王都は揺れる5
目を通したかったと思わない事は無いが、反面で、読まなくとも察しはつく、とも思う。
塁の退去を見送ってくれたジークシルトの態度からして、悪い内容とは考えられないのだ。
帰国を半月も許さなかった点も、それなりの意味があるだろう。
(まだだ。
祖国の未来に絶望するのは、まだ早い。
結果を待つ。
自決して責めを負うのは、その後でも間に合う)
彼は、暗闇の中で、自らに言い聞かせていた。
「大変だ。
あのヴェルゼワースが、気落ちしているぞ」
王太子の旗本隊で、陽気な男と言えば、ダオカルヤンをおいて該当者は居ない。
その、普段は明るい彼が、暦改めだというのに少しも笑わず、冗談も言わず、塁内の将校向け談話室に陣取っているという。
仲間内の若い剣士らは仰天して、四人が駆け付けた。
「何だ、おぬしらしくもない。
王太子殿下に置き去りにされたのを、それ程に気に病んでいるのか」
「ははぁ、さてはあれだな。
暦改めには奥方に会えると思い込んでいたのが、とんだ当て外れで、がっかりしているのだろう」
「奥方に会えない祝日が、さほどに辛いか」
「あの、ヴェルゼワースどの。
どこかお加減でもお悪いのでしょうか。
医師を呼びましょうか」
若者達は、一番若い一人を除いて、恐らく故意にだろう口々にからかったが、ダオカルヤンは無反応だった。
全員が、顔を見合わせた。
時刻は西刻の一課、朝だというのに大振りの蝋燭を十本ばかりも使って、やっと互いの顔が見える。
外は激しい吹雪模様だった。
グライアス防兵塁の占拠に成功して、一月が経つ。
和議の噂は聞こえて来ない。
ついでに、旗本隊の王都帰還も認められたという話も聞こえない。
ただ王太子ジークシルトが、ほとんど単身と言ってよい状態で、数日前に召し返された。
同行を許されたのは、元の傅役筆頭ツァリース大剣将のみである。
彼らは、若主君不在のまま、敵国領土で年の変わりを過ごす事になっていた。
「……おい」
大柄な同僚が、円卓につきながらダオカルヤンに声をかける。
続々と若い剣士達が彼に倣った。
「どうしたのだ」
「長い付き合いだが、そんなに思いつめたおぬしは、初めて見たぞ」
誰も、茶化そうとはしない。
ようやく、ダオカルヤンは重い口を開いた。
「螺旋の王都で、重大な政変が起きた。
おれは、そう見ている」
常の明朗さを失った理由を、低い声で語った。
息をのむ音がした。
「政変だと」
「どういう意味だ、ヴェルゼワース」
「どうもこうもあるものか。
我がエルンチェア内部において、最も懸念となっている問題は何だ。
一つしか無いだろう」
やや投げやりな調子だと思われる早口で答える。
全員が、表情を歪めた。
「親王殿下か。
確かに、派遣軍副司令官ともあろう御方が、今になっても戦地にお出まし下さらぬ。
そればかりか、連絡すら来ない。
弟君の御身に何かが起きたと見るのが妥当だな」
「少し違うぞ。
事は、もはや起きたを通り越しているだろうよ」
「何だと」
「ヴェルゼワースどの。
そう仰るのは」
今度は緊張ぎみに、最年少のチェルマーが問うた。
ダオカルヤンは太い腕を組み
「どう考えてもおかしいだろう。
弟君が未だお出まし給わず、事情説明も無し。
その上で、ジークシルト殿下がほぼ御一人で御帰参、つまりは側近連中を塁へ置いておくようにとの、陛下の御下命。
どれもこれも、前例が無い椿事。
いや、はっきり言えば異常事態だ」
更に付け加えるなら、軍の進発当時にしてからが、王太子の伝令が五人も復命しなかった。
「何もないわけが、あってたまるか」
「待て、ヴェルゼワース。
では何か。
バロート陛下にあらせられては、一旦は弟君の御参陣に御許しを差し下され給うておきながら、その裏では、足止めをあそばされた、と。
そんな筋の通らない話が」
「ああ、確かに筋は通らん。
だが、あのバロート陛下におわすぞ。
何の御考えも無しに、ただ横紙破りをあそばすと思うか。
おれは思わん」
「では、殿下が我らを塁にお残し給い、ツィールデンへ御帰参。
陛下がそのようにお命じになられたのも、これらの動きの一環であろうと、お考えですか」
チェルマ―の問いかけに、ダオカルヤンはゆっくり頷いた。
「ああ。
何の関係も無いとは、到底考えられん。
何より、おれ達を塁へ残すという処置がな。
どうにも引っかかって仕方がない。
王太子殿下直属たる旗本隊は、御身辺警護の親衛隊だ。
殿下の御帰参に、なぜおれ達が残される」
「おれ達が王城に居ては不都合……そういう事だな」
ひときわ大柄な剣士エルゼボネアが言う。
他の者は声も顔色も失っていた。
ダオカルヤンは顔を俯け、何事かに耐えているようだった。
ジークシルトが帰還したその日は、初雪が降った。
月の始まりで、まだ積もってはいない。
北方圏の豪雪地帯も、いったい暦改め前後に大量の積雪を見る。
降雪そのものはまだまだ積もるには遠かったが、風は強い。
螺旋の街と異名をとる王都の中央に、北方建築様式で建てられた、塔のような外観の城がある。
ぎしぎしと軋むように、塔の先端が小刻みに揺れて見えた。
黒雲に覆われた空は、太陽の恵みを無情に遮って、世界は夜ではない程度の明るさしか保っていない。
雪が舞う中、ひどく暗い城の正門付近には、出迎えの重臣らが整列していた。
もうまもなく、王太子の一団が姿を見せるはずだった。
「殿下は、旗本隊をお連れになっておわさず」
先触れに現れた伝令が語ったところによれば、四個師団の出征でありながら、帰って来たのは一個連隊に過ぎないという。
しかも、側近武官で構成される旗本隊も同道していない。
何が人々を困惑させるといって、旗本隊が王太子の身辺警護にあたらない。
この前代未聞な事態だった。
なぜなのか。宮廷中が首を傾げている。
「何の。
例によっての気ままに違いない」
公然と敵対する内務卿は、強気にもそう言ってはいる。
彼としては、王が安全を保障している――と思える――ものの、それを理由にジークシルトへ対して感じる個人的な感情をどうこうする積もりにはなれていなかった。
親王陣営の盟主的立場として、とりあえず敗北は認める。
王太子の登極も、めでたくは思わないが是とする。
そのように決心しているが、内心のごく一部には
「まだ逆転の機会を伺う事は可能なのだ。
ただいまは、雌伏の時だ」
なかなかに物騒な思考が依然として居座っている。
痛恨の一事がある。
親王パトリアルスの失脚で、担ぐべき象徴が居ない。
一人の父親として、傷心に沈む娘の胸中を思うと、忸怩たるものを感じないわけにもいかない。
パトリアルスに献じた一人娘、サラディーネは、周囲が認める親王の恋人だったのだが、突然の別れに見舞われた。
見ていられない憔悴ぶりで、食事どころか、放っておいたら水も飲もうとしない。
泣き通しに泣いて、父にも
「お願い、パトリアルスさまをお助けくださいまし」
自分が月を欲しがるに等しい無理を言っているとは、重々承知ではあろうが、懇願していた。
請われた方も、、後味の悪い思いを散々に味わいつつ、願いを退けている。
分かってはいても、では断られて傷つかずにいられるかと言えば、それは話が別なのだ。
あれ以来、どう慰めても、サラディーネは私室に引きこもったままなのである。
その経緯から言っても、王太子に好意的には、どうしてもなれない。
あの傍若無人な王太子さえ居なければ、と思わずにいられないのだった。
しかし、内務卿の思いがどうであろうが、ジークシルトは王都に到着した。
「御帰着っ」
触れ係の声が張られる。
出迎える人々の視界には、進発時と違って馬車が現れていた。
太鼓と吹奏の楽団が、美々しく音楽を奏で始める。
ツァリースの介添えを受けて、王太子が下車して来た。
一同は姿勢を正し、次いで、一人残らず目を瞠った。
おお、と驚嘆の声が上がっている。
登場したジークシルト、彼は、場に居合わせる誰もが想定していなかった姿をしていた。