべきで、苛立つ姿をしばしば勤め人らに見せている。
もっとも、他人に八つ当たりするところまでは、まだ気持ちが荒れてはいないのだろう。
専ら本を開いたり閉じたり、あるいは用もなく廊下を歩き回ったりと、落ち着きを欠いた様子だった。
このような時。
急な来客が玄関に立ったとなれば、屋敷中が騒然となるのも無理はない。
「わたしに来客とは」
書斎に居たパトリアルスは、大慌てで立ち上がりつつ、乱暴に開きかけていた本を閉じた。
ただでさえ滅多に人が来ない、冬になって以降は鳥のさえずりも聞こえない程に、外との連絡が途絶えていた折である。
この吹雪をかいくぐって足を運んだという人物を、深く詮索しなかった。
自裁を促す使者だったとしてもよい。
そこまで、彼は思い詰めていた。
「そなたか、来客というのは」
居間の扉を自ら開け、椅子から立ち上がった人物が挨拶するのを遮る勢いで、パトリアルスは叫ぶように声をかけた。
そこに居たのは、まだ若いレオス人だった。
面識は無い。
「お初に御意を賜ります、殿下」
全く久しぶりに、王族への敬称を呼び掛けられ、パトリアルスは居間の応接卓へ向かう足を急激に止めた。
エルンチェア宮廷から派遣された男ではない。
とっさにそう思った。
「どうしてだ」
かなり距離をとった位置から、パトリアルスは疑問を投げかけた。
「どうして、わたしを殿下と呼ぶ。
現在のわたしは、バロート陛下に対し奉り、親王号を御返上仕った身だ。
ダロムヴェール王爵に封じられた事を、知らないはずはないのに」
「もちろん、存じ奉っております」
「ならなぜ」
「我らにとりましては、殿下は依然として殿下におわしますゆえ」
危険な事を言い出した。
まさか、親王派と称していたアローマ内務卿の手の者だったのだろうか。
今更ながら、屋敷に招じ入れた事を悔いるパトリアルスだった。
「……わざわざの来訪、存分に労いたいところだが、生憎とそういうわけにはいかないようだ。
ご苦労だが、今すぐ当屋敷を立ち去って貰いたい。
直ちに退去するのであれば、穏便に事を収める道もあろう」
「退去はやぶさかならず。
しかし、わたし一人では立ち去りませぬ」
「何」
「殿下にも、御同行をお願い申し上げる次第」
信じ難い事を言う。
パトリアルスはぼう然とした。
「わたしに。
何だと。
どういう意味だ」
「申し上げた通りの意味でございます。
殿下には、是非ともわたしと共に北湖岸から脱出を」
「ばかな」
反乱の旗揚げを企画しているのだろうか。
武力でエルンチェア宮廷を制圧する、その象徴として、自分の身柄を欲しているのか。
そう思った瞬間、彼は踵を返した。
だが。
居間の出入り口付近には、いつのまに来ていたのか、十人以上の男達が居た。
全員が、屋敷の勤め人が身に着けるお仕着せの揃い服姿だったが、村の若い者では有り得ない。その証拠に皆が短刀を構えている。
「これは……」
「ええ。
御覧の通りでございます、パトリアルス殿下。
この御屋敷には、殿下にお仕え申し上げるに相応しい者はおりませぬようで。
致し方なく、我が方の兵士と取り替えました」
「何だって」
「最初から御承引を賜るとは考えておりませんでした。
手荒な真似になりますが、この際は御勘如願わしく」
男は手で合図を送りながら、ずかずか近づいて来る。
言葉遣いから、明らかにエルンチェアの出身ではないと知れた。
「我がエルンチェアの者ではないのか。
ブレステリスの訛りでもない。
では、どこだ」
「さあ、どこでしょう」
忍び笑いを漏らす。
手の振りによる指示に従い、扉を固める男達が三人ばかりもパトリアルスに駆け寄り、あっというまに羽交い絞めにした。
彼の方も、抑え込まれまいと体をよじり、腕を振り払って、懸命に抗ったのだが。
いかに長身であっても三人が相手では分が悪く、しかも兵士との格闘には不慣れすぎた。
背後に回った一人が両脇から腕を通して、肩もろともきつく締めあげ、右足にも自分の足を絡める。
残った二人が左右それぞれに手首を抑えて、後ろに回した。
強い痛みと圧迫で、パトリアルスは
「ああっ」
大声を上げた。
面談を求めたレオス人は、無遠慮に腕を伸ばして来、殿下と敬称していた貴人の鼻をつまんだ。
そのまま、上を向かされる。
「何をするかっ。
離せ、やめろ」
「誰も来ませんよ、殿下。
先程も申し上げております。
この御屋敷に、殿下を護りまいらせる手はございませぬ」
くすっと笑った彼は、懐から陶器製の小瓶を取り出した。
「しばらくお休みください。
外は吹雪で、たいそう歩きにくいのです」
パトリアルスは厳重に口を閉じ、顔をそむけて、得体のしれない瓶の中身を飲まないように必死の抵抗をしている。
しかし、鼻をつままれては、いかに努力しようと限度はあった。
(いけない、屋敷から連れ出されては。
どうなるか判らない。
兄上、兄上っ)
唇が、うっすらと空いた。
硬く冷たい感触が口元を刺激する。
「母上がお待ちにおわします」
その言葉を聞いた瞬間、パトリアルスの全身から力が抜けた。
ほんのかすかな時間だった。
今まで感じた事が無い、妙に甘酸っぱい味が口の中に広がって、喉の奥へと流れ込んでゆく。
飲まされてしまった。
「ご安心ください、毒ではありませぬ。
南方渡りの秘薬です。
確か、エテュイエンヌだったかと。
各種の薬を扱う老舗がございまして、服用した者を死人に見せかける珍品です」
「まさか……そんな都合の良い……薬が」
「あるはずがない、と。
誰もがそう思い、そう申します。
ですが、有る所には有るのですよ。
高価な上に、大変珍しい薬ゆえ、入手は甚だ困難ですが」
言葉の最後を、パトリアルスは聞き取れなかった。
遠のく意識の中で、懐かしい母の笑顔、そして兄の姿が交錯し、やがて消えた。