ゲルトマ、再び1
塁に立てこもる。
紆余曲折を経て何とか共闘合意に至ったヴァルバラスとヴェールトの峠守備隊は、ひたすら防戦に努めた。
「ドラァッ」
あの禍々しい、山岳民特有の雄たけびが、最初の襲撃から何日かおきに響く。
石が降り注ぐ事もあれば、固く閉ざした塁門に何かが衝突する鈍い音、明らかに蹴り上げる音が、敷地に残ったわずかな兵士らの神経を、容赦なく痛めつけた。
「絶対に、挑発に乗ってはならんッ」
南の守備隊長は、断固として繰り返した。
いま、ヴェールト守備隊は、恥を忍んで北方塁に身を寄せている。
南側は襲撃で痛手を被っており、殊に門が閉じ切らない損害を受けた。
これでは敵の侵入を防げない。
南隊長が、悩んだ末に
「この度は、ご迷惑をおかけしました」
国の意向ではない、あくまで個人的な謝罪だとして、北方側へ頭を下げた。最大の理由だった。
北でも生き残った副長が、不満をくすぶらせる配下を
「気持ちは判る。
痛い程に判る。
どうか、こらえてくれ。
生き延びる為だ。
今は、内部で反目している場合ではない。
まずはこの急場を切り抜ける。
抗議なり仇討なりは、生き残った後日の事だ」
「生き延びる為ならなおの事、あの目障りな連中を南に帰らせてください」
「向こうには向こうの塁がございましょうに。
何で、我が方の塁に転がり込んでくるんでしょうか」
「致し方ない、南の塁門は損壊しているのだ。
塁内部に侵入され、荒らされたとも聞いている。
追い出すわけにはいかん」
「我が方の知った事ではありません」
反対意見は根強かったが、山岳民の気まぐれと称しても良い不規則な襲撃に、北の兵士らも留意を向けざるを得ない。
結局は真にしぶしぶとながら、南の将兵が北塁に逃げ込んだのを黙認している、ヴァルバラス兵である。
南側でも
「忘れたか、事の発端は、そちらが先に手を出したがゆえだ」
「初めに矢を射かけたのは、あくまでヴァルバラスだろうが。
あれさえ無ければ、峠の攻防戦など起きなかった」
という、口には出さないが、北への不愉快を皆が抱えている。
たいそう危うい、一触即発の空気が淀む、ゲルトマ峠だった。
早朝。
複数の威嚇の声が響き、何をやっているのか、盛んに門が揺らされた。
がんがんと、固いものがひっきりなしに門へぶつけられている。
南北の守備兵らは、塁の門を厳重に閉ざしたうえ、机や椅子などを持ち出して防壁も築いた。
そして、詰所の一角に身を寄せ合い、傷の痛みを噛み殺しながら、山岳民が立ち去るのを待ち続ける。
いつ門が破られるか。
いつ食料や水、暖房用の薪が尽きるか。
いつ重症の怪我人が息を引き取るか。
様々な負の可能性に、皆は打ちひしがれていた。
絶え間なく浴びせられる石が門扉を揺るがし、木が耐えかねて不気味に軋む。
あまりにもか細い防衛線を突破されるのは時間の問題だと、誰もが歯を食いしばる。
その時だった。
「生き残り、居るかぁっ」
大陸公用語が、門の外から頼もしく、力強く、生存者の鼓膜を叩いた。
全員が、申し合わせたように顔を上げた。
「今のはっ」
「確かに、我がレオスの言葉だ」
数人は立ち上がり、窓辺に駆け寄った者もいる。
「おおっ」
歓喜の声が飛んだ。
南の隊長、北の副長、両者も窓を振り向いた。
木囲いで覆われた明かり取りの窓を、三人がかりでこじ開ける姿がある。
「どうしたっ」
「隊長どのッ。
援軍ですっ。
救援が遣わされた模様っ」
「何っ」
指揮官の顔色もたちまち赤みが戻った。
僅かな隙間から、配下は何を見たのだろうか。
「確かかっ」
「間違いありません。
確かに旗指物が数旒、確認できます。
あれは」
「我がヴァルバラスかっ」
「我がヴェールトかもしれん」
南北の指揮官が色めき立つ、その瞬間に、窓が開いた。
両者とも我先に窓のへりへ飛びつき、身を乗り出して、門の方向を見やる。
旗が、見えた。
少なくとも五旒はある。
耳をすませば、石の衝突音も、木に当たるそれではない。
間違いなく金属に当たっている音だ。
「生き残った者、いるかーっ。
助けに来たぞーっ」
怒号と悲鳴、そして呼びかけが聞こえる。
「あの旗は」
外の光景を目撃した兵士一同は、異口同音に仰天していた。
信じられないといった様子で、目を見開き、上体を震わせている。
門の外で動き、振られる旗。その象徴は、北を示す金槌旗でも南を意味する半月旗でも無かった。
「み、明灯旗」
赤い布地に黒い糸の縫い取りが中央にある。
蝋燭と燭台。
図案は、リコマンジェ王国のものだった。
北方圏でも指折りの保守として知られるリコマンジェが、西の峠に軍を差し向けるなど、誰一人として思ってもいなかった。
塁にこもっていた兵士らは、たまらずに詰め所を飛び出し、壊れかけた門の隙間から外を覗く。
山岳民を相手に、重武装の歩兵達が剣を振り上げ、弓を引き絞り、手槍で突き倒す奮戦の模様が視界に入った。
「ふ、副長どのっ。
間違いありません、リコマンジェです。
リコマンジェの軍が、山岳民を蹴散らしておりますっ」
「何と」
「なぜ、彼らが。
我が方でもヴァルバラスでもなく、リコマンジェが」
南の隊長も、予想外すぎる展開にぼう然とし、疑問を熱に浮かされたような口調で繰り返した。
伝わってくる戦いの音でしか、現況は把握出来ない。
しかし、山岳民は動揺したらしく、意味の通じない上ずった調子の言葉が聞こえ、反対に公用語は
「押せぇっ。
敵は浮足立っている、全軍突撃、カプルスを殲滅せよっ」
戦意旺盛で威勢が良い。
ほどなく、山岳民が引き始めたのだろう。
勝ち鬨めいた歓呼が響いた。
「もうよい、深追いするなっ。
生存者の救出が先だ」
指揮官らしい男の声が合図になった。
南北両守備隊が、暗黙の裡に協力して、門内側を固めていた机や椅子、調度品をどかし、やがて
「生きておりますっ。
塁には、まだ生存者がおりますっ」
喜びに沸きながら、閂を抜いた。
門がよたよたと開き、そこには明灯の旗を掲げた鎧、分厚い盾で身を守った剣士達が勢ぞろいしていた。
「おお、良かった。
間に合ったか」
「感謝します。
貴軍の来訪を心より感謝致します」
門を開けた若い兵士が泣き崩れた。
来るとはとても思えなかった援軍が、それも想像していなかった国からいち早く派遣されて来た。
命を繋いでくれた救援部隊は、絶望しかけていた重傷者にはさぞ神々しく見えた事だろう。
「指揮官は何処においでか」
「ここにおります」
南と北の責任者二名が、声をそろえた。
リコマンジェの指揮官は、兜を脱いだ。
年の頃は三十半ばあたりか、若々しいながらも軍人らしい引き締まっ表情の偉丈夫だった。
「まずはご生存、真に祝着に存じます」
「よく来てくださった」
「我らは生き残ったものの、戦力はほぼ喪失しておりました。
ありがたく存じます」
救いの剣士に向けて、南北の二人は争うように礼を述べ、リコマンジェ軍を招じ入れる。
若い指揮官は、どうやら修繕に精通する者と専門の雑役夫を伴っているようで、北の塁敷地に入りながら、さしあたりの応急処置を命じた。
「門がだいぶ傷んでおりますな。
この分では、まもなく破られたと思われます」
「率直に申し上げて、時間の問題と考えておりました。
この塁門を突破されたら、もう敵を遮る仕掛けは何もありません。
山岳民に蹂躙される屈辱は免れなかった事でしょう」
北の副長は、見栄を張らなかった。
リコマンジェ軍人は頷いた。
「とにかく、間に合って宜しうございました。
詳しい話は詰め所で。
医療兵も召し連れました。
負傷兵を手当てします」
「全く行き届いておられて、頼もしい限りです」
「それにしても、驚きました。
我がヴェールトか、ヴァルバラスか、どちらかから救援が来るとは信じていたのですが、リコマンジェからとは」
「日頃は何かと従来の型にこだわって、新規を好まず、行動的ではない。
我がリコマンジェは、大陸中からそう思われているのでしょう。
よく存じております」
歩きながら、若い軍人は鋭い微笑を浮かべた。
「それは間違ってはおりません。
しかしながら、一点だけ。
保守の神髄に対しては、あまりご理解が及んでおられぬ様子」
「保守の神髄とおっしゃるのは」
盟友たるヴァルバラスでさえ、すぐには首肯しかねたらしい。
不思議そうな表情を浮かべた副長へ、強い光を宿す緑の目が向けられた。
「保守思想とは、従来の型を尊び、積年の流れを変えないよう心がけて和平を実践する事を第一とします。
が。
断じて、日和見や事なかれではありません」
「おお」
「尊ぶべき従来そのものが崩壊の危機に瀕すれば、これを救うべく立ち上がるのに、何ら躊躇は致しません。
我らにとっては、ゲルトマ峠が安全である事こそ最も重要です。
山岳民の跳梁を許す事は、即ち保守思想に背く事。
従って、参上したのです」