ゲルトマ、再び4
教会の鐘が静かに鳴っている。
北方圏の冬は、日差しとほぼ縁が無い。
太陽が南天の頂きにある事を告げる響きだけが、街の人々が時刻を知る唯一の術である。
しかし。
クレスティルテにとって、時の流れに意味は無く、関心を向ける理由も無かった。
従兄たるキルーツ剣爵の邸宅に引き取られたが、そこは安住の在所とは言えず、彼女のあずかり知らぬところで新たな居住の場が決められていた。
「ユピテア教会へ、祈りを捧げに行ってみてはどうか」
暦改めの前、そのように勧められた。
「パトリアルスどのの安否を思う胸の内は、よく判る。
大神の慈悲に心身を委ね、一日も早い再会が成るよう、祈りを捧げるより手があるまい」
「……お心遣いありがとうございます」
屋敷の主人と従者一同を安堵させる、真に穏やかな表情を見せ、エルンチェアの元王后は頷いた。
従兄剣爵の本心が、屋敷からの退去にある事を、彼女は見抜いたかどうか。
さしあたりは、懸念された乱心奇行は現れず、仕立てられた馬車におとなしく乗ったクレスティルテだった。
別れ際
「パトリアルスが帰着したら、すぐにお知らせください」
そう言い残した。
「もちろんだ」
キルーツ剣爵は笑顔で請け合ったが、内心では、夢に終わる事を熟知している。
ただ
(察してはいるのだろう)
クレスティルテの言葉から、自分はこの屋敷に戻れない、愛する息子と会う日も来ないと、承知しているようだとは感づいた。
いくら理性で判ってはいても、感情が納得を拒むに違いないだろう。
馬車の中で、またあの発作じみた叫びをあげ、落ち着きを失うかもしれない。
心配しながら、彼は傷ましげに去ってゆく従妹を見送った。
横には、クレスティルテを持て余し、困り果てていた執事が何とも言えない表情で佇んでいる。
約束を実行してくれた主人に感謝する反面で、行き場の無い貴婦人を追い出してしまった事への気まずさを、味わっているのだろう。
剣爵は長年仕えてきた初老の執事を振り返り
「苦労をかけたな。
礼を言う」
軽く頭を下げた。
執事は申し訳なさそうに首を振り
「旦那様には、さだめしご苦渋のご決断をなされたものと拝察致します。
我ら一同、深謝にたえませぬ。
真に恐れ多い事」
主の謝意に恐縮している。
キルーツは疲れたように笑った。
「構えて申し付けるが、気にするなよ。
これは、やむを得ない事だったのだ」
そっと執事の耳元へ口を寄せ、何事かを囁く。
えっ、と驚く小さくない声が上がった。
「そのような御事情が」
「左様。
決して、勤め人の都合に合わせたわけではない。
ゆえに申しているのだ。
誰も気に病まなくて宜しい。
他の者にも、上手に言い聞かせておくように。
それと、月の終わりには約束した通り、手当てを支給する。
手配もするようにな」
「かしこまりました」
初老の勤め人は、表情を明るくした。
少なからず罪悪感があったのだろうが、主人の耳打ちで、気を取り直したとみえる。
クレスティルテを乗せた馬車が見えなくなった頃、キルーツは
「だいぶ待たせてしまっただろうな。
ロギーマどのを控えの間から、わたしの書斎へ向かわせておいてくれ」
改めて命じた。
従兄剣爵と執事の間で、どのような会話が交わされたのか、クレスティルテに知る由は無い。
もっとも、興味も無かった。
教会へ行けとの趣旨は、表向きこそ
「気晴らしも兼ねて、祈りを捧げてくるがよい」
との親切な勧めだったが、実際のところは
「厄介払いであろう」
意識が明瞭な時には、察しをつける程度の知力はまだ活きている。
それでよいと、彼女は諦めていた。
馬車は王都から離れ、東に向かっている。
ブレステリス育ちの身には、目指す方角を知ったと同時に、どの街にあるユピテア教会かも見当をつける事が出来た。
「モエライルか」
「御意にございます」
馬車に同乗している、迎えの尼僧が恭しく答えた。
歴代王族が隠棲する街であり、首都以外では最も上格式の教会がある。
たとえ有り様は追放だとしても、王族に連なる身が余生を送るには申し分無い礼儀が整えられている場所が用意されたのだろう。
従兄の最大限の心遣いだと、クレスティルテは理解した。
その後は、ユピテア教会に迎えらえ、僧籍に入る準備を行いつつ日を送っている。
モエライルという街は、あまり広くはないが、王族向けを意識した上品な景観になっている。
ゆったりとした幅員の道を、綺麗に造りを揃えられた質の良い住宅が左右から挟み、夏なら花も緑も目に優しく大通りを飾る。
繁華街は無く、筋が良いと認められた商人だけが店を持つ事を許され、活気の代わりに品性が豊かだった。
クレスティルテは、限度はあるものの、美術品を扱う店の訪問や商人の出入りも認められていた。
ユピテア教における式典の手順、祈りの言葉を学びつつ、好きな絵の鑑賞も楽しめて、少しずつではあるが奇行も鳴りを潜め始めていた。
年が改まったある一日。
「クレスティルテさまに申し上げます」
下級の女性僧侶が、与えられている僧房に来て、来客を告げた。
近頃よく出入りする商人が、絵を持参したという。
教会の礼拝堂付近に用意されている応接の間に赴くと、見事な風景画が支度されていた。
美術商を営んで長いと自称する中年の男が、連れている手代と共に恭しく一礼した。
「いかがでございましょう」
「素晴らしいが、見慣れぬ風景じゃ。
ザーヌ大連峰が主題なのは判るが、山の形が異なる」
「さすが、お目が高くあらせられます。
左様にございます。
この絵は、リューングレス王国から見た連峰の東端図にございます」
「何。
リューングレス」
珍しいどころではない。
クレスティルテは、眉をひそめた。
「芸術に無粋を申すのは、気が引けるがの。
なぜにリューングレスの構図を選んだ。
時節柄、好ましうないとは思わなんだのかえ」
問いには、返答は無かった。
しかも、周囲は不気味に沈黙し、応接の間に居並ぶ尼僧達も、ただ壁際に沿って佇むのみで、一人として微動だにしない。
クレスティルテは自分の周りを見渡し、誰も言葉を発さぬばかりか、身じろぎもせずにこちらを見つめている異様さに、否応なく気づいた。
「これは何ぞ」
「お静かに」
思わず口をついて出た高声を、一番身近に居た年かさの尼僧が咎めた。
無表情のまま
「これより、クレスティルテさまにおかれては、御通達をお聞きいただきます」
「通達」
鳥肌が立つ程の冷たい口調に、元王后は目を見開いた。
何が告げられるというのか。
僧侶身分が用いる灰色の一枚布でこしらえた、質素な衣服姿のまま、彼女は体をこわばらせた。
「委細は承知した。
大儀である」
王は報告を受け、厳しい表情のまま軽く頷いた。
臣下を見据え
「手配は一切が終わっていような」
「御意にございます。
此度こそは、仕損じるわけにはゆきませぬ。
必ず吉報を奏上致すでございましょう」
「待っておる」
次の報告を求める。
すぐに別の者が目の前に現れた。
「ゲルトマ峠の情勢は、リコマンジェ参戦により、一応の終息を見ております。
詳細は不明ながら、現在までに山賊の襲来した様子は無く、峠の守備隊は南北共に動いておらずとの由」
「承知。
あのリコマンジェがな。
判らぬものだ」
「御意。
タンバー峠は、現在のところ通行不可との報告がございました。
峠付近は吹雪が激しく、封鎖されているとの事」
「やはり、東の峠は冬が一番の問題か。
致し方あるまい、天候ばかりは人の都合で動かせるものではない。
そのうえ、西も使えぬとなれば、真面目に海路開拓の件を再考せねばならん。
程なく例の件が、見込み通りに動く手はずとなっておる。
例の件を落ち着かせたら、改めて何らかの策を講じる事とする。
下がってよい。
次の者をこれへ」
王は極めて精力的に、執務室での面談あるいは報告を捌いてゆく。
彼は歩みを止めるわけにはいかないのだ。
敗戦の衝撃と、エルンチェアから突き付けられた屈辱は、一時は気力を奪い取らんばかりに彼の胸中で荒れ狂ったが、まだ戦は終わっていない。
そして、あの敵国を出し抜く策が見えたのだ。
グライアス王は、態勢を立て直していた。
「そうか。
リューングレスの第三親王、何と申したか。
存外に大胆な男だな。大人しげな顔の裏に野望を隠していたとは。
良い、しばらくは様子を見ておれ。
使えるか否か、見極める必要があろう。
使えるならよし。
ものの役に立たないとなれば」
王は笑声を漏らした。
その響きは、獰猛だった。