日は西より出づる5
風は真北から吹きつけていた。
北方圏の沿岸を襲い、内陸を越えてザーヌ大連峰まで届く、酷冷の突風である。
細かい雪が混じっているのは、大地を覆う白銀の表面を攫い取りつつ吹いているせいであり、これが俗に地吹雪と称される、厄介な現象の原因なのだった。
特に西部でよく見られる。
豪雪地帯として知られる北東地方と違い、西は積雪が少ない。
とはいえ、やはり冬仕立ての馬車でないと移動は困難で、ヴァルバラス王国のやんごとなき婦人にも用意された。
ヴェリスティルテ・アロア姫は、本日エルンチェア王国へ向けて旅立つ。
暦改め早々ながら、婚約者の元へ向かう事が決まった。
こちらの経緯も突風に劣らぬ忙しさだったものだが、当人は例によって一向に気にとめていない。
むしろ、楽しんでいる観がある。
悲嘆に暮れているのは父親の方で、出発間際の今も
「どうしても行くのか」
目を潤ませている。
どうしても行く、としか娘には答えようが無い。
何しろ、大急ぎで縁談を進めるよう、自ら志願したのだ。
ゲルトマ峠で発生した武力衝突、しかも相手は南方のヴェールト王国とあって、当国は新年どころではない。
諸般の事情を鑑み、一刻を争う緊急案件として、ヴェリスティルテは
「わたくしを、すぐにでもエルンチェアへお遣わし下さい」
「何を言う。
今この状況で」
「今この状況なればこそ、急がれるのですわ。
お父さま。
エルンチェアが御国と絆を結ぶ事を望んだのは、ひとえに南方産の薪を求めるがゆえでございましょう。
取引相手がどちらさまであろうとも。
峠を使わずには、北は南方との貿易は叶わない事に変わり無いのです。
そして、南方の峠を二つとも管掌するのは、ヴェールトですわ」
強く申し入れた。
彼女の読みは、エルンチェアは断らない、である。
果たして、先方はヴェリスティルテの宮廷入りを了承した。
暦改めの大朔日(一月一日)から半月が経ち、この日を迎えた。
取りやめという選択は有り得ない。
「お気遣いはご無用になさって。大丈夫ですからね。
では、そろそろ参ります。
お父さま、お母さま。
末永く御健勝にお過ごしくださいませ」
涙をこらえる父、安堵しつつも別れを惜しんで顔を覆う母、屋敷の門前に立つ二人へ別れを告げる。
王族の婚姻にあるまじき異例な猛速度で、彼女は生家を離れて行くのだった。
年下の気に入り侍女を伴って馬車に乗り込む。
待ち構えていたように、北西特有の細雪が降り始めた。
風も相変わらず真北から吹きつける強風で、東側沿岸部のような豪雪ぶりではないものの、一般に吹雪と称してよい天候になりつつある。
それでも、両親は門に佇んで、こちらを見ている。
母の口が動いているのを、窓越しに、ヴェリスティルテは見た。
「いってらっしゃい、お幸せに」
そう言っている。
娘の方も深く頷き、窓に顔を寄せて
「お母さま。
お母さま……お母さま」
何度も繰り返した。
出発を告げる鐘が連打される。
馬車は、実家を遠く去っていった。
冬の交通事情を考慮して、エルンチェアの王都に入るのは五日後と予定が組まれている。
ヴァルバラス王都は、山裾からやや離れた平野部との中間あたりに建設された。
全く平らなエルンチェアへ向かうには、最初に丘陵地帯を抜ける。
馬車はエルベイツ丘陵に差し掛かった。
吹雪は熄み、曇天の隙間からこぼれ落ちるようにして差し込む柔らかな日差しをところどころに受け、雪表は光っている。
「銀色ね」
明かり取りの小窓を開けたヴェリスティルテは、一面が目に眩しい雪景色である事に、驚きの声を上げた。
国境に続く道は、丘陵の合間を縫うように曲がりくねりながら東へと伸びており、馬車は道なりに進んで、ヴァルバラス王国の防兵塁を目指す。
貴族の子女は、婚礼まで自邸から離れないのが通常であり、彼女も例に漏れない。
生まれて初めて見る雪野原は、あたかも大地が凍れる砂に覆われたかのようだった。
「ご覧」
向かい合って座っている気に入りの年若い侍女へ声をかける。
やはり驚いたようだ。
「これが積雪でございますか。
何て不思議な光景でしょう」
「本当に、不思議な光景ね。
わたくしも、初めて見たわ。
エルンチェア人であれば、当たり前すぎて何とも思わないのでしょうけど」
「あちらでも、やはりこうなのでございましょうか」
「そうね、たぶんもっと凄いと思うわ。
エルンチェアは北東、名うての豪雪地帯ですもの。
この何倍も積もっているかもしれない」
雪景色を見やりながら、ヴェリスティルテは言った。
しばらく待ったが、しかし反応が戻って来なかったので、真正面に視線を返した。
防寒着姿の若い侍女は、目を丸くしたまま身体を硬くしており、顔色も心なしか良くなかった。
「どうしたの、イラーシア」
「あの。姫さま。あのう。
何倍、も」
「そんなに驚いたの」
ヴェリスティルテは笑った。どうやら恐れをなしたようだった。
「噂としてなら存じておりましたけれど、それほど雪が降るところを、見た事がございませんもの」
「それはその通りね。
わたしも無いわ。
でも、案ずる事はないのよ。
エルンチェアの人々は、大雪にも負けずに毎年の春を迎えているもの」
ヴェリスティルテは侍女と対照的に笑顔だった。
実際のところ、彼女は恐怖より好奇心を覚えている。
北方ながら降雪が少ない西側に生まれ育ち、王家連枝における標準的な女性の人生を歩んでおれば、恐らく
「降り積もる雪が当たり前にある光景」
には、一生関わらずに終わったであろうから。
ところが、外国からの縁談が舞い込んだ。
北方きっての強国として知られるエルンチェア王国に、それも前例の無い形で輿入れする。
(わたくしが、ねえ)
不思議と言えば、これほど不思議な話はない。
そもそも、生国たるヴァルバラス王国の将来に深く関わる事も無いはずの王爵家令嬢が、何と東隣国の王太子妃である。
むろん、その次は王后の地位に登る。
とある事をきっかけに、当代国王の姪ともあろう身が、国内ではほとんど縁談の相手がいなくなった。
なかなか調わず、仕舞いには伯父にあたる国王までが
「予の姪に、何の不都合がある」
腹を立てたと聞いている。
母は夜会に茶話会、音楽会と、貴族の社交場へ総当たりで足を運び、縁談の伝手を求めて回った。
父に至っては
「もうよい。
わたしが悪かった。
娘は娘らしく育てるべきだったのに、息子のように接して要らぬ知恵を付けすぎた。
わたしの軽はずみに、報いが下ったのだ」
肩を落として、何かを吹っ切ったらしい物言いまでしていた。
それが
「利発さが気に入った。
ぜひ我が国の王太子妃に」
まさに急転直下だったのである。
しかも、エルンチェア王国は、長年の情誼で結ばれていたはずのブレステリス王国を見限り、新たにこのヴァルバラスを盟友とする。
当方には、そのような姿勢さえ見せている。
今にして思えば、腰が引けた相手に、王家連枝の権威を振りかざして強引に嫁ぐ、などという暴挙をしでかさずに良かった。
つくづく思う。
自重したおかげか否かはともかくとして、雪ばかりか、当国の将来についてさえ、間近な場所から見ていられるようになったのだ。
彼女の気性からすれば、面白みは充分にある。
「不思議だと、面白がってばかりもいられないのだけれどね」
「はい、姫さま」
十六歳の侍女は、あまりよく分かっていない様子だったが、忠実に返事をした。
そして首をかしげた。
「こんなにお忙しくご成婚をあそばされるなんて。
エルンチェアの王子さまは、余程に姫さまをお気に召されて、急かされたのでございますか。
もっとごゆっくり、春頃のお話かと思っておりましたのに」
「違うわよ、イラーシア。
そういう事ではないのよ。
わたしも、慣例に従って肖像画を先様に差し上げているけれども。
あの悪戯な肖像画を、どうご覧あそばしても、わたしをお気に召されようがないわ」
ヴェリスティルテ笑った。侍女のイラーシアは、きょとんとした。
「えっ。
悪戯を、あそばされたのですか」
「そうよ。
悪戯そのものをお気に召して戴けたなら、話は別ね。
さあ、どうなる事やら。
先様に着いてのお楽しみ」
エルベイツ丘陵は、鈍い銀色を放っている。