旗を分かつ者6
「何ですと、殿下」
有無を言わさず東への転進命令を、直々に放ったアースフルトは、司令役の臣下へすまし顔を作って見せた。
事実上、軍を預かる責任者は、表情を目まぐるしく変化させている。
目指す塁は残り五馬歩《5キロ》ばかり進めば到着する。
にも関わらず、東へ帰ると言うのだ。
王子の暴挙としか思えない命令に、まず目を白黒させ、次に慌て、狼狽し、意味を掴みかねてぼう然自失の体にもなった。
その落ち着きのなさに、王子は失笑を禁じ得なかったらしい。
横に馬首を並べる相手を遠慮なく笑ってから、その決断に至った理由を述べたものだった。
すなわち
「ブレステリスは裏切った。
国策か、一部の暴走かは判然としないがね。
あの連中は、間違いなく、敵対行為を働く算段で塁に向かっている」
「何ですと、殿下」
俄かには信じかねるといった表情で、そのまま黙り込んだ総司令官を、アースフルトは妙に穏やかな眼つきで見ている。
(察しの悪い。大した出来ではないな)
といった、あまり性質が良くない値踏みするような視線だった。
「まず第一に、あまりにも小勢だ。
兵卒は三十人前後といったあたりだろう。
兵糧や弓矢の補充と称していたが、雑役夫の人数が少ないとは思わなかったかね。ほとんど居なかったと言ってもいいくらいに。
第二は、その割に、先行してゆく馬車の重量が有りすぎるように見えた。
いやに轍が深かったのさ。揺れも、大きくなかった。
本当は、かなりの重量が積まれた輸送馬車だったのではないか、隠した歩兵などのね」
「おお」
指摘されて、初めて気が付いたといった表情を浮かべる大剣将だった。
アースフルトは軽く笑って
「第三に、戦場までもう少しというこのあたりで、あの急ぎよう。
我々と合流し、同道したところで、何程の事が有る。
たった五馬歩の道のりを焦って届けなければならない程、傷み易い糧食を運んで来てくれたとでも言うのかね」
「た、確かに……」
「第四に、戦況が我が方に不利だと言い切ったところ。
我らより後から来た、しかも外国人だ、東の地理に不案内だろうに。
いつどうやって、その情報を手に入れたのか、不思議に思わないかね。
検討した結果、我らとの同道を嫌がり、道を急いで行く様子、馬車の様子。
塁を内部から襲う積もりで居たのではないか、と疑わざるを得ないな」
相変わらずのすまし顔で、きっぱり言った。
総司令官は顔色を失い、更に度も失った。
「な、なにゆえ」
口が上手く回らないらしい。
「なにゆえ、きゃつらを先行させ給うた。
ここで討ち果たせば、今頃は」
「当方は、一人の損害も出さずに済むのかね」
彼は目をすがめ、臣下をじっと見た。
あれが援軍なものか。
ゼーヴィスと名乗ったブレステリスの青年将校と顔を合わせた時から、アースフルトは強い疑惑を抱いていた。
加勢と称するには全く足りない人数で、馬車だけは多い。雑役夫らしい人手が見当たらず、指揮官は時間を気にしている様子で、周囲の者も緊張している。
あれだけ怪しい姿を見ても、無邪気に援軍だと思い込めるのは、いっそ羨ましい気質だとさえ、この温厚を装ったリューングレス第三王子は冷ややかに考えていた。
総司令官の言い分も、理解は出来るのである。
人数が違いすぎる。問答無用で討てば、実際のところは損害が出るとは思っていない。
しかし。
(せっかく手に入った三万の手勢だ。
浪費したいとは、さらさら思っていないのさ)
むしろ人心掌握に努めるべきだ。そう判断している。
「わたしは、自軍の兵士を大切に思っている。
出来る事なら、一人も死なせたくはない。かすり傷さえも負わせずに、帰らせてやりたいと思っているのだよ。
考えてもみたまえ」
周りの護衛兵士らが、自分達を大事だと語り始めた第三王子を、驚きと敬いをもって仰いでいる。
アースフルトはその視線を計算に入れながら
「こんなところであたら兵員を傷つけ、死なせて何になる。
ただでさえ、無謀な戦だというのに。
我らがどれほど献身しようと、我が尊ぶべき宗主国は、顧みもしない。
いつもの事ではないかね」
演説を続けた。
心の中では、荒れた森林地帯を悼み、再生を思い描いている。
当国の薪産出能力は、とうの昔に限界を超えた。
森の資源は莫大に消費され、自然の回復は言うに及ばず、植林も追いついていない。
森の消失による影響は、極めて大きかった。
山間部に土砂崩れを頻発させ、河川の氾濫を呼び、農作物の収穫をも激減させたのだ。
森が守っていた大地は、樹木を失う事によって肥料の供給が止まり、確実に痩せていく。
それでなくとも東の土地柄は南北問わず肥沃さに遠い。
森林地帯の寡少化は、単に材木資源が枯渇するばかりでなく、周辺を開墾し、農業を営んでいた人々をも窮乏に追い込んだ。
その荒廃は、農民達に畑の維持を断念させ、都会への避難に繋がっている。
都市部に流入した新しい住民が、昔からの都市生活者と反りが合わず、至るところで小競り合いを起こしている。
誰も作物を作らなければ、需要ばかりが膨れ上がり、少ない供給を巡って対立も起きる。
王都すらも免れない深刻な民情不安定が、当国をじわじわ蝕んでいるのが、現状だったのである。
(とにかく森を復活させなくてはならない。
これ以上の環境破壊は、この国の滅亡を呼び込むだろう。
森に手を付けてはならないのだ)
アースフルトは固く信じている。
信じてはいるが、薪が無くては冬を越せない事実から目をそらす事も出来かねた。
南方圏からの輸入に依存せず、森の資源を守りながら、必要な燃料を手に入れる。
難題である。
(そうとも。難題だ。
あのグライアス王……血気盛んな軍人上がりに、なせる芸当ではないさ。
大体、この土壇場でブレステリスに裏切りを許すような詰めの甘さでは、先など無いじゃないかね。
もし可能な人物がいるとすれば)
このアースフルト・グロスレオン。自らを措いて他には無い。
その程度の自負は十分に持ち合わせていた。
(今は足固めの時期だな。
この三万の軍を、おれの忠実な手兵にしたてあげてみせる。
機会を待つに如くはない。
兵士の人望を、おれに集めるのが得策だ。
グライアスが国境でどうなろうとも、おれの知った事ではないのさ)
宗主国の道連れは御免蒙る。
その乾いた思考が、国境で戦い、援軍到着を待ちわびる軍人達を冷徹に見放させたのだった。
「諸君。
我らは生きて帰ろう。
何が起きようとも、リューングレスは生き延びる。
我らには我らの旗が有る。
曙光旗を見よ。
夜明けと日の光を模した図案は、生きる希望を描いたものだ。
我らは我らの旗を仰ぐべきだ。そして、旗に背いてはならない。
そうは思わないかね」
応という声があがり、たちまち周囲が巻き込まれていった。
グライアスとは仰ぐ旗が違うのだ、との王子の演説は、急に進軍先が変更になり、不安を抱いていた従軍兵士や雑役夫の隅々にまで広がり、一定の安堵を得るよすがとなった。
ざわついていた雰囲気はやがて収まり、秩序が戻って来た。
戦場を目前にしながら東へ戻る事への後ろめたさを取り除き、兵士の心を自分へ向かせるように。
アースフルトは手応えを感じていた。
(旗を分かつ。
いいじゃないか。
何も、降伏だけが旗を割る理由とは限らない。
自らの意思で分かつ事もある。
おれが、その手始めになろうじゃないか)
夕暮れを背に、彼は軍勢を指揮して元来た道を戻り始めた。
行き先は、だが
「ただし、王都には戻らない。
今帰っても宜しくない。
生きるためだ。
わたしの意向に従い、国境を越えたら、南へ進路をとるように」
出発時とは違っていた。