赤い雪2
間近に夕暮れが迫る中、鐘が響いている。
峠の北側から聞こえてくる。
「何だ、今更。
あてつけがましい」
長々と間隔を取る低い響きは、時刻を伝えるものではない。
ゲルトマ峠の南面を守る兵士達は、腹立たしげに、あるいは落ちつかなげに、北西方面を見やった。
「先の戦闘で、死者は幾人も出ているだろうに。
急にとってつけたように弔鐘を打つとは」
「こちらも、鐘を打ち鳴らしては如何ですか。
先方にだけ打たせる事はありません」
「ええい、止めんか。
あれは挑発であろうが。
乗ってどうする」
若手を叱りつける新任の守備隊長だった。
先方の思惑がどうであれ、みすみす受けて立ってはならない。
責任者は、騒がしい旛下の兵士連中へ何度も言い聞かせた。
実際、どれほど喧嘩を売られたように感じても、軽々しく買うわけにはいかない事情があるのだ。
本国の首脳部は、断固として戦争回避の方針を明確に打ち出した。
今朝方、首都からその旨が通達されたのである。
一つの首桶と共に。
当国外務卿の使者と称するレオス人が、峠のヴェールト塁を訪れた。
粗末な木箱が隊長に差し出され、続いて中を検めよとの命が下された。
箱の周囲には、蓋を開ける前から強い酒精と血生臭さが漂っており、つまりは「そういう」物だと、誰もが否応無く見当をつけた。
「……なるほど。お話はよく判りました。
これがその、件の盗賊でございますか」
隊長は、むっつりと呟くように言った。
着任早々、随分な代物を見せられるものだ。
不運である。
箱から出された中身は、居合わせた全員の予想から少しも外れていなかった。
黒い髪は伸び放題で、肌は浅黒い。
年の頃は不明と言うか、恐らくは若いと思われる。
眺めているだけでも気分が悪くなる、それは確かに男の生首だった。
検分の為にその頭髪を鷲掴みにし、持ち上げている係の胸中いかばかりであろう。
守備隊上層部は、首桶が登場した時点で、一人残らず宮廷の意を悟っていた。
「あー、そのう……。
くどいようですが、この首を用いて、先方に手仕舞いを申し入れよとの確かな御意で」
「いかにも」
聞き違いであって欲しいとは、全員の共通した願いだっただろう。
だが使者は、守備隊長の念押しに深々と頷くのみだった。
守備隊上層部の面々は、長嘆息せざるを得ない。
使者の離席後
「うまくゆけば良い、がな」
全員で改めて実検し、どの角度から丹念に眺めても、精々が年齢的に同世代であろうとしか思えず、改めて別人の首だとの結論に達した。
暦改めの日に起きた局地戦は、全き偶発時であり、確かに切っ掛けはカプルス人の少年だった。
が、この首の男では、断じてない。
何よりも痩せ細り過ぎている。
目の周りは、見開かれているにも関わらず不健康に落ち窪み、頬骨が突き出してい辺りからも明白なように、肉付きが異様に薄い。
髭面といい後ろ髪といい、放置されていたのが明白で、いかにカプルス人とはいえ
「これは無いだろう」
というのが、皆の意見が一致するところだった。
誤解の余地なく、獄に下って長いと一目で判る若い男の生首は、正直に言えば扱いに困る代物だった。
「ヴァルバラスを納得させられるとは、とても思えんな」
「子供でも、長らく獄中にあった囚人なりと看破しよう」
「むしろ、先方に見せない方が余程ましなのでは」
「同感。
こんなものを差し出して、争いの契機となった山賊ばらは討ち果たした、これにて本件は落着とされたい――通じると思う方が、どうかしている」
「ところが、我らが外務卿閣下は、通じると固く信じておいでだ。
どうしたものだか」
守備隊長が、嫌そうに首から顔をそむけつつ言った。
ところが。
一同を更に困惑させる事態が、まもなく出来した。
追って胴体が届いたという。
日没直後に、王都から一隊がやって来て、正視に耐えない壮絶な物体を塁に運び込んだのである。
松明に照らし出された「それ」は、目撃者を充分に震え上がらせた。
いわく。
串刺しにされた、首の無い男の死骸である。
「そんなものまで……」
守備隊長は絶句した。
宮廷の余計なお節介に目がくらむ思いで、まことに渋々と指揮官用の詰め所を出る。
王都から送りつけられたとあっては、自ら確認しないわけにはゆかない。
「とんだ新年の引き出物もあったものだ」
兵士達のざわめきからは、彼らがひどく狼狽しているさまが感じられた。
「隊長どの」
若い兵卒が、泣きべそをかいた顔でこちらを見やっている。
「あれ。
あれをご覧下さい」
「おお」
隊長の口からも呻きが漏れた。
不覚を恥じる心境にもなれない。
日はすっかり落ちて、峠周辺は底深い夜に包まれている。
漆黒の空間に、赤みがかった黄金色を放つ松明が数本掲げられ、光が集中的に照らす部分がある。
目算で、成人男性の身長を約二倍したと思われる長さの杭が、塁門の近くに横たえられている。
「杭打ち刑か」
先端には、灰色の囚人服を着せられた男の身体が、垂直に突き刺さっていた。
手足は惨めに細く衰え、服の脇やわずかな隙間から傷ついた肌が、ちら見える。
膨傷と思われる赤黒い腫れや、打撲の跡と思しい腫れ、そしておびただしい血糊が、見る者の視界を無残に奪う。
よく見れば服にも、盛大なしみがある。
黒い粘り気のある塊は、肩口から胸にかけての辺りに集中していた。
出血は止まっているものの、傷から滲み出た命の残余が峠の地面を覆う雪に広まり、赤黒く染めている。
首を打った後に、刑務係が無理やり着せたのだろう。
守備隊長は見て取った。
到着時間に差が出来たのは、そのせいと思われる。
宮廷あるいは外務卿は、どうやらこの凄まじい門飾りを、峠の頂たる駐留所の中央に堂々と掲げたいらしい。
「首だけでも手を焼くというに、胴体までもか。
さては首脳部乱心か」
隊長は歯軋りして、酷烈を極めた「切り札」を見やっていた。
ぼう然としていた彼を、部下の問いが忘我の状態から正気へ戻した。
「隊長どの。
いかが取り計らいましょう」
「いかがも何もない。
使者どのの口上を拝聴せねばなるまいて」
隊長は、自分への面会を希望している者の存在を確認させた。
居るに決まっている。
杭打ち刑に処された胴体を運んできた一隊には、朝に首桶を抱えて来た使者とは別仕立ての専任が随行しており、面会を申し込んでいるという。
あまり長々と見ていたい物でもなかったので、隊長はそれを口実に詰め所へ戻った。
外務卿の代理人との事で、隊長は若いレオス男性に上座を譲った。
「お役目、誠にご苦労に存ずる」
「外務卿閣下の御意向につき、謹んで言上つかまつる」
語られた内容は、守備隊の面々の意表をつくものでは、全く無かった。
予想通り、首はヴァルバラスへ届け、杭に突き刺された胴体は両軍陣地の中央付近に晒すべし、との事である。
命じる方は極めて単純、あるいは楽天的な目測を有しているに違いなかったが、それを実際に「敵地」へ持ち込む方は、とても簡単な仕事だとは誰も思っていない。
そもそも、北側の塁に足を踏み入れられるであろうか。
「時期が悪い。悪すぎる」
隊長は頭を抱えた。
「つい先刻、弔鐘が鳴ったばかりではないか。
まるで当方に聞かせるかのように、打ち鳴らした程だ、先方の心証は甚だ悪いと見ねばならん。
そんなところへ、首を持参の挙句に胴体を晒せば、先方をどのように刺激するやら」
「ましてや、問題の首がかの生蕃とは明らかに別人。
たとえヴァルバラス守備隊が暴発を思い留まったとしても、必ずやエルンチェアに難癖をつけられましょう。
これでは、円満解決はとうてい望めませぬ」
「我が方が喧嘩を売って、何とするのでしょうか」
事態の悪化は全員が予測し、しかも的中は確実だった。
外務卿の意を聞いたからには、実行するより他に手は無い。
一同は、夜を徹して頭を悩ませたが、もとより結論は出ている。
後は、覚悟を決める。その時間が必要なのだった。
夜が明け、峠の守りにつく人々が活動を始めた。
俄然、騒がしくなってきた。
あの甚だ物騒な「贈り物」が、朝日を浴びて衆目に晒されたのだろう。
「何だあれはッ」
「おおっ、杭打ち刑か」
「ヴェールトは何を考えている」
北側でも、こちらの塁の様子を掴んだらしい。
これ以上は黙ってもいられない。
守備隊長は、ひどく物憂げな表情を作り、そして腹を括った。
「もはやどうなっても知らんぞ、おれは」
小声で毒づくと、部下に首桶を持たせて、塁の詰め所を出て行った。