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ガロア剣聖伝  作者: 北見りゅう
第二十五章
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合縁奇縁6

 風は真南からやや西寄りに変わり、海面を舐めながら吹き始めている。

 船が走る海面には淡いさざ波が立ち、跳ね上がるしぶきの姿は、さながら銀の粉を散らしたようだ。


 海鳥の群れを伴って、薄い雲が東へと流れて行く。

 南沿岸の近海に降り注ぐ午後の陽射しは、夏の盛りには及ばぬまでも、北方のそれとは比べ物にならない。


 甲板では、水夫らが忙しく立ち働いている。

 北へ向かう時、風は頼れず、船底から延びる人力の櫂が動力の全てになる。


 とはいえ、まるきり帆を立てないわけにもいかず、熟練した水夫頭が何事か怒鳴り、配下の者達へ縄を引かせては進路をこまめに変えさせているのだった。


「揺れるな」


 船室では、船に慣れていないらしい若いレオス人が二人いる。

 どちらも顔色が悪く、壁に打ち付けられている硬い木の一枚席に並んで腰かけ、足を踏ん張りつつ、不安そうに天井を見上げていた。


 吊るされている燭台が、派手に暴れており、何度もあちこちにぶつかって、いつ落ちてくるか。

 頭上に金属の一撃をお見舞いされる心配にかられて、気が気ではないのだろう。


「甲板の方がましだろうか」

「いや。

 もっと揺れると思う。

 ここから動かぬ方が身のためだ」


 二十代半ばといったあたりの、これといって際立った特徴は無い、実によくいるレオス顔をした二人は、足元はおろか全身まるごと激しく揺すられる経験とは、あまり経験した事が無いらしい。


 恐々として、不安定な動きを見せる天井の吊るし燭台を眺めている。

 船長らしい栗色の髪の壮年男性が笑って


「旦那方。

 上を見つめていると、余計に酔いますよ」


 注意した。

 酔うという言葉の意味を、とっさに掴みかねたと思しい。

 二人とも怪訝そうな表情になった。


「酔うも何も、酒は飲んでおらん」

「このような状況下では、酒どころか、水も口にするのは困難だ」


「いいえ、そうじゃないんでございますよ。

 酔うってのは、酒じゃなくて船に酔うんでさあ。


 (おか)でも、馬車酔いっていうのがありますでしょう。

 あれと同じで、船でも馬車酔いみたいな様子になるんです。慣れていないお人は」


「そうなのか」

「では、この不快な感覚は、馬車酔いと同じか。

 なるほど、言われてみれば似ているな」


「船は馬車より揺れますからね、もうちょいと悪酔いするもんなんです。

 吊るし燭台が揺れる様子を見ていたら、どんどん症状が悪化しますよ」


 専門家がそう言うのなら、これまで船にまるで無縁だった門外漢らは大人しく解説を受け容れるしかない。

 にじみ出てくる汗を手布でしょっちゅうふき取り、たまに口を押さえ、彼らレオス人達は、船旅に耐えている。


 ガロア大陸の交通は、陸路はそれなりに発達しているが、海路となればてんで整備されていない。

 今、この船は北へ向かっているが、水夫頭と船長の経験にほとんど全てを委ねる有り様だった。


 方角を知る方法は、太陽や星、月などの天文現象に拠るところが大きく、他に術が無い。

 陸路なら街道に立て札が置かれたり、北を示す方位標識もある。


 だが、海にはそのような物を固定させる方法など存在しない。

 沖に出て方向を見失えば、船が迎える結末は漂流である。


 岸に沿って、水夫頭の記憶を頼りに、安全と思われる海面を進むより仕方がないのだった。

 しかも、恐ろしい程に激しく揺れ、一時もじっとはしていられない。


「とんでもない乗り物に乗ってしまった」


 レオスの若者達は、船が港を離れてまもなく、深刻な後悔と恐怖に苛まれた。

 それは現在も続いている。


「船はあてにならんというのは、昔から言い伝えられている通りだな」

「確かに。

 このような由々しい代物だとは。

 聞いているよりも、実態は数段ばかり危険ではないか」


 船長に聞こえないように、こっそりと言い合う。

 だが、遺憾な事に、彼らは今やこの船を降りるわけにはいかなかった。


 降りようがないという点を差し引いても、目的地までは船で行くしかないのである。

 二人とも遊山の旅として船に乗ったわけではなく、とある密命を帯びている。

 その中には


「船の乗り心地や使い勝手を検分し、次第を報告せよ」


 という趣旨も含まれている。

 船は、現代の大陸においては、交通手段に選ぶ価値は無いとされている。


 彼らが経験している最中であるように、波に揉まれて激しく揺れ、甚だ乗り心地が悪い事。

 方向を見定める技術が全く確立しておらず、乗組員の経験に拠らざるを得ない不安定さ。


 もし沖に流されれば岸まで戻れない可能性が高く、遭難を避けるために沿岸付近を航行しても、浅瀬に乗り上げたり座礁したりする危険性。


 これら諸問題が、海路開拓を長らく阻み、海技発達の妨げとなってきた。

 彼らは、命を賭けて、諸問題は解決される見込みが立つのかを確認しているのである。

 今のところ、二人とも


「無理だ。

 これなら峠越えの方が遥かに安全だ」


「そもそも船体が小さい。

 物資を詰め込むにしても、場所が無い。

 無理に積載したら、重みで転覆するかもしれん」


 甚だ暗い見解を抱いている。

 当面は、陸路による物資輸送が望ましく、南北貿易に海路を使用する試みは時期尚早との意見は、元々持ち合わせていたものがますます固い見解に育っている。


「ツェノラとリューングレスが組んで、海路振興策を推進するという噂があったが。

 実際にこうして乗ってみると、夢物語としか言いようがないな」


「あの連中、貧しさに耐えかねて、夢と現実の区別がつかなくなったのではないか」


「同感だ。

 大国が焦って潰しにかかるまでもない、放っておいても勝手に潰れるに相違あるまいて」


「発案した当人は、船に乗った事が無いのだろうな。

 早く降りたい、もう生きた心地がしない」


 段々と泣き言が目立ち始めている。

 声も知らぬ間に大きくなったのだろう。

 船長が苦笑していた。


「お気持ちは判りますがね、旦那方。

 もう少しは我慢して頂かないと。

 こんなところじゃ、船を止めたって降りられませんやね」


「承知している。

 これ以上は速くならんのだろう」


「速くしろとの仰せ付けなら、速くは出来ますよ。

 ただし、速くしたらその分だけ、揺れがひどくなります。

 それでもいいってお言葉でしたら」


「いや、このままでよい」

「何なら、もう少し遅くするのも吝かでない」


 二人とも、真顔で首を横に振った。

 船長は「はいはい」と言いたげな表情で、軽く肩をすくめた。


 無礼を咎める心境にもなれず、二人は押し黙って揺れに耐えている。

 目的の地まで、まだしばらくこの恐怖の時間を過ごさねばならないのだ。

 怒って余分な体力を使うより、我慢した方がまだよいと思うのも無理はない。


「旦那方。

 もう一回だけ聞いておきたいんですがね」


 船長が話しかけてきた。

 嫌そうに顔をしかめつつ、一人が


「何か。

 問いは手短にせよ」

 応じた。


 同僚は口を抑えきれなくなって、先に手渡されていた「専用の」容器に顔を突っ込んでいる。

 船長は体調を悪化させたレオス人の背をさすってやりつつ


「北までは行かなくていいんですね。

 南限の港で降りるという事で」

「むろんだ。

 北の海はもっとひどいのだろう、おまえは南どころではないと言っていた、その通りなのだろう」


「はい。

 南の海はね、冬もそんなに荒れませんが、ザーヌ大連峰を北へ渡ったら、一変しまさあ。


 この揺れがしんどいなら、船を降りた方がいいってもんですよ。

 じゃあ、南限の港までで間違いないですね」


 念を押した。

 レオス人男性は、ぐったりと座り込んだ状態で、口を開くのも物憂いらしい。こくこくと頷いて返答の意としている。


 南限の港と呼ばれているその場所は、ガロア大陸でも唯一の特色がある地で、彼ら南方レオス人達の目指すところだった。



 グライアス王の手元に「その」親書が届いたのは、冬季一月も終わりに近い某日の午後である。

 紆余曲折を経て到着したのが、書状からも使者の様子からも、容易に見て取れる。

 しかし。


「これは……」


 悩める王にとって、どれ程の救いだった事か。

 目を通した当人でなければ、実感は難しいだろう。


「奇なり。

 余が否定した海に救われるとはな」


 彼は、生存の希望に目をぎらつかせた。

 まだ勝ち目はある、と。

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