ゲルトマ峠の攻防3
気楽そうにしているが、祖父が族長を務めるのにもはや耐えられないところまできている、という事実は、彼の将来に無関係ではない。
幸いにも、族長は味見の大役を全うし、部族の人々にも朝の椀が配られ始めた。
家畜からとれる新鮮な生乳で仕立てた煮物は、甘味と滋養に富んでいる。
一つの大鍋を部族で囲み、立ったまま騒がしく中身をかきこむのが、山岳の緩やかな斜面を中心に暮らす人々の朝だった。
しかし、今朝は峠から響いてくる「何かの祭り」の騒音が、特にリュコームを惹きつけてやまない。
ザーヌ大連峰の住みやすい場を選んで、あちらこちらを移動する山岳民族は、普段はあまり峠の付近には近寄らない。
とりわけ温厚なラズタン族は、大陸支配者との余計な軋轢を避けるため、彼らが信じる山の神のお告げを受ける大事な祭り
「神の声を聴く宴」
で、峠付近に移動するよう、占い結果を受けた場合を除いて、なるべく峠の辺りを避ける。
近頃は、この場に居を移せという神託を賜ったとして、やむなく集落を形成しているものの、本当に久しぶりの事である。
リュコームのような若者にとっては、初めて来る場所であり、レオス人の暦改めにまつわる浮かれた雰囲気に接するのも、これまで未経験の事だった。
彼は、心ここにあらずといった体で朝食を終え、しきりに山の上を見やりながら、祖父の元へと近寄った。
味見を終えて、もう鍋は見たくないという様子でそっぽを向き、腰を下ろすに頃合いが良さそうな岩に座っていた祖父だったが、口はまだ動いている。
ダータの側は、独特の、鼻につく辛い匂いがする。
「何だ、リュコーム。
アデイが欲しいのか」
「いらない」
腰をまさぐる祖父に、孫は首を振って見せた。
アデイとは、彼らが愛好する干し草で、山の岩場に自生しているある種の植物を乾燥させ、口に含む。
噛むと苦みが迸り、やがては歯を黒く染める。
嗜好品としては癖がかなり強いためか、部族の男衆でも好き嫌いが大きく分かれるものだった。
愛好家である祖父は、長年の習慣で食後にアデイを噛み続けており、彼の歯はすっかり黒みがかっている。
「ねえ、爺さま。
山の上でも、レオス人達がラチャリチャを祝ってるって聞いたよ。
あいつらもそのうち、峠を出ていくのかな」
「あの騒ぎか。
あれはラチャリチャとは違う。
あいつらは峠に居座り続けるさ。山の神の民じゃないんだから」
アデイの味のせいか、レオス人への嫌悪のせいか、祖父は表情を渋くゆがめて答えた。
「放っておけ。
あいつらが騒ごうが何を祝おうが、ラズタンには関係ない」
「それはそうだろうけどね。
気になるんだよ」
「おまえはラズタンの男で、次の族長だ。
山の神の民じゃない連中を気にするより、部族の事を気にしろ。
さあ、満腹したのなら働け。
ダータは誰よりも働く男でなければならん」
祖父に追い払われた。
周囲は、食後の片づけ、家畜の世話の続き等々、慌ただしくなってきつつある。
リュコームは、だが
(でもダータは、誰よりも勇ましい男でなければならない、じゃないか)
族長の条件として挙げられる要素のうち、勇気を奮う事についてを思い起こした。
誰よりも働く、誰よりも勇ましい、誰よりもよく食べる。
岩場から落ちて亡くなった父は、危険を顧みず険しい山道を進んだと聞いている。
部族のために、新たな道を拓こうとしたのだと。
ならば、自分も部族のために、勇ましく峠の様子を見に行ってもいいはずだ。
そう思うと、居てもたってもいられなくなり、好奇心に後押しされるまま、朝の仕事が始まるどさくさに紛れて、そっと集落を離れる若い族長の孫だった。
峠を目指して急勾配を上り、滑る足場に気を使いながら、そろそろと山腹を東へ向かう。
山の民だけが知り、長年使って来た裏の道へ入るためである。
整備されているとは言い難いが、この辺りはまだまだ、ザーヌ大連峰全体から見れば、山麓と称してもよい程に、高度は無い。
従って、山合いの開けた場所や岩地から少し外れると、ちょっとした林と呼んでも良い木立に入る。
更に、東のタンバー峠と違い、ゲルトマ峠は西寄りで、元から北方側でも降雪は少なかった。
まして、ラズタンの人々は南方側にいる。
雪が少なくて歩きやすく、葉は枯れ落ちていても幹はしっかりしている木々に身を隠せる。
たいそう都合の良い裏道だった。
どのくらい歩いただろうか。
夢中になって裏道を登っていたリュコームの目前が、葉が無い幹ばかりだった冬の林から一転した。
山の斜面を伝い歩く細い道から、正規の峠道に繋がったのだ。
「万歳」
の喝采は、大陸共通語に明るくない山の住人でも、今や発音を聞き取る事が出来る。
意味はともかく
「ははあ。
ジェイルと叫んでいるんだな」
単語は判った。
歌も明瞭に聞こえる。
耳を澄ますと、歌に交じって、いかにも陽気な笑い声や、手を打つ拍子も。
(何だ。
やっぱり、ラチャリチャじゃないか)
面白くなってきて、リュコームは歩みを速めた。
峠道は、ラズタン族が用いる道とはまるきり印象が違っていた。
もちろん、王都や近郊都市のような石畳で整備された路面ではないが、人や馬車の往来で踏み固められ、雑草も生えておらず、石の散乱も見当たらない。
峠付近の警備兵駐屯所が設けられている一面などは、十分に手入れが行き届いている。
木の柵に囲まれ、そこそこ頑丈そうな造りの門がある。
今は開放されており、つまらなそうな顔をしている兵士が数人ばかり、その周辺をうろうろ歩き回る姿も見られた。
旗も立てられている。
布地の左右は鮮やかな赤、中央は黒。
黄色い糸で右上がりに傾いた半円が縫い取られている。
リュコームには何を表しているのかも、そもそも旗の何たるかも理解できなかったが、それは南方圏の一国家ヴェールト王国が掲げる国旗、通称を「半月旗」という。
ざわつく空気と、楽し気な騒ぎ声は、その門の向こうから漏れているようだった。
もっと近づいてみたい、よく見てみたい。
初めて目にする、彼にとっての異民族の姿は、若者特有の好奇心を刺激して余りあった。
しかし。
リュコームの姿に対して、先方が抱いた印象は、全く違うものだった。
黒い髪を長く伸ばし、木の皮をよりあわせた丈夫な結い糸を使って、後ろで束ねる。
毛皮で出来た袖なしの短丈な上衣を着、下には幅広な裁付を履く。
足を覆うのは毛皮で出来た冬向けの靴。
ラズタン族の、ごく普通な若者らしい装いをしている、まだ少年期を脱していないような男子が峠道を登って来た。
警備兵は、単身で現れた若い先住民族を見るや、顔色を変えた。
「おおっ、カプルス人ッ。
生蕃だ、生蕃が現れたぞっ」
敵愾心を剥き出しに怒鳴る。
たちどころに、周りの兵士らも殺気立ち、次々とこちらを振り向いて、一様に怒りの表情を作る。
「あれ。
どうしたんだろう。
何を怒っているんだろう」
訳が分からず、あっけにとられて棒立ちになるリュコームだった。
ヴェールトの峠守備兵らは、あっというまに抜刀し、こちらへ走り寄って来た。
「おのれ生蕃めがっ。
よくものこのこと現れおって」
比較的年かさで、下級兵士のうちでは位も高いと思われる兵士がわめいた。
リュコームは、自分と同じ黒い髪の男が、なぜこうも大声で叫ぶのか。
全く心当たりが無く、ただあ然とするばかりだった。
何しろ、トライア人兵士の言う
「生蕃」
が、どういった意味なのか、それさえ分からない。
ただ口調と非友好的すぎる態度から、あまり良い意味ではないらしい、とは薄々感づいたが、峠の守備隊にすれば、生蕃とは盗賊の類語、いやほぼ同義語なのであるとまでは、見当のつけようが無かった。
のんきそうな先住民族の態度は、だが集まった兵士一同には、ひどく不敵に見えた。
山の盗賊は、発見されれば即時捕縛、斬首の刑に処される。
それと承知の上で、詰め所に姿を見せたのか。
だとすれば、これ程の侮辱は無い。
酒が入っている勢いも手伝って、すっかり頭に血を上らせている面々だった。
刀が一斉に自分へ向けられたと知った時、リュコームは
「殺される」
あ然といった体から立ち直った。
何という理不尽だろうか。
悪事を働く意志など毛頭ないし、それ以前に様子を伺おうとすら、まだしていない。
ただ騒がしい、浮かれた様子に気を引かれて、興味本位に近づいただけなのに。
斬られる。
不愉快な直感が、ラズタン族の若者を捉えていた。
「何で。
どうして」
興奮している異民族には届かないであろう、部族の言葉で自問自答しつつ、リュコームは棒立ちになった。
次のダータだというのに、ここで死ななければならない。
恐怖と連れ立って訪れた不吉な予感は
「斬れッ、汚らわしい生蕃。
一歩たりとも峠に入れるなッ」
的中の様相を呈した。
兵士らが、殺意を隠しもしないで門から飛び出して来たのだった。