遥かなり地平線5
草原の朝はいつも通りだった。
星明りがまたたく青黒い空を戴いて、遊牧の民達は家畜を追い、飼い葉を用意し、またはかまどに火をおこす。
「またこの騒ぎか」
どたばた走り回る足音、馬を追い出す威勢の良いかけ声が外から響いて来る。
この騒々しさに慣れていないらしいオタールスは、ひどく閉口した顔で天幕の帳を見やっていた。
うっすら開いている出入り口の向こう側に、朝の光は無かった。
「毎朝毎朝、まだ日も昇っておらぬであろうが」
「このくらいで元気を無くすようでは、この先が思いやられるぞ。オタールス」
ロベルティートは慣れたもので、初日と二日めの朝は、自分も今の臣下と似たり寄ったりの心境だったくせに、すっかり昔から早起きの習慣があったかのような顔をしている。
「お次は草原の名物だ。
ほら、あの」
「えッ。
もッ、もしやっ。
もしやタペ」
閉口しただけでなく、顔色も失う臣下だった。
泰然としていた若主君の方は、笑い出した。
「もしや、ではない。
草原の名物と言えば、タペをおいて他にあるまいさ。
我がエテュイエンヌにもコール茶があるが、タペは更に上を行く乙な飲み物だよ」
「は、はぁ」
オタールスも先に茶杯を振る舞われ、一口飲んで
「何だこれは。
煎じ薬か。
傷に良いのだろうか」
首を捻りながら感想を述べている。
茶だと説明されてもすぐには合点が行かなかったようで、カムオに
「ドゥマは風邪薬だと言い、あんたは傷薬だと言う。
そんなにレオス人の好みには合わんかね」
笑われたのだった。
「どう言われても構わんよ、イローペにゃこれしかないんだ。
頑張って好みのほうを合わせてくれ」
族長はすましてそう言い、アンクが無邪気にタペの用意をするのには口を出さなかった。
一日に四~五回は手渡される、とびきり酸味が効いた茶のもてなしは、恐らくダリアスライス国境に到着するまで続くのだろう。
それを思うと、オタールスは傷の具合がどうであれ、とにかく早く国境に着きたい。心からそう願ってやまないらしかった。
何せ、ぼう然と茶杯を眺めて
「あと何回、この苦行に耐えれば良いのだろう」
呟いていたのを、ロベルティートは目撃している。
気持ちは判らなくもない主人だったが、生憎とオタールスの怪我は全身に及ぶ上に右手首をかなり痛めたらしい。
馬の手綱を握れない為、しばらくは養生せざるを得なかった。
九日ばかりを消費した今朝、ようやく出発の見込みがついたのである。
そうこうしているうちに、問題の茶が届けられた。
「はい、タペ。冷めないうちに飲んで」
「ザッキ」
「違う。カタァーケナシ」
もはや様式美と称しても良い程の型にはまったやりとりが、天幕の中で軽く行われ、後にやっと朝食が設えられるのだった。
遊牧民の輪に交じり、がやがやと騒がしくかつ慌ただしく食事をとる。
干し肉と麦の粥という素朴な内容は、朝食を豪華にとる習慣があるレオス人には軽いものだったが、意外とオタールスは嫌わなかった。
余程タペに辟易しているのかもしれない。
この怪我人は、結局は王都へは帰らず、ロベルティートに同行すると決まっている。
当初は帰都を勧めたが、頑強な抵抗に遭った。
「殿下御一人でダリアスライスへ御渡りあそばされるなど、以ての他。
万が一にも御命を縮めまいらせる謀り事があったれば、如何にあそばされますか。
それがしは痛手を蒙っており、さまでお役には立ちますまいが。
事あらばこの身を盾となしてでも、殿下をお守りまいらせます。
何卒、随行を御許しあれ」
言い張ってきかなかったのだ。
ロベルティートとしても、本音はやはり、気心が知れたレオス人が側に居る事は喜ばしかった。
また、謎めいたこの暴行事件が、シルマイトの差し金でないとは断言しかね、だとすれば、自分と接触したオタールスをそのまま首都へ帰らせる事に、危険を感じないわけにもいかなかった。
一晩悩んだ末、了解した次第だった。
ホーッ、ホーッという呼びかけの声がし始める。
男の馬追いとは違う、あれはまだ少女期と思われる女の声だろう。
オタールスも気づいたらしく
「ほう。
女が馬責めをするのか」
物珍しげに言った。
ロベルティートは頷いた。
「イローペの女は逞しい。
あの声は、荷馬車を呼んでいるのだろう。
空になった水樽を積んで、どこかに水を汲みに行くようだ。
草原に、水の施設は無いからな」
「なるほど」
「彼らは水を持ち歩くのだ。
いつも樽を馬車に積んでいる。
露営の場所に、必ず水が湧いている保証は無いからな。
人は水を失えば死ぬ。レオスもイローペも変わらないよ」
「さよう考えますと、あの者らは、一見では気楽に暮らしておるようですが。
実態は、なかなかに過酷な日々を送っているものと見えまする」
オタールスは素直に感銘を受けたらしい。
周囲では、毎朝繰り返される出発準備が始まっている。
まだ日の出まで時間はあるはずだが、彼らは薄闇をものともしないで、星明りを頼りにそれはそれは機敏だった。
目覚ましいのは女の活躍というべきだろう。
固太りの短躯でありながら、どこにそんな力があるのかと目を瞠る。
若い女が潰した家畜の半身を担ぎ上げ、平然と小走りに去って行くのを、レオスの主従は目の当たりにした。
「女が、あれ程の重量を」
「イローペは、そういう生活を昔から送っている。
カムオによれば、男が女の仕事を取り上げるのは、たいへんな侮辱なのだそうだ。
時には命に関わるという」
聞きかじった遊牧民の風習について、ロベルティートは訳知り顔で解説した。
役に立たない者は部族には居られない。厳しい掟がそこにある。
「あの肉も馬車に積む。
あれが出てくると、まもなく出発になる。
彼らは肉や生乳を積荷の最後にしているらしいのだ。
理由はわたしも知らないのだが」
ロベルティートがそう言ったとき。
背後から
「いざって時のためさ」
族長が答えを出した。
驚いて振り向くと、カムオがいつのまにか立っていた。
「露営場をばらす時が一番危ないんだ。
盗賊や狼がこっちを襲うにゃ、守りの手がほとんど無い今が好機なんだろう。薄暗いしな。
おれが襲う側でも、そう考えるね。
そんな時は、肉を放り出してやるのさ。
狼が相手なら肉に気をとられている間にさっさと逃げるし、盗賊どもが剣を振るってきたら、肉で受けてやるといい。
剣は肉に刺さったら、すぐには抜けないからな。その隙におさらばって算段だ」
「そういう理由だったのか。
生活の知恵というものだな」
「まあな。
で、旦那。
昨日の話を蒸し返すがね、本当に北じゃなくていいんだな、西だな」
経路を確かめに来たようだ。
昨夜、ロベルティートは方角を変えて欲しいと頼んでいる。
カムオは驚いたらしいが、気まぐれではないとの王子の強い意向を受け容れたものの、出発間際でまた変えられてはかなわないとでも思ったのだろう。
訊かれた方は、力強く頷いた。
「どうしても、西に行かなければならなくなったんだ。
目的の地はクラマイズ、しかるのちにダリアスライスだ」
「判った。
ただ、この一回限りにしてくれよ。何度も変えられちゃ、いくらおれでも顔役を抑えられない」
「承知している。苦労をかけて済まない」
「走り出した馬には、最後まで乗れってな。遊牧の民に伝わる言葉さ。
で、もう一つ」
馬が二頭曳き出されて来た。
「さんざん言ってあるから、旦那は判ってるだろうが、そっちのシェビ」
「シェ、何だと」
「シェビって言やぁシェビなんだよ。あんたのこった」
「家来または配下を意味する、イローペの言葉だ」
目を白黒させているオタールスへ、ロベルティートが通訳した。
内心では
(草原の言葉を訳せる王子は、大陸中におれしか居ないだろうな)
おかしがっている。
カムオは素知らぬ体で
「部族の移動には決まりがある。勝手な事はするなよ、命の保証は出来ないぜ。
遅れたら置いていく。しっかりついて来てくれ。
じゃ、早いところ馬に乗んな。
さっきも言ったがね、露営場のばらし作業は危険だらけだ。狼の朝飯になりたくなきゃ、馬にまたがるに限る」
草原の住人としてはまるきり素人の二人を、粗末な鞍へ追い立てた。
まもなく出発になる。
南西部を絶えず悩ませる嵐は、このところ吹き荒れる気配が無い。
イローペ族ならずとも、安定した天候はありがたいものである。
王都の周辺には、新たに開拓された小さな農村が幾つかある。
ところどころに畑が拓け、春であれば青緑の穂が一斉に揺れさざめく光景が目に入る。
今は冬、畑は秋の終わりに一旦焼き払われて平たい姿となり、灰に覆われた大地を、農夫が耕す季節に入っている。
馬を進めるロベルティートの視界には、鍬を振るっては打ち下ろし、土を盛んに掘り返す農民の姿があった。
彼らもイローペ人に劣らぬ朝まめぶりを発揮する。
払暁ともなれば農耕具を担いで畑に足を運び、日が落ちるまでひたすら働き続ける。
女は掘り起こされた土から出てくる異物を拾い集めたり、早くも芽を出している雑草を抜き取ったり、これまた一日中腰を折り曲げているのだ。
家族総出で畑の面倒を見ている人々を横目に、馬群は緩やかに西の遥かな地平線を目指す。
「これが農民の暮らしか」
ロベルティートは、働く両親に代わって赤子をよたよたと抱き、懸命にあやす幼児の姿を流し見た。
感慨が胸を締め付ける。
自分が赤子だった折、兄にああやって抱かれただろうか。または、小さなシルマイトを胸に収めて、あやした事があっただろうか。
(あるいは、おれとシルマイトがあのような生まれだったなら。
おれが畑の中で母を手伝い、シルマイトの子守をしてやっていたなら)
今とは違う兄弟の姿があったかもしれない。
急に乗り馬の脚色を落としたせいで、集団から離された。
気づいた時には、いち早く異変を察知したらしいオタールスが引き返して来て、苦労しながら轡を並べた。
「殿下、如何あそばされました」
が。
考えてもいなかった、本物の異変が、既に至近まで忍び寄っていた。