日は西より出づる4
目を覚ました時、ツィンレーは、自分が外ではなく温かい室内におり、ごく質素ながらも寝台に身を横たえていると知った。
汚れた軍服ではなく、飾りの無い寝間着に替えられていた。
腰の周辺に着用する下帯に至るまで新品に取り替えられている。
負傷した右腕を見やると副木があてられ、包帯もしっかりと巻きつけられていて、鼻先にも薬草の匂いが漂っていた。
手当てを受けたのだと実感が沸き、天井を眺めながら吐息を深くついた。
意識を失う直前が思い出される。
「お手前、お気を確かに。
目をお覚ましあれ」
遠のく意識の端へ、知らない声が呼びかけてくる。
「グライアス軍籍の御仁とお見受けする。
それがしも同じく。味方です。
お気を確かにあれ」
「み、かた。
塁は、塁はどうなって、おります」
力を振り絞って訊いてみたが、答えを聞く前に、あるいは聞いたかもしれないものの、耳に残らなかった。
今、意識を取り戻し、草原からどこか別の場所へ運ばれた末に手当ても受けたと気づいたのだった。
「そうか。
おれの命運は、まだ尽きていなかったのか」
経緯は明瞭ではない、しかし生きている事だけは間違いない。
かたんと音がした。
首を回すと、扉が開いてた。
人が近づいてくる気配もする。
「誰か」
声をかけた。
部屋に入って来た者は、負傷者が目覚めているとは思っていなかったらしく、あっと声を上げた。
無理に上体を起こした時、寝台の横に小姓風の少年がいると気づいた。
大陸の平民階級ポルトール人、またはヘリム人と思しい。様子を見に来たのだろうか。
「お、お目覚めですか」
驚いている彼に、ツィンレーは苦笑を向けた。
「今しがた、目が覚めた。
役目大儀。
わたしの命を救ってくれた御仁はどなたか。
会えるものなら、ぜひお目にかかって、篤く御礼申し上げたい。
わたしは、ツィンレーと申す」
「は、はい。
ただいま、取り次ぎます」
言葉の随所に、王都では聞かない訛りがあった。
(ここはどこだ。
防兵塁にしては……)
部屋が狭く、調度品も古ぼけていて、正直に言えば随分と鄙びている印象がある。
さして待たないうちに、グライアスの軍装を身に着けた中年の男性が現れた。
「おお。意識が戻られたか」
人の好い笑顔が、怪我人の身を真剣に案じていたと雄弁に語っている。
ツィンレーは、寝台の背もたれに上体を預けたまま、軽く会釈した。
「助けて下さった事、心より御礼申し上げます」
「何の。
早朝から遠巻きに激しい物音が、ひっきりなしに聞こえておりましてな。
様子を見に出た折、馬のいななきが聞こえました。
尻に刀傷を受けた軍馬一頭が、公有地の草原をうろうろしておりましたのです。
よもやどなたかおられるのかと思い、近くを探したところ、お手前を見つけました」
「そうでしたか。
すると、ここは」
「北限の漁場を守る小塁です。
王都の御仁には、ご存じ無いかもしれませんが、北限の海岸線には小さな漁村が幾つかございます」
「ああ、なるほど。
いや失礼ながら、存じておりませんでした。
そうですか。
塁が、他にもあったのですか。
それがしは、てっきり西国境の防兵塁が北限かと思い込んでおりました。
すると、お手前は対エルンチェアの戦について」
「多少ながら。
我らは、自軍の僚友が奮戦した事を承知しております」
言葉を濁した様子から、敗戦したのだと見当がついた。
ツィンレーは目を閉じて唇を噛みしめた。
乗り馬の尻に刀傷があったという話から、敵王太子と一騎打ちした直後、急に前線を離れた理由が分かった。
味方の誰かか
「引け、ツィンレー」
と怒鳴ったのも、覚えている。
恐らく馬の尻を刀で差し、強引に走らせて、自分を逃がしてくれたのだろうと思う。
今となってみれば、あのおかげで命拾いしたようなものだ。
「今のところ、我が守備隊は、お手前の他に生存者を発見しておりません。
様子を伺っているところですが、何分にも小さな塁で、詰めております兵は三十名程度です。
あまり無理も致しかねる状況」
「当然ながら、慎重であるべきでしょう」
ツィンレーは目を開けた。
「敵は、驚愕に値する大軍です。
三十名では、七万の軍勢に対しては戦力とも呼べますまい。
今は、息をひそめてやり過ごすが上策と心得ます」
体を休めて冷静さを回復した彼は、血の気の多い事は言わなかった。
「とりもなおさず、事の次第を王都へお伝えしなければならないと考えます。
誰か、使いを出す用意を」
「承知。
すぐに手配しましょう」
手痛い敗戦の報を国王に届けるのは、心を重くする難行だったが、知らせないで済ませるわけにもいかない。
ツィンレーは、伝令を寝室に呼ぶよう頼んでから、報告の内容を考え始めた。
(まだ負けておらんぞ。
我が陛下も、初戦の敗退で挫けるような御方にはおわさぬ。
おれは生き延びて、這ってでも王都へ帰る。
マクダレア……貴女を取り戻す為には、絶対に死ねない)
ジークシルトに勝ち逃げは許さない。
その熱意が、彼を支えていた。
グライアス王国の負けを決して認めない。
ツィンレーの読み通り、王もまた、勝負はついていないと信じる一人だった。
緒戦敗北の報は、先に届けられている。
そして、生き残ったツィンレーからの一報も、王城へ到着した。
凶報を聞く間、国の主は最大限の努力を払って、理性を保っていた。
胸中では、様々な思惑が去来しただろう。
(今後の方針を、大至急に建て直さねば)
明るいとは言い難い未来図が見える。
当方の敗戦が南に聞こえたら、手を組もうとしているヴェールトはどのように反応するか。
目下は、それが一番の気がかりだった。
ヴェールトの意向もさる事ながら、他の南方圏諸国はどう思うか。
戦争の根本にあるのは、南方産の薪を得る事。
突き詰めれば、この一点なのだ。
一時的にエルンチェアを凌ぐのが目的であればいざ知らず、恒久的に安定した薪輸入の実現を見なければ、意味は無い。
南方圏が
「グライアスに薪は売らぬ」
と言い出せば、たとえ西に勝ったところで、当方は結局のところ冬を越せないのだ。
最も怖れた事態に陥るのではないか。
王は内心で、慄然としている。
(いや、ならん。
エルンチェアへの恭順だけはならん)
事態解決の策として、耐え難い屈辱を耐え忍んででも、西に恭順の意を示すという選択肢は、しかし彼の腹案には無い。
むしろ
「負けは断じて認めない」
との意地が、彼をして、別の道を詮索してエルンチェアに対抗する。
それだけを考えさせていた。
戦に執着する主君の姿を、冷ややかに眺めている者がいる。
これは、当宮廷の成立にまつわる事情が影響していた。
軍人あがりの王は、かつて武官を掌握し、王座を争って勝ち残った経歴を有している。
その反面で、文官に伝手が無く、新たな王座の主となった際に周囲を武官で固めるしかなかったのだが、畑違いの実務をこなせる者が少なすぎた。
やむなく分家筋であるリューングレス王国に命じて、宮廷勤めの文治派貴族を何人か出向させたのだった。
その中の一人が、殊の外グライアス当代王に冷淡な視線を向けている。
(もう、この宮廷に生存の目は無いな。
今更の戦争続行に利などあるものか。
仮に巻き返しが成ったとしても、初戦の敗北は痛い。
南方圏からは、さぞかし白けた態度をとられるだろうよ。
これからは、我が「真の王家」が取って代わり、北東に覇を競う時代が来る)
名をシュライジルという。
外務庁次官付きの補佐役で、役人としては下級に位置する。
リューングレスの出身で、出向貴族の子息だった。
幸い、縁者が祖国最大の穀倉地帯で役所勤めをしている。
彼と気脈を通じておけば、いざという時、いち早く帰国がなるだろう。
そう読んでいて、グライアス宮廷内部の動向を伝えた。
先日、返信が来た。
「アースフルト殿下の御目に留まり、側近として取り立てられた」
というのである。
シュライジルにとって、何よりの知らせだった。
(これはいい。
何とも好都合だ。
アースフルト親王殿下は、確か王家の御三男にあらせられ、目立たぬながら秀才との御評判と覚えている。
うまくすれば、我がリューングレスはグライアスから離れて、日の目を見られるかもしれん。
働き甲斐はありそうだな)
思惑を胸に、彼は当宮廷内部で見知った情報を、精力的に縁者へ送り始めたのだった。