遠き東に日は落ちて5
「おのれブレステリスッ」
王は怒号した。
国境戦における敗戦は手痛いもので、塁が占拠されたという情報は、あまりに屈辱だった。
しかも、軍事同盟を結んだはずの南が、どういうわけか裏切ったという。
狼煙と手旗信号を組み合わせた速報を解析した、専門の役人が宮廷に駆け込んで、伝言が言上された時。
王の執務室に居合わせた部屋の主、近侍、雑用の小姓に至るまでが、一人残らず衝撃を受けたのだった。
「あの蛮人どもがぁっ」
特に王を怒らせたのは、塁陥落それ自体よりも、盟友の裏切りである。
憤激に突き動かされたかのように、王は執務机を両手で叩き、椅子を蹴倒した。
レオス人特有の白い肌が見る間に紅潮を通り越し、どす黒く染まったものだ。
彼はうろうろと室内を歩き回り、周囲を固める側近らを大いに狼狽させた。
今、うかつに声を掛けたら、無礼打ちに遭いかねない。
誰一人として冷静であるよう諫言する者は無く、皆は黙りこくって壁際に退き、一列に並んで硬直している。
しばらく、王は室内を徘徊した。
両目が血走って、食いしばられた口元からは低い呻き声が漏れている。
だが、軍隊出身だけの事はあり、受けた衝撃に理性を根こそぎ奪われたわけではなかったと見える。
「詳細は。
塁の内情について、詳細を伝えよ」
荒く息を吐きながらも、次第に沈着さを回復させていったのだろう。
現状で判明しているだけでも良いから、と付け加えて、彼は可能な限りの情報収集を命じた。
とはいえ、暗号による第一報である。
王の希望は重々承知ながら、応えられる者はいない。
「恐れながら。
只今は、詳細の到着を待っております最中にあり、他に判明している事と申せば、遠征軍の司令部はほとんどが敵軍へ投降したとの由」
必死の勇気を奮って、そう答えた役人が一人居ただけだった。
グライアス王は、凄まじい目で臣下を睨んだが、自制すべきであると思い至ったらしく、そっと視線を外した。
「左様か。
では、詳細が分かり次第に奏上致せ。
予の都合はどうでもよい。時間に関わらず、判明した事実を全て伝えるのだ」
内心には、恐怖がある。
詳しい状況が不明であるとは、即ち適切な対策を思案する手がかりも無いという事であり、最高責任者にとっては何よりも恐ろしいのだった。
ただし、グライアス王は様々な恐怖心に打ちひしがれて、床に座り込むような人物ではなかった。
「まだだ。
戦はまだ終わっておらん。
塁の陥落は確かに痛恨、だが挽回が不可能という程の損害ではない。
現状について、緘口令を布け。
民に気取られてはならん」
彼の命令を、執務室に居合わせる人々は恭しく肯ったが、胸中でいかに思ったか。
頭を下げつつ、冷ややかな視線を主君に与える者が居る事に、宮廷の支配者が気づいた様子は無かった。
不本意すぎる敗北を喫した人物がいる。
二十五歳の剣将、ツィンレーである。
彼は、祖国が敗戦したうえ、自分自身も敵国の総司令官に一騎討ちを挑んだ末に惨敗したのだった。
利き手である右腕は切断にこそ至らなかったものの、手首がひどく骨折したとみえて、全く使い物にならなかった。
激痛は言うに及ばず、出血もおびただしく、体力はほぼ底を尽きかけている。
実際、馬の背に身を預けているのも辛いのである。
視界が安定せず、重い頭痛と倦怠、嘔吐感には耐えず苛まれ、手綱を握っていられるのが我ながら不思議に思われた。
目に霞がかかっているように感じられるのは、明らかに失血の影響であろう。
敵軍の総大将ジークシルトと馬上で戦ったが、馬術剣技の技術差にさんざん翻弄されて、ついには右手に太刀の一撃を浴びてしまった。
つい武器を取り落とし、丸腰になったものだが、それでも諦めずに戦いを続行しようと意地を通しかけていた。
しかし、気分だけではどうにもならず、歯噛みしていたところ、突然に馬が走り出したのである。
馬上の彼は、事態の急変を把握しかねてぼう然となった。
鞭を当てた覚えもないのに、なぜ軍用に適した性質を持ち、訓練も十分に積んでいたはずの乗り馬が、騎手の命令も受けないで走り出したのか。
しばらく理解も出来ないでいた。
とにかく振り落とされないよう、また興奮した馬が国境の塁壁に激突しないよう、腕の激痛も忘れて手綱をとるのが精いっぱいだった。
馬は何があったものか、騎手の制御をほとんど受け付けなかった。
かろうじて方向だけは指示に従ったが、停止命令は全くの無視だった。
何度手綱を絞っても、嫌がって足を止めず、まるで暴れ馬のように走り続け、その勢いに仰天した周囲の者が慌てて道を譲ったらしく、ツィンレーは何者にも遮られずに北へと向かったのだった。
ようやく馬が落ちつきを取り戻し、疲労もあっての事だろう、自発的に速度を緩め始めた時、騎手の前方には黒々と波しぶきをあげる冬の海が見え始めていた。
「北海……」
いつのまにか、戦場を抜けてしまっていたもの見える。
まだ海岸に出たわけではなかったが、水平線ははっきり視野に収まっていた。
防兵塁の石壁も、単なる木の柵に変わっており、大陸北限の至近まで来ていると実感が沸いた。
実際には、海岸まではおよそ五馬歩ばかりはある。
が、エルンチェアもグライアスも、ともに平野が大部分を占める領土構成であり、海沿いには山と呼べるようなものは無いと言ってよい。
視界は平らに開けて、遥かに北海が臨めるのだ。
こんなところまで来てしまった。
ツィンレーは馬を止め、信じられない思いで水平線を見やりつつ、長い時間放心した。
吹きつけてくる初冬の風に身を叩かれ、傷が鋭く疼いて、我が身は重傷を負っているのだと思い出すまで、自失の時間はつづいた。
めまいと悪寒、そして初めて味わう骨折の激痛が、当人を我に返らせた。
彼は力を入れるどころか、北風に吹かれただけでも骨の髄まで痛みが響き渡る、少しも意思のままには動かない利き腕を見つめ、血が滴っているのに目に留めると、急に獣じみた叫びをあげた。
夢中になって腰をまさぐる。
一刻も早く手当てせねばと思い当たり、血に汚れた篭手を外すために小刀を求めたのだ。
しかし左手が、身に刃物を帯びていないと知ってがく然とした。
残った手段は篭手を腕に固定する皮ひもを解くしかないのだが、結び目は固く複雑になっており、震える使い慣れない手では、思うようにほどけそうもなかった。
小刀で切るのが最も早く外す方法なのである。
だが、どうしたわけか所持していなかった。
エルンチェア王太子を急襲する際、戦場のどこかに落としたのかも知れず、探しに行けるはずない。
ただ皮肉ながら、きつく絞り上げるようにして篭手をはめていたのが奏効したらしく、意図しない止血が施されており、激しい出血にはなっていなかった。
とはいえ、放置しておけば自然に止血したとしても、それまでの間に相当な量の血を失うに違いなく、現にかなり血が流れてしまっているようだった。
気分が悪く、目の前がゆらゆらと揺れている。
むろん、視界の景色が揺れているのではなく、大量失血のために目の機能が低下しているがゆえである。
このままでは死ぬ、とツィンレーは思った。
「こんな無様な死に方をするのか、おれは」
手綱を握り、歯を食いしばって、彼は低く独白した。
同じ死ぬなら、敵将の手にかかって死にたかった。
戦場に倒れれば、少なくとも武人の誉れだけは全う出来ただろうものを。
それが、何を間違ったか、こんな領土の北限に来てしまい、誰の目にも触れる事なくひっそり朽ちてゆかねばならぬとは。
見渡す限り無人の荒野、前方には黒い北海が波を荒立てているのが遠めに判る。
彼は、滑り落ちるようにして馬の鞍から降りた。
死神が近づいてくる足音を、聴覚がとらえた。
そんな気がする。
(ふん、やけに騒々しい足音だな。
死神めが、いま少し気遣いしたらどうだ、気に障る)
盛んに耳の中を叩く嫌な雑音を聞きながら、馬の足元に崩れ落ちる。
マクダレアの冷たいが美しい顔立ちを脳裏に描きながら、彼はゆっくりと瞼を閉じた。