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ガロア剣聖伝  作者: 北見りゅう
第二十六章
152/248

遥かなり地平線1

「何だい、この麦ったら。

 いくら煮ても粥になりゃしない」


 妻のぼやきを聞きながら、男は食卓で果実酒をすすっている。

 つい最近、割の良い仕事にありついて、報酬名目の麦を大袋で三つ、上等の果実酒を一瓶、銅貨を少々、手に入れた。


 何しろこのツェノラ王国では、慢性的な物資の不足で、貨幣はさして役に立たない。

 銅貨はおろか、金貨を積んでも麦を買えないのは日常の事だった。


 酒も、濾過が十分でない底に澱がたまり放題の低品質しか店に並ばないのだ。

 商人が吝嗇というわけではなく、そもそも売り物自体が無い。


 金をつかまされるより、現品の方がよほど有難く、価値がある。

 もっとも、妻は不満らしい。


「ちょいとあんた。

 これ大丈夫なんだろうね。

 さっきから煮てるんだけどさ、ちっとも粥にならないんだよ」


「そういう麦なんだろう」


「ばかお言いでないよ。

粥にならない麦なんかあるものかね」


「南西三国の麦は身が大きくて、粘りが少ないって言うぜ」


 彼は面倒そうに答えた。

 妻が目を丸くした。


「南西三国の麦なのかい、これ。

 近頃の麦っていや、ダリアスライスから入ってくるものばっかりなのに」

「しょうがねえだろう」


 詳しく語ろうとして、急に口をつぐむ。

 思い出したのだ。

 数日前、ツェノラの小さな漁村であるこの町に現れた役人風の男が


「報酬は弾む。

 金でも麦でも酒でも、好きなものを申せ。

 その代わり、厳重に秘密を守って、依頼を受けて貰いたい」


 などと、漁師組合の事務所で、やけに偉そうに言っていた。

 小さい漁船を預かり、船長の仕事についている男を、庶民だと見下していたのだろう。

 その厳重とは、身内であれ漏らすなという類のものだった。


「南限の港へ行きたいと御所望のレオスさまを二人、引き受けて欲しい」


「はあ。

 レオスさまが、あんなところにお行きなさるんで。


 船には慣れておいでですかい。

 不慣れなら、別に船を使わなくたって、陸の道を通った方がお楽じゃねえんですかねえ」


「その方の知った事ではない。

 要らぬ口をきくな。

 船を出すのか出さないのか、それだけ答えろ」


「へえ。

 そりゃまあ、近頃はいろいろと事情があるようで、船を出せない日が多いですからねえ。


 あたしと水夫どもに、麦をたんと下さるっておっしゃるなら、お引き受けしますよ。

 魚臭い、小さい船でもよろしゅうございますか」


「何でもよい」


 思い出すと腹が立ってくるぞんざいな口の利き方は、役人独特だった。

 その男は、早口でまくしたてるようにあれこれと注文をつけ、反面では、船長が腹いせに言った望みの報酬を鷹揚に了解した。


 そのような事情で、漁船に乗りたがる珍しい若いレオス人を二人、狭い船室に押し込んで、南限の港へ行って来たのだった。


 貴族たるレオス人らは、恐らく故意にだろう地味な服装を調えていたが、役人風の男は、身なりが裕福な様子で、どうもツェノラ人には見えなかった。


 貧国と称されるこの王国では、役人どころか国王でさえ、それこそダリアスライスあたりなら平民でも用いないのではないかと思われる程、質素な装いを佳しとする風潮である。


 しかも、気前よく麦の袋を積んだ。

 彼は


「我が南西三国産の麦は、南方種の中でも特に大ぶりで歯応えが良い。

 味わいと腹持ちは保証する」


 得意げに語ったものだった。

 その代わり、妻によれば麦粥には不向きであるらしいが、そこまでは聞いていない。


 もっとも、船長としては、自分と妻子の腹が満たされれば十分であり、粥になろうがなるまいが、感心を寄せるに値しない話題だった。

 ただ南西三国の麦だという事は、漏らすべきではなかったと、失敗を軽く悔いている。


「たまたま、手に入ったんだ。

 おれは農民じゃないからな、麦の種類なんか詳しくないし、食えりゃいいと思ってるだけだ。


 おまえも、深く気にすんじゃねえよ。

 とにかく腹がいっぱいになりゃ、それでいいじゃねえか」


「そりゃまあ、そうなんだけどさ」

「煮えたんなら、さっさと持って来いよ。

 子供達が腹を空かせてる」


 彼の周囲をうろうろしている、五人の子供達が、台所から漂う料理の匂いに興奮した様子を見せて、盛んに


「早く食べようよ」

「ねえ、まだなの」


 皿を恋しがっている。

 妻はたちまち母親の態度になって


「はいよう。

 今夜は麦がいっぱい入っているよう」


 女の子を給仕の手伝いに呼んだ。

 嬉しそうに飛んでいく。

 つられて配膳が出来そうにない小さい子も、小走りで台所に向かった。


「ねえ父さん、北の麦は小さい粒なんだってね。

 粉にして平たくして焼いて食べるって、聞いたよ」


 年かさの男の子が、椅子に腰かけながら、どこかで仕入れてきたらしい知識を披露した。


「おいしいのかな」

「知らん」


「父さんは北に行った事があるでしょう。

 食べなかったの」


「そんな贅沢が出来るわけぁねえ。

 うまいもまずいも無い、腹がくちくなる方が大事だ。


 近頃は何だか知らねえが、麦がよく配られるようになったからな。

 それだけでも有難ぇ。

 味なんか、気にした事もねえや」


「ほんとだね。

 何で麦が出回るようになったんだろう。

 それもダリアスライス産の麦だ」


「今夜はちょっと違うんだよ」


 妻と女の子が皿を用意し始める。

 中身は、随分と成りが良い粒の大きな麦と、ツェノラではほぼ国民全員が日常的に口にする芋、小魚、海藻を煮込んだ料理だった。

 家族が歓声を上げる。


「こんな大きい麦、初めて見た」

「粥じゃないんだね」

「おいしそうだ」


 透明な煮汁に、たっぷり浮いた大麦を、皆が注目している。

 ダリアスライス産の麦より大きく、厚みがあるそれが、どの国で育ったのか。


 もう誰も気にしていない。

 船長だけが


「そいつぁ、エテュイエンヌ産だ」


 事実を知っていた。



 南西三国の東からレオス人が入国し、船を用いて南限の港と呼ばれる連峰付近の寂れた港町に向かった事を、国王は知らなかった。


 ツェノラ王にすれば、南の盟主とも称すべきダリアスライスと手を握った事で、経済事情が大きく様変わりしつつある当国の現状が、目下の大事だったのである。


「まずは五年が猶予されたと見てよい」


 大いに満足して、国の財政を一手に引き受ける財務卿の報告に耳を傾ける日々だ。

 北方のヴァルバラス王国と手を組んで、南北経済同盟を締結した。


 その効果は今のところてきめんと言ってよい。

 王の意向は、同盟を背景にダリアスライスを動かして、長年の怨敵にして最大の保護国だったヴェールト王国へ逆圧をかける点にあったのだが、実情はやや計画と違っている。


 端的に言えば、ヴェールトではなく、何とダリアスライスが援助を申し出てきた。


「事情は以上の通りでございます。

 この件についてご理解を賜る事を願わしく」


 先方の使者は、王太子ランスフリートが側室を失った。責任はヴェールトにあると語り、その上で制裁に賛成して欲しいという。


 提示された見返りは、ツェノラ王をして仰天させしめた。

 名目こそ貸付ではあったが、実態は寄付と何ら変わらない。


 非常識なまでにツェノラが有利な巨額融資、麦や酒などの日用品を安価というか、ほぼ無償で流通させる。


 ヴェールトなぞ突き放して、援助を全くあてにしなくても、向こう五年は余裕が出来る。

 苦しいのは相変わらずとしても、奢侈を慎んで身の丈に合った生活を心がける限り、王も民も食べて行ける。


 おまけに、無理難題をふっかけては当国をきりきり舞いさせていた隣国へ、積年の仇討まで成る。

 断る理由など、王は砂粒程も見いだせなかった。


「きゃつらの制裁に加担するくらい、お安い御用だ。

 こちらが頼みたい程よ」


 欣喜雀躍を地で行く行動力で、王は故ティプテ麗妃毒殺事件への非難を書き連ねた国書を用意したものだ。


 ダリアスライスですら面食らう、過激な文面がヴェールトにも送り付けられている。

 果たして莫大な利益が、この厳しい不毛な国土に悩まされていた南方圏東地方の小国へ流れ込んだ。

 当国では、大陸で唯一である計画経済を実施している。


 国民に物資を行き届かせるという趣旨で、配給制を採用しているのである。

 芋や小魚、海藻などが各家庭に届けられるのが常だったが、最近ではダリアスライスから融通された麦もたっぷり配られ、今や国民の食卓は華やいでいる。


 干からびた肉のかけら、他国なら畑の肥やしにしかならない小魚、海藻や不格好な芋をごった煮にした皿を家族が分け合うような光景は、見られなくなった。


「あんな一筆で国民を飢えから救えるのなら、何枚でも書く」


 国の主の鼻息はすこぶる荒い。


 専ら南の中央に向けられている視線には、小さな漁村の漁師組合で、エテュイエンヌ王国の役人が漁船を雇った一件は映らなかったのである。


 それが何を意味するのかにも、王の関心は寄せられなかった。

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